まずは、令和六年能登半島地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災されたすべての方に、心からお見舞い申し上げます。
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「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さん、本多哲也さん、小島奈菜子さん、入田丈司さん、磯田祐一さん、荻野徹さんが寄稿された。
溝口さんが「本居宣長」を幾度も読み返すたびに着目してきたのは、「物」という言葉である。今回は、小林秀雄先生が、宣長の「源氏物語」に向かう態度について、「物語という客観的秩序が規定した即物的な方法」と書いている中でも「即物的」という言葉を、「読み過ごしてはいけない」ものと直観した。その言葉の深意を解く鍵は、契沖が遺した「定家卿云、可翫詞花言葉」という言葉にあった。
本多さんが熟視を重ねたのは、小林先生が、紫式部について書いている「平凡な生活感情の、生き生きとした具体化」という言葉である。そこで「平凡な生活感情」とは? 「具体化」とは? 小林先生の文章を、「本居宣長」はもちろん、「近代絵画」や「文学者の思想と実生活」なども含めて丹念に読み込んでいくと、その本質が見えてきた。真に偉大な作家たちが表現してきたものの真髄が見えてきた。
小島さんが挑んだのは、荻生徂徠も、宣長も、そして小林先生も、そこに「急所があると認め」た、孔子が詩の特色として挙げている「興」の功と「観」の功についてである。小島さんの文章をながめていると、徂徠の著作と直かに向き合ってみて、大きく情を動かされた小島さんの姿が目に浮かぶようだ。わけても「興」については、小林先生が書いている「普通の意味での比喩ではない」という言葉の深意を、小島さんが直知、体翫されたように感じる。
入田さんは、「本居宣長」を繰り返し読んでいくなかで、「和歌ハ言辞ノ道也」という宣長の言葉に注目している。自らの実体験も踏まえながら、古代を生きた人たちにとって、言葉がどのように使われ、機能していたのかに思いを馳せる。そして、歌というものが、どうして現代に至るまで、かたちを変えながらも詠まれ続けてきているのか? 入田さんが、実例として挙げている和歌と短歌も、心を落ち着けて、ゆっくりと味わってみたい。
磯田さんによる、今回の自問自答は、池田雅延塾頭の講義のなかで、中江藤樹や荻生徂徠らを「読書の達人」と呼ぶ小林先生の意図について質問したことに原点がある。池田塾頭からは「語意を追わずに、行間を読むということです。小林秀雄先生の読書も同じです」というアドバイスがあった。その真意を呑み込めないまま、改めて「本居宣長」を読み熟していくと、日常のふとした出来事から、直知するところがあった。
荻野さんは、おなじみの対話仕立てである。小林先生が書いている「歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失う」という文章において、女は小林先生の「自由」という言葉に、男は「歴史を限る枠」という言葉に眼を付けた。本文を丁寧にたどりながら、対話を紡いでいくと、過去を生きた人たちの「行動の自由」に思いを致すことで、今を生きる私たちの「自由」についての視界も、大きく開かれた。
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「考えるヒント」に寄稿された村上哲さんには、「本居宣長」を読み進める上で強く感じている二つのことがある。それは、著者である小林先生の「直観の強さとしか言いようのないもの」と「弛むことのない分析の力」である。一見相反するように見える「直観」と「分析」をどのように受け止めればよいのか…… ヒントは、小林先生が本文で紹介している、宣長と上田秋成という、対照的な二人が繰り広げた論戦のなかの「すれ違い」のさまにあった。
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昨年も、小林先生の「美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」(「美を求める心」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十一集所収)という教えを守り、生の音を求めて演奏会場へ頻繁に足を運んだ。
わけても年末に聴いた、小林秀雄に学ぶ塾の塾生でもある桑原ゆうさんが作曲した「死神」(世界初演)から受けた、いわく言いがたい強い印象が、いまだに身体から離れないでいる。これは、初代三遊亭圓朝が西欧の話を翻案したと言われている落語と、三味線、ヴァイオリン、チェロが四位一体となった作品である。落語は古今亭志ん輔師匠が、楽器はそれぞれ、桑原さんも参加している「淡座」のメンバー、三瀬俊吾さん、竹本聖子さん、本條秀慈郎さんが担当された。
先に「いわく言いがたい」と書いたのにはわけがある。まさに「何も考えずに」臨んだ演奏会のあとに、楽器の旋律の明確な印象がほとんど残っていないのである。だからと言って、落語の噺だけに心動かされたわけでもない。私は、四位が一体となって紡ぎ出されたものに、おのずと没入し、あたかも自らの身体も含めた五位が一体となったような感覚を覚えたのである。
桑原さんは、今回の公演にあたり、このように語っていた。
――落語はそれ自体で完成しています。物語、登場人物や情景の描写など、聴衆に与えるべきすべての要素が、完璧にバランスのとれた状態で、すでにそのなかにあります。その完成された「落語」に、あえて音楽を加えるのですから、それによって情報過多になり、聴くひとの想像力を抑制してしまうようでは意味がありません。音によってその演目から新しい一面を引き出し、通常とはひと味ちがう体験を共有することを目指さなくてはなりません。(中略)淡座では、落語もアンサンブルの一員として、言葉と音楽ができるだけ対等に関わり合いながら、全体が「成っていく」ような作品をつくることに挑戦しています。
まさに桑原さんたちの挑戦は奏功し、私はその次元を超えた四重奏に没入してしまったのであろう。思えばそこには、言葉と歌が生れ出る源泉、その母体に触れたかのような感触があった。
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荻野徹さんの「巻頭劇場」と杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。
(了)