本居宣長の奥墓と山宮

石川 則夫

一 事の起こり

 

この9月に初めて松阪を訪れた。大学院のゼミ生から夏期休暇中の松阪合宿をという声が上がり、なるほど、それではと心が動いたからであった。小林秀雄の『本居宣長』を大学院演習のテーマに選び、当初からじっくり取り組もうと計画し、1年間で10回を原則として前期は精読、後期は研究発表というスケジュールで今年は5年目に入った。すなわち、今年度はいよいよ最終回を迎える年になったのだった。しかし、もちろん我々が読み解こうとするのは小林秀雄が著した『本居宣長』というひとつの文学作品であって、享和元年に世を去った国学者の業績や生涯の研究ではない。あくまでも小林秀雄が記述した本文を考えることが課題なのである。とはいうものの、引用された宣長の諸著作や、その本文への言及が『本居宣長』の基本構造であることは間違いなく、さればその原典の当該箇所を確認する作業もしばしば必要になるわけで、これを重ねているうちに「宣長さんていう人は、こういう難しい問題について、どうしてこんなに優しい文章で書けるのだろう」というように感心しつつ、演習の時間が過ぎ去っていくことも少なくなかった。そうして5年間、この国学者への特別な想いが、院生間にいつのまにか醸成されていたということであろうか。そして、私自身もまた身にしみて感じているからこその松阪合宿という発想なのだった。それぞれが「ふと松阪に行きたくなり」というところか。

いちばんに訪れたいのは奥墓おくつき、「遺言書」の図には「奥津紀」だが「山室山奥墓碑面下書」には「奥墓」の文字になっているのはなぜだろうか、などと新幹線の車中では「遺言書」関連文書を読み続ける。9月9日(月)の夕方に松阪に入り、翌10日は全日、本居宣長記念館を中心に市内の史跡をあらかた回ることにして、11日の午前中に奥墓に詣でた後解散とした。この行程が真に正解だったのだと、私は帰京してから改めて気づいたのだが、それについて書いておきたく、ここに稿を起こす次第である。

 

二 本居宣長記念館へ

 

首都圏では台風15号の猛威止まず、なんとか確保した自由席で到着した名古屋駅から松阪駅周辺は台風一過で連日36℃を超える猛暑がぶり返していた。翌朝、本居宣長記念館を初めて訪ねると、予め連絡を差し上げていた吉田悦之館長が出迎えてくれた。お目にかかるのは昨年6月の「國學院雑誌」でのインタビュー以来であった。館内の企画展示がちょうど切り替わり10日が「宣長の京とりっぷ」の初日にあたっていて、平日の午前中にもかかわらず見学者が次々に訪れていた。1階の常設展示品など詳しく説明していただき、2階の企画展室へ向かいつつ様々なお話をうかがう。1時間ほどで一通りの見学を終えると、一同レクチャールームへ誘われてテーブルを囲み、自然に演習での質疑応答のような時間になった。展示替えやら講演会やらなどで吉田館長は少しくお疲れのご様子で、長い沈黙を挟みながら時折ふっと思い出したように言葉を紡いで行かれる。

「近く伊勢神宮の観月会があって、私も招かれているのですが、この会に短歌の応募審査があり、そこに審査員として岡野弘彦先生がおいでになる」。その時に岡野先生に是非聞いておきたいことがあると話を続けられた。

「皆さんは、岡野先生の『折口信夫の晩年』は読まれましたか、その中に、昭和25年に折口信夫が柳田国男とともに伊勢神宮を訪れたときの出来事が記してあって、内宮参観の折に、次の遷宮まで造営を待っているご正殿の中央床下の地下に埋められているしん御柱みはしらを見せろと柳田が神宮の者へ迫ったとあるが、その詳細は随行していた岡野先生しか知らないし、あの書籍に出来事の詳細は書かれていない」と言われた。そして、実はその神宮参拝時の出来事と、その翌日の外宮参拝後に立ち寄った荒木田氏、内宮の神職、禰宜ねぎを世襲してきたこの氏族の山宮といわれる地を回ったとも記されていて、このことも岡野先生に聞いておきたいとのこと。吉田館長にはこの出来事のなにが気にかかっているのかと思っていると、またポツリポツリと言葉を続けられた。「内宮は荒木田、外宮は度会わたらいが世襲の宮司職でしたが、その宮司たちの墓というものがどうなっているのかご存じですか」 と、どうやらここに話の焦点があるらしいと分かってきた。

