三十五 我は神代を以て人事を知れり
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今年、令和五年の四月からだとちょうど二年前になるが、私はこの小文の第二十八回を、「歌の事から道の事へ」と見出しを立て、次のように書き起していた。
「本居宣長」の思想劇は、第十九章に至って舞台が移る、大きく移る、冒頭に、宣長の随筆集『玉勝間』の二の巻から引かれる、と前置きし、
――宣長三十あまりなりしほど、県居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釈を物せむのこゝろざし有て、そのこと、うしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われももとより、神の御典をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古ヘのまことの意を、たづねえずばあるべからず。……
を引き、「県居ノ大人」とは賀茂真淵のことで、と紹介して、若き日の宣長の、真淵の著作「冠辞考」との出会いを中心にそれなりのことを書いたのだが、これに続けた第二十九回の見出しを「反面教師、賀茂真淵」としたことによって第三十回以後も「反面教師、真淵」から抜けられなくなり、所期のテーマ「歌の事から道の事へ」の一筋道にはなかなか戻れないまま二年もが経ってしまったというわけだった。
と言って私は、真淵を否定したり中傷したりしようとしたのではない、私としては第二十六回に引いた、小林氏が第二十章に書いている次の一言がずっと気になっていたのである。
――「万葉」の、「みやび」の「調べ」を尽そうとした真淵の一途な道は、そのままでは「古事記」という異様な書物の入口に通じてはいまい、其処には、言わば一種の断絶がある、そう宣長には見えていたのではなかろうか。真淵の言う「文事を尽す」という経験が、どのようなものであるかを、わが身に照らして承知していた宣長には、真淵の挫折の微妙な性質が、肌で感じられていたに相違あるまい。……
さらに、第四十四章にはこう書かれていた、
――真淵晩年の苦衷を、一番よく知っていたのは、門人の中でも、宣長ただ一人であったと考えていいだろう。「よく見給へ」と言われて、宣長は、しっかりと見たに違いないが、既に「古事記伝」の仕事に、足を踏み入れていた彼は、この仕事を通して見たのである。彼には、冒険に踏み込んでみて、はじめて見えて来たものがあった。それは明瞭には言い難いが、「万葉」の「しらべ」を尽そうとした真淵の、一と筋の道は、そのままでは、決して「古事記」という異様な書物には通じていない、其処には、一種の断絶がある、少くとも、それだけは言える、という事であったと思われる。真淵の眼の前には、死の姿が立ちはだかっていたが、そう見えたのは、実は「古事記」という越え難い絶壁であった事を、感じ取ってはいなかったか。更に言えば、真淵自身も、「人代を尽」くしたと考えたところで、何とは知れぬ不安を感じていたとさえ、宣長は思ってはいなかったろうか。……
これらの文中でも特に、「一種の断絶」とはどういう断絶か、である。
その「断絶」なるものを確と承知しようとしているうちに私は「反面教師、真淵」を五回も続けるという迂回をしてしまったのだが、しかしこの迂回も、これはこれで無駄ではなかった、反面教師、真淵のおかげで宣長の学問、特に宣長の古学の立ち姿をくっきりと目に入れることができた、とは思えるのだ。
そして今は、小林氏の言う「一種の断絶」も、明らかに見えている、小林氏は、第四十四章で、
――真淵自身も、「人代を尽」くしたと考えたところで、何とは知れぬ不安を感じていたとさえ、宣長は思ってはいなかったろうか。……
と言っているが、この「人代を尽くした」は、第四十三章で次のように言われていた。
――真淵の歿年には、宣長の考えはほぼ成っていたであろう。少くとも、真淵が「小を尽て、大に入」らんとし、或は「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとして、どうして難関が現れて、その行く手を遮ったか、難関には、どういう性質があったから、そういう事になったかを、非常にはっきりと見抜いていたと思われる。……
とすれば、どうして宣長には、真淵の前に現れていた難関と、その難関の性質が見抜けていたかである。
最終章の第五十章まで行くと、こう言われている。
――道の問題は、詰まるところ、生きて行く上で、「生死の安心」が、おのずから決定して動かぬ、という事にならなければ、これをいかに上手に説いてみせたところで、みな空言に過ぎない、と宣長は考えていたが、これに就いての、はっきりした啓示を、「神世七代」が終るに当って、彼は得たと言う。――「人は人事を以て神代を議るを、(世の識者、神代の妙理の御所為を識ることあたはず、此を曲て、世の凡人のうへの事に説なすは、みな漢意に溺れたるがゆゑなり、)我は神代を以て人事を知れり」、――この、宣長の古学の、非常に大事な考えは、此処の註釈のうちに語られている。そして、彼は、「奇しきかも、霊しきかも、妙なるかも、妙なるかも」と感嘆している。註解の上で、このように、心の動揺を露わにした強い言い方は、外には見られない。……
