ヴァイオリニストの系譜―パガニニの亡霊を追って

三浦 武

その七 収容所の音楽~シモン・ゴールドベルク

 

ベートーヴェンといえばわが国ではまず第九、その交響曲第九番作品125の日本初演は、1918年、板東俘虜収容所でのことだそうだ。日独戦で捕虜となったドイツ兵のうち約千人が収容されたこの徳島の収容所では、所長、松江豊寿陸軍中佐(のち大佐)のもと、いわば武士道精神に基づいた人道的な運営がなされていた。松江は下北半島斗南生まれの反骨の人である。斗南といえば、戊辰戦争で朝敵賊軍とされた会津藩士らが封ぜられたところ、松江の胸にはその先人の悲痛な記憶が刻まれていたことであろう。このドイツ兵たちもまた祖国のために戦ったのだ――戦争における敬意と尊厳、それが松江の反骨だ。もとよりそんなものは、今日の我々にはむろん、当時において既にお伽噺のようなものであっただろう。ともあれドイツ兵たちは、故郷を遠く離れた異国の地に、各自の技芸を揮って一つの豊かな共同体を築き、土地の日本人たちと交流しつつ、板東を、暫時の、もうひとつの故郷としたことであった。もとよりドイツ人である、生活に音楽は欠かせない。収容後まもなく心得のある者が集って幾つかの楽団が編成され、音楽会も定期的に開催されるようになる。そうして収容所に鳴り渡った音楽は、板東の民衆と松江とともにある、彼らの歓喜の歌であった。

それから二十年、第二次大戦の最中となると、もうそんなお伽噺は見つからない。たしかに、あのアウシュヴィッツの強制収容所でも、虜囚ユダヤ人の音楽活動が許容されることはあった。しかし、言うまでもないことだが、そこに牧歌的な雰囲気などは微塵も見出せないのだ。むしろ、民族殲滅の危機に晒されたユダヤ人らの、一人でも多く生き延びねばならないという、土壇場の、まことに切迫した現実がうかがわれるばかりである。

アルマ・ロゼというユダヤ人女性、彼女の母親はあのグスタフ・マーラーの妹、父親はルーマニア出身のヴァイオリニスト、アルノルト・ロゼである。アルノルトがアルマを伴い、伸張する第三帝国の強迫からロンドンへと逃れていったのは1938年のことだ。ところが、自身優れたヴァイオリニストであったアルマは、音楽活動を継続すべく大陸に戻って時機を見誤り、ゲシュタポに捕縛されるところとなってしまったのである。

ビルケナウの収容所にあっても、生来の音楽の使徒アルマは、女性囚人のオーケストラを組織して音楽活動を継続した。さすがは、ウィーン・フィルのコンサートマスターを57年にわたって務めた人の娘だ。その指導は厳格だったが、それはオーケストラの水準をごく高いものにしなければ「危険」だったからである。ナチスの「文化」政策の一翼を担うとみせて、団員たちの「存在理由」を確乎とし、「虐殺」の危機を遠ざけようとしたわけだ。

アルマは1944年、病に斃れるが、その名は、彼女の唯一のレコーディング、父アルノルトと演奏したバッハ作曲ドッペル・コンチェルトとともに不朽である。

 

シモン・ゴールドベルクが、楽旅の途上、それまでオランダ占領下にあったジャワ島で日本軍に捕えられ、その地の収容所に収監されたのは1942年のことである。楽旅とは言ったが、むろんロマンティックなものではない。彼はポーランド系ユダヤ人である。すなわち、ナチズムが台頭するなかでの、まことに不本意な流浪の生活だったのである。ジャワの先にはオーストラリアがありアメリカがあったはずだ。だが、妻のマリアとピアノのリリー・クラウスを伴ったその解放の旅は、開戦とともに東南アジアに侵攻した日本軍によって、突然、頓挫させられたのであった。

ところで、収容所においても、ゴールドベルクはなお上機嫌であった。おそらく彼には、不満というものがないのだ。かつてはあった他の可能性などという幻想を顧みない。与えられた今の現実を全てとし、受け入れ、その環境と条件の下で、能うかぎりの知恵を尽くして力を揮うのである。いささか唐突だけれど、私はふと「西遊記」の孫悟空とか三蔵法師を思ったりする。

凡そ対蹠的な此の二人(三蔵法師と孫悟空)の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺は気が付いた。それは、二人が其の生き方に於いて、共に、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。更には、その必然を自由と見做していることだ。金剛石と炭とは同じ物質から出来上っているそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方の甚だしい此の二人の生き方が、共に斯うした現実の受取り方の上に立っているのは面白い。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼等が天才であることの徴でなくて何であろうか?

