ある友の死

越尾 淳

9月に入り、昼間はムッとする暑さに閉口しながらも、朝夕の風に秋の気配を感じるようになった頃、1通の訃報が職場に届いた。ある経済官庁に勤務する同期のI君の死を知らせるものだった。享年47だった。

 

今から20年前、私は初めての係長としてその経済官庁に出向し、これまた初めてとなる法律を作るという仕事をした。「法律を作る」と書いたが、これはやや正確を欠いた表現で、①Aという法律を廃止する、②B~Dという法律を改正する、③A~Dの影響を受け、これらを引用していることで条文番号がズレたりする多数の法律を改正する(霞が関用語で「ハネ改正」と呼ばれるものだ)という内容を1本の法律にまとめる作業に従事した。

この作業は中央省庁に勤務する官僚には避けては通れないものだが、何度やっても慣れない、本当に大変なものだ(付け加えれば、退職までにもう経験したくない)。国会審議に対応することの大変さもあるが、何と言っても大変なのは内閣法制局での条文審査である。

有効な現行法は約2,000本あると言われるが、こうした法体系と矛盾するような法律ができてしまえば、日本社会のみならず、場合によっては世界的に悪影響を与えることにもなりかねない。このため、中央省庁(内閣)が国会へ提出する法律案については、内閣の一組織である内閣法制局の条文審査を受ける必要がある。

具体的には、立法者が意図している内容が適切に条文として表現されているか、使われている用語の意味やそれらの用語から構成されている条文案が既存の法体系と矛盾していないか、などということを一言一句審査されるのである。

また、当時も法律の条文を検索するコンピュータシステムはあったのだが、中央省庁内の閉じたネットワークだけで使えるシステムで、しかも掲載している条文に時々誤りがあるということで、そのままでは条文審査に使えなかった。このため、業界用語的に「黒本」と呼ばれる某出版社の手になる正確な条文が掲載された法律集から必要な条文をコピーし、切り貼りし、過去のこの法律と今回の法律で同じ意図で条文を書き表したいので、過去のこの法律と同じ表現を用います、という「用例集」を作成する必要があった。全体では電話帳くらいの厚さにもなる用例集を人力で作成することは大変な手間であった。

 

こうした内閣法制局に対する作業を総括していたのが、その経済官庁で採用されていた私と同期のI君であった。一連の作業を開始するに当たって、I君と私のいる法案チームで顔合わせをしたのだが、採用後に行われた全省庁合同の研修で一緒になった縁で面識があったこともあり、こちらとしてはある種の気安さと安心感を持っていた。

しかし、そうした私の淡い期待はあっという間に打ち砕かれた。

「説明がまったく論理的ではない」

「意図していることと条文に書かれている内容が合致していない」

「前例としている条文の意味を取り違えており、今回の条文案の前例となっていない」

などと容赦ない指摘を浴びて悶絶し、I君に出された宿題を返すためにタクシー帰りとなることもしばしばであった。正直、「この野郎!」と思うこともあった。

しかしながら、内閣法制局における条文審査にも同行したI君は、我々法案チーム以上に理路整然と、そして熱意のある説明を行い、スムーズな改正作業に大きく貢献してくれた。そんな彼は、自分の役割として当然のことをしたまでという感じで、私や他のチームメンバーがお礼を述べても表情も変えず、特に気にもしない風であった。私はとても同期とは思えない彼の優秀さと落ち着いた物腰、泰然とした態度にいつしか畏敬の念を持つようになっていた。

I君の活躍もあり、無事に法案は法律として国会で成立し、私も親元の役所に戻った。それ以来、仕事上の接点がなく、省庁横断の同期会にもなかなか顔を出せずじまいではあったのだが、彼が国会対応の管理職や中国の専門家として活躍していることは風の噂に聞いており、仕事ぶりの幅の広さに「やはり彼は違うな」との思いを持っていた。そんな矢先の突然の訃報だった。なんでも、昨年秋にガンであることが赴任先の中国で分かり、帰国して療養していたのだという。

