小林秀雄「本居宣長」に近づく

森原 和子

〈はじめにひと言〉

 

「小林秀雄に学ぶ塾in広島2018/10」に参加した時、広島で「小林秀雄素読塾」が毎月あることを知り、11月から仲間に入れてもらっています。「小林秀雄に学ぶ塾in広島 2019/4」で池田塾頭と初めて直接話しました。塾頭の気さくなお人柄に魅せられて、無防備に、広島の素読塾での心地よさを話しましたら、こんな文を書く破目になりました。本誌『好・信・楽』を一度も見たことがなく、戸惑い、おどおどしている今です。

 

〈日本語文字の始まり〉

 

令和元年5月末、台東区立書道博物館を訪ねた。漢字3500年の変遷が展示されている。その中で、日本語が文字化されたことについての最初の説明に目が止まった。古代日本人は文字を持たなかった。中国からもたらされた漢字を、日本語表記に当てた、例えば「なにはづ」を「奈尓波都」とした。こういうふうに「古事記」をすべて漢字で書いたおおのやすの後、漢字を書くには時間がかかるので、簡略化した「草仮名」を生み出し、それが正式表記の漢字「真名」に対する通俗平易の字としての「仮名」である「平仮名」となった。

「古事記」序に、安万呂が稗田ひえだのの口伝を記録として残したことを言い、文献によるものではないと書いている。安万呂は、阿礼の誦習よみならいを非常に大切なこととして受け止めた。皇紀、神話も阿礼は真実と思って後世に伝えるべく責任を感じ、それをそのまま記録に残すべきと安万呂は感じて、私心を交えず書き留めた。漢字の知識は豊富な安万呂であるから、古代人の世界を文字であらわすについては、古代人が信じた世界を表現するにふさわしい字を選んだはずだ。安万呂は、阿礼の語りぶりに隠れた力を感じ取り、直感と想像力を駆使して、いささかも私のさかしらを交えず筆録した。「古事記」が編まれた当時はそれを読める人もいたが、時代が過ぎてゆくと読める人も少なくなり、江戸時代には世の片隅に追いやられていた。

古典に関しては、後世の註、すなわち解釈を重ねることによって、とんでもない伝えに変わっているものがあった。江戸初期に研究を重ねた中江藤樹から、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、賀茂真淵らは、社会的権力からも富からも一線を画して、一般の人の如何に生きるべきかは、古典を究めればわかるはずと信じて、その底に流れる血脈に向かって、孤独な自問自答を繰り返す道を迷わず進んだ。私は、「清貧」という生き方が、日本の歴史の中で幹として、大きく育っていることを小林秀雄先生の「本居宣長」で再確認した。

宣長は、古典が本来持つ価値を認め、書物が彼の体の一部となるほどに向き合い親しんだ。虚心になるにつれ自然に、古人の姿、形が浮かんできて万人が信じることができるほどまで見極めて行った。その恩恵に、小林秀雄先生を通して今日、この私でさえあずかれる幸運を得ている。

 

〈私の神話時代〉

 

灰色の空一面に銀の破片最初の記憶空襲らしい

 

昭和17年(1942)生まれの私の幼少期は物のない時代であった。私は、父の膝の上に乗り摩訶不思議な世界に見入っていた。父が分厚い英語辞書の右端角に描いた線画の人物がページをめくれば動くのだ。父が魔法の力を持つと思い込んでいた。大人になって知れば、仮現運動に過ぎない。当時は、本も無く、父は、ざら紙に水彩で「桃太郎」や「舌きり雀」の絵を描いて昔話をしてくれた。物がない時代でも、工夫して育ててくれた。親のありがたさに気が付いたのは、両親が亡くなってからだ。

