「本も、絵を眺めるように読むのです、最初は文章の意味を取ろうなどとは思わず、小さくでいいから声に出して読むのです。こうして口を動かしていると、文章の意味は後からついてきます、本を書いた人の言おうとしていることが自然にわかってきます。つまり、『絵を眺めるように』とは、本の一行一行を最初から細切れに「読解」していくのではなく、まずはざっと全体を、無心で目にしていくということです、絵は、そこに描かれている山や海や花の全体をまずはざっと眺めるでしょう、それと同じように、本に書かれている文章をひととおり、声に出して読みながら眺めるのです。『声に出して読みながら眺める』とは、著者すなわち本を書いた人の気持ちを話し言葉として聴き取るということで、こうすれば、絵を見て絵描きさんの丹念な筆遣いや荒々しい筆遣いから絵描きさんの気持ちや意気込みが汲み取れ、それがその絵の目のつけどころとなるように、著者が言葉を強くしている箇所や、なぜだか口ごもっているように読める箇所やを聴き分けていけば、その本で最も読み取るべきことは何かがおのずとわかってくるのです」。これは、以前開催されていた「小林秀雄に学ぶ塾㏌広島」の懇親会の席で、初めて私が、池田雅延塾頭に質問した際にご指導いただいたことです。
池田塾頭と出会うまで、小林秀雄氏の作品は一度も読んだことがなく、また文学とは縁のない人生を送ってきましたが、塾頭を通して聴く、小林氏の言葉が、これまでに経験したことのないほど、心に強く響き、ここでの学びは私の人生の軸となると直観しました。
読書についてご指導いただいてから、何年も経ったものの、いまだ小林氏の文章は難しく、度々立ち止まるという有り様ですが、くじけそうになるたびに、塾頭からご指導いただいたことを思い出し、小林氏の文章と向き合っています。
心から読書ができるようになりたいと、特に強く思うようになったのは、現在四歳の息子が、生後四ヶ月ごろから発症した、アトピー性皮膚炎がきっかけです。根本となる原因を改善していくために、信頼できる皮膚科の医師を探し、その指導のもと、薬や保湿剤は使用せず、睡眠、食事、運動などの生活リズムの改善と、皮膚をなるべく水で濡らさないこと、子どもの意欲を育てること、これだけを続けました。症状は体の成長とともに落ち着いてくるので、目に見えて変化が出るまでには半年から一年程かかります。私のこの治療方法は、アトピー性皮膚炎の標準治療とは異なるため、周囲の人達からは、なかなか理解されず、症状が改善するまでの一年間は、様々な心の葛藤が起こりました。我が子を人に見られることが恥ずかしいと感じ、子どもと向き合えなくなったり、批判的な意見をしてくる相手に強い怒りを感じ、攻撃的になったり……と、母親として、人間として、とても情けない自分の姿が嫌になり、このままの状態で、子育てをしてはいけないと感じました。
池田塾頭にご指導いただいた読書ができるようになることで、自分自身の弱さと正面から向き合い、受け入れられるようになるのではないかと思い、そういう意識で、「小林秀雄全作品」第27集を読むと、「自分自身の経験を重ね合わせて読む」ことと、「自分の価値観を通して読む」こととの違いは何か、という疑問が湧き、塾頭に質問したところ、「本を読むとき、自分の価値観は一切捨てること。池田の場合は、『小林先生なら、どう考えるのだろう?』ということだけを考える。私たち一人ひとりの価値観は、小さい、ちんけなものである。だから、本は、著者から何を教えてもらえるのだろうか、どんな話が聞けるのだろうか、という姿勢で読む。読んでいくうちに、『ここで著者が言っていることは、私にも何かしら覚えがある』という箇所に出会うとそこで立ち止まる、そしてその自分の経験を著者の言葉に照らし、『そうか、そういうことだったのか』と何かに思い当たる、これが『経験を重ね合わせる』ということです。ところが、最初から自分の経験の眼鏡をかけて読むと、自分だけの狭いフレームの中でしか著者の言うことが読み取れません。だから、ページを開いたそのときから、自分の枠の外に出ていること、これが肝要です」と、ご指導いただきました。
これを聞いて、私は、本に対してだけではなく、人や物事、我が子にさえも、自分の価値観を通してでしか向き合っていなかったと深く反省しました。そこで池田塾頭に言われた読書法をさっそく試みましたが、簡単にはできず、気がつくとまたしても自分の価値観を通して読んでしまっていて、そして、実生活の人間関係でも、そのことを思い知らされる出来事が続いていました。
