……小林秀雄「本居宣長」を読んで取りとめもないおしゃべりをする男女4人、今日は、第二十五章辺りを読んでいるようだ……
元気のいい娘(以下「娘」) このさあ、大江のなんとかって学者の歌、やばくない?
凡庸な男(以下「男」) ああ、これね、大江匡衡が妻に贈る歌。「乳母せんとて、まうで来りける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける」と詞書があって、「果なくも 思ひけるかも 乳もなくて 博士の家の 乳母せんとは」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集281頁。以下引用はすべて同全集から)。
生意気な青年(以下「青年」) 確かにいやみだな、知と乳をかけるなんていうのはね。
娘 っていうか、ちょっとロコツ。
男 ああ、「乳の細く」って、確かに、どんなお姉さんだったのかな。
娘 何考えてんの。
男 いや、だからさ、その、今日の、人権意識に照らしてですよ、ふ、ふてきせつな語句や表現がみられますけれども、それで、その……
娘 文庫本のことわりがきみたいなこと聞いてない。あんたの頭の中。
男 だ、だからですね……
江戸紫の似合う女(以下「女」)そんなに慌てなくてよくてよ。そのむかし、乳母という女のしごとがあった、それだけのこと。
娘 でもさあ
女 赤染衛門も負けていないのですわ。
男 確かに、「そのかへし、――さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳に附けて あらすばかりぞ」(第27集281頁)。知がなくても、大和心が賢ければ十分だ、というわけだ。
娘 乳母さんのための弁明というより、匡衡に対するカウンターパンチだね。
女 あなたは学問をお修めかもしれませんが、それだけでいいのかしら。人を育てる上では、大和心が賢い女人の方が優れていてなくて?
男 匡衡には何かが足りない。才だけではだめなんだね。
娘 どういうこと?
男 「源氏物語」に、「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」という一節があるね。「学問というものを軽んずる向きも多いが、やはり、学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く働かす事も出来る」と源氏君が言うんだ(第27集278頁)。
青年 才、つまり学んで得た智識と、大和心、つまりこれを働かす知恵の両方が必要というわけだ。
娘 そういえば、「今昔物語」に出てくる、善澄という学者が強盗に殺される話も、わるいけど笑っちゃうね。
男 ある夜、明法博士善澄の家に強盗が押入った。善澄は、板敷の下にかくれ無事だったのに、立ち去りかける強盗に、夜が明けたら検非違使に召し捕らせるとわめきたてて、引き返して来た強盗に殺されたという、あの話ね。
青年 物語の作者いわく「善澄、才ハメデタカリケレドモ、露、和魂無カリケル者ニテ、此ルココロ幼キ事ヲ云テ死ヌル也」(第27集280頁)
男 「机上の学問」や「死んだ知識」だけで、「生活の智慧」や「生きた常識」を欠いているわけだ。
娘 バカだよね、このオヤジ。
青年 腕っぷしが弱くて負けたのではなくて、わざわざ、自分の誇らしげな言動で危機を招いたのだからね。頭の中で、正義は我にあり、検非違使権力を発動させ得る自分が優位だと考えて、その通りの言動で他人を動かせると思ったんだな。観念の世界に自足し、現実から遊離した哀れなインテリだな。
娘 でも、大和魂って、ちょっと、コワッ。
男 武張った印象があるね。軍国主義と結びつける人もいるだろう。
青年 確かに、戦時中、変な使われ方をしたんだな。宣長さんの「やまとごころを人とはば」の歌が戦意昂揚の文脈で引用された。
男 だからといって、戦争と結び付けて宣長さんを論ずるのは、どうかと思う。近代的な国家や軍隊が誕生するはるか前の宣長さんと、近現代の人々とでは、見ている世界が違うんだよ。
青年 さかのぼれば、平田篤胤に始まり、吉田松陰、新渡戸稲造と連なる言説の集積があるから、昭和戦前期の青年将校の勘違いというわけでもないんだ。
娘 やまとだましひとか、大和心とか、大和という言葉に、なんか思い入れがあんのかな。
青年 どうだろう。才に対する心、くらいのことだと思うがね。才つまり学問は、圧倒的に漢、つまり中国からやってきたわけで、それとの対比じゃないかな。
男 宣長さん自身、国学とか和学という学問の呼び方について、「皇国の学をこそ、ただ学問とはいひて、漢学をこそ、分て漢学といふべきことなれ」(第27集284頁)といっている。つまり、「和学国学」などというのは、「もろこし朝鮮於蘭陀などの異国」からみた言い方だということだね。
青年 だから、わが国の古典を学ぶ学者の心構えとして「やまと魂」などというのは、外から見た言い方で本当は「わろきいひざま」なんだけど、「漢意儒意」に妨げられてその心構えが固まっていないから、宣長さんとしては、「たとえば、『うひ山ぶみ』で、『やまとだましひを堅固くすべきこと』を繰り返し強調」(第27集281頁)することになるんだ。
娘 漢籍の勉強はよくないの?