さて、吉田館長のお話は続いていくが、帰京後に確認した『折口信夫の晩年』の該当箇所を見ておこう。折口信夫、柳田国男、岡野弘彦の伊勢、大和から大阪、京都への旅行とは昭和25年10月24日から11月1日にかけての旅であり、そのきっかけは、かつて折口と國學院で同級だった者が「伊勢神宮の少宮司」をしており、その縁で神宮文化課が折口、柳田両先生の話を聴く席を設けようということだったらしい。

 

二十五日に内宮に正式参拝してのち、付近の摂、末社を巡拝した。内宮では、柳田先生は特に心の御柱のことに深い関心を持っていられて、来田課長(神宮文化課長)に古殿地の心の御柱の跡を拝見したいと申し出られ、柱の形や建て方、その儀式などについて、細かな質問をされた。心の御柱は神宮御正殿の床下に築かれる、最も神秘な場所で、古来の秘儀にわたる伝えが多いのであろう。柳田先生の質問が核心に触れてくると来田課長は、「そればかりはどうも……。私もよく存じませんので……」と困惑しながら口ごもってしまわれることが多くなった。柳田先生のお顔に、いらいらとした不満の表情がだんだんと濃くなってゆくのを見ながら、どうすることもならず、私どもは後ろに従っていた。とうとうしまいに、

「私のこんどの参宮の願いの一つは、心の御柱の跡を拝ませていただいた上で、その正しい知識を得たいということにあったのです。それは一人の日本人として、お伊勢さまの信仰の真の姿を、少しでも正しく知りたいという私の願いなのだ。私の願いは、あなたにはおわかりにならないようだ。あなたはもう、明日から案内してくださらなくて結構です」といって、奮然とした面持ちで、独りで先に立って歩き出してしまわれた。

 

この心の御柱とは、神宮の真の神霊が宿る木と言われ、遷宮の際には地中から掘り出されて新御正殿の中央床下に埋められるのは分かっているがその由来や秘儀、口伝などは執り行う神職以外知らないし、口外も禁じられている。内宮のご神体は八咫やたの鏡と知られているし、祭神・天照大神そのものではないらしいが、それらとの関わりも不明である。その遷宮後に掘り出された跡を、柳田国男は見せろと言ったのだ。そして、先の引用文では書かれていないこと、柳田がどういう質問をしたか、神宮課長との激しいやりとりでなにが言い争われたのか、そのいきさつを吉田館長は知りたいとのことだった。そして、先の荒木田氏の山宮について、これも『折口信夫の晩年』から引用する。

 

二十六日は外宮に参拝してのち、ひがし外城田ときだ積良つむろの荒木田氏の山宮、田丸町田辺たぬいにある氏神の社などを回った。昨日の柳田先生のことばがあったからだろうか、今日から来田課長のほかに、伊勢の学者大西源一氏も案内役に加わられた。

荒木田神主家の祖先祭祀については、すでに「山宮考」で詳細な考察をしていられる柳田先生だが、実地をたずねるのははじめてであったから、始終、大西氏に細かな質問をしていられた。

 