どうすれば、自分の価値観という枠の外に出て物事と向き合えるようになるのだろう、と考えていると、「『物まなびの力』は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.52)」の一文が気になり、なぜ、宣長さんは、それができたのだろうか、どうすれば私にもそれができるのだろうかと思い、次のような質問を提出しました。
――「『物まなびの力』は、彼のうちに、どんな圭角も作らなかった。彼の思想は、戦闘的な性質の全くない、本質的に平和なものだったと言ってよい。彼は、自分の思想を、人に強いようとした事もなければ、退いてこれを固守する、というような態度を取った事もないのだが、これは、彼の思想が、或る教説として、彼のうちに打建てられたものではなかった事による。そう見えるのは外観であろう。彼の思想の育ち方を見る、忍耐を欠いた観察者を惑わす外観ではなかろうか」とあります。宣長さんの思想の育ち方とは、人生いかに生きるべきかに関してであれ、「源氏物語」などの古典に対してであれ、まず何らかの価値観をもって臨み、その価値観の上に立った自説を日に日に強化して他人を説得したり服従させたりする学問ではなく、宣長自身に与えられた環境や宣長自身の心の動きに即した、自問自答による自己表現の学問によって育った、ということなのでしょうか。――
この質問に対して、池田塾頭からご指導いただいた内容は、以下の通りでした。
「宣長さんの思想の育ち方とは、自分に与えられた環境や宣長自身の心の動きに即した、自問自答による自己表現の学問によって育った、ということなのでしょうか」とした自答はたいへんよい。
しかし、この結論に至るまでの熟視が足りない。熟視対象にあげられている引用文――「『日記』を読むと、学問しているのだか、遊んでいるのだかわからないような趣がある。塾の儒書会読については、極く簡単な記述があるが、国文学については、何事も語られていない。無論、契沖の名さえ見えぬ。こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである。『やつがれなどは、さのみ世のいとなみも、今はまだ、なかるべき身にしあれど、境界につれて、風塵にまよひ、このごろは、書籍なんどは、手にだにとらぬがちなり』(宝暦六年十二月二十六、七日)というような言葉も見られるほどで、環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼は摑めるが、間断なくつづけられていたに違いない、彼の心のうちの工夫は、深く隠されている」(同p.58)――に、至るまでの宣長の生い立ちが重要で、宣長の『在京日記』の引用だけでは自答のピントが合っていない。宣長が、常日頃、親から授かった気質(父親から授かった仏教徒としての熱心さ、母親から授かった先々のことまで見通す賢さ)に基づいて生活していたことと、天から授かった気質である自分自身の自発性に身を預けていたこと、これが『在京日記』を読んで小林先生が言われている「彼の心のうちの工夫」であるが、自答にあたってはこの「彼の心のうちの工夫」という言葉をしっかり押さえておきたかった、ここが確と押さえられていれば、次に言われていることが宣長独自の思想の育ち方としてより明確に読み取れたであろう、――自分の人生を作るために持続して育んできた思想、すなわち、個人として、自分はこう生きたいという思いを持って古典を読んでいると、他人にもそれが当てはまると思うことはあった、しかしそれを教説として他人に訴えたりはせず、自分はこう思う、と手元で言うに留めた。他人と競合したり他人を説得したりするなど、外に意識を向けている暇はない、内的思想であった。――
今回の質問でも、私は、早く答えを知りたいと急いで本文を読んでしまい、「(本居)大平は、宣長の学問の系譜を列記した中に、『父主念仏者ノマメ心』『母刀自遠キ慮リ』と記入している。曖昧な言葉だが、宣長の身近にいた大平には、宣長の心の内側に動く宣長の気質の力も、はっきり意識されていた」(同p.53)という、大事な部分を見落としていました。
池田塾頭からご指導いただいたことを、一刻も早く身に着けたいと気持ちは焦るばかりですが、日常生活での日々のあらゆる出来事に一つ一つ丁寧に取り組んで行くことの積み重ねで、本当の読書に近づけるのではないかと思いました。
ここで改めて、池田塾頭、広島塾を立ち上げて下さった吉田宏さん・美佐さんご夫妻、そして塾生の皆様と出会えたことに心から感謝申し上げます。
(了)