姿は似せ難く、意は似せ易し

本田 正男

以前にも、ここに司法修習生の話を載せてもらったことがある。芸がないが、また修習生のことを書かせて欲しい。

 

司法試験は年に一度あり、毎年合格者が出るが、合格すれば、そのまま裁判官や検事、弁護士になれるわけではなく、その前に、法曹の卵として、1年間の司法修習義務が課されている。別の言い方をすれば、勉強だけしていればよいという、後になって思い起せば長い人生の中でもとても贅沢な時を過ごす。わたしも弁護士になる前、司法修習生として可愛がってもらった経験を持つ者の一人として(わたしの頃は、2年間もの長い間お給料やボーナスをもらっていた)、後輩にも、出来るだけ手厚くしたいと思い、そしてまた、出来るなら、希望や、そこまでいかなくとも、なにがしか愉しそうにやっているなぐらいの感覚は持ってもらいたいと思い、弁護士会から頼まれれば、もれなく修習生を預かってきた。

 

結果、わたしの預かった修習生は疾うに10名を超えた。しかし、修習生を数か月の間預かり、その間に出す課題の中で、未だどの修習生も正鵠を射ることのできない問いが一つある。その問いとは、「弁護士は言葉を使う職業で、かつ、その多くは、書面として提出され、人に読ませるものになるけれど、ぼくが書面を書くとき大切にしていることは何だと思うか。よく考えてみて欲しい」という問いである。この問いを最初に出しておいて、わたしが作業しているところを見せ、折に触れ、様々な書面を見てもらい、また、同じことを問う。しかし、今年預かった修習生に至るまで、誰一人として、思うような応答をくれた者はいない。

 

小林秀雄先生は、「本居宣長」の第二十五章に次のように書いている。

「『言のよさ』とは、『ものの理非を、かしこくいひまは』す『詞の巧』であり、『文辞の麗しさ』とは全く異なり、これと対立する。この対立を、彼は歌に於ける意と姿とも言っている。彼の歌論に、『姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ』」「という言葉がある」(「小林秀雄全作品」第27集285頁9行目)。ここで「彼」とは本居宣長その人である。

そして、「姿は似せ難く、意は似せ易しと言ったら、諸君は驚くであろう。何故なら、諸君は、むしろ意は似せ難く、姿は似せ易しと思い込んでいるからだ、先ずそういう含意が見える。人の言うことの意味を理解するのは必ずしも容易ではないが、意味もわからず口真似するのは、子供にでもできるではないか、諸君は、そう言いたいところだろう、言葉とは、ある意味を伝える為の符牒に過ぎないという俗見は、いかにも根強いのである」とする(同286頁13行目)。

 

先のわたしの問いに直截に答えるならば、わたしは、如何に美しい書面を作るかという一点に腐心しているのである。だが、これにどの修習生も答えられないことは小林先生の文章を引くまでもなく、容易に想像がつく。なぜなら、裁判官でも、相手方の弁護士でも、依頼者でも、他人を説得することを信条とする準備書面においては、その(法的な)論理や証明された事実こそが大切であることが大前提となっているからである。

こういう言い方をすると、仮にも法律の専門家と言われている人間が語る言葉だ、論理が整然としていることなど当り前ではないか、と言われそうだが、問題はその先にある、とわたしは言いたいのだ。小林先生は、先の引用文の後を「よく考えてみよ、例えば、ある歌が麗しいとは、歌の姿が麗しいと感ずる事ではないか。そこでは、麗しいとはっきり感知出来る姿を、言葉が作り上げている。それなら、言葉は、実体でないが、単なる符牒とも言えまい。言葉が作り上げる姿とは、肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない」と続けている。

 