東外城田村とは現在の玉城町に含まれる地域で、松阪駅を出て熊野、新宮方面へ向かうJR紀勢本線から伊勢、志摩方面への参宮線が分岐してまもなくの外城田駅から3キロほど南へ、伊勢自動車道にぶつかる手前に神社があり、伊勢自動車道の向側には積良の地名が残っている。この風変わりな地名つむろとは、神宮会館のHPによれば「斎宮忌詞に墳墓をいうと称しており、この辺りを開拓した荒木田氏祖先の古墳も少なくなく、古墳の多い地帯という意味で使われたようである」と見え、現在の行政地区の玉城町のHP、「神社めぐり」のコーナーにも「山霊(山麓か)に荒木田氏の墳墓があり、その関係が深く、田野の水の神が祭られています」と紹介されている。 つまり、この積良地域には内宮の禰宜職を世襲してきた荒木田氏代々の墳墓の地があり、その地が氏神祭の行われた場所であり、祖先神、祖霊をいつき祭る聖域であった。津布良神社では荒木田氏の先祖祭が行われ、現在の伊勢自動車道を越えた積良の奥、積良谷と呼ばれた谷筋の奥で山宮祭が行われたというのである。「神宮巡々3」なるHPでは、『玉城町史上巻』の記事を引用して山宮神事が行われた「荒木田二門の祖霊が宿るとされてきた聖所」と、その手前に「拝み所」が現在も残されていて、その祭祀はささやかながらも存続している様子がうかがえるというリポートがあり、現地調査の写真も掲載されている。

この荒木田氏の山宮跡に吉田館長は行って来たということだった。

 

三 柳田国男『山宮考』

 

「それが実に生々しい場所なんです」と吉田館長は言葉を続けるのだった。しかし、聴いているこちらにはまだ「山宮」のなんたるかも不明なので、そのお話の意味するところ、つまり吉田館長の実感のありようを率直に受け取ることが出来なかった。「三重県、松阪周辺ではまだまだ両墓制は残っていますよ」とも言われる。おぼろげながらこのお話の意味の拡がりを想像していくと、外宮の度会氏の出自は遠く「海洋民族」に繋がっているが、荒木田氏はどうやら伊勢から内陸へ入り込んだ森から山の地域に深い関わりがあった氏族らしいということ。そこで荒木田氏の山宮とは、祖先の墳墓であり、代々の亡骸を葬る場所であったとすれば、その祖先神崇拝の祭場は、そのまま葬送儀礼の場でもあったわけであり、かつて、仏教の儀式とその死生観が流布される以前の「積良谷」の奥では、古代の人々の死生観に基づいた葬送儀礼が行われていたということなのだろう。

荒木田氏の祖先、親のそのまた親も、「山宮」とされている地に同じように、次々に埋葬されていったのか。それは土葬なのか、それとも土中深く埋葬される前に、もしかしたら平坦な地面に亡骸を横たえたまま、風葬しておく時代もあったのか、そこまで知り得るものではないが、吉田館長の「生々しい」という実感は、この葬送のしかたに関する想像を大いに飛躍させようと促す力を秘めているように、私は、その話しぶりから強く感じたのである。その時、柳田国男の『山宮考』も教えられたのだった。

先に引用した『折口信夫の晩年』の文章にも、注意して読めば気がつくはずだが、やはり内宮祭祀の核心ともいうべき「心の御柱」の方を注視してしまうため、つい見逃してしまう。改めて『柳田国男全集』第11巻(旧版)を繙いてみると、これも重要な論考である『神樹篇』(あの諏訪の御柱おんばしらも論じられている)とともに『山宮考』が収められている。一言しておくと、これは柳田の論考中でも最も難解な部類に入るのではないか。何回も読み直して気付くのは、この論考の端的な見通しが冒頭部の「解説」に述べられており、これを離さずに、それが難しいのだが、読み通すことだと思う。

 

山宮考

山を霊魂の憩い所とする考え方が、大昔以来、今もなお日本の固有信仰の最も理解しにくい特徴となって、伝わっているのではあるまいかということを、説いてみようとした新しい試みの一つである。是には勿論古人がそう考えていたという事実を明示し、且つ出来るならばその理由、たとえば葬法の古い様式とか、それを導いてきた死後観念とか、幽顕二つの世の繋がり方とかいうものを、不問に付することは出来ぬのみならず、更に一方においては中世以来の神道説が、仮に誤りであるにもせよ、斯くまでに本来の筋路を遠ざかってしまうようになった事情というものも明らかにしなければならぬ。非常に大きな仕事だが、それをまとめあげる責任も私にはある。

