神に名をつけること

北村 豊

「古事記」の「神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ」には神々の名が次々に登場します。

天と地とが始まった時に、高天原たかまのはらには天之アメノ御中主ミナカヌシノカミタカ御産ミムビノカミ神産カミムビノカミという三神がお出になり、「独り神」として姿を隠していらっしゃった。一方、大地は浮いた脂のごとくクラゲのように漂っていた頃、そこに葦の芽のように萌え出したのが宇摩志阿斯訶備比古遅ウマシアシカビヒコヂノカミでした。この神もまた高天の原に生じた神々と同様に姿を隠してしまわれるが、その後も続いて神を生じさせ、独り神から男女対偶の神となり、ついには伊邪那いざな伊邪那いざなという兄妹が誕生します。この二神は、天空に浮かぶ天の浮橋にお立ちになり、大地以前の地表をかき回してシマをつくり、その島に降りて結婚し、蛭子ルゴを生むという失敗の後、大地や島を生み、風や木や山や野といった自然を神として生み出しました。こうした流れで次々に神の名があげられます。

小林秀雄著『本居宣長』を読んでいると、次の文章に目がとまります。小林氏は「『古事記』の『神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ』は、神の名しか伝えていない。『古事記』の筆者が、それで充分としたのは、神の名は、神代カミヨの人々の命名という行為を現している点で、間違いのない神代の事跡コトノアトだからだ」といいます。「神の名しか伝えていない」ことで充分としたというのはどういうことなのでしょうか。

その答えを得るべく、さらに読み進め、また戻って読み返してみて、それについてふれられている文章をまず取り上げてみます。

 

古い時代、世上に広く行き渡っていた、迦微カミに関する経験にしても同じ事で、先ず八百万の神々の、何か恐るべき具体的な姿が、漠然とでも、周囲に現じているという事でなければ、神代の生活は始まりはしなかった。

その神々の姿との出会い、その印象なり感触なりを、意識化して、確かめるという事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するという事に他ならなかったであろう。「迦微と云は体言なれば」と宣長が言う時、彼が考えていたのは、実は、その事であった。彼等は、何故迦微を体言にしか使わなかったか。体言であれば、事は足りたからである。「タダに神其ノ物を指シて」産巣日神と呼べば、其ノ物に宿っている「す」というハタラきは、おのずから眼に映じて来たし、例えば、伊邪那岐神、伊邪那美神と名付ければ、その「誘ふ」という徳が、又、天照大御神と名付ければ、その「天照す」徳が露わになるという事で、「コトバココロナラビニスナオ」なる「迦微」と共にあれば、それで何が不足だったろう。(小林秀雄全作品 28集 84頁10行目~)

 

迦微をどう名付けるかが即ち迦微をどう発想するかであった、そういう場所に生きていた彼等に、迦微という出来上がったことばの外に在って、これを眺めて、その体言用言の別を言うような分別ふんべつが、浮かびようもなかった。言ってみれば、やがて体言用言に分流する源流の中にいる感情が、彼等の心ばえを領していた。神々の名こそ、上古の人々には、一番大事な、親しい、生きた思想だったという確信なくして、あの「古事記伝」に見られる、神名についての、「誦声ヨムコエあがさがり」にまで及ぶ綿密な吟味が行われた筈はないのである。(同85頁4行目~)

 

そして、暗記すべきほどに最も重要であると池田雅延氏が指摘されているのが次の文章です。

 

上古の人々は、神に直かに触れているという確かな感じを、誰でも心に抱いていたであろう。恐らく、各人かくじん各様の感じは、非常に強い、圧倒的なものだったに相違なく、誰の心も、それぞれ己れの直観に捕えられ、これから逃れ去る事など思いも寄らなかったとすれば、その直観の内容を、ひたすら内部からあきらめようとする努力で、誰の心も一ぱいだったであろう。この努力こそ、神の名を得ようとする行為そのものに他ならなかった。そして、この行為が立会ったもの、又、立会う事によって身に付けたものは、神の名とは、取りも直さず、神という物の内部に入り込み、神のココロを引出して見せ、神を見る肉眼とは、同時に神を知る心眼である事を保証する、生きた言葉の働きの不思議であった。(同86頁15行目~)

