「ながむる」―事物と人情が親和する行為

小島 奈菜子

「物と心との関係を考えることは、言語について考えることに通じる。言語は心の動きを体であらわすことで生み出される、両者の接点だからだ」と以前書いた(拙稿『好*信*楽』令和五年(2023)春号「荻生徂徠の『物』と『心』」。「物質である体に、なぜ心があるのか」という古くて新しい難問と同じ構造は、言語それ自体にもある。「音声(形)になぜ意味が宿るのか」という、形と意味との関係だ。いずれの問いも、私たちの日常生活においては、どんな人の身体にも心があることを誰もが了解しているし、言葉を交わせば(形を交換すれば)意味が伝わると経験上知っている。論理的に説明しようとするとどうしても埋まらない二者(物と心/形と意味)の間隙は、生活の中では密接に結び付いていて、問題になることはない。しかし、だからといってこれらが「問いのための問い」でしかないのか、と言えば全くそうではない。切実な危機感を持って、小林秀雄はこれらの問題に向き合い、考え続けた。

『本居宣長』において、上述の言語についての問題は、物事に名を発明する、「命名」という起源の行為に遡って考えられている。本居宣長は、『古事記』の神々に名を付けた古人達の、命名という表現行為を、和歌を詠む行為と同じであると直観し、その時の心中を文章にしている。小林秀雄は、宣長の「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」という言葉を引いて、言葉にならない物事に遭遇し心が動揺したとき、その動揺がどのようなものなのかを、何とかして自らの力で見定めようとする「言語表現という行為」が、詠歌であり命名である、と第三十六章で次のように言っている。

堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞ことばの道」だ、と宣長は考えたのである。悲しみを、悲しみとして受取る、素直な心さえ持っている人なら、全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験は、誰にもあるだろう。ことばは、「あはれにたへぬところより、ほころび出」る、と言う時に考えられているのは、心の動揺に、これ以上堪えられぬという意識の取る、動揺の自発的な処置であり、この手続きは、ことばを手段として行われる、という事である。どうして、そういう事になるか、誰も知らない、「自然のみょう」とでも言う他はないのだが、彼は、そういう所与の言語事実を、ただ見るのではなく、私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為のうちに、進んで這入はいって行く。

詠歌の行為のうちにいなければ、「排蘆小船あしわけおぶね」で、言われているように、「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ妄念ヲヤムルニアリ」と合点するわけにはいかないだろう。心の動揺は、言葉という「あや」、あるいは「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって、限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。「妄念ヲヤムル」という言い方は、そういうところから来ている。「あはれ」を歌うとか語るとかいう事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余りかで、まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。

そういう次第で、自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働きまでさかのぼって、歌が考えられている事を、しっかり捕えた上で、「人にキカする所、もつとも歌の本義」という彼の言葉を読むなら、誤解の余地はない。「人に聞する所」とは、言語に本来備わる表現力の意味であり、その完成を目指すところに歌の本義があると言うので、勿論もちろん、或る聞いてくれる相手を目指して、歌を詠めというような事を言っているのではない。なるほど、聞く人が目当てで、歌を詠むのではあるまいが、詠まれた歌を、聞く人はあるだろう、という事であれば、その聞く人とは、誰を置いても、先ず歌を詠んだ当人であろう。宣長の考えからすれば、当然、そういう事にならざるを得ない。わが思いを歌うとは、捕えどころのない己れの感情を、「人の聞てあはれとおもふ」ことばの「かたち」に仕立て上げる事なら、この自律性を得たことばの「かたち」が、自ら聞きてあわれと思うことばの「かたち」と区別がつく筈はない。

(「本居宣長」第三十六章 新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集 p.5813行目~

下線は引用者による、以下同)

 

既存のものの言い方ではとても表せないような自分自身の心の動揺、「全世界が自分一人の悲しみと化するような、深い感情の経験」の、「妄念と呼んでもいいような重荷」の姿を、自分自身で見定めること。感情の強弱はあれど、「自己認識と言語表現とが一体」のこの行為が、詠歌であり命名なのである。下線部にあるように、ず自分自身に聞かせるために、「あや」或いは「かたち」を作り整えることで、心の動きを「直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる」ことが可能になるのだ。なぜなのか、理由はわからない、「『自然のみょう』とでも言う他はない」のだとしても、人間は本来そのように造られており、言葉の本来の力は、こうした表現力にあるのだ。発明した当人以外の者から見ると「飛躍」した結合に見える「かたち」と意味とは、この表現行為のうちでは一体なのである(「飛躍」という言い方は、「本居宣長補記Ⅱ」にある。拙稿『好*信*楽』平成30年(2018)3月号「『しるし』という語をめぐって」参照)

 

『本居宣長』本文中で、言葉の力の源泉として示されているのが、「きょう」と「かん」という二つの働きだ。儒学者・荻生徂徠おぎゅうそらいが著書『論語徴ろんごちょう』で書いている、言葉に意味を結びつける力(「きょう」)と、言葉から物の姿を受取る力(「かん」)である。「きょう」については荻生徂徠の考えを軸にして書かれているが(拙稿『好*信*楽』令和六年(2024)冬号「『きょう―言語の本能としての比喩の働き」参照)、「人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能」とされている「かん」については、徂徠から受け継いだ言語観を発展させた本居宣長の文章が中核となっている。まずは、荻生徂徠を引いて「心中に形象を喚起する」点が挙げられている第三十二章を見てみよう。

