二十六 言は道を載せて
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さて、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」である。
「職トシテ」は、主として、だが、この「世ハ言ヲ載セテ……」は、荻生徂徠の学問論であり、中国古典の研究心得とも言える著作『学則』の中に見え、小林氏の文脈では第十章の次の一節を承けて引かれている。
――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「住家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
ではなぜ徂徠は、「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言ったのか、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷」るからである。小林氏は、第十章でこう言っている。
――「世ハ言ヲ載セテ」とは、世という実在には、いつも言葉という符丁が貼られているという意味ではない。徂徠に言わせれば、「辞ハ事ト嫺フ」(「答屈景山書」)、言は世という事と習い熟している。……
言葉というものは、その言葉が用いられた時代と一体である、相即不離であると徂徠は言っている……、と小林氏は言うのである。これを目にして私は、氏が第六章で、契沖の明眼との関わりで言っていた、
――「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す……
という件の古言と古意、雅言と雅意をおのずと思い合せたが、徂徠がこう言っていると小林氏に言われ、そういう意識をしっかり持って顧みれば、なるほど「今言ヲ以テ古言ヲ視」ては誤る。身近なところでは「本居宣長」のなかでも言われている「あはれ」である。「近言」の「あわれ」は悲哀を言う言葉だが、「古言」では歓喜にも感興にも言われ、強く心に迫ってくる物事の万般に対して言われた。その「あはれ」という「言」を載せて「世」は遷った、「世」が遷ったために「あはれ」という「言」も遷った。
と、こういう卑近な話にすると、そんなこと、わざわざ徂徠を持ち出してきて言われなくてもわかっています、「言」は「世」に載って遷ります、だから古語辞典というものがあるのでしょうと、小林氏に食ってかかりそうになっている現代人の物知り顔も目に浮かぶ。だが、氏がいまも生きていたら、ただちに言うだろう、それがわかっているなら、「源氏物語」を現代語訳で読んですますなどという手抜きは止したまえ、「源氏物語」にかぎらず古典の現代語訳こそは「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」行為そのものなのだ、さらに言うなら、古語辞典というもの自体が「今言ヲ以テ古言ヲ視」させている、古語辞典のおかげで古言はますます視えなくなっている……。では、どうすればよいか。今日の私たちにはとても無理だが、古文を古文のままに何度も熟読する、古語を用いて擬古文の実作に励む、それが要諦だと徂徠は古文辞復興の大先達、李攀竜、王世貞を通じて学び、実行した。
徂徠は、それほどまでの古文辞習練を積んで、「世ハ言ヲ載セテ以テ遷リ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レ由ル」と言ったのである。したがって、徂徠の言う「遷ル」は、古語辞典を引いて間に合うような語意の変容だけではない。言葉によって捉えられ、言葉という鏡に映し出された時代時代の人生観、価値観、そういうものも「言」に載って「遷ル」のである。
ちなみに、「もののあはれを知る」という言葉の用例として残っている最古の文章は紀貫之の「土佐日記」だが、平安時代、「もののあはれ」は専ら歌人の用語であった、しかし、江戸時代になると、一般庶民の日常生活の場でふつうに使われていた、それを第六回「もののあはれを知る」で見た。
――新潮日本古典集成『本居宣長集』の校注者日野龍夫氏は、「解説」で次のように言っている。「物のあわれを知る」という言葉は、江戸時代人の言語生活の中ではごくありふれた言葉であった、したがって、その言葉によって表される思想も、江戸時代人の生活意識の中ではごくありふれた思想であった、通俗文学の中でも最も通俗的な為永春水の人情本に、「物のあはれを知る」ないし「あはれを知る」という言葉がしばしば出てくるほどである……。
さらに、
