「知ると感ずるとが同じであるような」

渋谷 遼典

『本居宣長』十四章で、小林秀雄は、宣長が「物のあはれ」という言葉をどのように読み、どのように使っていたか、その具体的な現場に読者を誘う。

「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上私淑言」巻一)

「哀」の字を当てられ、特に悲哀の意に使われるようになったのは、「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)だという。人の「情」は、生活がなに不自由なく順調に流れているときには行為のうちに解消されていくもので、「感ずること深から」ざるものだが、たとえば恋愛をして、肝腎な所で思い通りにならない他者に出逢ったり、離別の苦しみにぶつかると、「心は心を見るように促される。心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう」。「逢みての後のこころにくらぶればむかしはものをおもはざりけり」、という古い歌は、決して古びない人の情のありさまを見事に言い表している。

 

「宣長は、『あはれ、あはれ』で暮した歌人ではなく、『あはれといふ物』を考え詰めた学者である。(…)理を怖れ、情に逃げた人ではない。彼は、もうこの先きは考えられぬという処まで、徹底的に考える事の出来た強い知性の持主であった」(「考えるという事」小林秀雄全作品24所収)。宣長は、「あはれ」という言葉の用例を吟味しながら、あはれの情趣ではなく、そこに浮び上がる人の情のウゴきや発生をありのままに捉えようとした。「彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった」。宣長ははっきり書いている。「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)読む人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」(「紫文要領」巻下)。

 

それでは、「もののあはれを」という言葉を宣長はどのように記しているのか。

「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上)。

この引用に続けて、小林秀雄はこう書いている。「説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは、難かしくはあるまい。明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない」。

宣長の文を一見すれば、たしかに「あじは」う、「わきまへしる」といった言葉を挟みつつ、「しる」と「感ずる」が錯綜し、混同されて用いられているように見える。例えば「紫文要領」には、他にも「知る」と「感じる」がそれぞれの文脈に応じて同じ意味合いで使われているような箇所が散見される。しかし宣長の文章の含みを、五官を働かせ、迎えに行くように読む小林秀雄は、それを混同とは読まず、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」に結ぶ。概念の上での混同などよりも、二つのコトが具体的に働いている場で何が起きているのかを捉えることが肝要なのだ。宣長の文から「全的な認識」を摑み出す過程には読みの飛躍があるが、小林秀雄は決して外部から何かを持ち込もうとしているのではない。むしろ宣長の、あるいは自分自身の内側に潜り込んで、人の情のありよう、つくられかた(『本居宣長』では「人性の基本的構造」とも呼ばれている)の原初に遡って考えようとする態度がある。―――しかし、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」とは、いったいどのような認識を現しているのだろうか。

 

小林秀雄はすぐにそれを、「知る」と「感じる」が分かれる以前の「子供の認識」と言い換え、知ると感じるとが一体となって働く子供らしい認識を忘れた「大人びた認識」と較べている(「子供の認識」については池田塾頭の本誌連載第七回で精しく吟味されている)。さらに「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」とも呼んでいる。

「よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれてウゴく、事に直接に、親密にウゴく、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損なわず保持して行くことが難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、『物のあはれを知る』という『道』なのである」(*)

「全的な認識力」の内実は、『宣長』本文でこれ以上詳述されることはない。感受と判断が一体となっているような認識は、そもそも本性上、言葉による分析に適さない。敢えて書こうとすれば、たとえば「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」(「感想」全作品別巻1所収)と「童話」を書くことになるだろうし、説明しようとすれば曖昧なものにならざるを得ない。しかし、言語化の困難は人間の経験の根柢にこのような認識が働いているということを決して否定しない。「無私で自足した基本的な経験」を保持していくのが難しいのは、生活の必要から、また事物の反省的判断によって、僕らは普段みずからの経験を「合理的経験」にすり替えてしまうからだ。万人と同じように知って整理できるような経験ばかりを僕らはしてはいないが、習い覚えた知識や習慣によって、経験をある鋳型に当て嵌めて整えてしまう。そういう分別を超えたところで、宣長は人の情のありようを考えている。「よろづの事にふれて、ウゴく人のココロ」を、宣長はやすらかに眺めたのだが、現代に生きる我々にはなかなかそれが見えない。物語を夢中になって愛読する玉鬘の心を忘れず、あやしさを恐れず神話に向かう宣長の心底に、常にこのような「ココロ」が躍動している様を、小林秀雄はありありと観ていたのではないだろうか。

 

宣長は、俊成の和歌や「源氏物語」に結晶された、表現としての「あはれ」の吟味を通じて、「情」について考えた。いつも曖昧で、不安定に動いている情のありようを、しかし表現の「めでたさ」によってまざまざと直知できる仕方で彼に示したのは、歌や物語だった。

