「本居宣長」を手におしゃべりするのが大好きな四人の男女。今日も三々五々集まってきたようだ。
江戸紫が似合う女(以下「女」) あら、お買い物?
凡庸な男(以下「男」) 週末にワイン会があるので、買い出しに行ってきた。
女 ワインがお好きみたいね。
元気のいい娘(以下「娘」) ただの飲んだくれでしょう?
男 ご指摘は重く受け止める、でもね……
娘 記者会見みたいだね。「でもね」って、何か言いたいの?
男 呑めば酔っ払ってしまうけど、それでも、ワインというのは、奥深い世界だなと思うんだ。
娘 ほんと?あんた、ワインが分かるの?
生意気な青年(以下「青年」) だいたい、ワインって、構えからしてイヤミだね。拳がすっぽりと収まるほどの大きなグラスの、下四分の一ほどに白ワインを注ぐ。細く長い脚の根元を指で挟み、台座をテーブルの上で滑らせ、グラスを何度かゆっくりと回す、なんてね。
娘 そして、こう来るのよね。液体はグラスの中で揺れ、その膨らんだ部分に香りが満ちる。ゆっくりと香りを確かめ、徐にワインを口に含む、とかなんとか。
青年 極め付きは、「かりんや梅酒のような香り、それにかすかな蜂蜜のような香り。少し尖った酸味と柔らかな苦みがあって、余韻が口の中に長く残った」なんて能書きだね。
娘 キモすぎ。
青年 言ったもん勝ち、ハッタリの世界じゃないのかな。
男 でも、それだけでもないと思うんだ。飲むたびに、深みのある世界だって感じるんだよ。
女 あるワイン評論家がこんなふうに言ってるわ。「たとえば、ワインの質をはかる最大の基準は、『複雑さ』である。グラスについだワインに繰り返し戻るたびにさきほどとは違う香りや味に出会うことが多いほど、ワインは複雑だと言える」(マット・クレイマー『ワインがわかる』白水社刊23ページ)
男 だから、その複雑さについて深く知りたくなり、知ればしるほど、楽しみが増すような気がするんだ。
娘 確かに、そういうことって、ほかにもあるかもね。骨董品とか、絵画とか。
男 人間の感性を離れて明確に測定する、みたいなことができない世界。ワインを味わうように、絵画や骨董、詩や歌でも、「味わう」という言い方がピタッとくるよね。
青年 文学や美術のような文化的なものと、ワインなんかを同列に論じていいの?
女 そうかもしれない。でも、お叱りを覚悟していうと、こういう世界というのは、とても複雑で、奥が深くて、だからこそ、何度でも、繰り返し味わうことができるのでしょう。
娘 好きな絵や、気にいった骨董品であれば、何度見ても、長い時間見続けても、飽きることはないよね。
女 でね、これもさっき評論家の受け売りなんだけど、ワインにも、美術品や工芸品の世界と同じように、コニサーという人が存在するようなの。
娘 コニサー?
女 コニサー(connoisseur)。目利きとか、鑑賞家みたいな意味なんだけど。
青年 そういう人の言うことは、言ったもん勝ちのハッタリではないとでもいうわけ?
女 そうね。彼によれば、「コニサーについていちばん要を得た、おそらく最上の定義は、『好きなもの』と『良いもの』の区別ができる人」で、「理想的なコニサーとは、ワインを味わったあと、たとえば『こいつは偉大なワインだが、私はご免だ』といってのけられる人物」なんだそうよ(前掲書22頁)。
娘 好き嫌いと、善し悪しの判断を区別するというのは、なんか分かる気がする。
青年 それは、主観を排して、客観的な基準で判断する、ということでしょう。物理的な測定を志向することになる。それが無理なら、結局、好き嫌いの世界に戻るんじゃない。
女 それもちょっと、乱暴というか、単純すぎるというか。
青年 なぜ?
