松阪、本居宣長記念館、花満開

須郷 信二

八度目の松阪は、雨模様だったが、暖かく、街の桜は満開だった。

四月七日から九日までの三日間、池田雅延塾頭を始め、池田塾の有志と三重県松阪市を訪ねた。今回は、三月にリニューアルなったばかりの本居宣長記念館訪問と、宣長の奥墓参拝が主な目的だったが、山室の山桜に会えるかもしれないという期待もあり、一行十一名、軽い高揚感に包まれながらの「大人の修学旅行」となった。

結果からいうと、奥墓の桜はまだ蕾だったが、新著『宣長にまねぶ』(到知出版社)を上梓したばかりの吉田悦之・本居宣長記念館館長に、長時間お話を伺うことができて、まさに至福、花満開の時間を過ごさせていただいた。

池田塾と松阪、あるいは本居宣長記念館とのご縁は、平成二十六年に遡る。経緯は省くが、この年の十月、およそ一五〇名の市民と、池田塾関係者四〇名が参加したトークイベント、「小林秀雄『本居宣長』の魅力~私が鞄に『本居宣長』をひそませるわけ~」が、市内の産業振興センターで開催された。鈴木英敬・三重県知事も参加されたこの会は、吉田館長、茂木健一郎さん、池田塾頭の鼎談で進行して、「いまなぜ小林秀雄なのか、いまなぜ本居宣長なのか」というテーマで、二時間にわたり白熱した議論が繰り広げられ、市民の皆さんからも熱心な質問が相次いだ。以来、イベントの幹事を務めた数名は毎年松阪を訪れており、松阪市や吉田館長の関連イベントが東京である時はお招きいただくなど、池田塾と松阪の交流は継続している。

「今回の本は、自分自身が表に出てしまった部分が多くて、どんなものかと思う」。

七日金曜日の夕刻、先行して到着した数名と記念館に伺い、さっそく『まねぶ』の感想をお伝えすると、館長は少し困った顔をされて、上のようにお答えになった。文字通り一生を宣長にかけた、研究者、実務家の迫力が詰まった名著だと思っていただけに、少し意外な気もした。しかし、これが吉田館長という方なのだ。 立居振舞はあくまで控えめ、伏せ目がちに、少し早口にお話しになる。それでも、こちらが質問すれば、十分な時間を使って答えてくださり、関連する話が次からつぎへと湧き出てくる。この日もご挨拶だけと思っていたが、気づくと一時間以上もお話を伺っていた。館長からは、記念館のリニューアルを終え、新著も完成した安堵と、少しの興奮が伝わってきた。

記念館は松阪城址内にある。ご挨拶を終え、蒲生氏郷の築いた城跡の満開の桜を楽しみながら、同行者と、今会ったばかりの館長のことを話す。仲間のうち二名は館長と初対面で、それぞれに強い印象を持ったようだった。松阪への旅とは、吉田館長に会うための旅なのかもしれないと思う。

八日土曜日は曇り空で、少し雨模様の中、午前中に奥墓に向かう。駅前に、吉田館長と、詩吟の宗匠、加藤邦宏(象山)先生らが車で迎えに来てくださり、三台の車に分乗して、町の南二里(八キロ)の山室山を目指す。「他所他国之人、我等墓を尋候はば、妙楽寺を教へ遣可申候」という宣長の遺言書通り、「他所他国之」一行は妙楽寺を目指す。

妙楽寺から始まる参道の入り口に、山つつじが赤い花をつけていたが、奥墓の山桜の蕾はまだ固かった。参拝の後、加藤先生が、宣長の「敷島の 大和心を 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」の和歌を、節をつけて吟じてくださる。「四尺ばかり」の墓の前に佇み、その姿をじっと眺めていると、「簡明、清潔で、美しい」という、小林秀雄の表現がいかに的確か、思い知る。

昼食を挟み、午後二時過ぎから記念館の見学。今回のリニューアルのテーマは「最初の一歩」だそうで、何の知識も持たない人でも、宣長さんや、松坂の町を知るきっかけになるような場所にしようと考えたという。そのため、二階の展示室、十八世紀の世界に入る前に、一階で心の準備ができるような工夫が凝らしてあり、エントランスの床には江戸時代の松坂の地図が描かれ、新たに配置された木のテーブルには、「宣長クイズ」のプレートが埋め込まれている。真新しい木の香りが漂うエントランスや、展示室には、多くの見学者がいて、三月の来場者は平年の三倍だったという。半世紀近い歴史を持つ記念館も、新たな一歩を踏み出したのだ。

この日のハイライトは、講座室で行われた館長のレクチャーと、質疑応答。冒頭、館長からは、リニューアルの概要についてお話があった。初心者だけでなく、宣長研究者のための「最初の一歩」も用意したつもりだという。現在の宣長研究は、細分化しすぎており、また文献の研究に偏っていて、宣長という人物の全体像が見えにくくなっている。記念館としては、トータルの宣長体験をできる場所として、専門家に見せても恥ずかしくない展示を心がけたいとのこと。

レクチャーの後、参加者からも活発な質問が出され、以下のような興味深い応酬があった。

  Q 館長はなぜ宣長に惹かれるのか?
  A 自分の対極にある存在だから。

  Q 宣長を身近に感じたことはあるか?
  A ない。宣長は遠い存在。しかし不思議に満ちていて、自分を惹きつける。

  Q 宣長はなぜ、二度にわたって自画像を描いたのか?
  A 三十年考えているが、わからない。

最後の問題は、宣長はなぜ日記を、自分の誕生の記述からはじめたのか? あるいは、なぜ奥墓を作ったのかという問題にもつながると思う。

『宣長にまねぶ』を書き終えた時、館長は、「宣長さんのことはわからないことばかり。次に本を書くなら『わからない宣長』と題するか」と思われたそうだ。質疑応答では「わからない」という言葉を何度も口にされたが、それは、「わからないものを、わからないままに受け止める」、あるいは、「不思議に耐える」という、宣長にも通じる態度なのではないかと感じた。参加者にも、その知的誠実さが伝わったのか、ただ答えや、解説を求めるだけでない、生き方そのものを問うような質問も多く出された。

館長の話は収蔵庫でも続き、気づくとすでに閉館時間が迫っていた。料理屋に場所を移しての延長戦には、学芸員の方々や加藤先生も参加され、「他所他国之」私たちと、松阪の人々との懇談は深夜まで続いた。杯を重ねながら、池田塾で学ぶことになったのも、こうして松阪に何度も足を運ぶことになったのも、宣長流にいえば、「みなあやし」だ、などと考えていた。

最終日の九日日曜日は、加藤先生のご案内で、七名が伊勢神宮参拝と賢島遊覧の道程を辿ったが、この話は別の機会に譲ることにする。

ところで、三重県はこの秋に、「宣長サミット」を計画しているという。伊勢志摩サミットを終えて、今度は宣長サミットというわけだ。「茂木さんのあの一言が、知事のお尻を叩いたんですよ」、と館長は笑う。平成二十六年のトークイベントの冒頭、茂木さんは開口一番、客席最前列にいた知事に向かって、「鈴木知事、悔しいじゃないですか。宣長さんの時代、一級の知識人は地方にいたんです。いまは松阪の優秀な学生が名古屋大学に入っても、地元に戻らないでしょ」、と熱弁を振るったのだ。それが知事を動かしたのかはわからないが、一連のイベントが企画されているらしい、池田塾としても何らかの関わりができないか模索中だ。松阪との絆がまた一歩深まる、宣長さんの姿がまた少し鮮明になる、そんな予感と期待で、胸が熱くなる。

 (了)