本居宣長、最後の述作

本田 正男

『小林秀雄全作品』第28集「本居宣長(下)」の帯には、こう添えられている。「昭和四〇年六三歳の夏から雑誌連載十一年、全面推敲、さらに一年―。精魂こめて読みぬいた、『道』の学問、人生の意味……。永遠の未来へ 畢生の大業!」。小林先生は、本居宣長という巨星、その仕事の総体を思えば、宣長の名を冠した著作が相応な規模になるなど当たり前だと言っているが(書き始めて5年程経った頃の講演で、先生は「本居さんなんか『古事記伝』書くのに35年かかってますよ。僕が5年6年かかったって、そんなもの何でもありゃしない」と声を大きくして言っている)、果たして、私たちの前には、全50章にわたる文字通り森のように巨大な不朽の作品が遺された。

小林先生行きつけの鰻屋のおかみさんも買ったほどに売れたという発刊後に起こった様々な現象も含め、今や批評家小林秀雄の代表作中の代表作となったこの作品の中で、小林先生は、文学者としての生涯を賭した選りすぐりの表現で言葉を紡ぎ、一つ一つの場面や小径をどれも美しく丹念に仕上げただけでなく、その長い道のりを意識してのことか、本を手にした読者に向け、思わず引き込まれ、歩き続けずにはいられなくなるような仕掛けを用意した。

宣長の遺言書がそれである。小林先生は、冒頭、この遺言書について、「敢て最後の述作と言いたい」と批評し(『小林秀雄全作品』第27集28頁)、読者を誘う。誰しもが、宣長の遺言には、深遠なる人生の意味、真理が披瀝されているのではないかとの予感を抱かずにはおれなくなる。その上、今「本居宣長」を手にする読者は、小林先生が、この「畢生の大業」の幕切れで、宣長さんの遺言について、「又、其処へ戻る他ないという思いが頻りだからだ」(同第28集209頁)とされていることを知ってしまっている。舞台装置は完全なのである。

 

ところが、肝心の遺言の方は、さっぱり要領を得ない。第1章だけでは収まらず、第2章にかけて引用される遺言をどれほど追っても、人生の真理へ繫がるような意味ありげな言葉は皆目見当たらないのである。葬儀の段取りや死骸の始末など極めて具体的な手順を指示した葬儀社の手引書の類にしか読めない。遺言書を、そして、「本居宣長」を読み進む読者にとって、戸惑いは謎となり、小林先生の術中に落ちていく。そして、これが全50章という広大な森を巡る旅の発条となるのである。

 

この小林先生が仕掛けた謎を考えるヒントとして、私は、ここで、冒頭の第1章、幕切れの第50章と合わせ、この両章から最も離れた第26章に置かれた文章を引用したい。同章で、先生は「宣長は、我が国の神典の最大の特色は、天地の理などは勿論の事、生死の安心もまるで説かぬというところにある、と考えていた」とされ(同第27集292頁)、その際、平田篤胤が語るやまと魂や、北条時頼の遺偈の話にまで触れ、際立った対照を描き出している。

わけても、以下の一節は、極めつけである。

「宣長は、契沖を、『やまとだましひなる人』と呼んだが、これは『丈夫ますらをの心なる人』という意味ではない。『古今集に、やまひして、よわくなりにける時よめる、なりひらの朝臣、つひにゆく 道とはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを。契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也。後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことにしからずして、いとにくし。ただなる時こそ、狂言綺語をもまじへめ、いまはとあらんときにだに、心のまことにかへれかし。此朝臣は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の偽りをあらはして、死ぬる也といへるは、ほうしのことばにもにず、いといとたふとし。やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有りけれ。から心なる神道者歌学者、まさにかうはいはんや。契沖法師は、よの人にまことを教へ、神道者歌学者は、いつはりをぞをしふなる』(『玉かつま』五の巻)」(同第27集295頁)

「宣長が、この文章を、世間に発表したのは、やがて七十になる頃であったが、ここに引用された、業平の歌を評した契沖の言葉は、『勢語憶断』にある。宣長自身の回想によれば、青年期、はじめて『歌まなびのすぢ』について、教えられたと言う契沖の著書の一つであった」「ここの宣長の語気は、随分烈しい。筆者の怒りが、紙背で破裂しているようだ」(同第27集295頁)

 

常々宣長さんと息を揃えて呼吸するような小林先生の表現にも、ここでは例のない激しさが感じられる。悟りがましきことをあれこれ、特に、この世を去るにあたって偽りを述べることに対する宣長さんの強い嫌悪が語られている。ここを読み進めるうちに、だからこそ、宣長さんは、自分の遺言書ではあれほどまでに無味乾燥な文章を書いたのではないかと思い至った。悟りがましき偽りを述べないということが宣長さんの思想であり、その人間性の一部だったのではないかと思えてきたのである。

 

では、悟りがましき偽りを述べない人は、人の死に向かい何を思うのか。

「本居宣長」の後半、古人の生活を有りの儘に受け止める宣長さんの思想が全面的に展開され、第50章に至って、最後に、死ぬこと、すなわち、生死の安心の問題に辿り着く。

小林先生は、「世をわたらう上での安心という問題は、『生死の安心』に極まる、と宣長は見ている。他のことでは兎もあれ、『生死の安心』だけは、納得ずくで、手に入れたい、これが千人万人の思いである。『人情まことに然るべき事』と言えるなら、神道にあっては、そのような人情など、全く無視されているのは決定的な事ではないか。宣長の言い方に従えば、もし神道の安心を言うなら、安心なきが安心、とでも言うべき逆説が現れるのは、必至なのだ」(同第28集194頁)とした上で、死についても、そこに起こる有りの儘を真っ直ぐに受け容れる、「死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく」、悟りがましきことをいう隙間を残さない人間の本性へとわたしたちを誘っているように思える。

 

「万葉歌人が歌ったように『神社もり神酒みわすゑ のれども』、死者は還らぬ。だが、還らぬと知っているからこそ祈るのだ、と歌人が言っているのも忘れまい。神に祈るのと、神の姿を創り出すのとは、彼には、全く同じ事なのであった。死者は去るのではない。還って来ないのだ。と言うのは、死者は、生者に烈しい悲しみを遺さなければ、この世を去る事が出来ない、という意味だ。それは、死という言葉と一緒に生れて来たと言ってもよいほど、この上なく尋常な死の意味である。宣長にしてみれば、そういう意味での死しか、古学の上で、考えられはしなかった。死を虚無とする考えなど、勿論、古学の上では意味をなさない。死という物の正体を言うなら、これに出会う場所は、その悲しみの中にしかないのだし、悲しみに忠実でありさえすれば、この出会いを妨げるような物は、何もない。世間には識者で通っている人達が巧みに説くところに、深い疑いを持っていた彼には、学者の道は、凡人タダビトが、生きて行く上で体得し、信仰しているところを掘り下げ、これを明らめるにあると、ごく自然に考えられていたのである」(同第28集206頁)

 

尋常な意味合いにおいて死が、すでに悲しみと分かち難く結びついているのなら、敢えて、そのことを取り出して評釈する必要などないということになりそうである。

 

そう考えれば、宣長の遺言書は、やはり、「ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作」(同第27集28頁)だと言ってさえよい、と思われてくるのではないだろうか。

(了)