 

神仏という絶対的存在の名を呼ぶ、称えるという行為が現代でも宗教の一番大切な行いとして日々の生活の中に溶け込んでいます。例えば仏教の場合、ナムアミダブツやナムシャカムニブツは念仏や称名といわれ、仏の名を呼ぶことで、仏がまさに自分の前にあらわれ、我々を救ってくださるという。

こうして名を呼ぶことで神仏から「直かに触れているという確かな感じ」を受けることによって大きな安心を手に入れることになります。そして人々はますます信仰の思いを強くするのでした。そうした言葉による確かな手応えは上古の時代からあって、人々は一番大事で身近ではありますが、よくわからない恐るべき存在が神仏であり、本居宣長が「何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微とは云なり」というように、「上は産巣日神から、下は狐のたぐいに至るまで、善きも悪しきも、貴きも賤しきも、強きも弱きも、驚くほど多種多様な神々が現れていた」と述べます。神々に共通な、神たる特質は「可畏き物」という存在だったのです。そしてその一つ一つに名前を付けたのでした。

神を畏れつつも、神の名を呼ぶことで神とちかしい、あるいは一体であるという豊かな充足感が人々の日常を支えていたし、「古事記」の編纂の上でも当然の前提として存在していたと考えます。

神の名について「本居宣長補記 Ⅱ」には次の内容の記述があります。(同362頁)

宣長晩年の述作に「伊勢二宮さき竹の弁」と題する伊勢二所大神宮の祭神についての考証があり、外宮の祭神について中世の頃より様々な異説が行われていたことが述べられます。

「内宮と並び祭られる外宮の祭神が、食物の神であるとは、まことに心もとない次第である」、「例えば、祭神を天ノ御中主ノ神とか国ノ常立ノ尊とかする合理的解釈によって、人を納得させる道も開けたとする」とする考えについて宣長は次のように語ります。

「そもそも世ノ中に、宝は数々おほしといへども、一日もなくてはかなはぬ、無上至極のたふとき宝は、食物也。其故は、まづ人は、命といふ物有て、万ヅの事はあるなり」と。

これを承けて、小林氏は次のように述べます。

食欲は動物にもある、という事は、人間の食べ物についての経験は、食欲だけで、決して完了するものではないという意味だ。では、どういうところで、どういう具合に、人間らしい意識は目覚めるのか。この種の問いに答える為に、「食の恩」と言う言葉ほど簡明適確な言葉が、何処に見附け出せようか。いや、この意識の目覚めと、この言葉の出現とは同じ事だ。そう、宣長は言いたい。彼の信ずるところによれば、人生に於ける食物の意味合は、「食の恩」という言葉で、完了するわけだが、更に言えば、「食の恩」を知るという情の動きは、そのまま、感謝の対象を、想像裡に描き出す働きでもあった。それも、神の御名が称えられるほど、鮮やかに描き出す働きでもあった。そういう古人の内容充実した経験豊かで、間然するところのない認識の姿は、「神代の伝説のこゝろ」を、吾が「こゝろ」としてみようと努めさえさえすれば、又、その上で、持って生れた想像の力を信じ、素直に、無邪気に、これに従って行きさえすれば、誰の心中にも歴然たるものがあろう。宣長は、これを、人間に本来備わる智慧の現れ方と、素直に受け取れば足りるとした。(同364頁19行目~)

 

古事記の「神代カミヨノ一之巻ハジメノマキ」が「神の名しか伝えていない」のはこういう理由からでした。私たちが「古事記」を読むにあたっても現代人の感覚を見直して、古人の思いを想像し、古人の気持ちになって読むこと、これこそが欠くことの出来ない、たいへん大切なことだと感じられました。

(了)