二十一 俗中の真
1
第七章で、契沖の歌歴と下河辺長流との唱和を見た小林氏は、そのまま続けて契沖の書簡を引く。
――契沖は、元禄九年(五十七歳)、周囲から望まれて、円珠庵で、「万葉」の講義をしたが、その前年、泉州の石橋新右衛門直之という後輩に、聴講をすすめた手紙が遺っている。契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったかがわかるであろう。……
ここで、「周囲から望まれて」と言われている「周囲」は、今井似閑、海北若冲ら、契沖の高弟たちである。したがって、このときの講義の内容は、当時の「萬葉」学の最高峰に位置するものだったと言っていいのだが、開講は元禄九年五月十二日だった。
そして、この「手紙」が宛てられた石橋新右衛門直之について、小林氏は「後輩」としか言っていないが、契沖にとって石橋新右衛門は、格別の後輩だった。手紙の日付は元禄八年九月十三日である。
第九回に精しく書いたが、契沖は三十歳の頃、高野山を下りて和泉の国の久井村に住み、その約五年後、久井から二里ばかり(約八キロメートル)北にあった池田村万町の伏屋重賢宅に移った。契沖の祖父元宜は豊臣秀吉の臣、加藤清正に仕えたが、重賢の祖父一安は秀吉に仕えた、その豊臣恩顧のゆかりから重賢が招いたらしい。
伏屋家は豪家であり、重賢は好学の人で、日本の古典の書籍を数多く所蔵していた。契沖はここに寄寓して重賢の蔵書を読破、その読書経験が後の古典研究の契機ともなり素地ともなったのだが、契沖は石橋新右衛門とも重賢の縁で識ったのである。
重賢は、和泉の国にこの土地のことを記した書物がないことを惜しみ、『泉州志』の編纂を志した。だが重賢は志を果さないまま世を去り、契沖も泉州を離れることになった、が、契沖はその前に、重賢の遺志を重んじて後継者を求めた。そこに現れたのが石橋新右衛門だった。新右衛門はよく契沖の期待に応えて重賢の遺志を成就せしめ、契沖は自ら跋文を書いた。石橋新右衛門は、そういう後輩であった。
いまここに記した石橋新右衛門の人物像は、小林氏の「本居宣長」を読む上からは必ずしも知っておかなければならないことではない。小林氏としても、読者に読み取ってほしいのは新右衛門への手紙に覗える契沖の「行き着いた確信」であり、そういう小林氏の思いからすれば、石橋新右衛門の人物像に寄り道して読者に時間を食わせる註釈は不本意であるだろう。それを承知であえて私が寄り道しているのは、新右衛門がこういう人物だったと知って契沖の手紙を読めば、契沖の「行き着いた確信」がいっそうの生気を帯びるからである。
正直言って、私は当初、漠然とではあるが新右衛門を和泉の国の豪商くらいに思い、学問に関しては初心者もしくは好事家のように決めつけていた。そして、小林氏が引いている契沖の手紙も、新右衛門が諸事繁多を理由に「萬葉」講義に出られない旨を言ってきた、その新右衛門の欠席届に対して契沖が書き送ったものと想像裡に解していた。だが、そうではなかった。契沖と新右衛門とは、強固な絆で結ばれていた。契沖の手紙は、そうした新右衛門の人間像を知って読むのと知らずに読むのとでは、言葉の重みが断然ちがうのである。手紙文の中に出る「俗中の真」も、契沖自ら奔走した『泉州志』の編者に向けての言葉と知って読めば、その含蓄にいっそう思いを致すことになるのである。
さてそこで、小林氏が引いた契沖の手紙である。
――(前略)拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候、……
これが、小林氏の言う、「契沖が行き着いた確信」の入口である。
この引用にある「(前略)」は、言うまでもなく小林氏がそこまでの文を割愛したことをことわっているのだが、筑摩書房版『契沖全集』第十六巻で原文を繙いてみると、この手紙は、契沖が所望した松の木二本を新右衛門が送ってくれたことに対する謝辞に始まり、松をめぐっての蘊蓄が随想風に記され、その後に、こう記されている。
――又此比万葉講談之様なる事催被申沙汰有之候故拙僧存候は、貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候……
そしてこの後に、先に引いた「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候……」が来るのである。