 

という大きなヴィジョンを柳田国男は示唆しているが、この問題を解いていく際に踏まえておかなければならないことを次のように注意している。

 

読者に念頭に置いてもらいたい一事は、我邦の沿海地帯が広くなり、文化の中心が世と共に平野に移って来たことである。山を背後に持たない都邑とゆうと生産場が多くなれば、古い信仰は元の解釈を保つことがむずかしい。

 

要するに、我々がまだまだ列島の山の中に生き、そこを中心に世界のありようを了解していた長い時間を思い起こせということだ。しかし、古代の人々の、その生き方においては、山々の自然が永遠に循環していくかのように解さなければ、自分等の生きる意味も見失われてしまうに違いなかったはずであり、そのような人生観、世界観をしっかりと想像した上でこの論考を読めと柳田は言うのだ。つまり、同じ祭祀儀礼が尊重されたままいつまでも反復されていくならば、これに裏打ちされた生活の時間とは、同様に限りなく循環していくはずであるということ。そうした事例のひとつとして、山宮祭祀の形跡は意味づけられるというのがこのヴィジョンの核心にあるのだろう。

さて、柳田の考察の道筋はこうである。伊勢の神宮に奉仕してきた代々の神職には、「近世になってからまで、やや普通と異なった方式を以て、その氏神の祭を続けていた者が多」かったと古記録を引きつつ始まっていく。まず、国内の神社は氏神社とそうでない神社と二種があり、伊勢神宮は後者の最初期の形式であるという、つまり、大宮司中臣氏も、荒木田氏、度会氏でも神宮がかれらの氏神を祭っているわけではないことを指摘する。その神社の祭祀を主管する者はその祭神の末裔とされる人々であるのが氏神社であり、伊勢のようにこれと異なる神社は、祭神からの「信任の特殊に厚かった家系」、いわばその神の従者のような役割を承認され、代々世襲してきた氏族が祭祀の運営に関わっていた。そしてそうした氏族はほぼ必ず複数あった。また後者であればこそ、その崇敬者の拡大が期待出来たという。

つまり、神本体のあり方を特権的な一氏族に負わせず、神の血筋ではない複数の従者が仕えるとすれば、その神は抽象化され、信仰は普遍化しやすいというのである。そうすると、それらの氏族には神宮への奉仕とは別に自らの氏神を祭る必要が起ってくる。しかし、問題は「伊勢の氏神祭の見逃すべからざる特徴は、それと大宮の神聖なる職務との間に、はっきりとした境目があっ」たところにあるとし、その境界というのが、神宮奉仕と自分等の氏神祭との関係である。柳田は幾つかの資料に基づいて神宮に奉仕する神職等が自分たちの氏神祭をした際には、潔斎けっさいして身を清めなければ神宮に奉仕できないとされていたのは、「先祖祭に伴う触穢しょくえの感じが残っていた」からであり、それは「前代の葬法が継続していた時代に、祖霊を現世に繋ぐために必要だった機関、即ち山宮と氏神社の祭についての作法が、なほ無意識に又形式化しつつも、残り伝わっていたものであろうも知れぬ」というのである。そして、山宮祭での精進潔斎や祭祀前の食物禁忌を詳しく挙げつつ、氏神祭にはそれがないという関係を、氏神祭と神宮奉仕との関係に、並行しているものとするのである。氏神祭に対する山宮祭は、神宮奉仕に対する氏神祭と同様な関係というわけであるが、ここで問題は、山宮祭が厳重な禁忌を要していたことであり、その饗膳の式の特殊性にも言及している。すなわち山宮祭ではいわゆる直会なおらい、普通は神前に供えた食物を祭祀の後に共食するものだが、それが逆になっており、先に飲食があった後山宮祭が行われること、そこに「山宮祭というものの本質を明らかにすべき、一つの観点」があるという。

また一方で柳田は山宮祭場の地理についても次のように言及している。

 

