小林秀雄「本居宣長」全景

池田 雅延

三十二 真淵の挫折―反面教師、賀茂真淵(四)

 

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今回も、「反面教師、賀茂真淵」である。その四である。

読者のなかには、「またか、また真淵か、真淵の悪口か」と、うんざり顔を隠そうとされない向きもあろうと思うが、私としては悪口を言っているつもりはない、宣長の学問を、わけても彼の古学を見るうえで大事な手順、それを小林氏に言われて子細に踏んでいるまでである。

小林氏は、第四十三章で、古代中国で老子が唱えた「無為自然」の説は日本の神の道にかなうと言う真淵と、これに対して老子の説く「無為自然」の「自然」は日本古代の「自然」とは似て非なるものだと言う宣長の反論を交互に示した後にこう言っている。

―ここに、はんを厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じをつかまえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。……

私がここまで、執拗に「反面教師、賀茂真淵」を追ってきたのは、この小林氏の手順を先取りし、読者とともに「生きた思想の持つ表情を感じ」取ろうとしてのことである。すなわち、真淵と宣長、「二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、思想が演ずる劇」を幕開きから確と目に入れ、「生きた思想の持つ表情」を逐一感じようとしてのことであった。したがって、「反面教師、賀茂真淵」その一で、―たとえば第二十章で、真淵が宣長の詠歌を難じた手紙が紹介される、だが宣長は、平然と聞き流し、同じような歌を詠み続ける、あるいは真淵の「萬葉学」の個人教授に与りながら、「萬葉集」の成立をめぐる真淵の所説に異論を唱えて逆鱗にふれる……と、小林氏が伝えている真淵と宣長の「突き当り」に注目し、その二以下でそれぞれの「突き当り」場面をあたうかぎり克明に追ったのもそういう思惑からであった。

 

2

 

さてその「反面教師、賀茂真淵」その一の最後に、小林氏が第二十章で言っている次の言葉を引いた。

―真淵晩年の苦衷を、本当によく理解していたのは、門人中恐らく宣長ただ一人だったのではあるまいか。「人代を尽て、神代をうかゞはんとするに―老い極まり―遺恨也」という真淵の嘆きを、宣長はどう読んだか。真淵の前に立ちはだかっているものは、実は死ではなく、「古事記」という壁である事が、宣長の眼にははっきり映じていなかったか。宣長は既に「古事記」の中に踏み込んでいた。彼の考えが何処まで熟していたかは、知る由もないが、入門の年に起稿された「古事記伝」は、この頃はもう第四巻までの浄書を終えていた事は確かである。「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。そしてその事が、彼の真淵への尊敬と愛情との一番深い部分を成していたと想像してみてもよい。それは、真淵の訃を聞いた彼が、「日記」に記した「不堪哀惜」というたった一と言の中身を想像してみることにもなろう。この大事な問題については、いずれ改めて書かねばならぬ事になろう。……

そして、その「いずれ改めて書かねばならぬ」ときは、第四十三章でめぐってくる、と私は付言したのだが、小文の向かうところもいよいよ第四十三章である。

 

第四十三章は、次のように書き起される。

―「古事記伝」に現れた神の註釈は、これを漫然と読み下す者には、ただ神を説いて、一向に要領を得ない文とも映ろう。神とは、「大かたヒトむきに定めてはひがたき物」とあるが、それどころか、長々しい註釈文の姿は、神をって、殆ど支離滅裂の為体ていたらくにも見える。だが、宣長にしてみれば、真っ正直な仕事をしてみせただけの事であった。古人の間で使われていた「迦微カミ」という言葉を、出来るかぎり古人の心ばえに添うて吟味してみれば、註釈は、御覧の通りになる、どうしても、そういう姿になるという事であった。問題は、何故そういう事になるかにある。それを熟考して欲しいと言うところに、宣長の真意はあったと見てもよかろうが、彼はこれを口には出さなかった。と言うより、そんな口は、彼には到底きけなかったのである。……

続いて言われる、

―古伝説に記された神という言葉の精しい吟味は、彼が初めて切り開いた道であった。この道を行って、彼が見舞われた難題には、この道を行って重ねた、彼だけがよく知っている困難の、言わば集積の如きものがあった。この場合、問題を熟考するとは、彼にとっては、引入れられた難問の深さを、はっきり見定めるという、そういう事だったと思われる。……