小林氏が略した原文を、わざわざ復元して読者の眼前に供した私の思いはもうお察しいただけていると思う。先に石橋新右衛門は契沖にとって格別の後輩だったと言ったが、その格別とは単に恩人伏屋重賢との縁を介しての後輩というだけではない、「萬葉」講義の開講に際して、「貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候」、すなわち、貴君は聡明で、一を聞いて二も三も知る人だ、と言って送るほどの後輩だったのである。
ゆえに、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」……、この契沖が、「萬葉集」に関して明らかにしたことは、「萬葉集」が編まれてこのかた随一であると思う、その証拠は古書を見てもらえばわかる、水戸光圀候のご家来衆のなかにも、そう思って下さる方がいられる……は、他の誰でもない、石橋新右衛門に向って言われているのである。「拙僧万葉発明」の「発明」は、それまで隠れていた事理などを新たにひらき、明らかにすることをいう「発明」である。
契沖の言うとおり、「萬葉集」は契沖によって初めて全貌が明らかになり、初めて全歌が正当に読み解かれたのだが、石橋新右衛門への手紙で契沖自らそのことを言っているのは、それを自慢したくてのことではない。契沖が「萬葉代匠記」の初稿本を書き始めたのは天和三年(一六八三)四十四歳の頃であり、書き上げたのは貞享四年(一六八七)四十八歳の頃である。これに次いで精撰本を書き始めたのは元禄二年(一六八九)五十歳の頃であり、書き上げたのは翌三年、五十一歳の年と見られている。だが契沖が、新右衛門と識ったのは、初稿本を書き始めるよりも前、四十歳になるかならぬかの頃である。以後ずっと新右衛門は契沖の至近に居た。だからいま小林氏が読んでいる手紙を契沖が新右衛門に書いた元禄八年九月という時期、新右衛門は契沖に「萬葉代匠記」のあることを十分心得ていたであろうし、契沖の方から「代匠記」のことを語って聞かせたことも幾度かあったであろう。契沖という人は、己れを誇ることのまったくなかった人だから、自慢話などはもとよりあろうはずはないのだが、ならばなぜ今になってわざわざ「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候」と言い、「且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」と言うかである。
思うにこの年、すなわち「萬葉代匠記」の成稿から五年が過ぎて五十六歳となった元禄八年、折しも今井似閑、海北若冲ら、高弟たちから「萬葉」講座を請われることがあり、それによって契沖は、自分が為し遂げた仕事を初めてじっくり顧みる機会に恵まれ、契沖自身、自分の為した仕事に驚いたのではあるまいか。その驚きが、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候」と言わしめ、次の言葉を吐かしめたのではあるまいか。
――煙硝も火を不寄候時は、不成功候様ニ、少分は因縁を借候て、早々成大事習目前之事ニ御座候、……
火薬も火がつかないと役に立たないというが、取るに足りないこの身も因縁を蒙ったおかげで、大きな仕事の完成がもう目前になっている……。「少分」は卑しい身分、またその者、ここは自分のことを言っている。
ということは、契沖の萬葉学は、「萬葉代匠記」の成稿後も熟成を続けていた。その熟成がまもなく絶頂を迎える予感がすると契沖自ら言い、だからこそこれから始める講義は、貴君にぜひ聴いてほしいと、契沖は強い口調で新右衛門に言うのである。
――あはれ御用事等、何とぞ他へ御たのみ候而、御聴聞候へかしと存事候、……
世間の用事は誰かに頼んで、私の「萬葉」講義をぜひともお聴きになるように……。ここで言われている「用事」は、特にこれと言った用事ではなく、単にふだんの仕事というほどの意であるが、新たに始める「萬葉」講義には、契沖自身、燃えるものがあったのである、そのことを初めて新右衛門に知らせるのである、そういう観点から読めば、この「御用事等」は、たとえどんな仕事であっても、というほどの語気で読めるだろう。
そして、言う、
――世事は俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候、……
世間の事は俗中の俗であり、「萬葉集」を読むということは俗中の真なのです……。
これがまさに、小林氏の言う「契沖が行き着いた確信」である。自分自身で書き上げた「萬葉代匠記」に自分自身が驚き、その驚きのなかで確信した「俗中の真」なのである。