――時は江戸となり、貴族であった俊成の歌が、近松門左衛門や浮世草子といった大衆相手の作品世界に取り込まれ、「もののあはれを知る」は地下の娯楽のなかでもてはやされるようになった。『日本古典文学大辞典』には、この時代、「もののあはれ」は浄瑠璃や小説類でも用いられ、そこでは日常生活で求められる他人への心づかいや同情心を意味することが多かった、とある。……
「世は言を載せて遷る」とは、たとえばこういうことを言っているのである。小林氏は徂徠の意を汲み、今は過ぎ去って見えない世を知ろうとすれば、手がかりは過去の人間たちの生活の跡だ、そういう手がかりのうちでも最たるものは言葉である、と受け、したがって、
――歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。……
と言うのである。
そういう「昔の言葉」のなかに、「道」という言葉がある。「道そのもの」は「道」という言葉に載っており、「道」という言葉は「世」に載って遷る。「世」が遷れば人の生き方や生活の意味合も変化する、それによって「道」という「言」に載った「道そのもの」のありようははっきりとは見て取れなくなり、人間いかに生きるべきかという問いが浮んでもおいそれとは答えられなくなった。昔は即答できたのだ、「道」がはっきり見えていたからだ。それができなくなった、「道」とは何かが明らかでなくなった。
しかし、「道そのもの」は今なお健在である。なぜなら「道そのもの」と一体の「道」という言葉は「言」に載って遷ったからである。つまり、「道」という言葉に載って、現代まで運ばれてきているからである。「道」という言葉の意味は判じにくくなったが、だからと言って「道そのもの」が消滅したわけではない、遠い昔の遺物となってしまったわけでもない。厳然と今に遷ってきている。「道そのもの」は、古今を貫透するのである。徂徠は「言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」を、「道ノ明カナラザル」現況の最大要因として言っていると思われるのだが、小林氏は、そこを一気に、「道そのもの」は「道」という「言」に載って「古今ヲ貫透スル」と読む。それは徂徠が、「徂徠先生答問書」で、
――古の聖人之智は、古今を貫透して、今日様々の弊迄明に御覧候。古聖人之教は、古今を貫透して、其教之利益、上古も末代も聊之替目無之候。左無御座候而は、聖人とは不被申事ニ候」……
と言っているからであり、
――徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す「経学」と、変るものに向う「史学」との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている。……
からである。
2
では、「古今ヲ貫透スル道」とは何か、どういうものか。小林氏は、第三十二章で次のように言う。
――「道」という古言は、古註には「道ハ礼楽ヲ謂フ」とある通り、はっきりと古聖人の遺した、具体的な治績を指した言葉であって、これを離れて、別に道というようなものはなかったのである。……
すなわち、「先王の道」である。試みにぺりかん社の『日本思想史辞典』を開いてみると、こう言われている。
――徂徠の言う「道」とは、孔子が学んだところの「先王の道」であり、燦然と完備した「礼楽」に象徴される先王の制作にかかるもの一般であり、それによって人間社会が理想的に存立せしめられたところの文化の体系である。徂徠は、孔子がこの「先王の道」を論定する場面に立ち会うことによって(「論語徴」)、また、先王によってそれが制作されることで人間社会が理想的に存立してきた原初の場面にまで立ち返ることによって(「弁道」「弁名」)、先王の古代の「文」なるありさまを描き出していくのである。……
「文」は「道」の古い言い方で、「『文』なる」は後に出る「礼楽」の行きわたった、というほどの意のようだが、そういう眼を借りて『学則』を見渡せば、徂徠の頭にあった「道」はたしかに「先王の道」なのである。
たとえば『学則』で、徂徠は次のように言っている。
――それ六経は物なり。道具にここに存す。……
「六経」は、儒学の根幹とされている六種の経書(中国古代の聖賢の教えを記した書物)で『書経』『易経』『詩経』『春秋』『礼記』『楽記』を言うが、「道」はこれらに精しく記されていると徂徠は言うのである。
『学則』は享保二年(一七一七)、徂徠五十二歳の年に書かれたと見られているが、徂徠の主著『弁道』『弁名』もこの頃に成っており、『学則』はこの二著と並行して書かれたと思われる。現に、「道」というものを弁別する、識別するという意味の書『弁道』にも、
――後世の人は古文辞を識らず。故に近言を以て古言を視る。聖人の道の明らかならざるは、職としてこれにこれ由る。……