―神について思いめぐらそうとして、「世の識者モノシリビト」達から、何と遠くへ来て了ったか、恐らく彼には、そういう痛切な意識があったに相違ないのである。これを想えば、「何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微とは云なり」という解も、口先きで、古学の法を説き、適当に合点のいく神の定義など期待している学者等へ投げられた、一種鋭い反語とも受取れようか。少くとも、そう言ってみてもいい程孤独で、微妙な性質が、彼が古学の上で、実地に敢行したところにはあった事を忘れてはならない。……

次いで小林氏の筆は、「神代の伝説」に及ぶ。

―神代の伝説ツタエゴトは、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語ではなくなるわけはない。だが、「さかしら」の脱落が完了しないと、この事が受入れられない。それが厄介な問題だ。「神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理リもなく、つたなき寓言にこそはあれ」とかたくなに言い張るからである。歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直かに結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確めるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。……

―それが、宣長が「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を超えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の眺めの内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「あやしき」経験を、描き出すに到ったのである。……

―宣長の神の論は、「神代一之巻カミヨノハジメノマキ」に集中していて、「ナリマセル神名カミノミナ」の吟味から始っているが、言うまでもなく、本文に註をするという形の上で、そうなったに過ぎず、彼の神に関する考えは、もう充分に熟した上で、仕事は始められたのである。「玉勝間」での「あはれ」と見るという言い方は、「古事記伝」では「ナホく安らか」と見るとなっている。それだけの違いなのである。神を歌い、神を語る古人の心を、「直く安らか」と観ずる基本の態度を、彼は少しも変えない。彼は、この観照の世界から出ない。彼の努力は、古人の心に参入し、何処までこの世界を拡げ深める事が出来るか、という一と筋に向けられる。言わば、それは自照を通じての「古事記」観照の道だった。又しても本文に立還って自問自答する、この何処までもつづく道を行き、自分は「古事記」の姿を、後世歌人が歌ったごとく、「そこひなき淵やはさわぐ」と観ずるようになった、と言うのである。……

 

こういうふうに第四十三章を運んできた小林氏は、

―宣長と真淵との関係については、もう前に書いたが、宣長の「古事記」観照の話になったところで、その締め括りのような事を書いて置きたい。……

と筆鋒を転じ、第二十章で言った「大事な問題」に正対するのである。

 

3

 

―万葉学を大成した真淵は、その最晩年にさしかかり、所謂「万葉のますらをの手ぶり」のうちに安住する事が出来なくなる。宣長宛の書簡によれば、われわれが、文字を用いるようになってからの文を、「堅し」と感ずるようになっていた。祝詞のりとの文を引き、其処には、「人まろなどの及ぶべき言ならぬ」「上古之人の風雅」が存するとし、その「弘大なる意」を明らめて「神代の意」を得んとした。宣長が受取った最後の書簡(明和六年五月)の終りには、次のようにあった。―「天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかゞふべく思ひて、今まで勤たり。其小を尽、人代を尽さんとするに、先師ははやく物故、同門に無人、(中略)孤独にして、かくまでも成しかば、今老極、憶事皆失、遅才に成候て、遺恨也。併、かの宇万伎うまき黒生くろなりなどは、御同齢ほどに候へば、向来被仰合、此事成落可被成候」

―これを書いて半年ほどして、真淵は歿したから、書簡は、宣長への遺言の形となった。真淵が、「孤独にして」為残した仕事は、宣長の手で、成落したのだが、宣長の仕事もまた、孤独なものだったのである。彼の学問は、「あがたゐのうしの教のおもむき」に、忠実に随ったものであったが、「歌の事」から「道の事」に入ろうとして、その進路を変えた。先師の教が、其処で断絶しているのを見たからだ。つまり、これまで段々と述べて来た迦微という古言のココロに関する、彼の発明を言うのである。「古事記伝」の完結は、まだまだ先きの事だったが、「神代一之巻」の註釈は、明和四年に書き始められているし、同八年には、「直毘霊なおびのみたま」が成っているのだから、真淵の歿年には、宣長の考えはほぼ成っていたであろう。少くとも、真淵が「小を尽て、大に入」らんとし、或は「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとして、どうして難関が現れて、その行く手を遮ったか、難関には、どういう性質があったから、そういう事になったかを、非常にはっきりと見抜いていたと思われる。……

