昨秋、梅原龍三郎とルノワールの二人展、「拝啓 ルノワール先生」を、丸の内の三菱一号館美術館で観た。とくに今回は、梅原の数少ない著書の一つである『ルノワルの追憶』(三笠文庫、1952年)を予め読んだ上で臨んだので、とても面白く、その時を過ごした。
ちなみにその書は、梅原の個人日記かと見紛うばかりの率直さで、彼の熱情が冷静に綴られており、日常生活の中でルノワールが漏らした肉声も記されていて、梅原とルノワール、それぞれの人柄と信念を知る上でも貴重な資料だと思われるが、小林秀雄先生は、同書について、「いかに画家とは言え、こんな文学臭のない文章を書く人は稀だ。今日の文学青年が読んだら、ただ呆れるばかりの無邪気さ、と言うかも知れぬ、そんなものである」と記されている(「梅原龍三郎」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。
このエッセイでは、絵画の専門家ではないが小林先生の作品には永年親しんできた者として、小林先生の作品に幾度となく登場する梅原龍三郎、ルノワールの二人展を私がいかに感じたかということを、『ルノワルの追憶』に残されたルノワールの肉声も引用しつつ、綴ってみることにする。
もともと私は、梅原とルノワールの間に交流があったことは知っていたが、それが、当時二十歳の梅原による、今日いわゆる「アポなし突撃訪問」(1909年)から始まったことは、同書で初めて知る事実であった。その邂逅のシーンはとても印象的であり、当時のルノワールの様子を的確に描写していると思われるので、引用しておきたい。
「私は先生がリウマチザンであることを本で読んで知っていた。然し私はルノワルは二本の松葉杖に引懸ったぼろ服であることを知らなかった。然しぼろ服は荘厳なる首をのせて居た、就中美しく強き眼を持っている。この痛ましい有様はどういう訳か私に一層尊いものに思われた」(原文は旧字体旧仮名づかい、以下同様)
そして、二人は初めての握手を交す。当時68歳になろうとしていたルノワールの手は、リウマチにより「一寸形容するものを知らない奇怪な様に変形され」ていた。私は、別の展覧会で観た、当時のルノワールの映像を思い出した。指を使って絵筆をきちんと保持できないルノワールは、筆を手に結び付け、それを何とも思わぬ様子で、寡黙な職人のようにせっせと画を描き続けていた。
そして、この日、南フランス、カーニュにあるルノワールの家で、梅原の訪問を奥に伝えたのが、ルノワール作品のモデルとしても有名なガブリエルである。会場では、彼女がモデルと思われる小品「バラ色のブラウスを着た女」(1914年頃)も展示されており、その人となりが、匂うように私の身中に伝わってくる、印象深い作品であった。
それから、たまに共にする日常の中で、師ルノワールの教えは続く。
「画を成すものは手ではない眼だ、自然をよく御覧なさい・・・・・・」
「君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補うことの出来るものだが色彩はタンペラマン(気質、性質/坂口注)によるものだ、それがあるのが甚だいい。何んでも手あたり次第に写生せよ、向うをよく見て、五分間を失わずかけ、それが一番早い進歩を与える」
「君は先ず眺めていることは甚だいい。先ず見ることによって解さねばならん」
このように、まずは対象をよく観ることが肝要であることを何度も諭され、そして長所を褒められることが、梅原の大きな自信に繋がっていったことは間違いないものと思われる。
師の教えはさらに続く。ある日の夕食の時、ルノワールは梅原にこう言った。
「皇帝(ナポレオン一世のこと/坂口注)は或る機械の発明者を銃殺した。機械は人から仕事を奪うからである。手を働かせるより、精巧な機械はない、今日の産出のすべての品物が美を欠くのは皆手の働かせ方が足りない故である」
ルノワールは、陶磁器の生産で知られるフランス中南部のリモージュで生まれ、陶器の絵付師として仕事を始めており、父も仕立職人であった。小林先生は、「近代絵画」(同第21集所収)の中で、ルノワールについて、「恐らく彼にとって、陶器の絵つけ師から画家になったという事は、飛躍でもなかったのであり、職人の道は、坦々として芸術家の路に通じていたのである」と記されており、「画道に必要なものは、天才ではなく寧ろ職人である」というルノワールの確信を紹介されている。