と、『学則』とほぼ同じ文言を記し、しかも、古文辞を知らずに今言を以て古言を視たため「道」を誤解したり不分明にしてしまったりした実例をいくつか挙げてこれらを正している。ここから推しても『学則』で言う「道」は「先王の道」と解し得るのである。
では「先王の道」とは、どういうものか。『弁道』では、こう言っている。
――孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安んずるの道なり。孔子は、平生、東周をなさんと欲す。(中略)そのつひに位を得ざるに及んで、しかるのち六経を脩めて以てこれを伝ふ。六経はすなはち先王の道なり。……
「先王」は、遠い昔の徳の高い王の意であるが、具体的には古代中国に出現した七人の統治者、古伝説上の堯、舜に始り、夏王朝の創始者禹、殷王朝の創始者湯、周王朝の創始者文王、武王、周公である。
「孔子は、平生、東周をなさんと欲す」は、孔子が周に倣って自分の生国魯で「先王の道」を実践し、東方の国、魯を、周のような国、「東周」にしたいと懸命だったことを言っている。しかしその孔子の志は受け容れられず、それならと孔子は「先王の道」を書物として後世に残すことを決意して『春秋』を筆削し、『書経』『易経』『詩経』『礼記』『楽記』の補修に努めた。そうして成ったのが「六経」であり、したがって「六経」は、とりもなおさず「先王の道」なのである……。
――先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道に非ざるなり。けだし先王、聡明叡智の徳を以て、天命を受け、天下に王たり。その心は、一に、天下を安んずるを以て務めとなす。ここを以てその心力を尽くし、その知巧を極め、この道を作為して、天下後世の人をしてこれに由りてこれを行はしむ。あに天地自然にこれあらんや。……
――けだし先王の徳は、衆美を兼備し、名づくるを得べきこと難し。しかるに命けて聖となす所の者は、これを制作の一端に取るのみ。先王、国を開き、礼楽を制作す。これ一端なりといへども、先王の先王たる所以はまたただこれのみ。……
「けだし」は、思うに、で、私(徂徠)が推測するところでは……だが、先王は聖人とも呼ばれている、これは、先王は「礼楽」を制作した、その「礼楽」制作を讃えてのことである、先王の功績は計り知れず、「礼楽」はそれらのほんの一端だが、先王が先王と仰がれる理由は「礼楽」を制作したからだとさえ言っていいほどなのである……。
「礼楽」の「礼」は礼儀で、社会の秩序を保ち、「楽」は音楽で、人心を和らげる作用があるとして、後に精しく出るが、先王たちは挙って「礼楽」の創出に意を用いた。
一言で言えば、「先王の道」とは、堯、舜ら「先王」と呼ばれる名君たちが残した、治世上の創造的実績である。それを象徴する言葉が「礼楽」である。
今にして思えば、小林氏が第三十二章で言っている「『道』という古言は、はっきりと古聖人の遺した、具体的な治績を指した言葉であって、これを離れて、別に道というようなものはなかったのである」は、第十章でも言っておいてもらうべきであった。それがそうなっていないのは、徂徠の言う「道」はすべて「先王の道」、「聖人の道」と解するのは『本居宣長』刊行当時のいわば一般常識であり、したがって小林氏は、第十章ではそれをわざわざことわろうとは思いもしなかったのだろうが、私にしてもなまじ徂徠の「道」は「先王の道」という聞き噛りの知識があったことによって、念のための加筆をとは進言せぬまま通ってしまったようなのだ。小林氏の本の担当者としての私の「傍目八目」の迂闊であった。
3
「先王の道」、徂徠はそれを「六経」から読み取り、『弁道』に記した。『弁道』は次の一句から始まる。
――道は知り難く、また言ひ難し。その大なるがための故なり。後世の儒者は、おのおの見る所を道とす。みな一端なり。……。
ゆえにここでは一端も一端、ほんの片端に留まるほかないのだが、先に引いた『弁道』の何か条かに加えてさらに何か条かを引き写す。
――けだし、先王の教へは、物を以てして理を以てせず。教ふるに物を以てする者は、必ず事を事とすることあり。教ふるに理を以てする者は、言語詳らかなり。物なる者は衆理の聚る所なり。しかうして必ず事に従ふ者これを久しうして、すなはち心実にこれを知る。何ぞ言を仮らんや。……
「事を事とす」は、『書経』にある言葉を踏まえていると『日本思想大系 荻生徂徠』の注にあり、そこでは「事実に努める」と言われているだけだが、小林氏は第三十二章でこう言っている。
――物を明らめる学問で、「必ず事を事とすることあり」と言うのは、それぞれ特殊な、具体的な形に即して、それぞれに固有な意味なり価値なりを現している、そういう、物を見定めるということになろう。……