―真淵が考えていた古道、儒仏の思想の輸入以前の、わが国固有の姿を存した上代の道は、「国意考こくいこう」に説かれているが、何分、自分でも、「筆頭につくしがたし」と言っているところだから、明瞭な説明は得られない。ただ、人為を排して、自然を尊ぶという思想が、根柢をなしている事には、一応間違いなく、―「老子てふ人の天地のまにまにいはれし事こそ、天が下の道にはかなひ侍るめれ」と言う。又、斎藤信幸宛の書簡(明和四年十二月)にも、「異朝の道は方なり、皇朝之道は円なり、故にかれと其違ふを、孔子などの言を信ずる故に開がたし。老子荘子などを見候はゞ、少し明らめも出来ぬべし。これは天地自然なれば、神道にかなふ事有、周道は作り物なれば、天地に背けり」、とある。……

「周道」は中国古代、周の国で整備された治世の道である。

―彼(宣長/池田注記)の体得したところには、人に解り易く説いてみせるすべのないものがあった。老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長がとなえた反対にしても、そうであった。似て非なるものであるという反対意見を、「直毘霊」では無論の事だが、機会ある毎に説くのだが、いつもうまく行かない。うまく行かないもどかしさが、どの文章にも現れるのである。一例を、「くず花」から引こう。……

「くず花」は宣長の著作である。小林氏は次の件を引く。

―かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し、これかのさかしらをイトヒて、自然を尊むが故也、かの自然の物は、こゝもかしこも大抵同じ事なるを思ひ合すべし、但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしひて立テんとする物なる故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのまゝにてあらんこそ、真の自然には有べきに、そのさかしらを厭ひ悪むは、返りて自然に背ける強事シヒゴト也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然をタテんとする道にはあらず、もとより神の道のまゝなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りてトクところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のまゝなるヨシをいへば也、そもそもかくの如く、末にてトクところの似たればとて、その本を同じといふべきにもあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、たゞ古伝のまゝにトクべきもの也。……

この引用に続いて、小文今回の冒頭部に引いた次の文が記されるのである。

―ここに、はんを厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じを摑まえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当り、受継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。……

そして第四十三章の終りに、「右の『くず花』中の文の表情を眺めていると、やはり宣長が、当時の儒家のうちで、最も重んじていた徂徠の顔が浮んで来る事を、附記して置こう」と前置きして小林氏は言う。

―真淵の青年時代の漢学も徂徠学であったが、その古文辞こぶんじ尊重の風を受けた事には、間違いあるまいが、その深く経義に結ばれた面には、格別の関心はなかったのではないかと思われる。特に、晩年、「国意」の究明に熱中するようになってからは、儒家となると、徂徠であれ、春台であれ、これをにくむこと甚しく、宣長の寛大は少しも見られなかった。古道を言うのに、老子を持ち出すのは、賛成出来ないと言う宣長の口吻には、明らかに徂徠の老子観が感じられる。これは、真淵が言及する老子とは、余程違うのである。聖人の道は、さかしらを厭うという点で、天地自然の道に似ていると言うだけの事なら、徂徠には、何も老子に、真っ向から反対する理由はなかったのだが、老子には、そのどう仕様もない気質から、穏やかな物の言い方が出来なかった、と徂徠は見るのである。ことごとく人為を排し、自然の道を強いて立てんとして、かえって、あるがままの自然に反するという事になる。……

小林氏は、こうして第四十三章の最後に再び徂徠を呼び出し、何を言おうとしたのだろう。思うに氏の本意は、真淵には「宣長の寛大は少しも見られなかった」に集約されているのではないだろうか。真淵は老子と同じく、そのどう仕様もない気質から、穏やかな物の言い方が出来なかった、「万葉集」一途で「ますらをの手ぶり」をどこまでも振りかざし、「古今集」以下の歌集を侮ったかと思えば「源氏物語」も「たをやめぶり」の下れる果てと決めつけて蔑んだ。言葉を換えて言えば、真淵の気質は建前主義だった。したがって歌も物語も、須らく「ますらをの手ぶり」でなければならなかった。だがその建前主義は、「古事記」には通じなかった。宣長は、真淵の建前主義に、当然の結果としての挫折を予感していたのだろう。宣長も「ふり」に注目した、人一倍注目した、三十五年もの間「古事記」の「ふり」に息をひそめ、耳を澄ませ続けた。だがその「ふり」は、「ますらをの手ぶり」の「ふり」ではなかった、「古事記」の言葉の変幻自在、融通無碍の「ふり」であった。

