(テーブルを囲む四人の男女。傍らのテレビに、誰が見るともなしに、紅白歌合戦が映っている)
古風な女(以下「女」) ちょっとお疲れのようだけれど、山の上の家塾の宿題の質問文、もう提出なさって?
凡庸な男(以下「男」) いや、まだなんだ。考えがまとまらなくて、困っていてね。
女 まとまらないって、相当な難問に取り組んでいらっしゃるのかしら。
男 ううむ、そうでもないんだ。『本居宣長』第12章、「玉かつま」の引用で始まる辺りを熟視しようとしているんだが、小林先生のおっしゃる「文体は平明でも、平明な文体が、平明な理解と釣合っているわけではない」というのが、謎めいていて、考えていると頭がぼうっとしてくる。
元気のいい娘(以下「娘」) ボーっと生きてるからじゃないの。いったいどんな読み方をしてるの。
男 おや、これは手厳しいね。小林先生にならって「頭を動かすより、むしろ眼を働かして見てみよう」とおもって、、、
娘 で、なにか見えてきたの。
男 ううむ、それが気がつくと、うつらうつら眠ってたりするんだよ。
娘 馬鹿みたい!
生意気な青年(以下「青年」) 少なくとも理論的には、全く無私な態度で古書に推参するというのが、宣長の基本的な方法論ではないでしょうか。
女 そうかしら。理論とか方法とか、品のない言葉づかいは、おやめになったほうがよくてよ。
青年 なるほど、実践から遊離した理論とか、実体と無縁な方法論は、確かに空疎だと考えられます。その上で、宣長をめぐるわれわれの知的営為においては、このような観点からのアプローチこそが、、、
女 (さえぎって)度し難い馬鹿ね。
男 ううむ。確かに宣長さんは、そういう難しい言葉遣いはしない。「ただ古の書共を、かむがへさとれるのみこそあれ」、そして「考へてさとりえたりと思ふかぎりは、みな書にかきあらはして、露ものこしこめたることはなきぞかし」、となれば後学の者は「ただあらはせるふみどもを、よく見てありぬべし」となる。あっさりしたものだ。宣長さんは、古書の中の何かを探し当て、取り出そうとしたのではなく、古書のいわんとすることが自然と宣長さんに乗り移ってくるようなそんな読み方が出来て、そして弟子たちにもそのように学ぶことを示唆した。物学びをする者たちが、時空を超えて列をなし、古書のなかにすうっと入り込んでいくような、静謐な光景が垣間見えるような気はする。しかし、その列に自分で並ぼうとすると、逃げ水のようにとらえどころがないんだな。
女 あら、もっともらしいことおっしゃるけど、あなたには、ご自分というものがあるのかしら。無私の態度のお積りかもしれないけれど、本当にそうかしら。
娘 ただ逃げているだけじゃないの。
女 今あなたが取り組んでいる文章は、宣長さんが晩年に至り、自らの学びの来し方を振り返り、その全体の骨組みを素描したものだから、自ずと淡々とした口調になる。でも、これは、宣長さん自身が、ただただ受け身で古書を眺めていたということではないと思うわ。
男 でも、小林先生も「頭を働かすより、むしろ眼を働かして見てみよう」とおっしゃっているよ。初学者として、まずは、余計な解釈を排して、ただぼんやりと見るということが、、、
女 それは全然ちがうわ。小林先生は、眼を働かしてとおっしゃっている。深くものを考えるときに頭を働かすように、古書に相対して、頭ではなく眼を働かす、ということではないかしら。
娘 オジサン、本当に物を見たことあるの。花を見ても、月を見ても、これは桜だ、おや満月だ、で終わりでしょ、どうせ。でも、本当は、どの花を見ても、いつ月を見ても、同じなんてことはない。それに気づくのが眼を働かせることじゃないかな。夜空を見上げて、おや月だ、ではなくて、青白かったり黄色味を帯びたりする光の彩をじっと見つめ続ける。集中力かな、いやちょっと違うな、何かを決めつけるとかじゃなくて、気がつくといつの間にか光の束がワタシの中に入り込んでくるような、、、うまく言えないけど。
女 よく分かるわ。読書でも同じようなことがあるわ。小林先生のご本って、すらすらと読めないことも多いけれど、それでも、すてきなフレーズに出会い、どきりとすることがあるでしょう。そんなときって、おっしゃることが分かったわけではないのに、頭が少し冴えてきたような気がして、ああそうなのか、そうとなればあれも知りたい、これも教えていただきたい、そのためにはあの本にもこの本にも挑戦しよう、というふうに、何かわくわくしてくる。こういうこと、みなさんにはなくて?
