ト短調と和歌

櫛渕 万里

1756年1月27日は、モオツァルトの誕生日である。その184年後の1940年1月27日に、私の父は生まれた。

 

「モオツァルトとお父さんは、同じ誕生日なんだよ」。嬉しそうに語り、暇さえあると、チェロを奏でている父の姿はあたりまえの日常だった。幼い私にとって、チェロという名前の茶色い大きな怪物はお腹のあたりから滑らかな低い声を鳴らすかと思えば、ギコギコとぎこちない掠れた音を出す不思議な物体だった。その怪物を抱えて体を揺らす父の顔はいつもは見せない独特の顔つきになる。人を寄せつけない空間がそこに生まれる。私は父と遊びたい気持ちを胸にしまっておくしかなかった。

 

20代の頃からサラリーマンで構成される虎ノ門交響楽団に所属していた父は、田舎に住まいを移してからも隔週の練習通いは欠かさなかった。さらに、田舎にも本物の音楽があった方がいいと仲間を見つけて、アルプ弦楽四重奏楽団を立ち上げた。祭りの太鼓と笛の音頭はあっても、クラシック音楽などあまり馴染みのない小さな町である。怪訝な目を向けられながら、しかし、聴衆がたった一人でも構わない、とにかく弾くのが喜びで、「僕は音楽が好き」だった。

 

小学生になると、私は楽譜の譜めくり役になった。「お父さんがウンとうなずいたら譜面をめくるんだよ」と教えられ、五線譜に並んだ音符や拍子を目で追いながら、父だけの神聖な空間に入れてもらえたような気がして嬉しかった。初めての舞台には真っ白いワンピースを着て脇に立ち、演奏が始まると、自分が失敗すれば前へ進もうとする和音が崩れるかも(実際はそんなことはないのだが)と緊張感いっぱいに譜面をめくった。

 

その思い出の曲が、モオツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番ト短調」である。ピアノの繊細な音と3つの弦が対等にからみあい、この曲を聴くと、あらゆる感情があふれて涙がこぼれる。そういえば、小林秀雄の「モオツァルト」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)を貫いているのも、ト短調の調べである。「大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニーの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」という文の冒頭には「交響曲第40番ト短調」の楽譜の一節まで書かれている。「文学者がこんな音楽の本を書いているぞ」と教えてくれたのも父である。モオツァルトはト短調の曲を4つ書いていて、小ト短調とも呼ばれる「交響曲第25番」そして「弦楽五重奏曲第4番」と続く。小林秀雄は生前「わたしはヴァイオリンがとても好きだ」と語っていたそうだが、とりわけ、「弦楽五重奏曲第4番ト短調」には心底魂を揺さぶられていた。この名文はあまりにも有名である。

「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない」(同上)

 

なぜ、ト短調を聴くと、こんなにも心がはかなく、ほろほろと、うごくのだろうと立ち止まる。短調の音階が人に情趣をもたらし、その情趣に人がこれほどまでに魅かれるというのは、なぜなのか。

 

私がト短調を聴いて涙がこぼれるのは、まさに、若き父の夢が現実との狭間で思い出されて胸がつまるからである。じつは、田舎に居を移したのは、当時恋人だった母の父が急逝して、四姉妹の長女であった母は婿養子を迎えて家業を継がねばならなくなった。父の「僕は音楽が好きだ」の根柢には、「かなし」が鳴っていたのである。

 

ト短調の交響曲について、小林秀雄は書いている。

「僕は、その頃、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。それは、巧みな絵ではないが、美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。モオツァルトは、大きな眼を一杯に見開いて、少しうつ向きになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。彼は、画家が眼の前にいる事など、全く忘れてしまっているに違いない。二重瞼の大きな眼は何にも見てはいない。世界はとうに消えている。ある巨きな悩みがあり、彼の心は、それで一杯になっている。眼も口も何んの用もなさぬ。彼は一切を耳に賭けて待っている。耳は動物の耳の様に動いているかも知れぬ。が、頭髪に隠れて見えぬ。ト短調シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生れたものに間違いはない、僕はそう信じた。何んという沢山な悩みが、何んという単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致という様な尋常な言葉では、言い現し難いものがある。全く相異る二つの精神状態の殆ど奇蹟の様な合一が行われている様に見える。名付け難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現す事が出来るのだろうか。それが即ちモオツァルトという天才が追い求めた対象の深さとか純粋さとかいうものなのだろうか。ほんとうに悲しい音楽とは、こういうものであろうと僕は思った」

この考えは、短調の音階が人に情趣をもたらし、その情趣に人がこれほどまでに魅かれるのはなぜなのか、という音楽の最大の不思議のひとつに答えるものではないだろうか。

 

そんなことを考えるようになったのも、山の上の家で、自分が和歌を詠むようになったからである。ある塾生の「もののあはれを知るには、どうしたらいいですか?」という単刀直入な質問に対して、「それは、歌を詠むことです」と即答された池田雅延塾頭は「一日一首詠んで、千本ノックならぬ千首をめざしなさい」と言われた。半信半疑のまま、和歌と短歌の違いもわからず、詠みはじめて八〇〇首近くにはなっただろうか。教科書代わりの「古今和歌集」はボロボロである。

 

自分が心に思うことを古語の世界に浸り歌に詠む、あるいは、本歌取りを通じて「万葉」や平安の古人の感性や思考にふれていく。その行為はもしかしたら、父がモオツァルトの曲を弾いていたことと似ているのではないかと思う。

 

本居宣長は「あしわけ小舟」で「只心の欲するとほりによむ、これ歌の本然なり」と歌は心のありのままに詠むべし、と諭すとともに、「ただ古き歌をよくよくみならふべし」という。その心に本づき、「物のあはれにたへぬ時のわざ」とは歌であり楽器であると言えるなら、古人や作曲家のふりに倣うことはどちらも「もののあはれを知る」行為といえるだろう。

 

ト短調と和歌。モオツァルトと父。

私にとってすべてが互いに響きあう。そのいちばん濃い重なりに存在するのが小林秀雄である。いずれも、私という人間はいかに生きるのか、という問いを私に突きつけ続けているように感じている。

 

(了)