弁護士でも、学者でも、新聞記者でも、文章を推敲するのにメールを書くようにエディタ上で行う人がいるが、わたしには真似ができない。わたしは、書面を作るとき、フォントは勿論、行間隔、カーニングや行送りの位置、図表や写真など挿入されるサブジェクトの位置や文字の廻り込み方などにも徹底して拘るので、印刷された状態の書面と同一のものが画面上にないとそもそも書くという行為ができない。そして、いつも不思議に思うのは、たとえば、句読点の位置一つをとっても、言葉が整っていくと、書面も比例して整い、たとえ何十頁というようなわたしが書くにしては比較的長い書面であっても、そこには全体として美しさが宿ってくるのを感じることである。

 

そして、文章が徐々に整ってくると、次は音読もしてみることになる。語呂や拍にも気を遣うからである。

 

小林先生は、「本居宣長」の第四十八章で、「言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生まれた、という事、言葉の意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮していたという、全く簡明な事実に」宣長は「改めて、注意を促したのだ。情の動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微秒なもので、話す当人の手にも負えぬ、少くとも思い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような、『たましひ』を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである」とする(同28集171頁終わりから4行目~)。

小林先生は、さらに続け、「言伝えの遺産の上に、文字の道が開かれることになったのだが、これは、言霊の働きを大きく制限しないでは行われはしなかった」「上古の人々は、思うところを、われしらず口にするという自然な行為によって,言葉の意味を、全身を以って、感じとっていた筈だから、其処に、言葉の定義を介入させる為には、話し方と話の内容とを、無理にも引き裂かなければならなかったであろう。動く話し方の方を引離して、これを無視すれば、後には、動かぬ内容が残り、定義を待つ事になっただろう」(同172頁7行目)と、話し言葉と書き言葉を対比している。

 

依頼者を法廷に同行すると、決まって言われることの一つが、実際の法廷でのやり取りは実にあっさりした、味気のないものなんですねという感想である。たしかに、法文には、「口頭弁論」期日と書いてあるものの、今日の法廷では、裁判官は、「書面のとおり、陳述されますね」とだけ発し、弁護士も、ただ「はい。陳述します」と一言言うために法廷まで足を運ぶことがごくありふれた光景となっている。お恥ずかしい話だが、それほど口頭で弁ずることは退化してしまっている。

だから、わたしは、ここで、自分の書いた書面ばかりが、「古事記」のように、話し言葉の息遣いまで体現できているなどと尊大なことを言うつもりは毛頭ないが、真実により近づくため、(たとえ、論理や証拠に違いはなかったとしても)わたしは、「『ものの理非を、かしこくいひまは』す『詞の巧』」、すなわち「言葉の意」にとどまらず、歌人が生み出す「文辞の麗しさ」、すなわち「言葉の姿」までを希求し、法廷に臨んでいるということが言いたいのである。言葉が作り上げる姿は、「肉眼に見える姿ではないが、心にはまざまざと映ずる像には違いない」と小林先生の言われる「心に映ずる像」、わたしはやはり、それが裁判官の心にもまざまざと映ずることを願っているのである。自分の声が壁にあたって跳ね返ってくるような法廷で、そんな努力をしてどれほどの意味があるかは知らない。ただ、裁判官も人間で、そこにココロがあるなら、データに準拠してAIが下す判断などとは異なる何がしかの動きがあるのではないか。わたしの肉声に宿るものから物事の真実の意味が聴き取られるのではないか、古代人同士がそうであったように……。

何よりも、もし、言葉が単なる符牒に止まるなら、誰が指揮台に立っても同じ音を出すオーケストラのようであるだろう、だとすれば、わたしの書く書面も、わたしが書く必要はない。それでは、わたしは、わたしを信頼し、抜き差しのならぬ人生の問題に押しひしがれてわたしの目の前にいる人に手を差しのべることはできないことになってしまう。

 

以上のこと、どの修習生に種明かしをしても、みなキョトンとしている。そんなことが何か大切なことなんですかという顔をしている。わたしの出した問いに答えることは、司法修習生という練習試合しか許されない身分の彼女や彼に対する要望としては、無い物ねだりなのかも知れない。でも、いつか、切るか切られるかという本物の法廷で、気づく日が来て欲しい。オーケストラは、立つ指揮者によって、そのつど異なる響きを奏でることに……。

(了)