小林氏は、第四十四章に至って言う。

―宣長は、黙って「古事記伝」を書き進めた。しかし、この大きな仕事がほぼ完成した頃には、次のように書いているのである。―「そもそも此大人、古学の道をひらき給へる御いさをは、申すもさらなるを、かのさとし言にのたまへるごとく、よのかぎりもはら万葉にちからをつくされしほどに、古事記書紀にいたりては、そのかむがへ、いまだあまねく深くはゆきわたらず、くはしからぬ事どももおほし、されば道をトキ給へることも、こまかなることしなければ、大むねもいまださだかにあらはれず、たゞ事のついでなどに、はしばしいさゝかづゝのたまへるのみ也、又からごゝろを去れることも、なほ清くはさりあへ給はで、おのづから猶その意におつることも、まれまれにはのこれるなり」と。何も遠慮した物の言い方をしているのではないので、この文に続けて、「おのれ古典イニシヘブミをとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかンめれど、これすなはちわが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出来たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし、こはいとたふときをしへにて、わが師の、よにすぐれ給へる一つ也」云々(「玉かつま」二の巻)と言っている。……

―これで見ると、師の説くところは、まことに不徹底であり、曖昧でもあるが、それはそれとして判断出来る限り、師の古道観には、自分は反対であると、はっきり宣長は言っているわけである。では、どこが気に入らないかという彼自身の見解は、一向に説かれていないのであり、又実際、右の文章は、真淵の古道を正面から論じた宣長の、ただ一つのまとまった文章なのだ。どうしてそういう事になったかは、もう言うまでもあるまい。「記紀」二典の事跡に、特に「古事記」に語られた神代のもろもろの事跡のうえに、古道は具備ソナわっている、道を明らめようとする自分の学問に関して言えば、「古事記」註釈の仕事だけに、精神を集中していれば、事は足りる、そういう考えによる。……

―だが、評家の立場から、一言して置きたい事はある。宣長が、「古事記伝、三之巻」を書き上げたのは、明和四年の五月であった。真淵が、「人代を尽て、神代をうかゞ」わんと苦しんでいた時、宣長は、「迦微」という言葉の古意に関する吟味を、まとめようと苦しんでいた、そういう言い方をして、先ず差支えない。……

―彼の言うところによれば、「迦微」という古言は、体言であって、「迦微」という「たゞ其物を指シて云ふ」言葉である。従って、「迦微の道」と使われる場合も、実際に「神の始めたまひ行ひたまふ道」を直指しているのであり、例えば、「測りがたくあやしき道」と言うような、「其道のさま」を、決して意味しない。このような古言の「ふり」が、直ちに古人の思想感情の「ふり」である以上、この点を曖昧にして置く事は、古学の上で、到底許されない。この、宣長の決定的な考えからすると、真淵が、「神の道」という言葉を、ひどく古言のふりから離れて使っているのが見えた筈である。真淵が熱心に論じたのは、神の道「其物」ではなかった。神の道の「さま」であった。わが国の神道には教えがない、教えというものの全くないところが尊いのである。真淵ほど、これをはっきりと理会りかいした人はいなかった。宣長が、古学を開いた真淵の「いさを」を言う時に考えていたのは、その事だったと言ってよかろう。だが、晩年の真淵は、この、わが国の神道に現れた、彼の言葉で言えば、「国の手ぶり」を、「たゞに指す」言葉を烈しく求めたのである。さかしらを厭うあまり、自然の道を、しいて立てんとし、人作りの小道をにくむあまり、自然の大道を説かんと急ぎ、宣長の言ったように、「おのづから猶その意(漢意)におつる」事になった。……

恩師真淵は、偉大な反面教師であった、名山と呼ばれる他山の石であった。

 

(第三十二回 了)