 

I君の死を聞き、ここまで書いてきたことが瞬間的に思い出された。いや、脳内に噴き出てきたという方が正確かもしれない。そんな心の動きを感じたのは久しぶりだった。それだけ悲しみが深かった、大きく心が揺り動かされたのかもしれない。

 

小林秀雄先生は『本居宣長』の第十四章で、「明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない。両者の分化は、認識の発達を語っているかも知れないが、発達した認識を尺度として、両者のけじめをわきまえぬ子供の認識を笑う事は出来まい。子供らしい認識を忘れて、大人びた認識を得たところで何も自慢になるわけではない」としている(小林秀雄全作品27集151頁14行目から19行目)。

 

私はここを読んでハッとした。宣長さんは、「あはれ」を論じるとき、悲しみを代表的なものだとはしていなかったが、今回I君の死を知った時、まさに知ると感じることが同じであるような全的な認識を自分ごととして経験したのである。

 

人は誰でも子供の頃には、知ると感じるということが分化をしない、心という完全な認識器官の働きの下に生きることができている。しかし、年を取り、大人になるにつれて段々と「感じる」よりも「知る」という方がより前面に出てきてしまうものだ。それが「大人になる」ということかもしれない。

 

小林先生は続ける。「心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれてウゴく、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わずに保持して行く事が難かしいというところにある」(同27集152頁4行目から8行目)

 

日々の生活は慌ただしい、仕事のこと、家族のこと、お金のこと、病気のことなど、いろいろなことを考えなければ生活はできない。それは、学問と同様、真剣に医業を営んでいた宣長さんも同じだったかもしれない。「あはれ」とは、嬉し悲しと定まりがたい心の動きであり、何かと忙しい日々の生活の中で、心を十全に動かして「あはれ」と正面から向き合うということは宣長さんでも困難だったかもしれない。

 

しかし、宣長さんは「あはれ」をつかみ直す手がかりを得た。それは『源氏物語』との出会いである。歌や物語の表現という具体的な姿を通じて、人は「あはれ」をつかみ直すことができる。日々の生活の中で、バラバラと現れて、消えてしまう「あはれ」ではなく、物語という一筋の脈略の中で人が「あはれ」をはっきりとつかみ直すことができる、物語の力を『源氏』から宣長さんは明確に受け取ったのだ。

 

「彼の『情』についての思索は、歌や物語のうちから『あはれ』という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の『情』と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった」(同27集162頁8行目から12行目)と小林先生は述べている。

 

そして、宣長さんは、「自分の不安定な『情』のうちに動揺したり、人々の言動から、人の『情』の不安定を推知したりしている普通の世界の他に、『人の情のあるやう』を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示された」(同27集163頁1行目から4行目)という、『源氏』の持つ「あはれ」を尽くした、表現の行き届いた、「めでたさ」に打たれたのだ。

 

大事な友人の死でも、結婚した喜びでも、その時にはこれ以上ないというくらいの心の振幅があって、心に深く刻みこまれたつもりでも、日々の暮らしの中で意外に、薄情なくらいあっけないほど薄れたり、忘れたりしてしまう。

だが、『源氏』は人々にまざまざと情のありようを知らしめる、めでたき器物である。書かれている物語は「そらごと」かもしれないが、その物語を受け取った人に生じる情の動きは「まこと」なのだ。

 

人は忘れるから生きていけるとも言われる。実際、楽しいことと悲しいことを数え上げれば、後者の方が多いかもしれない。だから、忘れるから生きていけるということもあるだろう。しかし、人は『源氏』のような無二の、無上のめでたき器物と交わることで、喜怒哀楽、様々な情の動きが心の中に湧き上がってくる。と同時に、それぞれの人に固有の感情に結びついた思い出も湧き上がってくるはずだ。そういう心の動きの中に、もう今は会えない人々にも会うことができるだろう。そして、また私はI君に出会うこともできるように思う。

(了)