「宣長が、『情』と書き『こころ』と読ませる時、『心性』のうちの一領域としての『情』が考えられていたわけではない。彼の『情』についての思索は、歌や物語のうちから『あはれ』という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の『ココロ』と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった。これは、何度でも考え直していい事なのである」(十五章)。情は生活の中に解消されない感慨として欲から離れ、自主的な意識の世界を形成する。事にふれ、情が深く感いたとき、認識はさらに深まり、深まった認識はさらに深い感動をもたらす。そうした喜びはおのずから表現へと向かう。表現としてかたちを与えられてはじめて、情は眼前に明瞭な「姿」として現れてくる。「情」は「とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがた」きものだが、表現として結晶した「情」は、決して曖昧なものではない。「源氏」という虚構の物語の表現の「めでたさ」が、日常生活では不安定なものとして常に揺れ動いている「情」のありようを、読むものに一挙に、まざまざと示すということがある。「彼(宣長)は、啓示されたがままに、これに逆らわず、極めて自然に考えたのである。即ち、『物語』を『そらごと』と断ずる、不毛な考え方を、遅疑なく捨てて、『人の情のあるやう』が、直かに心眼に映じて来る道が、所謂『そらごと』によって、現に開かれているとは何故か、という、豊かな考え方を取り上げた」(十五章)。

宣長の「もののあはれを知る」についての説を、具体的な表現を離れて、抽象的な理屈として解けると考えるのは間違いである。実際、小林秀雄も「欲」と「情」、「まめなる」と「あだなる」といった表現を対照させつつ、宣長の言葉から注意深く離れないように、なだらかに筆を進めている。これは、「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」(二章)という言葉が語っている通り、『本居宣長』全体を貫く記述のスタイルであり、読者はこの思索の流れに添って読み進めることではじめて、平易なだけに含みが多い宣長の文章にじっくり向き合い、単なる学説やその解釈の集積としてではなく、一つの有機的な、また融通無碍な精神の像として宣長と交わることができる。また、それはひたすら原文に即してその意を明らめようとする宣長自身の学問の在りようにも叶う態度である。

しかし、今回は「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」という、『本居宣長』本文では決して論としては書かれていない片言にこだわって自問自答を行なった。それは、宣長の言葉遣いから「全的な認識」を摑みだす小林秀雄の手つきには、『本居宣長』を読み進める上で、また『本居宣長』の紙背で働いている小林秀雄の後年の考えを窺う上で、重要な態度が現れていると思われるからだ。この考えを十分に論ずる紙幅も準備もいまはないが、宣長が「経験は理にさきんずる事を確信した思想家であって、この事は、彼の思想を理解する上で、極めて大切な事だ」(「本居宣長-『物のあはれ』の説について」全作品23所収)と小林秀雄が書くとき、「経験」という言葉の射程は一般に考えるよりも遙かに深く広い、という事は言える。

「科学的経験」に置き換えられる以前の、「日常尋常な経験」を切り捨てずに考えること。神話であれ歴史であれ、人間が物語ってきたあらゆることどもの根柢に、そのような経験から育った「素朴な認識力としての想像力」が働いているのを忘れないこと。柳田国男の布川での「異常心理」を語る言葉を取り上げて、「ここには、自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度が現れている。自分の経験した異常な直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です」(「信ずることと知ること」全作品26所収)と語るとき、「科学以前」を生きる山人や古代人の経験や語りを重んずる二人の先人の姿は、小林秀雄の裡で確かに共鳴していたように見える。

 

 

(*)「事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働き」や、「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」といった言葉遣いから、自ずから思い出されたベルクソンの文章を、『本居宣長』を共に読む読者の参考に供しておきたい。小林秀雄は、『本居宣長』本文の中では一言もベルクソンに言及していないが、「哲学者の全集を読んだのはベルグソンだけ」(「人間の建設」全作品25所収)と語られ、また「感想」(『本居宣長』連載の二年前まで五年に亘って書き継がれ、中絶した)の連載を通じて、改めて肉体化されたベルクソンの思想は、彼が「人性の基本構造」を考えるとき常にその骨法を成しているように見える。次に引用するのは、ベルクソンが自ら「私が哲学者に推奨すべきものと信ずる方法」について述べた論文と講演を集めた、と語る『思想と動くもの』に収載された、「Introduction à la métaphysique(形而上学入門)」の冒頭部分である(岩波文庫の河野與一訳を参照した)。

 

「哲学の定義と絶対の意味をそれぞれ比較すると、哲学者のあいだに、一見相違があるにもかかわらず、物を知るのに非常に違った二つの見方を区別する点ではぴったり合っていることに気がつく。第一の知り方はその物のまわりを回ることであり、第二の知り方はその物のなかに入ることである。第一の知り方は人の立つ視点と表現の際に使う記号に依存する。第二の知り方は視点には関わりなく記号にも依らない。第一の認識は相対にとどまり、第二の認識はそれが可能な場合は絶対に到達すると言える。