荒木田一門二門が山宮祭をしていたのは、彼等の初めの氏神祭場より一里余の水上、今の外城田村大字積良から、少し山に入った津不良谷と、そこからさまで遠からぬ椎尾谷とであった。今でも実地に就けば或は指示し得るかと思うが、祭場は最初から一箇所でなかった。椎尾谷の方にも二つ、津不良谷の方にも三つあって、官首の替った年には東の谷、その外は中と西との二つの谷を、打ち替え打ち替え各年に祭ったというから、或は年毎に少しずつは場所を移しているかも知れぬ。ともかくここには社は無くして、ただ地上に石を据え置きてその上に祭る也とある。

 

そして、「神都名勝誌しんとめいしょうし」という文献資料には「右の積良谷の山宮祭場を、荒木田氏祖先の墳墓なり」と明記していると述べ、しかしながら、「今から千五百年前の墓制すら、実際はまだ我々に判っていないのである。オキツスタヘと謂いオクツキと謂ったものが、どういう方式で亡骸を隠したかということも、これから帰納法によって徐々に尋ねて行かなければならぬ」と結ぶ。「スタヘ」とは墓所、墓、また棺の古語であり、「オクツキ」も墓所であるが、つまりは奥深いところにあってさえぎられている境域であり、神霊の祭場のことでもある。そして、内宮の荒木田氏、外宮の度会氏の場合にもそれぞれの山宮祭の行われる場所、その地勢は「静寂なる山陰の霊地」というところに共通点が見出せるようだ。また、山宮祭の「山宮」という言葉について、宮とはいうものの社殿などはなく「石を据え置きてその上に祭る」というように臨時の神棚めいたものを作って祭儀を行ったような記録しかないことについてこう推測する。

 

そこでどうしても考えずにはいられぬのは、こういう谷の奥のただかりそめの祭の庭を、何故に古くから山宮と言い習わしているかということで、普通に我々の言っている宮と社との区別では、この点は到底説明することが出来ない。人は気付かずに年を過ごしていたけれども、これは本来信仰上の言葉であって、凡俗の眼には見えない祖霊の隠れ宮が、かねてこの山間の霊地にはあるものと信じ、時としては幻にも見たことは、たとえば富士の北麓の村人が、上代の噴火の後先に、五彩目も綾なる石造の宮殿が山頂に建つと思ったり、又は伊豆の島々の山焼けの頃に、新たなる多くの神の院が築かれたと奏上したりしたように、色々の不可能事を可能として、言い伝えていたのではあるまいか。それまで考えることは空想であるかも知れぬが、少なくともただ椎萱の簡単な設備を以て、神を迎え神を祭ることが出来たというのは、その又一つ向こうに常の日の神のおましが有ることを、もとは信じていた為だろうというだけは、この山宮という名が推測せしめるかと思う。

 

「山宮」という名称が意味するところとは、深い山懐へ伸びていく谷筋のその奥に、遠い祖先の霊魂が常住している「おまし」(御座、御座所)が存在し、その祖先神を祭る者には祭儀の際にだけ設けられる簡易な神棚の向こうに、それはありありと幻視されていたはずだというのである。

さらに柳田はこの伊勢の山宮祭、山宮神事の方式を踏まえて、富士浅間神社に付随している山宮神事の考察、甲州地方その他の山宮を備える神社の祭祀を広汎に紹介し、各地に存続する霊山信仰の原形へと思考を巡らせようとする。

 

朝日夕雲に照りかげろう、弧峰の秀でたものが近くにあれば、住民のあこがれは自然に集注し、信仰は次第に高く天翔るであろうが、それを必ずしも最古のものと、まだ我々は認めてはいないのである。……日本のような火山国で、五十里三十里の遙かな広野から海から、美しい峰の姿を望まれる土地でも、なお山を目標として家々の祖霊の行方を懐う心が、大きな上空の神を迎えるよりは前ではなかったろうか。

 