おそらく、この「俗中の真」という言葉は、このとき初めて契沖の脳裏で光った。契沖は常日頃からこの言葉を口にしていたのではない、ましてや誰彼かまわずお題目のように唱えていたのではない、相手が石橋新右衛門だったからこそ、新右衛門に聴聞を説得しようとしたからこそ、閃いたのであり、契沖自身、自ら発した「俗中の真」に、その場で説得されたと思えるのである。
現代語の「俗」には「低い」「卑しい」という語感が先に立つが、契沖の言う「俗」にそれはない。したがって「俗中の俗」とは、低級なことのなかでもとりわけ低級、というような意味ではない。「俗中の」の「俗」は単に「世の中」「人の世」であり、言い換えれば私たち人間の日常生活の意である、そしてそういう「俗」の中の「俗」とは、生きるために否応なく誰もがこなさなければならない目先の諸事である。これに対して「俗中の真」とは、日常の生活経験から不変の真理を掬い上げて味わうことである、過去から現在へは言うまでもなく、現在から未来へまでも変わることのない人性の基本を知ることである。「加様之義」は、「萬葉集」を深く読むことである。「萬葉集」には目先の諸事が四五〇〇首にも歌われている、その膨大な目先の諸事から、昔も今も変わることなく皆人に通じる真を掬う営為、すなわち歌学である。
――貴様御伝置候ヘバ、泉州歌学不絶地と成可申も、知レ申まじく候、必何とぞ可被思召立候、……
貴君が伝えおかれれば、泉州は歌学の永久に絶えない地となるかも知れないのです、なにとぞ思い立って下さいますよう……。
最後は、こう言って筆を擱く。
――歯落口窄り、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、弥独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……
歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないところへ他の器官にも増して舌が不自由になり、難儀していますが、独りで生まれて独りで死ぬ身に変わりはないので、講義を乞われれば辞退はしないで務めようと思っています……。
2
契沖が石橋新右衛門に書いた手紙を、ここでこういうふうに読んだのは小林氏ではない、私である。私とても小林氏の読み筋に沿って読もうとし、そのため、小林氏が最初に言った「契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったか」、そこをわかろうとして読んでいくうちおのずとこうなったのだが、それというのも小林氏が、契沖の手紙を読み終えてすぐ、こう言っていたからである。
――読んでいると、宛名は宣長でも差支えないように思われて来る。……
少なくとも文章の表面ではほとんど小林氏が顧みていなかった石橋新右衛門を、敢えて私が表面に立たせようとしたのは、小林氏のこの一文があったからである。つまり、石橋新右衛門に宛てた契沖の手紙は、小林氏に「宛名は宣長でも差支えない」とまで思わせるほどの意力に満ちていた、それは、石橋新右衛門という人が、契沖にとってはあれほどの人物だったからであり、なればこそ契沖は、永年歌学に生きて行き着いた確信を、「俗中の真」という一語に託して新右衛門に明かした、そしてその一語にこめられた意力は、後に、本居宣長が契沖の「百人一首改観抄」に感じ、続いて同じく「勢語臆断」に感じた意力とまったく同じだと小林氏も強く感じたにちがいないと思えたからである。だからこそ氏は、即刻続けてこう言ったのである。
――「勢語臆断」が成ったのは、この手紙より数年前であるが、既に書いたように、これは、二十三歳の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写した最初のものである。……
「勢語臆断」は、契沖の「伊勢物語」の註釈書であるが、以下、その最終段の本文全文と契沖の註釈である。
――「むかし、をとこ、わづらひて、心ちしぬべくおぼえければ、『終にゆく みちとはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを』――たれたれも、時にあたりて、思ふべき事なり。これまことありて、人のをしへにもよき歌なり。後々の人、しなんとするにいたりて、ことごとしき歌をよみ、あるひは、道をさとれるよしなどをよめる、まことしからずして、いとにくし。たゞなる時こそ、狂言綺語もまじらめ。今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生のいつはりをあらはすなり」……
ひととおり、現代語訳を添えておこう。