たとえば空間のなかに一つの物質が運動しているとする。私はその運動を眺める視点が動いているか動いていないかによって別々の知覚をもつ。私がその運動を関係づける座標や基準点の系に従って、すなわち私がその運動を飜訳するのに使う記号に従って、違う言い方をする。この二つの理由から、私はこの運動を相対的と名づける。前の場合も後の場合も私はその物の外に身を置いている。ところが絶対運動という時には、私はその運動体に内面的なところ、いわば気分を認め、私はその気分に同感し想像の力でその気分のなかに入りこむのである。その場合、その物体が動いているか動いていないか、動く場合はどのように動くかによって、私の感じは違ってくる。私の感ずることは、私がその物体のなかにいるのであるからそれに対してとる視点には依存しないし、元のものを把握するためにあらゆる飜訳を断念しているのであるから飜訳に使う記号にも依存しない。つまりその運動は外から、いわば私の方からではなく、内から、運動のなかで、そのまま捉えるのである。そうすれば私は絶対を捉えたことになる。

また、小説の登場人物がいて、人が私に彼のおこなう情事について語るとしよう。小説家は好きなだけその特徴の数をふやし、その主人公にものを言わせたり行動させたりすることができる。しかし、そうしてみても、私が一瞬間その人物と一致する際に感ずる単純で不可分な意識には匹敵しない。その際、泉から流れるように行動も身ぶりも言葉も自然に流れてくるように思われよう。それはもはやその人物について私がもっている観念に付けくわわって、どこまでもその観念を豊富にしながら、しかも結局それを充たすところまでいかないような属性というものではなくなる。人物はいっぺんに全体として与えられ、それを明らかにしていく無数の事件は、その観念に付けくわわってそれを豊富にしていくのではなく、逆にその観念から汲み上げられながら、しかもその本質を汲みつくしたり貧しくしたりすることがないように思われる。その人物について人が私に語るすべての事は、人物に対する視点を供給する。その人物の描写に使われるすべての特徴は、私がすでに知っている人や物との比較によってしか私にそれを知らせることはできないから、多かれ少なかれ記号的に表すための符号シーニュにすぎない。してみると、記号や視点は私を人物の外に置き、その人物について、ほかの人物との共通な点、その人物に固有に属していない点を与えるのである。ところがその人物の固有な点、その本質を成している点は、定義上内的なものであるから外から認めることはできないし、ほかのすべてのものと共通な尺度がないから、記号によって言い表すことができない。描写、記述、分析によるかぎり、私はここで相対のうちにとどまる。ただ人物そのものとの一致が私に絶対を与える。

(中略)

その結果、絶対はのうちにしか与えられず、ほかのすべてはの領分に入ることになる。私がここで直観と呼ぶのは、対象の内部に身を移すためののことで、それによってわれわれはその物の独特な、したがって表現のできないところと一致するのである。ところが、分析というはたらきは、対象を既知の、すなわちその対象とほかの物とに共通な要素に帰するものである。つまり分析とは一つの物をその物でないものと照らし合わせて表現することになる。してみると、分析は飜訳、記号による説明、次々にとった視点からする表現であって、それらの視点から今研究している新しい対象とすでに知っているつもりのほかの対象との接触を記述するのである。分析は、そのまわりを回っているほか仕方がない対象を抱きしめようとして永遠に満たされない欲求をもちながら、いつまでも不十分な表現を十分にするために限りなく視点の数をふやし、いつまでも不完全な飜訳を完全な飜訳にするためにさまざまな記号を使っていく。そこで分析は無限に続く。しかし直観は、もしも可能だとすれば、単純な行為である」。

徂徠から宣長へ受け継がれていく「物」の学問について書かれた『本居宣長』33章(小林秀雄全作品28集)の次の文章を併せて見ておきたい。「物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ。理を以てする教えとなると、その理解は、物と共感し一致する確実性には、到底達し得ない。物の周りを取りかこむ観察の観点を、どんなに増やしても、従ってこれに因る分析的な記述的な言語が、どんなに精しくなっても、習熟の末、おのずから自得する者の安心は得られない」。「情」や「物」をめぐる小林秀雄の思索の要には、単なる学説の引き写しなどではなく、真に肉体化され、応用されているベルクソンの態度がある。『本居宣長』を書き終えたあと、江藤淳との対談(「『本居宣長』をめぐって」全作品28集所収)でやや唐突に語られた宣長とベルクソンの「本質的なアナロジー」を解く鍵が、恐らくここに秘められている。

 

(了)