名に込められた命

亀井 善太郎

「古事記」は、その序に続き、天地開闢の物語を以下の文章で始める。

 

天地初めてオコりし時に、 高天タカアマハラに 成りませる神の名は、天之御中主アメノミナカヌシの神。(高の下の天を訓みてアマといふ。シモこれにナラへ) 次に、高御産巣日神タカミムスビノカミ。次に神産巣日神カミムスビノカミ。この三柱の神は、みな独神と成りまして、 身を隠したまひき。(『古事記』、新潮日本古典集成、p26)

 

これについて、小林秀雄氏は、神の古意について書かれた「古事記伝、三の巻」の文章を引いた後、以下のように記している。

 

―附言して置くが、「天地初発之アメツチハジメノトキ於高天原成神名タカマノハラニナリマセルカミノナ」三柱あるうち、宣長は神名の上から、天之御中主神アメノミナカヌシノカミには、さしたる神格を認めず、特に高御産巣日神タカミムスビノカミ神産巣日神カミムスビノカミとに注目している。そして、この二柱の神が、高天原に成りまして後、「古事記」には、どちらか一柱の神としてしか、姿を現していないことから、産巣日神という一柱が信じられていた、と解してよいとしている。(小林秀雄『本居宣長』 第三十八章、全作品28、p78)

 

本居宣長によって成された「古事記」の訓読があって、今を生きる私達は「古事記」が読めるようになった。とはいえ、この僅か数行の文章に立ち止まることはなかなかできない。どうしても、ああそうかと通り過ぎてしまいがちだ。しかし、二人の先人は、この神々の名こそ、熟読玩味しなければならないと教えてくれている。

神々の命名について、小林秀雄氏は、「古事記伝」に遺された本居宣長による綿密な訓読の吟味を受けとめ、「神々の名こそ、上古の人々には、一番親しい生きた思想だった」と記している。

 

迦微カミをどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上がったコトバの外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別が、浮かびようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が、彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい生きた思想だったという確信なくして、あの「古事記伝」に見られる、神名についての、「誦声ヨムコエの上り下り」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。(同、第三十九章、p85)

 

「神々の名こそ、上古の人々には、一番親しい生きた思想だった」というのはどういうことなのだろうか。この言葉の意味をきちんと受けとめることこそ、生きていく上で大切な何かを見逃し、忘れてしまいがちな現代人(もちろん、私自身を含む)に対して、生きることを直視し続けた古代の人々が教えてくれる何かが詰まっているのではないだろうか、そう直感し、『本居宣長』の本文にあたると、「古事記」のこの数行から始まる、神々の命名にこそ、上古の人々の思いや営みが見えてくると感じられるようになる。

小林秀雄氏は、「産巣日神」という名から宣長が感じ取ったことについて、「古事記伝」を引きつつ、具体的に述べている。

 

―宣長は、「産巣日神」の「御霊」という古言の「ふり」から、直ちに、万物生成の思想が、わが国の古代の生活のうちに、生きていた事を感じ取ったのだが、それも古意に従って、けば、「産霊ムスビ」の「御徳ミメグミ」、或いは「御所為ミシワザ」とも言うべき、生むという純粋な働きの形式で、体得されていたとした。古言は、この御霊について、天地の初めの時に、高天原に、成りましたと言う他、何も余計な事を言っていない。古伝は、まだこの万物生成の、言わば原動力が、先ず自らの形体カタチを生成した事を、有るがままに語れば、足りるとしたに違いないのである。 そこで、宣長の註釈だが、注意して読むなら、註釈には、霊という「こころ」の働きは、「コトバ」の働きでもあるという、微妙な含みのある事が、はっきりするだろう。

「上ノ件三柱ノ神は、如何なるコトワリありて、何の産霊ムスビによりて成リ坐セりと云こと、其ノ伝へ無ければ知りがたし。るはイトイトクスしくアヤしくタヘなることわりによりてぞ成リ坐しけむ、されどはさらに心も詞も及ぶべきならねば、モトヨり伝へのなきぞうべなりける、又此神たちは、天地よりも先立ちて成リ坐しつれば、ただ虚空中オホゾラにぞ成リ坐しけむを、高天ノ原に於いて成りますとしも云るは、後に天地成リては、其ノ成リ坐セりしところ、高天ノ原になりて、後まで其ノ高天ノ原に坐シ坐ス神なるが故なり、(元来モトヨリ高天ノ原ありて、そこに成リ坐スと云にはあらず、)」(同、第三十八章、p80)