(中島敦「悟浄歎異」)

三蔵法師には、所与の現実をそのまま肯ってたじろがぬ強靭さがある。悟空には、その現実に躊躇なく対処する身体的な実行家の楽観がある。その「天才」二人を前にして羨望し、実践的たり得ない我が身を顧みて落胆するインテリが沙悟浄なのだろう。俺は、事態を観念的に対象化し正確に分析して、それで済ましているだけではないのか。沙悟浄の歎きが聞こえてくるようである。そして私はシモン・ゴールドベルクという音楽家に、この二つの「天才」の高次の統合を見るのである。

シモン・ゴールドベルク8歳の写真がある。利発で明るい子供……そんな形容だけでは、その肖像が示唆する決定的な何かが抜け落ちてしまう。どこか無邪気でしかも神々しく、将来に輝かしい何かが約束されているような、ということは、もう何らかの使命を負っているといったような、そんな顔だ。彼はこの写真の貼られたパスポートを携えて家族に別れを告げ、ポーランドの故郷ヴォツワヴェックからベルリンへと旅立ったのであった。むろんヴァイオリニストとしての将来を嘱望されてのことである。それは、二十世紀にチェンバロを復活させた演奏家ワンダ・ランドフスカに見出されての首途であった。

ベルリンでは、稀代の名教師カール・フレッシュの門に入る。ゴールドベルクはもとより神童に違いなかっただろうが、フレッシュは神童とか天才という価値に懐疑的な人であった。それを認めないのではない。そんなものは、それだけでは若年期の栄光という、あまりに虚しい商品的性格に過ぎないというわけだ。幼いゴールドベルクはフレッシュの許で、妥協のない修行の日々を送ったことであろう。青年期を過ぎ、あからさまに色褪せていく天才ヴァイオリニストが少なくない中、彼は生涯を通じてその輝きを失わず、それどころかさらなる高みに昇りつめていくのだが、その根底には、この時期の徹底した基礎訓練があったものと思われる。

そしてさらに、オーケストラでの鍛錬。これもフレッシュの教育方針である。この頃、欧州の主要なオーケストラのコンサートマスターは悉くフレッシュ門下、ゴールドベルクもまもなく名門ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者エーリッヒ・クライバーの要請を受けて、その地位に就くことになる。そのとき16歳。前例のない若きコンサートマスターの誕生であった。しかし伝説はそこに止まらない。翌年にはベルリンのウィルヘルム・フルトヴェングラーの注目するところとなり、1929年、19歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターに就任するのである。これも史上最年少だ。最年少であることが強調されることの中には、彼がヴァイオリン奏者として史上稀な卓越を若くして示したというだけではない、別の意味がある。権威あるオーケストラの誇り高い音楽家達を統率するには、演奏家としての技量だけではなく、音楽そのものに対する深い教養と、団員に信頼に値すると思われるだけの高い人格、そういったものも求められるであろう。そしてこの青年にその資格があったということである。

さて、かく順風満帆とみえる船出だが、しかし時は1930年代、世界恐慌を端緒として、不穏な空気が色濃くなってくる。ソリストとして、あるいはパウル・ヒンデミット、エマヌエル・フォイアマンとの室内楽で、全欧にその存在が知られると同時に、ユダヤ人としてベルリンに居続けることの困難もいやまして来る。フルトヴェングラーはドイツ人として、その音楽的ナショナリズムの構築と存続を、最も若く最も優れたこのポーランド出身のヴァイオリニストに懸けていたから、ぎりぎりまで慰留に努めたようだが、1933年、ナチス独裁体制が確立し、ユダヤ人に対する弾圧が始まると、さすがにゴールドベルクのドイツ脱出の要望を受け入れざるを得なくなった。ゴールドベルクは、他の多くのユダヤ人音楽家と同様にロンドンに赴き、そこを出発点として、先述のトリオやリリー・クラウスとのデュオを主とする演奏活動を、ドイツ圏を除く全欧で展開し始めた。1936年には日本にも足を延ばした。それは一見すると、オーケストラの一員としての義務を解かれた彼の、待ち望まれた旺盛な音楽活動と見える。一応それはそうに違いないのだが、そこにはある事情が、ポーランド国籍の者は一つの国に3か月以上滞在できないという理不尽な制約が背景としてあった。すなわち強いられた彷徨でもあったのであって、彼は音楽のために割くべき時間の多くを、役所の待合室でヴィザの発給をただ待つことに費やさねばならなかったのである。それでもようやくオーストラリアを経由してアメリカ合衆国に移住する見通しがたち、オランダ領東インドへとやって来たのだが、折悪しく侵攻してきた日本軍に捕縛され、その後その地のヨーロッパ人らとともに、終戦まで3年におよぶ抑留生活を強いられることになる。

収容所にあっても彼は音楽活動を継続した。オーケストラも組織した。まずは楽器を搔き集める。ヴァイオリンが十数挺、しかしながら弦がない。ギターの弦があってそれで代替する。弓が足りない分は、ちょうどいい、ピツィカート専用だ。ピアノは半ば壊れていたが、それでも音の出る鍵はあった。さて次は楽譜だ。これは彼の頭の中にある。それを書き出せばいいのだけれど、さて紙は……収容者は入所時に書籍二冊の携帯を許可されていた。本には余白がある。そこを切り取って繋ぎ合わせればいいのだ。一冊また一冊と供出され積み上げられた本の余白を、皆で手分けして切り出し、大小の紙片を揃える。ゴールドベルクは苦笑した。彼は自分が持ち込む書籍の選択にあたって、読み飽きることがないであろう辞書を選んでいたのである。しまった。辞書の余白はあまりにも少ない……。ともあれそうやって仕上がった白紙に、これも密かに持ち込まれていた鉛筆の芯の提供を得て、彼はスコアを一曲書き上げたのであった。それは、少年の頃、カール・フレッシュ先生に叩きこまれたベートーヴェン、そのたった一つのヴァイオリン・コンチェルトであった。