男 私にだって、読書の愉しみはある。でも、正しく読めてるかどうか、自信が持てないんだよ。
女 もちろん、わたくしの申しあげることも、見当違いかもしれません。間違っているかもしれない。でもこれが、わたくしにとっての読むということですわ。
娘 そういえば、「歌とは何かという小さな課題が、彼の全身の体当たりを受けたのである」。と書いてあるね。「体当たり」って、すごい。いったい何が起きたんだろうって、思っちゃう。
青年 謎ですね。
女 そうね。でも、少しわかる気もするの。
青年 謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。
女 馬鹿なことをいわないで。
青年 えっ
女 君の引用、というか受け売りのことよ。もちろん、わたくしに、若き日の宣長さんの頭の中を覗いてみるなんてできない。小林先生のご本に体当たりするなんてできない。でもわたくしは、このご本を読むことが楽しくてたまらないし、きっと何かが分かる日が来るって信じることもできる。
青年 なるほど。小林先生が、「この意識の直接の現れが、『あしわけ小舟』の沸騰する文体を成している」と書いたのは、小林先生ほどの読み手となれば、青年宣長が京都遊学中に契沖と出会い、その後の学問の道すじについて何らかの直感を得、意欲を掻き立てられた様子を、宣長を読むことで追体験することができた、ということかもしれません。
女 そうね。そして、これが「この大学者の初心の姿であって、初心は忘れられず育成された」とも書かれている。
男 そういうことなのか。淡々と語られる「玉かつま」の簡素な構造物の奥深くに、語られざる沸騰する思いを見て取れるかどうか、読者が試されているんだね。
女 そう、でも、試されているというのは、ちょっと違う。私たちが古き書を信じているからこそ見えてくるものがあるの。あなたには、信じる勇気が欠けているわ。
男 じゃあ、どうすればいいんだ。
女 そんなに怖い顔なさらないで。わたくしにも分からないことだらけ。でも、さっき、わくわくすることがあるって申しましたでしょう。文章をぼんやりと眺めていたり、傍線を引きながら何度も読み返してみたり、ときに声を出して読んでみたり、そうしていると、文章の意味とは別に、何か声のようなものが聞こえてくるような気がするの。
娘 素読会で声を出すと、何か感じるよ。それかな。
女 そうね。声を出さなくても、黙読で文字を目で追っていて、ここはすらすら読み流してはいけないと感じさせるような箇所とか、思わず本から目を離し宙に視線を泳がしてため息がつきたくなるような箇所とか、いろんな本を読んでいて、そういう出会いがある。文章の中身とは別に、その著者の意気込みや確信や迷いや躊躇いが感じられるような。こういうのって、文体ということかしら。
青年 小林先生は、宣長を読み込んでいって、その文体の背後に宣長さんの気持ちの動きのようなものを感じ取っていたのかもしれません。
男 そういうことだったのか。小林先生の文章は、深い洞察が緻密に配置されているから、前後左右に目配りをして、きちんと読まなくちゃ、ということかな。
女 そう、でも、何か足りない気がするの。わたくし、先ほど、あなたには自分がないって。
男 随分なおっしゃりようだね。
女 あら、そんなふくれっ面なさらないで。悪口ではないの。ただなんていうのかしら、あなた、答え探しをしてらっしゃると思うの。ここにこういう記述があるからこうなんだ、みたいに。
男 小林先生の本文に即して、きちんと根拠を示すのは当然じゃないか。
女 それはそう。
男 勝手な思い込みを持ち込まず客観的に読むことこそ、全く無私の態度じゃないか。
女 それもそう。でも、そこで引用される証拠ってなんなのかしら。自分の意見を書物の文言にすり替え、あたかも著者がそう言っているかのようなお芝居をする、そういうのは論外、無私の対極ね。
男 だから、私も、勝手読みだけはすまいとしているんだが。
女 気持ちは分かるわ。でも、結局、頭を働かして分析しているのよ。出来合いの概念を物差しにして対象を色づけして分類し、思い思いに配列する。自分では考えているつもりでも、出来合いの物差しを使うのだから、結局、世間通用の考えを借りているだけ。古書に宿る古意に出会うのではなくて、古書の言葉を切り取って、都合よく自分の弁論の証拠扱いしているだけ。客観でも何でもないわ。
青年 そこはやはり、近代知の悪弊である分析という陥穽に陥ることなく、全的な認識へと、、、
女 (さえぎって)お黙り。全的な認識なんて、そう簡単に言えることかしら。お二人とも、誤りを指摘されるのが怖くて、小林先生の文章のあちこちを切り抜いて逃げ隠れしているだけ。一体何を教わってきたの。無私でも何でもないわ。
娘 サイテーね。
女 それはちょっとお可哀そう。でも、自分がないって申し上げたのは、そういうことなの。
男・青年 じゃあ、どうすれば、、、
女 それは、ご自分で。
娘 あっ、紅白もう終わりだ。
(傍らのテレビでは、綾瀬はるかが嬉しそうに手を振っている)
(了)