この条を含めて以下の各条、まさに「古の聖人之智は、古今を貫透して、今日様々の弊迄明に御覧候。古聖人之教は、古今を貫透して、其教之利益、上古も末代も聊之替目無之候」の代表格と言えるだろう。
――善悪はみな心を以てこれを言ふ者なり。孟子曰く、「心に生じて政に害あり」と。あに至理ならずや。然れども心は形なきなり。得てこれを制すべからず。故に先王の道は、礼を以て心を制す。礼を外にして心を治むるの道を語るは、みな私智妄作なり。何となれば、これを治むる者は心なり。我が心を以てわが心を治むるは、譬へば狂者みづからその狂を治むるがごとし。いづくんぞ能くこれを治めん。故に後世の心を治むるの説は、みな道を知らざる者なり。……
――もしそれ礼楽なる者は、徳の則なり。中和なる者は、徳の至りなり。精微の極にして、以てこれに尚ふるなし。然れども中和は形なく、意義のよく尽くす所に非ず。故に礼は以て中を教へ、楽は以て和を教ふ。先王の、中和に形づくれるなり。礼楽は言はざれども、能く人の徳性を養ひ、能く人の心思を易ふ。心思一たび易れば、見る所おのづから別る。故に知者を致すの道は、礼楽より善きはなし。……
「中和」は、『弁名』の「中・庸・和・衷 八則」に、「中なる者は過不及なきの謂ひなり」「和なる者は和順の謂ひなり」とあって、それぞれ精しく説明されている。「易ふ」は「変える」「変る」である。
これらすべて、今日なお深くうなずかされる「道」である、人生を、そして人世を、いかに生きるべきかの叡智である。こういう「道」の恩恵に、徂徠以前の日本人は与ることができなかった。徂徠は自ら編み上げた古文辞学を馳駆して古文古語のまま「道」を読み取った。「世」に載った「言」に載って幾世代もを遷ったため、世々の「言」に何重にも包まれ、隔てられてしまっていた「道」が、徂徠によって明らかになった。
4
小林氏が、「歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ」と言った後に、「ところで、生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから、如何に生くべきか、という課題に応答する事が困難になる。道は明かには見えて来ない」と言っている「道」は、「先王の道」であると解してここまできた。だが、「生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから」という言葉に重きをおけば、たとえば第十一章に小林氏が書いている次のような「道」が思い浮かぶ。
――宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。……
ここで言われている「他人の説く道」は、「六経」に見られる「道」ではない。主には朱子学の説く「道」である。朱子学の「道」を疑って抗った近世日本の学問の豪傑たちは、「自分の『道』」を求めて刻苦精励した。
小文の第三回「道の学問」で、私は、小林氏は「本居宣長」は思想のドラマを書こうとしたのだと言ったが、小林氏の言う「思想」とは私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であった、それはまた、小林氏の言う「道」も私たち一人ひとりの生き方の模索であり、その先で手にする生き方の確信であったと言えるだろう、と書いた。彼ら学問の豪傑たちの求めた道は、まさに自分の生き方の模索であった。
ここから先は、そういう「道」を、「本居宣長」の中に見ていく。小林氏が徂徠の学問に即して言った「変るものに向う『史学』」の対象となる道、すなわち、時代の趨向あるいはその時代を生きた人たちの思案によって見出された「道」である。それらはいずれも「先王の道」から出て「先王の道」へ還る「道」であった。
――考える道が、「他のうへにて思ふ」ことから、「みづからの事にて思ふ」ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関する蒙を開かれたのではない、凡そ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。…… (第六章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集76頁/以下、27―76と表記)
――詠歌は、長流にとっては、わが心を遣るものだったかも知れないが、契沖には、わが心を見附ける道だった。仏学も儒学も、亦寺の住職としての生活も、自殺未遂にまで追い込まれた彼の疑いを解く事は出来なかったようである。(中略)道は長かったが、遂に、倭歌のうちに、ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの「好信楽」のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。…… (第七章 27-83)