梅原自身、訪問時に筆を手にしていない師の姿を見ることが殆どなかったこと、臀部の腫物のため手術を受けたルノワールを見舞った時にも、病室に活けられたそれよりも美しい薔薇の画が、2作品出来ていて驚いた経験を記しているが、彼が、それらの実体験を通じて得たものは、ルノワールの職人性、というような簡単な言葉では片づけることのできない、梅原の身中に、深く底流し続けて行くものであったに違いあるまい。
そして、1913年6月初旬が、梅原の最後の訪問となった。そこで、ルノワールが「名刺代わりとして持って行きなさい」と準備していたものが、「薔薇」(1913以前)という作品である。しかしこの作品は、1919年、ルノワールの訃報を梅原が日本で知った後、フランス渡航費用捻出のため、彼の手を離れることになる。
会場では、ルノワールによる、2点の薔薇の作品、「バラ」と「バラの花束」(共に製作年不詳)が展示されていた。ともに梅原の寄託品であり、生き生きとした美しい薔薇であるが、自ずと目が向かうのは、これまた梅原が用意した、美しい額縁である。それぞれの画と額縁は、まるで一つの作品であるかのように見事に溶け合っている。ここに、梅原の師への深い愛情と、泣く泣く手放さざるを得なかった、前述の作品「薔薇」に対する切ない気持ちを汲み取るのは、過ぎたことであろうか。
さて、気づけば、これまで梅原の作品について一切触れてこなかったので、ここらで触れてみたい。実は私にとって、今回が初めて、一定の規模の梅原作品とじっくり向き合う機会になった。会場では、渡仏前後の、師を意識したとおぼしき作品から、没年に近いころの作品まで展示されていたが、私が、いいなぁ、と感じ入り、その絵の前で長い時間向き合うことになったのは、後年、北京を題材にして描かれた「紫禁城」(1940年)と「天壇遠望」(1942もしくは43年)であった。ともに、手前の風景の奥に緑が広がり、碧い上空には、少し図案化されたようなユーモラスな雲が、ゆったりと泳いでいる。
この作品には、一見したところ、ルノワール的なるものは見当たらない。しかしながら、ゆっくり時間をかけて眺めていると、この作品を描いている時の梅原の心持ちのようなものが、じんわりと伝わってくるのである。北京にいることを愉しんでいる、画を描くことを愉しんでいる、画家という職業を愉しんでいる。
この感覚は、今回展示されたルノワール作品で私が最も心を動かされた「パリスの審判」(1913-14年)を観た時に感じたものと同じものであると直覚した。この作品は、5、6年前となる1908年に描かれた同名作品と並べて展示してあった。旧作と比べてみると、あきらかに鋭さと明瞭さが増している。既にあのように痛ましい指の状態であったにもかかわらず、職人としての手は、そしてその職人の魂は、病に動じることなく、むしろ作品をはっきりと進化させていた。私は、この画をせっせと製作しているルノワールの姿を想像してみた。すると、ルノワールの、声には出さない満ち溢れる喜びを、身体の奥ではっきりと感じることができた。
師の教えというものは、あえて意識せずとも、教えを乞うた者の身体の奥底にしっかりと宿っている。師の教えというものは、見た目にわかりやすい方法論にあるよりも、むしろ師自身の人生との向き合い方、言い換えれば、師が自らの人生をいかに生きるべきかと格闘しているその姿を、目の当たりにしてこそ得られるものではあるまいか。気づけば私は、そう自問していた。
最後は、小林先生の晩年の文章の引用で結びたい。
「梅原さんは、最近、目を傷められ、手術でいろいろ苦労されている様子だが、七十余年間、休む事なく練磨されて来たこの画家の眼が、肉眼であったか心眼であったか、誰が知ろう。モネは肉眼が普通には働かなくなってからあの『睡蓮』を描いたのだが、これに似かよった事が、梅原さんにも起こっているかもしれない。私はひそかにそんな事を考えている」(「梅原龍三郎展」、『小林秀雄全作品』第28集所収)。
(了)