――昔、男が病気になって、死にそうに思えたのでこう詠んだ、「最後に行く道であるとは前から聞いていたが、昨日今日のこととは思っていなかったのに……」。誰もが死に臨んで思うことである。この歌には偽りのない本心が詠まれていて、人生の教訓としてもよい歌である。業平より後の時代の人間は、死に臨んでことごとしい歌を詠み、あるいは道を悟ったという意味の歌などを詠んでいるが、本心が感じられずたいへん見苦しい。ふだんのときなら狂言綺語が混じってもよいだろう、だが、これが最期というときは人間本来の心に還れと言いたい。業平はその一生の誠心誠意がこの歌に現れ、後の時代の人は最期の歌に一生の偽りを現している……。
「狂言綺語」は、道理に合わない言と巧みに飾った語の意で、物語、小説、戯曲の類を卑しめて言われることが多いが、「勢語臆断」の文脈では単に繕い飾った言語の意である。契沖の別の言葉でいえば、「ことごとしき歌」や「道をさとれるよし」の言葉である。
契沖の註釈を受けて、小林氏は言う。
――契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。……
小林氏が、主として「萬葉集」のことばかりが言われている契沖の手紙を読み終えたにもかかわらず、「萬葉集」には一言もふれずに「勢語臆断」へと飛んだのは、契沖の手紙に見えた「俗中の真」からただちに「勢語臆断」中の「狂言綺語」を連想したからであろう。さらに言えば、氏は、一刻も早く「契沖は、『狂言綺語』は『俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候』と註してもよかった」と言いたかった、言いたかったとまでは言わないまでも、契沖の言う「俗中の真」をわかろうとすれば、「狂言綺語」が恰好の対概念になる、そう考えたのであろう。
しかし、そうなると、「加様之義」は在原業平の歌ないしは死に臨んでの態度、となって支障はないとしても、「俗中の俗」は「狂言綺語」の語意語感に染められて、卑しいもの、蔑むべきもののなかでもとりわけ卑しいもの、蔑むべきものを言う言葉となり、契沖が手紙で用いた「俗中の俗」からは逸脱してしまう恐れが出てくるのだ。そこには注意が要る。
先回りしていえば、小林氏は、「俗」を卑しんだり蔑んだりは決してしていないのである。それどころか、まったく逆である。先へ行って、第十一章にはこう記される。
――卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考えではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味のあるものは、恐らく、彼には、どこにも見附らなかったに相違ない。……
そしてここから、宣長の学問の骨子とも言うべき「俗」が、鮮明に映し出されていくのである。
ではなぜ小林氏は、契沖は「狂言綺語」は「俗中之俗」と註してもよかったなどと、読者を誤解の淵へ追いやるような言い方をしたかである。結論から言えば、契沖の手紙文を踏まえて言ってみれば、結果としてこうなったというだけのことで、氏がほんとうに言いたかったことは、「加様之義は、俗中之真ニ御座候」にあった。「加様之義」と言われている在原業平の「歌」にあった。
氏にとって、人間が生きる、生きているということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にあった。端的に一例を示せば、昭和三十二年(一九五七)二月、五十四歳の冬に発表した「美を求める心」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)で次のように言っている。
――悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……
――詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。……
この「美を求める心」の「詩」を「歌」に、「詩人」を「歌人」に置き換えて読めば、ただちについ前回見た契沖、長流の唱和をはじめとして、「本居宣長」のそこここが浮んでくるが、先に小林氏にとって人間が生きるということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にあると言ったことの意味合も容易に理解していただけると思う。もっと言えば、関心よりも価値である。小林氏が関心を振り向け価値を置くのは、何かに悲しんでいる人その人ではない、何かに悲しんでいる人がその悲しみを言葉の姿に整えてみせた歌や詩である。そしてこのまま「美を求める心」に即して続ければ、悲しみは「俗中の俗」である。それが歌や詩となって言葉の姿をとったとき、「俗中の真」が立ってくるのである。
――宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と註した。……
「右の契沖の一文」は、「勢語臆断」最終段の契沖の註釈文である。
――この言葉の、宣長の言う「本意」「意味ノフカキ処」では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい。……
「この言葉」とは、「ほうしのことばにもにず……法師ながら、かくこそ有りけれ」という宣長の「玉かつま」の言葉である。契沖の基本的な思想は「勢語臆断」の業平評に縮図的に表れており、業平の歌のような正直な古歌から人生の要諦を汲み上げるのが歌学である、そういう歌学がとりもなおさず俗中の真ということである、と宣長は解して腹に入れていた、さらに契沖は、こういう俗中の真に徹し、そのために狂言綺語をまず排斥した、この狂言綺語の排斥が契沖学の急所であったとも宣長は見てとっていた、というのである。
小林氏の関心は、常に「人間と言葉、言葉と人間」にあった。「俗中の真」は契沖の最初の発言からして当然だったが、「俗中の俗」も「狂言綺語」を対置することで「人間と言葉、言葉と人間」の領域に絞って考察された。
――義公は、契沖の「代匠記」の仕事に対し、白銀一千両絹三十匹を贈った。今日にしてみると、どれほどの金額になるか、私にははっきり計算出来ないが、驚くべき額である。だが契沖は、義公の研究援助を、常に深謝していたが、権威にも富にも全く関心がなかった。先きにも挙げた安藤為章の「行実」には、「師以テ自ラ奉ケズ、治寺ノ費ニ充テ、貧乏ヲ贍ス」とあるのが、恐らく事実であった事は、契沖の遺言状でわかる。彼は、六ヶ条の、まことに質素な簡明な遺言を認め、円珠庵に歿した(元禄十四年正月、六十二歳)。それは、契沖の一生のまこと、ここに現れ、と言ってよいもので、又、彼の学問そのままの姿をしているとも言えると思うので、引用して置く。……
契沖の遺言状は、「彼の学問そのままの姿をしている」と小林氏は言う。事実、契沖の遺言状には、狂言綺語は一語として交らず、在原業平と同様に、契沖は「心のまことにかへ」って「一生のまこと」をあらわしている。
小林氏は原文で引いているが、ここでは久松潜一氏の「伝記及伝記資料」(旧「契沖全集」第九巻)に拠りながら、一条ごとに趣意をとってみる。
一、何時拙僧相果候共……
契沖がいつ死のうとも、円珠庵は理元がそのまま住み続けてほしい。円清の旧地であるから、自分が生きていたときと同じにしてほしい。もし余所へ出たいと望んだときは、飢渇の心配のないようにしてほしい。
(「理元」は長く契沖の身辺にあって契沖を助けた僧で、円珠庵の墓碑に円珠庵二世として名が残る契真かと久松潜一氏の「伝記及伝記資料」にある)
一、水戸様より毎年被下候飯料……
水戸光圀様から毎年いただいている手当は、早めにすべてをまとめて返納してほしい。もともとこれを頂戴することは自分の本意ではないと常々思っていたが、無力のために御恩を蒙ってきたのである。
一、年来得御意候何も寄合ご相談候而……
永年ご厚意をいただいた方々でご相談下さり、数年の間は理元が引き続きかつがつでも暮していけるようにしていただきたい。自分は裕福でないので頼んでおきます。
一、拙僧平生人を益可申方を好候而……
自分は平生から人に益をもたらすことを好み、損を及ぼすことは好まなかったが、先年、無調法をして多くの人に損をおかけしたことを甚だ残念に思っている。力が出ればお返ししたいと思う甲斐なく今に至っている。その人たちは何ともお思いになってはいないだろうが、自分は心底このように申し訳なく思っている。
一、妙法寺を退候節……
妙法寺を退去したとき、覚心へ銀三枚、深慶へ二枚、今之玆元へ一枚、故市左衛門と作兵衛へ各一枚を与えたいと人を通じてそう言いもしそう思っていたが、この円珠庵にその銀を使ってしまったため、これまたいつかはいつかはと心底思ってはいた。円智、おばなどへも、少しは与えたいと思っている。そのほか九兵衛など、別に少々与えたいと思ってきたが、実際は願いと違ってしまっている。
一、歌書、萬葉、余材抄等数部は、理元守可被申候……
歌道に関する書、「萬葉集」、「古今余材抄」など数点の書物は、理元が守ってほしい。その他、下河辺長流の書いたものや自分が書き写しておいたものは、皆で相談して形見として分けられたい。
以上である。「ことごとしき歌」も、「道をさとれる」由も、記されていない。
(第二十一回 了)