男 そんなことはない。でも、こういうんだね。「から書をよめば、そのことよきにまどはされて、たぢろきやすきならひ也、ことよきとは、その文辞を、麗しといふにはあらず、詞の巧みにして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也、すべてから書は、言巧みにして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也」(第27集284頁)
女 「ものの理非を、かしこくいひまわ」す「詞の巧」や、「言のよさ」に惑わされて、意味を頭で理解してはならない。言葉の姿そのものを見つめ、「文辞の麗しさ」を味わい識ることが大切、ということをおっしゃっています。
娘 「文辞の麗しさ」か。それが、「姿は似せ難く、意は似せ易し」ということにつながるのかな。
女 宣長さんにとって、「万葉集」などの古歌であれ、神道について記す古文であれ、読む者の想像裡に古人の命の姿を持ち込むべき文辞として変わりはないのですわ。
青年 多くの学者は、古文から、なんらかの意味を読み取って、それを学問上の概念として捉えて、論理的に構成しようとしたんだ。これがうまくいけば、説得力をもって多くの人を引き付けるかもって。
男 宣長さんはそうはしなかった。たとえば、宣長さんにとって、「神道とは、神典と言われている古文が現している姿そのものであり、教学として説いて、筋の通せるようなものではなかった」(第27集292頁)。
女 多くの学者の方々には、これが理解できなかったようですわ。だから、「大和魂」とか「大和心」という耳慣れないことを宣長さんが言い出されると、自分たちと同じように、新手の理論構築をし始めたと思い込んだのじゃないかしら。だから、これらの言葉も「標語」にしか見えない。
青年 篤胤の勘違いも、この辺りから生まれているということかな。
女 篤胤が先達と仰いだ宣長さんは、古文をお読みになるとき、「工夫がましきこと」、例えば「古の大義」みたいな概念を考え出して理論構成を試みるようなことはなさらない。あくまで、言葉そのものに向かい合い、その「調」に静かに耳を傾け、「姿」をじっと見つめておられた。
青年 篤胤には、こういう「文事の経験」が欠けていて、逆に、「天地の初発から、人魂の行方に至るまで」、誰にでも納得がいくように説こうとしたわけだね。本人は、「大倭心の鎮」といっているけど、もし宣長さんが見ていれば、これこそが詞巧みなからぶみ そのものだったんじゃないかな。宣長さんの「やまと魂」とは方向が全く逆なんだね。
男 多くの人にとっては、篤胤のように、「意味」を追いかけ、組み立てることの方が分かりやすい。もっともらしく論理構成して言葉巧みに説明すれば、多くの人はそれを真に受ける。
青年 だから、他の学者にすれば、「やまと魂」という言葉が宣長の言説の裡に目立って来れば、「やまと魂」を「ますらをの高く直き心」と解して、宣長の国粋主義を論ずれば十分、ということになるんだね。
女 そういうところで使われる言葉は、結局、標語にすぎないのですわ。意味を追いかけ、概念と論理の世界で思考しているおつもりでも、実のところ、標語と化した言葉をやりとりしてパズルを解いているだけ。
青年 でも、そういうのを格好良く思う人も多いんだね。
女 おや、おや、お気づきなのね。宣長さんもおっしゃっているでしょう。「よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまわす人の言には、人のなびきやすき物な(り)」(第27集285頁)
娘 強盗に殺されちゃった善澄なんて、そういう、「弁舌よく、かしこく物をいいまわす」タイプじゃん。
男 今も変わらないね。いるでしょ、舶来の知識が服を着て歩いているようなヤツ。
青年 なんで僕の方見るんですか。
娘 あのさ、ハクライって、なあに?
男 あっ、そうか、いまはネットで仕入れた知識をSNSで発信ってわけだ。
女 おっしゃるとおりですわ。今も善澄さん、いっぱいいますわよね、ネットで炎上しても、殺されるわけではないですから。
……4人は楽しそうに(いや、青年だけはやや不満気かな)、おしゃべりを続けている。
(了)