――彼(中江藤樹)は、時代の問題を、彼自身の問題と感じていた。彼が、彼自身の為に選んだ学問の自由は、時代の強制を跳躍台としたものだ。これを心に入れて置けば、「此身同キトキハ、学術モ亦異ナル事ナシ」と言う時の、彼の命の鼓動は聞ける筈だ。これは学説の紹介でもなければ学説の解釈でもない。自分は学問というものを見附けたという端的な言葉である。彼は、自分の発見を信じ、これを吟味する道より他の道は、賢明な道であれ、有利な道であれ、一切断念して了った。それが彼の孤立の意味だが、もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ。荒地に親しんで来た人々には、荒地に実った実には、大変よく納得出来るものがあった。…… (第七章 27-98)
――仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意を許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。…… (第九章 27-103)
――彼(伊藤仁斎)の考えによれば、書を読むのに、「学ンデ之ヲ知ル」道と「思テ之ヲ得ル」道とがあるので、どちらが欠けても学問にはならないが、書が「含蓄シテ露サザル者」を読み抜くのを根本とする。書の生きている隠れた理由、書の血脈とも呼ぶべきものを「思テ得ル」に至るならば、初学の「学ンデ知ル」必要も意味合も、本当にわかって来る。この言わば、眼光紙背に徹する心の工夫について、仁斎自身にも明瞭な言葉がなかった以上、これを藤樹や蕃山が使った心法という言葉で呼んでも少しも差支えはない。…… (第九章 27-106)
――彼(仁斎)は、ひたすら字義に通ぜんとする道を行く「訓詁ノ雄」達には思いも及ばなかった、言わば字義を忘れる道を行ったと言える。先人の註脚の世界のうちを空しく摸索して、彼が悟ったのは、問題は註脚の取捨選択にあるのではなく、凡そ註脚の出発した点にあるという事であった。世の所謂孔孟之学は、専ら「学ンデ知ル」道を行った。成功を期する為には、「語孟」が、研究を要する道徳学説として、学者に先ず現れている事を要した。学説は文章から成り、文章は字義からなる。分析は、字義を綜合すれば学説を得るように行われる。のみならず、この土台に立って、与えられた学説に内在する論理の糸さえ見失わなければ、学説に欠けた論理を補う事も、曖昧な概念を明瞭化する事も、要するにこれを一層精緻な学説に作り直す事は可能である。…… (第九章 27-108)
――彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。ここでも亦、先きに触れた「経」と「史」との不離という、徂徠の考えを思い出して貰ってよいのである。…… (第十一章 27-120)
――古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであったし、例えば徂徠の仕事に現れて来たような、言語と歴史とに関する非常に鋭敏な感覚も、この努力のうちに、おのずから形成されたものである。例えば仁斎の「論語」の発見も亦、「道」を求める緊張感のうちでなされたものに相違ないならば、向うから「論語」が、一字の増減も許さぬ歴史的個性として現れれば、こちらからの発見の悦びが、直ちに「最上至極宇宙第一書」という言葉で、応じたのである。…… (第十一章 27-122)
――学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に摑まれていたのである。彼には、周囲の雰囲気など、実はどうでもいいものであった。むしろ退屈なものだったであろう。卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、尤もな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。そうでなければ、彼の使う「好信楽」とか「風雅」とかいう言葉は、その生きた味いを失うであろう。…… (第十一章 27-127)
――宣長が考えていたのは、彼が「物語の本意」と認めた「物のあはれを知る」という「道」である。個々の経験に与えられた、心情の動き、「あだなる」動きも「実なる」動きも、「道」を語りはしない。宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、或は純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。…… (第十四章 27-154)