此の男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。其の火は直ぐに傍にいる者に移る。彼の言葉を聞いている中に、自然に此方も彼の信ずる通りに信じないではいられなくなって来る。彼の側にいるだけで、此方までが何か豊かな自信に充ちて来る。

(「悟浄歎異」)

人々はゴールドベルクのストラディヴァリウスを連係して守り抜いた。監視がやや緩やかな女性の収容棟に移して赤ん坊の寝床の下に隠し、窓から外にそっと落として、収容を免除されていた近隣のスイス人の医師に託した。また強制労働に際しては、敬愛するヴァイオリニストの手を傷つけぬために、その仕事を皆で分担した。微笑を絶やさず、いつも今なし得ることを考え、身体を動かしている。それが多くの人々を惹きつけ、協調を産み、人間の豊かな共同性を育む。真の教養人の姿がそこにあった。人々はどんなにか愉しく幸福であったろう。生き生きと躍動する収容者たちの姿が髣髴としてくるようだ。

音楽は楽しむだけのものではなく、その存在が必然的な価値をもつものであり、さらに、人が最も過酷な現実に晒され生きることへの危機に直面した時、人間が人間として求める〈不可欠な何か〉であるのだ。

(シモン・ゴールドベルクの言葉)

この時のコンチェルトは、さてどんな演奏だったろう。絶対に再現されることのない、一回きりの、かけがえのない音楽。ゴールドベルクの音と音楽は、澄み切った漆黒の天上に、銀の線条をもって縁取られた、彗星の、あるいは無数の恒星の軌道である。今、ドイツ退去の年に録音されたドヴォルザークの小品(スラヴ舞曲ホ短調作品26の2、ピアノ伴奏アールパード・シャーンドル、1934年)と戦後まもなくロンドンで録音されたヘンデルのソナタ(第四番ニ長調作品1の13、ピアノ伴奏ジェラルド・ムーア、1947年)を蓄音機で聴いてそのことを確かめた。地上から垂直方向に延びていくようなその美しさは、ストラディヴァリウスを奏した青年期も、その後のグァルネリウスの時代においても変わらない、ゴールドベルクの音であるように思われる。大地から立ち上がった人間が、目下の現実を超えて広大な大地と宇宙を遠望しつつその永遠を瞑想したとき、彼は、自分と自分を含む人間という地上の存在の無常とそれゆえのかけがえのなさとに思い至った。その天と地を媒介するものとして音楽というものが生れたとすれば、ゴールドベルクの演奏は、まさにそのようなものだ。それは真の救済である。

やがて終戦。解放されてシンガポールに赴き、そこで妻に再会した。ストラディヴァリウスも戻って来た。このストラドはベルリン・フィルのコンサートマスターに就任した頃、その給料をはたいて月賦で購入したものだ。まだ勘定は済んでいなかったが、そんなものは大戦の混乱のなかで有耶無耶になっていたに違いない。しかし律義者のゴールドベルクは自ら楽器商に出かけて行ってその支払いを続けた。かくしてすべてはもとに戻ったか。むろんそんなことはない。故郷の家族は一人の兄を除いて皆帰らなかった。ホロコーストという宗教的な比喩で語られるが、そんなものではあるまい。単なる虐殺であろう。ジャワに抑留されたシモンと、シベリアの収容所に送られていた三番目の兄だけが生き延びたのであった。敬愛するフルトヴェングラーとも再会したが、マエストロが肩を抱いて「酷い目に遭ったなあ、お互いに」と言った、その「お互いに」という一言が引っかかった。

しかし、ゴールドベルクの音楽は変わらなかった。芸術は、状況に翻弄されないためにこそある。この大宇宙の隅っこで束の間の人生を生きる他ない人間の、その脆さと哀れさをよく知って、その悲劇性ゆえの貴さを嚙みしめながら、正しく美しいものを求め続けた無私の芸術家、それがシモン・ゴールドベルクなのだと思う。

80歳を前にして、パリ音楽院に学んだ邦人ピアニスト山根美代子と再婚し、最晩年は北陸の立山に住んだ。ゴールドベルクによると、これは日本による二度目の捕囚ということになるらしい。その頃の彼の風貌は、また一段と美しい。そしてその姿のまま、しかも現役のヴァイオリニストのまま、その地を第二の故郷として生涯を閉じたのである。墓所は護国寺、まことに質素清潔な墓であった。

(了)

 

注)シモン・ゴールドベルク(1909~1993)の伝記、逸話およびその言葉等については、ゴールドベルク山根美代子著『20世紀の巨人 シモン・ゴールドベルク』(幻戯書房2009年刊)を参照し、引用させていただいた。