女 単なる好き嫌いではないという意味で、主観的な判断ではない、とはいえるわ。でも、客観的な基準なんて、便利なものがあるわけではないのよ。
青年 では、どうやって判断するのさ。
娘 そうだね。複雑さに満ちていて、奥深く、飽きの来ないそういう世界で、万人が納得するような判断なんてできるのかな。
女 例の評論家が、アンティーク銀器のコニサーのお話を紹介しているの。「時代ものが当代のものより優れている、なんて根も葉もないことです。が、上等な銀器のコニサーにとってみれば、古物や新作にかかわらず、品物にひそむ、なにか名状しがたい気合のこもりかたから、あるものがオリジナルであるかどうかが判然とするのです。それは古さびた外観や傷、へこみの問題ではありません。よほど巧みに写してあっても、複製品にはオリジナルが必ず身につけているものが、どこか欠けている。作家の手の伸びやかで自然な動きがない、ともいえます。オリジナルには造った者の心意気と手の働きが体現されているけど、コピーにはこれがつかまえられない。ま、理由は説明しずらくても、実物を見れば納得がいくはずです」(前掲書p19,20頁)
男 こういう人たちって、対象のことが、ワインでも、銀器でも、絵画でも、詩歌でも、何でもそうなんだけど、とても好きで好きで、好きだからこそ、自分の勝手な感覚ではなくて、対象の中に備わっている良さを、なるべく本来の姿を損なうことなく知りたいと思うんだよ。
女 大好きだからこそ、対象が、そういう丹念な吟味に値するものだという確信がある。どうせこんなものだろうなんて決めつけはしない。その上で、容易にたどり着けないかもしれないけれど、学びを深めていくことに喜びを感じ、楽しんでいるのだと思うの。
娘 それって、好・信・楽の三題噺に強引にもっていこうとしてない?(笑)
女 ばれたかしら(苦笑)。でも、あながち悪ふざけでもないと思うのよ。
娘 どういうこと?
女 小林秀雄先生は、(契沖と宣長の)「二人は、少年時代から、生涯の終りに至るまで、中絶する事なく、『面白からぬ』歌を詠みつづけた点でもよく似ている」と書かれているわね(新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集、71頁)。二人とも、長じて偉大な歌学者になるのだけれども、その出発点には、歌を楽しむ心があったのではないかしら。
男 確かにそうかもしれないね。
女 だから、小林先生も、「『僕ノ和歌ヲ好ムハ。性ナリ、又癖ナリ、然レドモ、又見ル所無クシテ、妄リニコレヲ好マンヤ』いう宣長の言葉は、又契沖の言葉でもあったろう」と書かれたのではないかしら(前掲書71頁)
青年 しかしね。二人とも、歌が好きだったというのは、そのとおりかもしれないよ。でも、契沖と言う人は、「従来歌学の名で呼ばれていた固定した知識の集積を、自立した学問に一変」させるという卓越した精神の持ち主で(前掲書73頁)、宣長さんはそれをさらに発展させた大学者なんだよ。
女 それは、分かってるわ。二人とも、大学者よ。
青年 小林先生は、「ここで宣長の言葉を借りてもいいと思うが、年少の頃からの『好信楽』のうちに、契沖は、歌学者として生きる道を悟得した。私にはそう思われる」と書かれているけど(前掲書83頁)、二人の「好信楽」は、「好事家の趣味というような消極的な意味合い」ではない(前掲書66頁)、やがて大成する若い才能が自ずと示した「志」なのでしょう。
女 それも分かっているわ。二人の学者としての人生のドラマが、そこからどう展開していくのか、小林先生にご本の中で見せていただいている。でもね、だからといって、二人の「好信楽」と、私たちのそれとを、隔絶した別物とばかり思い込むこともないのじゃないかしら。
青年 なんだって。
女 宣長さんは、仏教の教説のみならず、儒墨老荘諸子百家つまり大陸由来の学問もまた「皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、さらには、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言ったそうね(前掲書60頁)。
青年 それはあくまで「栴檀は雙葉から芳し」みたいなことだよ。
女 もちろん、宣長さんの場合は、こういう気質が、やがてご本人を新しい学問の道へと誘うことになる。これを直ちに、私たちのような凡庸な人間に引き付けて考えてはいけないのかもしれない。
青年 当然だよ。
女 でも、こういう、若き日の宣長さんの生き方には、なにかとても、健康的というか、ものごとに対する肯定的な雰囲気が感じられて、私は、好きだな。
青年 あなたの好き嫌いを言われてもね。
女 そうかしら。世の中の色んなことを楽しむことができる。楽しいからこそ、深く学び続けることができる。こういう姿勢って、私たちの学びにも通じるものがあるのではないかしら。私たちが、宣長さんや小林先生の作品を読み、学んでいるのも、別に誰かに強いられたわけではないし、フィギュアスケートみたいに誰かに採点してもらうためじゃない。自分のため、でしょう。
娘 でも、勝手読みはよくないよね。
女 もちろんよ。でも、きちんと読もうとするのも、宣長さんや小林先生のご本が好きだからなんだわ。好きだから、正しく知りたい。
男 そうなんだね。私もたくさんの間違いを犯しているかもしれないけど、間違いを恐れて、何か、萎縮してしまうのは嫌だな。好きだという気持ちを大事にしたいな。
女おや、飲んだくれも、たまにはいいこというわね。
四人の話は、とりとめもなく続いていく。
(了)