日本中が沸いたラグビーワールドカップの興奮も冷めやらぬなか、早いもので、本誌も令和元(2019)年の締めを迎えた。そんな今号は、読者の皆さんには、もはやお馴染みとなった荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。先日、荻野さんとの立ち話で、当劇場の話題になった時、「本居宣長」で小林秀雄先生が仰りたかったことを伝えようと模索しているうちに、自ずとこのような対話形式に落ち着いた、という趣旨の話を伺った。今回のお題目は、「めでたき器物」。その言葉が湛える含みを、じっくりと玩味いただきたい。
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「『本居宣長』自問自答」は、泉誠一さんと入田丈司さん、そして溝口朋芽さんが寄稿された。
泉さんの自問自答は、契沖の「大明眼」と言われるものが、宣長が「源氏物語」や「古事記」を読むうえで「絶対不可欠だった何かだ」という直覚に始まる。その直覚を端緒とし、「本居宣長」の熟読熟視を通じて泉さんが体感したものは、在原業平の辞世の句が、読み人知らずの歌のように思えてきたことだと言う。そこで、泉さんの眼に現れてきたものは何か?
入田さんは問う。小林先生が言う、宣長の「物語の中に踏み込む、全く率直な態度」とは何か、さらには、そのような態度がなぜ大切なのか…… 続けて、思いを馳せる。言葉では直接には表現できない、「言葉の奥に潜むものに読者が感応する」ために必要な態度とは、私たちが、非言語芸術である音楽を愉しむ態度に重なるのではあるまいか……
溝口さんは、折口信夫氏が、面談の別れ際で小林先生に言った「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉に注目して自問自答を行った。しかし、そこから聞えて来たのは、小林先生の声である。「先を急ぐまい」、その言葉にしたがい、「源氏物語」の「帚木」を音読してみた…… 一定の時間をかけて、手順を踏まなければ感得できないものが、そこにはあった。
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石川則夫さんには、國學院大学大学院生の皆さんと松阪を訪問されたおりの、本居宣長記念館の吉田悦之館長との会話を発端とする「本居宣長の奥墓と山宮」という貴重な論考を寄せて頂いた。伊勢神宮の内宮は荒木田氏、外宮は渡会氏が世襲の宮司職であったが、その荒木田氏の墳墓の地、山宮跡に館長が行かれたのだという。石川さんは、「実に生々しい場所なんです」という館長の実感に、奥深い力を感じた…… 圧巻必読、興奮必至の「特別寄稿」である。
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北村豊さんによるエッセイは、「模倣」という方法論から始まる。本居宣長は、契沖を模倣した。契沖は、仙覚の方法を受け継いだ。北村さんは、直観で選んだ小林先生のCD講演録(新潮社)で、契沖研究の第一人者である久松潜一氏が、國學院大学で小林先生を講師として紹介する声を聴いた。はたして、そのCDの解説を書かれていた方は…… 無私なる模倣は奇縁を引き寄せる。
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本誌前号(2019年9・10月号)の当欄でもご案内した、杉本圭司さんの初めての著書『小林秀雄 最後の音楽会』の書評を、杉本さんの盟友でもある三浦武さんが寄せられた。三浦さんは、杉本さんに学んだ第一が「熟読」、すなわち「敬意と信頼によってのみ支えられる無私の行為」にあると言う。
年の瀬の慌ただしさにかまけて、我を見失いそうになる時季を迎えた今、三浦さんが引かれた小林秀雄先生のこの言葉を、一呼吸入れて、改めて噛みしめておきたい。
――批評は原文を熟読し沈黙するに極まる。
さて、来たる令和2(2020)年、2度目となる東京オリンピックの開幕を迎える。前回は昭和39年(1964)、その年に小林先生が書かれた「オリンピックのテレビ」という文章(『小林秀雄全作品』第25集)を、読み返してみたくなった。
読者のみなさま、よいお年をお迎えください。
(了)