中学校へ進学した私は、毎朝、父と歩いて通学した。父が勤務する高校と方向が同じだったのだ。私が進学した中学校は、裕福な家庭の生徒が多くて、ほとんどの者が、バスあるいは自転車通学だった。自転車で追い越していく同級生を羨ましく見ていたが、今では貴重な時間だったとありがたく思っている。父と一緒に歩きながら様々なことを聞いた。鷗外、漱石、トルストイ、ドストエフスキー、日本の陰暦月名、社会問題等、私が知らないことを話してくれた。目には見えなくても広い世界があるのだと豊かな気持ちになったものだ。文字を介さない私の神話時代である。

この体験があるから、阿礼が語ったことを事実と信じて安万呂が残したことが、私にはそのままだと思える。そして、宣長が自分の価値観を交えることなく、古人の情をそのまま受け止めるべく虚心に書物と向き合ったことも受け入れられる。

最初にこの本を読んだときは、宣長の生涯をかけたすさまじさに打たれたものの、「古事記」、「源氏物語」についての彼の功績は印象に残らなかった。私に、受け止めるだけの準備ができていなかったのだ。

 

〈物のあはれ〉

 

「源氏物語」は、金力、権限を持つ男の身勝手という最初の印象が払拭できず、これまで、私は、その価値に肯けなかった。名作を味う力がないのかと負い目さえ感じていた。今回読み直して、少しわかってきたことがうれしい。紫式部は、子どもが感じるそのままを損なわず「うれし、おかし、たのし、かなし、こひし」の心の奥底を探りだし、それらをじっくり味わう物語を編み出したのだ。人間のどうしようもない感情に翻弄される哀しさが、よく描かれている。やっと日本の古典に出会うことができたという喜びがある。

 

〈感動することの大切さ〉

 

夫が逝って4年半経った。夫を一人残してはならぬ、一人のやるせなさを夫にさせてはならぬ。私が、40代初めに、夫の両親を自宅で見送ったときから、私が夫に恩返しできることはこれしかないと思って体力維持にも気を付けてきた。夫は、「単なる妻、母で終わるな、勉強しろ」と言い続けてくれた。読書会が、今日まで40年続いているのも夫の理解があったからこそだ。私が公職に推されてためらっていると、夫は私の背中を押してくれた。読みたい本を話題にすれば、夫は、その本を机の上に置いてくれた。二人の読書会は何物にも代えがたい至福の時であった。最良のパートナーを失った喪失感は言葉では言い表せない。

自分を必要とする者がいない、ただ呼吸するだけでも社会資源を消費する、何のために生きているのかと思いだした頃、私は、「小林秀雄に学ぶ塾」を知った。小林秀雄先生は、高い嶺だが、その登山口を見つけた。案内人に導かれて高度を上げて行けば、広い視野が広がるに違いないと思えて飛び込んだ。今、私は、確かな手ごたえを感じている。

テレビで、指揮者、大野和士が話しているのを観た。クロアチアがユーゴスラビアから分離独立するとき、クロアチアの首都ザグレブで、ザグレブフィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めていた。戦闘中も休みなく定期演奏会を続けたが、毎回立錐の余地なく立ち見席が埋まったと言う。明日にも命が果てるかもしれない惨状下、人々は感動を求めて音楽を聴きに来た。感動こそ人間であることのあかしだ、自分は必要とされていると自覚して、覚悟して取り組むようになったと話した。

夫が亡くなった直後、息子が私に語ってくれた。人間は感動が多いほど老いから距離を置ける。今、手にしている感動場面を大事に持ち続けるようにと。もっと知りたいと思うこと、気になることがあれば、もう恥を気にする歳でもないので、人からどう思われようとも好きなことをしていこうと思っている。思うように動けるのも、後、残り何年かだろうから、これくらいのことは許されると思っている。

夫に再会した時、夫のレベルに近づいていたい。だから、夫から、よく頑張ったねといってもらいたいと思うようになってきた。

「小林秀雄に学ぶ塾」に感謝します。こんな時が来るとは思いもしなかった。生きていればこそだ。

(了)