――そういう次第で、宣長の論述を、その起伏に逆わず、その抑揚に即して辿って行けば、「物の哀をしる」という言葉の持つ、「道」と呼ぶべき性格が、はっきり浮び上って来る。…… (第十五章 27-159)
――彼は、これを、「源氏」に使われている「あぢはひを知る」という、その同じ意味の言葉で言う。「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言う。なるほど漠然とした物の言い方だ。しかし、事物を味識する「情」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。「情」が「感」いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。…… (第十五章 27-164)
――彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉を玩ぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。この道を迷わすものを、彼は「魔」という強い言葉で呼んだ。…… (第十八章 27-202)
――この有名な歌集の註解は、当時までに、いろいろ書かれていたが、宣長に気に入らなかったのは、契沖によって開かれた道、歌に直かに接し、これを直かに味わい、その意を得ようとする道を行った者がない、皆「事ありげに、あげつら」う解に偏している、「そのわろきかぎりを、えりいで、わきまへ明らめて、わらはべの、まよはぬたつきとする物ぞ」と言う。…… (第二十一章 27-227)
――「和歌ハ言辞ノ道也。心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツヾクル道也」という彼の言葉は、歌は言辞の道であって、性情の道ではないというはっきりした言葉と受取らねばならない。歌は「人情風俗ニツレテ、変易スル」が、歌の変易は、人情風俗の変易の写しではあるまい。前者を後者に還元して了う事は出来ない。私達の現実の性情は、変易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生を享け、死ぬ事はないだろう。…… (第二十二章 27-252)
この後、第三十二章、第三十三章と、再び徂徠の言う「道」、そして宣長の「道」に言及されるのだが、小林氏が「本居宣長」で「道」という言葉に託した思いのほどは、以上を熟視することで汲み得ると思う。その氏の思いが端的に集約されているのがすでに引いた次の一節である。
――宣長は、「道」という言葉で、先験的な原理の如きものを、考えていたわけではなかったが、個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、或は純粋な、と呼んでいい経験は、思い描かざるを得なかったのである。これは「道」を考える以上、当然、彼に要請されている事であった。…… (第十四章 27-154)
契沖の「わが心を見附ける道」「歌学者として生きる道」、中江藤樹の「自分の学問の発見を信じ、これを吟味する道」、伊藤仁斎、荻生徂徠らの「古典への信を新たにする道」、そして本居宣長の「己れを知る道」「卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに求めた道」、「『物のあはれを知る』という道」、これらのいずれもが「個々の心情の経験に脈絡をつけ、或る一定の意味に結び、意識された生き方の軌道に乗せる、基本的な、或は純粋な、と呼んでいい経験」である。
小林氏は、学問とは、誰もが知っていることをより深く知ろうとすることだと言っていた。上に抜き出した「道」という言葉の使われ方からすれば、氏は「道」についても、「道」とは誰もが歩いている道を歩くことだ、自分をより深く知ろうとして歩くことだ、と言っているようである。
と、こう思ったとき、脳裏に突然、小林氏の「モオツァルト」(『小林秀雄全作品』第15集所収)の一節が閃いた。
――モオツァルトは、歩き方の達人であった。目的地なぞ定めない、歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。……
突然ではあったが唐突ではなかった。藤樹、仁斎、徂徠、契沖、宣長……、彼らもまた歩き方の達人だったのだと小林氏に言われたかのようだった。
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だが、小林氏は、「変るもの」に向けた目を、「変らぬもの」にもむろん向けている。徂徠に即して言えば「経学」の対象となる「道」である。