「此処の註釈」の「此処」とは、「古事記」の上つ巻の、伊邪那美神が死に、伊邪那岐神が悲歎に暮れる場面からである。伊邪那岐神は死んだ伊邪那美神を自分の目で見たいと思い、黄泉国(死者の国)に入っていく。新潮日本古典集成「古事記」の頭注には、伊邪那岐神の黄泉国訪問・伊邪那美神との対話・禁忌と呪術・黄泉国脱出を通じて、黄泉国の恐怖、生と死の闘争、触穢からの忌避などが語られる、と言われ、黄泉国を脱出した伊邪那岐神が禊をすると天照大御神、月読命、須佐之男命と三貴子が生まれて伊邪那岐神はたいそう喜ぶ、というように話は展開する。小林氏は、この「神世七代」の大団円とも言うべきものは、「伊邪那岐神の嘆きのうちに現れる。伊邪那美神の死を確める事により、伊邪那岐神の死の観念が、黄泉神の姿を取って、完成するのを、宣長は見たのである」と言っている。
こうして宣長は、「神代を以て人事を知」ったのである。だが真淵は、「人代を尽て、神代をうかゞ」わんとしていた。「古事記」に記された「神世七代」によって人事すなわち人間が生きるということの霊妙さを知った宣長には、「萬葉集」という「人代」を究めて「古事記」という「神代」に到ろうとしていた真淵は「神代」に到ることはできないと見えていた、「神代」と「人代」との間には、奇しく霊しき絶壁がある、それを知らずに「神代」に到ろうとしても神代の妙理の御所為を正しく認識することはできず、神の御行為を初手から人間並みに引き下ろして解釈してしまう、これすなわち漢意に染まりきっているからだが、真淵はそういう世の識者連と同じことをしていると宣長は見ていたのである。
2
そういう次第で、反面教師、賀茂真淵に二年ぶりで別れを告げ、「歌の事から道の事へ」の一筋道を一日も早く辿り始めようと、
――宣長は、「源氏」の本質を、「源氏」の原文のうちに、直かに掴んだが、その素早い端的な掴み方は、「古事記」の場合でも、全く同じであった。……
と書き出されている「本居宣長」第二十八章を繙いた。宣長の言う「歌の事」は、一口で言えば「源氏物語」であり、「道の事」は「古事記」である。したがって「歌の事から道の事へ」とは、宣長の愛読、研究の焦点が「源氏物語」から「古事記」へ移った、それも自然に、自ずと移ったということなのである。
小林氏は、続いて言う。
――大事なのは、宣長に言わせれば、原文の「文体」にある。この考えは徹底していて、「文体」の在るがままの姿を、はっきり捕える眼力さえあれば、「文体」の一番簡単な形として、「古事記」「日本書紀」という「題号」が並んでいるだけで、その姿の別は見える筈だと言う。……
宣長が「古事記伝」の冒頭、「古事記伝一之巻」の「文体の事」で言っている「文体」は、「すべての文、漢文の格に書れたり」と書き出されているように、「古事記」の原文に用いられている漢字の表記法をさしていると思われるのだが、ここで小林氏が「古事記」「日本書紀」という「題号」を例にとって言っている「文体」は現代語の「文体」に近いようであり、小林氏は続けてこう言うのである、「安麻呂」は「古事記」を書いた太安麻呂のことだが、
――さて、宣長の言う文体だが、これが、序と本文とではまるで違うところから、序は安万侶の記したものではなく、後人の作とする人もあるが、取るに足らぬ説である。――「其は中々にくはしからぬひがこゝろえなり、すべてのさまをよく考るに、後に他人の偽り書る物にはあらず、決く安万侶ノ朝臣の作るなり」と宣長は断定している。名はあげていないが、序文偽作説を、宣長に書送ったのは真淵なのだ(明和五年三月十三日附、宣長宛書簡)。説というほど詳しいものではないが、真淵は、「本文の文体を思ふに、和銅などよりもいと古かるべし。序は恐らくは奈良朝の人之追て書し物かとおぼゆ」、要するに「此序なくば、いと前代の物と見ゆる也」と言う。……
反面教師、賀茂真淵は、ここにも現れる。だがこの「古事記」の序は偽作とする真淵の説にも宣長は従わなかった。小林氏は言う、
――「古事記序」の文体に、真淵は躓いたのだが、宣長は慎重であった。彼は言う、これは序とは言え、もともと元明天皇への上表文として書かれたものであるから、当時の常式通り、純粋な漢文体で、当代を賛め、文をかざったのは当然の事である。その為に、形に引かれて、意旨の漢めいたところもあるわけだが、これに私達が引かれて、本文の旨を誤らぬように注意すれば足りる。しかし、一層注意すべきは、この常式通りの「序」が、本文は常式を破ったものだと、明言している事だ。「序」の文をかざったところについて多くを言う要はないが、何故本文では常式を破る事になったか、為に本文はどういう書ざまになったかを「序」が語るところは、大事であるから、委細しく註釈すると言う。……
こうして真淵はここでも反面教師として顔を出してくるのだが、宣長が真淵の言うところにまるで従わなかったのは、宣長に「古事記」の序はもとは元明天皇への上表文として書かれたものであるという明確な反論根拠があったからである。しかしそれ以上に、太安麻呂の創意によって書き表わされて以来一〇〇〇年もの間、まったくと言っていいほど誰にも読めなくなっていた「古事記」の漢字をしっかり読もうとしていた宣長にとって、序は大事だった、なぜなら、序文としては別段特異ではなかった「古事記」の序が、「古事記」の本文は常式を破っている、なぜ常式を破ることになったか、そこについてわざわざ言明しているからだった。ということは、序で言われていることは宣長にとって「古事記」を読み解くうえで唯一最大の拠り所だったということであり、宣長は序も本文と同じ安麻呂の文であることを確と腹に入れて、まずは序の解読にかかるのである。
(第三十五回 了)