つまり、大きな威力を帯びて降臨する神々の信仰の以前に、遙かに遡る氏神信仰の姿を、氏族の日常生活のすぐ隣の山懐で顕れていた家々の神の姿を想い見ようというのである。その信仰の核心部について「一言で総括するならば上世の葬法、もしくは死後に赴くべき世界についての我々の観念の然らしむるところと謂ってよいが、これを神々の祭のことと併せ説くのはなんとなく穢らわし」いという観念が潔斎精進という行事を伴わせることとなる。そしてこの山宮の神事が表現する信仰の姿は、次の柳田国男の卓越した文章に象られている。

 

曾ては我々はこの現世の終りに、小闇おぐらく寂かなる谷の奥に送られて、そこであらゆる汚濁と別れ去り、冉々ぜんぜんとして高く昇って行くものと考えられたらしいのである。我々の祖霊は既に清まわって、青雲たなびく嶺の上に休らい、遠く国原を眺め見下ろしているように、以前の人たちは想像していた。それが氏神の祭に先立って、まず山宮の行事を営もうとした、最初の趣旨であったように私には思われるのである。

 

柳田国男『山宮考』は昭和22年6月に刊行されている。その3年後に折口信夫、岡野弘彦とともに伊勢旅行へ赴き、先に言及した「心の御柱」を巡るやりとりと、東外城田村積良の荒木田氏の山宮訪問のことがあったわけだ。だから、柳田のこの二ヶ所での「細かな質問」とはどういうことであったか、いったい何をより「正しく」知ろうとしていたかは、『山宮考』を踏まえれば、容易に想像がつくところである。ここで引用した通りの柳田の発想を、さらなる確信へと育てるための問いを続けたということだろう。

 

四 本居宣長の奥墓

 

さて、9月10日の本居宣長記念館での吉田館長の言葉は、この昭和25年10月25日と26日の柳田と神宮関係者との間の質疑応答のありようが知りたいというものだった。そしてその動機は、荒木田氏の山宮神事の祭場を見たときの「実に生々しい」という実感から沸き上がってきたものに違いない。10日の昼過ぎまでかけてうかがったお話の最後に、この山宮の位置について尋ね、11日にもそこへ行けるかどうか調べ、考えたが、松阪市内から簡単に行けそうもなく、道順も不案内なので、もう一度「山宮」についてよく調べてからということになった。午後はまた記念館でのレクチャーがあり、11日には名古屋で講演会があるという吉田館長と別れて、松阪城趾、郷土資料館、宣長旧宅跡、本居家の代々の墓所、樹敬寺など、午後は猛暑の市内を歩き回って10日は暮れた。

翌11日、午前9時に予約しておいたタクシーに分乗していよいよ奥墓へ向かう。「本居宣長のオクツキへ」と行き先を告げても、「はい、オクハカね」と答えて他の2台へ「オクハカ、オクハカ」と連絡する。松阪のタクシーでは「奥墓=オクハカ」と言い習わしているらしいが、「ふつうの観光客はめったに行かない、よほどの歴史好きか、歴史研究者しか乗せたことはない。あなたたちも歴史研究ですか」と問われる。

駅前商店街を抜けて20分近く、徐々に山へ向かって急になる坂道を上がっていき、鬱蒼とした林間の曲がりくねった細道の終点が山室山の妙楽寺門前である。以前はこの先の林道へも自動車が入って奥墓の直下まで行けたらしいが、今は通行止めになっている。土砂崩れなどの修復が遅れているようである。したがって、門前からの山道、宣長も墓地選定の際には歩いたであろう山路をそのまま登って行く。急に陽射しが遮られて暗くなり、しばらくすると細い沢沿いの小路が尾根に向かう谷筋に沿って登るようになる。右手の小橋を渡って岩だらけの急坂をつめると林道に出る。以前はここまで自動車が入れたという場所だろう。林道の向こうにさらに急峻な登路が続いている。周囲はほとんど杉の植林であるが、奥墓への登路の所々には広葉樹の自然林、灌木、雑草類が繁っている。