――物まなびの力にて、あまたの書どもを、かきあらはして、大御国の道のこゝろを、ときひろめ、天の下の人にも、しられぬるは、つたなく賤き身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、…… (第四章 27―50)
宣長の「家のむかし物語」からである。ここで言われている「大御国の道のこゝろ」は、「もののあはれを知る道」に次いで宣長の後半生を領した。
――宝暦十三年という年は、宣長の仕事の上で一転機を劃した年だとは、誰も言うところである。宣長は、「源氏」による「歌まなび」の仕事が完了すると、直ちに「古事記伝」を起草し、「道のまなび」の仕事に没入する。「源氏」をはじめとして、文学の古典に関する、終生続けられた彼の講義は、京都留学を終え、松坂に還って、早々始められているのだが、「日記」によれば、「神代紀開講」とあるのは、真淵の許への入門と殆ど同時である。まるで真淵が、宣長の志を一変させたようにも見える。だが、慎重に準備して、機の熟するのを待っていなかった者に、好機が到来する筈はなかったであろう。…… (第十九章 27-213)
「真淵」は、賀茂真淵である。宣長自身は「玉かつま」の七の巻でこう言っている。
――おのれは、道の事も歌の事も、あがたゐのうしの教のおもむきによりて、たゞ古の書共を、かむがへさとれるのみこそあれ、……
「あがたゐのうし」は「県居の大人」で真淵のことだが、宣長は「道の事」も「歌の事」も真淵に導かれて、と言うのである。ところが、その真淵が、行き詰った。真淵は「萬葉集」を絶讃し、そこに日本固有の「道」があると主張したのだが、しかし、
――彼は、これを「高く直きこゝろ」「をゝしき真ごゝろ」「天つちのまゝなる心」「ひたぶるなる心」という風に、様々に呼んではみるのだが、彼の反省的意識は安んずる事は出来なかった。「上古之人の風雅」は、いよいよ「弘大なる意」を蔵するものと見えて来る。「万葉」の風雅をよくよく見れば、藤原の宮の人麿の妙歌も、飛鳥岡本の宮の歌の正雅に及ばぬと見えて来る。源流を尋ねようとすれば、「それはた、空かぞふおほよそはしらべて、いひつたへにし古言も、風の音のごととほく、とりをさめましけむこゝろも、日なぐもりおぼつかなくなんある」(「万葉集大考」)という想いに苦しむ。あれを思い、これを思って言葉を求めたが、得られなかった。…… (第二十章 27-229)
「空かぞふ」は「おほよそ」の「おほ」にかかる枕詞である。真淵は、人代を尽して神代を窺おうとした、ということは、「万葉集」を究めて「古事記」に向おうとした。だが、宣長は見て取っていた、
――「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。…… (第二十章 27-230)
真淵は、「万葉集」から得た「古道」を掲げて論を張った。だがその「古道」が真淵自身を縛った、「古事記」へは一歩も踏み出せなかった。「古道」を掲げるということ自体が、邪念だったようなのである。
宣長は、真淵の挫折を他山の石とした。
――宣長の正面切った古道に関する説としては、「直毘霊」が最初であり、又、これに尽きてもいる。「直毘霊」は、今日私達が見るように、「此篇は、道といふことの論ひなり」という註が附けられて、「古事記伝」の総論の一部に組み込まれているものだが、論いなど何処にもない。端的に言って了えば、宣長の説く古道の説というものは、特に道を立てて、道を説くということが全くなかったところに、我が国の古道があったという逆説の上に成り立っていた。…… (第二十五章 27-282)
――宣長は、我が国の神典の最大の特色は、天地の理などは勿論の事、生死の安心もまるで説かぬというところにある、と考えていた。彼にとって、神道とは、神典と言われている古文が現している姿そのものであり、教学として説いて、筋の通せるようなものではなかった。…… (第二十六章 27-292)
宣長が「家のむかし物語」に書いた「大御国の道のこゝろ」とはこれであり、その「こゝろ」は「特に道を立てて、道を説くということが全くなかった」ところにあった。「古事記」をはじめとする神典に書かれていること、それらの姿がそのまま「道」であると宣長は取った。小林氏が第六章に引いていた「紫文要領」の言葉、「やすらかに見る」が思い合せられる。
宣長の「古事記」は、徂徠の「六経」であった。その「古事記」を宣長は「今文ヲ以テ」は視ず、「今言ヲ以テ」は解かなかった。「古文から直接に古義を得ようとする努力」を三十五年にもわたって続け、「道を立てて道を説くということ」はまったくなく、「生死の安心もまるで説かぬ」という「大御国の道」に到った。これが、宣長が歩きとおした「聖学」の道であった、「如何に生くべきか」を求めて歩んだ「無私」の道であった。
(第二十六回 了)