 

「万物生成の思想」というと、現代社会では特定の宗教や特定の人物によって説かれる考えへの賛否のように誤解されがちかもしれないが、むしろ、以下の本文にあるとおり、古代の人々の日々の実際の暮らしの中において、神々について、言葉が交わされ、そして、その中から名が定着していったと考えていくのが素直な態度であろう。

 

―宣長には、迦微という名の、所謂本義など思い得ても得なくても、大した事ではなかったのだが、どうしても見定めなければならなかったのは、迦微という名が、どういう風に、人々の口にのぼり、どんな具合に、語り合われて、人々が共有する国語の組織のうちで生きていたか、その言わば現場なのであった。「人は皆神なりし故に、神代とは云」うその神代から、何時の間にか、人の代に及ぶ、神の名の使われ方を、忠実に辿っていくと、人のみならず、鳥も獣も、草も木も、海も山も、神と命名されるところ、ことごとくが、神の姿を現じていた事が、確かめられたのである。(同、第三十九章、p82)

 

そこで、あらためて気付かされるのが、産巣日神に宿る「す」というハタラきであり、伊邪那岐神や伊邪那美神にある「イザナふ」という徳である。

 

―その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。「迦微と云は体言なれば」と宣長が言う時、彼が考えていたのは、実はその事であった。彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったか。体言であれば、事は足りたからである。「タダ神其ノ物を指シて」産巣日神と呼べば、其ノ物に宿っている「す」というハタラきは、おのずから眼に映じて来たし、例えば、伊邪那岐神、伊邪那美神と名付ければ、その「イザナふ」という徳が、又、天照大御神と名付ければ、その「天照す」徳が露わになるという事で、「言意並ニ朴」なる「迦微」と共にあれば、それで何が不足だっただろう。(同、第三十九章、p84)

 

生命誕生の不思議は、科学が進歩した現代にあっても、なかなか語り尽くすことはできない。人が人に惹かれ結び合う、それが生命誕生の起源だとわかっていたとしても、その心の動きや揺らぎそのものの解明にはほど遠い。むしろ、初めは他者であったそれぞれが、どちらともなく「イザナう」ことがあって、心が一つとなり、それが新たな生命誕生のはじまりとなる。そうした、一見、あたりまえのことについて、古代の人々は考え、直覚し、言葉を交わし、その不思議を神々の名として残してくれたのだろう。まさに「神に直かに触れているという確かな感じ」がそこにあって、その直観の内容を「内部から明らめようとする努力」で誰の心も一ぱいであったこと、そして、これら、小林秀雄氏の生きた言葉に触れることを通じて、私自身の心の中にも、ごく僅かなのかもしれないが、彼らの直観や努力が残っていると感じることができる。

 

―上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、この各人各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれの己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部から明らめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立ち会ったもの、又、立ち会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神のココロを引き出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。(同、第三十九章、p86)

 

世間にはたくさんの名が溢れている。多くの名はただ通り過ぎていくばかりだ。そこで立ち止まることもなかなかない。しかし、よくよく考えてみれば、現代社会にあっても、命名という営みは、けっして軽いものではなかったと誰でも思い出すことができるだろう。

今年、ちょうど、二人目の娘が成人式を迎えた。彼女が生まれる前、いろいろな名を考えていたが、初めて、その顔を見たとき、考えていた名の候補がすっと一つにまとまり、そして、妻や家族たちと、言葉を交わしながら、その名に決めた。彼女が、どんな人生を送ってほしいか、大切にしてほしいことは何か、そんなことを話したが、その対話の真ん中に、その名があった。不思議なもので、赤ん坊を見れば見るほど、その名こそ相応しいと感じられたものだ。

そういえば、私の名も両親がつけてくれたものだ。その時も同じだったのだろう。その名が重たいと感じたことは何度もあったが、その名に相応しい生き方をしようと決めたときから、それこそ覚悟ができてきたように思う。命名とは、そこにある命に名を付けることであると共に、名に命が込められることなのかもしれない。

(了)