昭和40年に小林秀雄が初めて訪れた際とは林相はかなり異なっているはずである。「妙楽寺は無住と言ったような姿で、山の中に鎮まりかえっていた。そこから、山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遙かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり……」という「伊勢海」は、おそらく枝打ちもされないまま伸びきった杉木立に遮られて、なかなか見通すことはできない。そして、いくつかの記念碑の上方に木柵をめぐらした塚が現れた。周囲の大木の陰になって薄暗い場所である。その塚の後方に植えられた「一流の品」たる山桜の木も堂々たる大樹になっている。桜の季節には見事な花だろうし、落花は奥墓を雪のように覆うのだろうかと思われる。簡素な石垣に囲まれた塚を木柵に沿ってゆっくり巡り、築かれた当時は松阪へ続く田畑から、遙かに伊勢海まで見渡せたろうと想像しながら降りはじめる。先の林道に出ると急に厳しい陽射しが照りつけるが、そこから沢筋へ降って行くと、また、ほの暗く涼しい谷の底に分け入っていく感覚になる。往復40~50分も要したろうか。

妙楽寺門前で待機してもらっていたタクシーに乗り込み、ふたたび松阪駅に戻って合宿は解散、後は各自思い思いに旅を続けることとなった。

帰京後、吉田館長の言葉を反芻しつつ、柳田国男「山宮考」を読んでいると、最終日に訪れた奥墓、その登路の有様が妙に強く浮び上がって来た。そう、里から見える山の奥、谷筋を分け入った山懐。奥墓直下への林道が閉鎖されていたのは実に僥倖というべきで、この路を喘ぎつつ登って行く経験がないとこれは思い描くことすら出来なかったのだ。要するに、松阪から続く平野の尽きたところから山へ入り、山中の妙楽寺門前から一筋に、細く沢沿いに伸びる山路から奥墓の尾根への行程は、「山宮」への参道と符合しているのではないか。

10日に訪問した本居宣長記念館で吉田館長が荒木田氏の「山宮」について語ったのは、我々が最終日に奥墓へ詣でることを踏まえてのことであったのかもしれない。その時は「岡野先生に聞きたいこと」という話の流れで、やや唐突な感じを懐いたまま受け止めていたのだが、柳田国男の「山宮考」をよく読んでみれば、そこに書き記された柳田の直観は、本居宣長の奥墓の根拠を示唆しているのかもしれないと思うのだ。それはまた、吉田悦之館長自身の、実感から得た直観でもなかったか。

足立巻一『やちまた』の第2章 には、「この遺言で、宣長はその複雑きわまる人格を截然とふたつに断ち割って見せているのではないか?」という問いが見える。その一人は「世俗の生活者としての宣長」で、「その学問や思想のために生活を動揺させなかった宣長の集約」が世間の慣習通りに樹敬寺に納まっている。しかし、「学究者、詩人としてのかれ」は樹敬寺にはいない。このもう一人の宣長は「ひとりひそかに夜陰に包まれて山室山にのぼる。そこには妻も寄せつけないのである」 と、この奥墓への根本的な疑問を表明していた。しかしこの所行を、「彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のもの」と見定め、宣長の「信念の披瀝」を読み取ったのが、小林秀雄『本居宣長』であった。さらに、その信念には他人には説明できない、あるいは自分自身にも明らかにできないような「まうしひらき六ヶ敷むつかしき筋」があったという。

小林秀雄『本居宣長』の冒頭部、その遺言書への言及には、古代の人々の心へ迫ろうと積み重ねられた本居宣長の生涯の思考が行き着こうとしたところ、その先に自らの死後の世界が幻視されていたということへの直観が働いているのではあるまいか。『本居宣長』の最終回は再び第1回へ、遺言書の読解へと戻っていく。その小林秀雄の指先のペンの運動は無限に循環する時を示唆しているかのようである。

 

追記・こう考えてくると、昨秋訪れた諏訪の四社のこと、特に、上社の前宮と本宮の関係が妙に気にかかる。本宮の拝殿は前宮に向かって建てられているというし、いまだ前宮周辺の遺構には謎めいたものが多い。下諏訪温泉みなとや旅館で教えられて訪れた前宮の山奥の「峯のたたえ」なる聖所など、再訪を期するものである。

(了)