言うまでもなく、本居宣長は人生の半分、三十五年をかけて「古事記伝」を著した学者です。「古事記」は、それまで誰も読むことのできなかった、宣長の生きた江戸時代から見ても千年以上前に漢字のみを使って書かれていた書物です。その「書物」を、当時の、ということは古代の日本人の心で解読するという、今日では想像することさえ容易でない偉業を成し遂げたのですが、本人は自身の学問について、晩年の随筆集「玉勝間」に「おのれとり分て人につたふべきふしなき事」と題する文章を残し、「自分には別段人に伝えるべき教えなどない」と言っていて(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28 集p. 100)、ますます宣長は偉大だと思わせられますし、宣長への関心はいっそう深まります。
私は昨年、「本居宣長」第四十三章の「御典を読むとは、わが心を読むという事であった」という件に目が留まり、この一文が何を伝えるものか理解したいという思いから、今年の一月、自問自答を行いました。
第四十三章に、小林先生が「御典を読むとは、わが心を読むという事であった。この道を行けるところまで行ったのが、自分が『此身の固め』に心を砕いたという、その事であった」と言われているのは、宣長が、道を究めようと弛まず続けてきた取組みを振り返って述べた、感想でしょうか。それは言い換えれば、誰も読むことのできなかった「古事記」を読むため、わが心に漢意が染みついてはいないかと常に疑い、漢意の欠けらでもあれば徹底的に捨て去る、これを繰り返し繰り返して、とうとう、生きとし生けるものであれば誰もが持つ、自身のまごころに気づいた、そういうことでしょうか。……
ここに見られる「御典」は「古事記」を指すと、宣長の学問論「うひ山ぶみ」で言われていますが、宣長はその「うひ山ぶみ」で、「詮ずるところ、学問は、ただ年月長く、倦ず、おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて」と言っているとおりに三十五年間、毎日「古事記」に向かい、その間ずっと、自分の心に漢意が染みついていないか、確かめ続けたというのです。その理由を記した件があります。
わが国の古典を明らめる、わが国の学者の心構えを、特に「やまと魂」と呼ぶには当たらぬ事だ。それは、内の事を「外にしたるいひやう」で、「わろきいひざま」であるが、残念乍ら、その心構えが、かたまっていないのだから、仕方なく、そういう言い方もする。何故かたまらないかと言うと、漢意儒意に妨げられて、かたまらない。――「からぶみをもまじへよむべし、漢籍を見るも、学問のために益おほし、やまと魂だによく堅固まりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はさるゝうれひはなきなり、然れども世の人、とかく倭魂かたまりにくき物にて、から書をよめば、そのことよきにまどはされて、たぢろきやすきならひ也、ことよきとは、その文辞を、麗しといふにはあらず、詞の巧にして、人の思ひつきやすく、まどはされやすきさまなるをいふ也、すべてから書は、言巧にして、ものの理非を、かしこくいひまはしたれば、人のよく思ひつく也、すべて学問すぢならぬ、よのつねの世俗の事にても、弁舌よく、かしこく物をいひまはす人の言には、人のなびきやすき物なるが、漢籍もさやうなるものと心得居べし」(同、第27集p. 284)
倭魂はかたまりにくく、漢書を読めばすぐに惑わされ、たじろいでしまう。「古事記」を読むということは、目で文字を追い、書かれた内容を客観的に分析するのではなく、やまと心をもって「古事記」の心を理解することであると、宣長は考えていました。自身のやまと心に漢意が染みついていないかを確かめ続け、いつのまにか染みついている、染みつきそうだ、と思えた漢意は徹底的に捨て去る、この継続は生半可な覚悟ではできず、容易ならぬ経験を味わった、とあります。
もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず、素膚にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負うがごとく、かならずからごゝろに落入べし。(「初山踏」)
「小林秀雄に学ぶ塾」の池田雅延塾頭は、「何事であれ漢意は人に理屈を押しつけようとし、人間の生き方にまで勝手な理屈を押しつけてきます、宣長はそこを見ぬいていたのです」と説明され、私の自問自答にある「感想」という言葉はあまりに軽く、ここは漢意はどんなに手強い敵であったか、その手強い敵と宣長はどう戦ったか、戦いぬいたかの「告白」なのだと教えてくださいました。
さらに宣長は、「やまと心」は説明が適わないものだから、自分の歌を一首、見てもらう、この歌の姿を素直に受け取ってほしいと言います。これを受けて小林先生は、先に引いた「わが国の古典を明らめる、わが国の学者の心構えを、特に『やまと魂』と呼ぶには当たらぬ事だ。……」の文章の最後で、「『やまと心』とは何かと問われても、説明が適わぬから歌を一首、歌の姿を素直に受取って貰えば、別に仔細はない、と宣長は言うのである」と言われています。その歌とは次の一首です。
しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花
「やまと心って、どんな心なんですか?」と人に訊かれたら、私はこう答える、澄んだ春の青空を背に、朝のやさしい日差しを受けて美しく柔らかく咲く山桜、あの山桜のような心です、と……。そうであるならば、やまと心は「道」の中心にある、人のまごころではないでしょうか。
まごころについては、本塾の塾生の溝口朋芽さんが考えを深められていて、本塾の別の回で、「まごころ」とは「人の心のおのづからなるありよう」を言った言葉、言い換えれば、人なら誰もが生まれつき与えられている純朴な心であると話されていました。
また、第三十七章には、次のような一節があります。「そういう次第で、明らかに、宣長の歌学の中心にあった『物のあはれを知る心』が、『道』の学問では、そのまま『人のまごころ』となるのである」(「小林秀雄全作品」第28集p. 66)。
美に接すると思わず震え、その場に坐りこみさえするような、柔らかで、時に弱々しい、人の心のおのずからなるありようを素直に認める、自分の心が、無意識のうちに漢意に囚われていないかと疑って、よくよく見つめる、こうした姿勢で生活することが、よく生きるということだと、このたび「本居宣長」から学びました。しかし、宣長にしてみれば、「あなたが生まれながらに持つ心、まごころを大切にしているのであれば、「おのれとり分て人につたふべきふしなし」ということなのかもしれません。
(了)