宣長が書写した「論語徴ろんごちょう」の全文は、「詩之用【引用者注:詩の力、効用】」は、「きょう之功」「かん之功」の二者に尽きるという意見が、いろいろな言い方で、説かれているのだが、基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解ちゅうかいによれば、「オヨソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観きょうかんこうとは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。(中略)

かん之功」の方も同様で、「得失ヲ考見スル」というような、知的な意味には取られていないので、人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能と受取られている。物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、「黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ」、「観トハ是ナリ」とある。

(第三十二章 『小林秀雄全作品』第28集 p.126行目〜)

 

きょう」の力によって言葉を形づくり、「かん」の力によってその形から意味(物の形象)を受け取る、この「言語の用」のおかげで私たちは、お互いに何を思い考えているのかを知り合うことができている。「意味」が具体的にどのようなものかを示すことは、非常に多様で難しいが、ここで「形象」と言われているような心象イメージもそのひとつであり、例えば「海」という言葉によって心中に浮んでくる情景のようなものがそれに当たる。この点を、中国文学者である吉川幸次郎氏は、次のような言い方で述べている。

「可以観【引用者注:ってるべく。吉川幸次郎全集 第四巻『論語』p.564】」。古注の鄭玄じょうげんに、「風俗の盛衰を観るべし」。世の中の有様がわかる。新注の「得失を考見す」も同じ解釈である。みずからは経験しない事柄を、あたかもしたしく経験したごとく感じ、また感じたことによって考えうるのが、一般に文学の効用であるが、それをいったのである。徂徠いわく、「世運の升降しょうこう【引用者注:昇降】、人物の情態、朝廷に在りて以って閭巷りょこうく、盛代に在りて以って衰世を識る可く、君子に在りて以って小人を識る可く、丈夫に在りて以って婦人を識る可く、平常に在りて以って変乱を識る可く、天下の事、皆な我れにあつまる者は、かんの功也」。(中略)

要するに詩は、感情の表現であるゆえに、論理の叙述である他の文献とは異なってもつ効用を、四つの面【注1】から指摘したのである。感情の表現であるゆえにもつ特殊な自由さとしての比喩、あるいは感情の興奮、それをいうのが「きょう」であり、感情の表現であるゆえにもつ広汎な観察の可能が「かん」である。以上二者は詩という存在の、第一義的な性質についての指摘といえる。

(筑摩書房刊 吉川幸次郎全集 第四巻『論語』 陽貨第十七 p.566〜567下線は引用者)

 

下線部で言われているように、「心中に形象を喚起する」力によって、自分自身が今まさに経験しているのではない物事を感受することができる力が「文学の効用」の真髄だ。これには他人から受け取ること(空間的な隔たりを超えること)ばかりでなく、過去の自分の経験を甦らせたり、現在の経験を未来に引き継いだりといった、時間的な隔たりを超えることも含まれる。冒頭で引いた『本居宣長』第三十六章で見たように、自らの心の動きを起点とした「感情の表現であるゆえに」こそ、共感を通して他者の視点を得ることができ、「広汎な観察」が可能になると言うのだ。徂徠はこのことを指して「天下の事、皆な我れにあつまる(世の中のありとあらゆる物事が自分のところに集まってくる)」と言い表した。小林秀雄は、本居宣長の歌論書『石上私淑言いそのかみささめごと』で「ながむる」と言われている行為はこの「『かん』の字の心」であるとして、第三十七章で次のように述べている。

事物と人情との間に、おのずから成立している親和がないところに、歌はない。これは、彼の歌学を貫く一番大事な考えだ。そして、附言するまでもないが、これは、「古今集序」の、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を受けての事である。歌がほころび出る無私な心を失うとは、彼の考えによると、物の「かたち」が、有るがままに見えなくなってしまう事なのだ。彼の言い方で言えば、「物をながむる」という事が出来なくなるという事なのである。「ながむる」とは、ただ見る事ではなく、「かん」の字の心で、「物をつくゞゝと見る」事だが、その語源にさかのぼれば、「声を長くする」という事で、「長息する」という「なげく」と、同じ意味合の言葉である。(下線は引用者)――――こころアハレと深く思ふ事あれば、かならず長きイキをつく、俗にこれを多売伊幾都久タメイキツクといふ、漢文にも長大息などといへり、その長く息をつくによりて、むすぼゝれたる心のはるゝ故に、心に深く感ずる事あれば、をのづから長息ナガイキはする也」(「石上私淑言いそのかみささめごと」巻一)と言う。「三代集」の頃まで、「ながむる」は声を長くする事、転じて、物思う事の両様の意に使われていたが、「千載」「新古今」の頃から、意が又転じて、物を見る事だけに言われるようになった。「視」「望」と同義の「眺」の字をあてて、使っている内に、この言葉の伝統的な含みが、忘れられて了った。そうなっては、字を当てるなら「詠」であると言ってみても、どうにもならぬという事になった。

(第三十七章 『小林秀雄全作品』第28集 p.732行目~)

 

この「事物と人情」が「親和」する場面については第三十六章で、その時の心中にまで踏み込んで言及がされていた。人の心が「物」に出会って感動すると、「物」をよく見ようとするのと同時に、「長きイキをつ」き、「声を長くする」ことで内面を外に表そうとする。これは日本に限らず、漢文(中国文化圏)でも同様であると宣長は言う。よく見ることと声にあやをなすことは、昔は同じひとつの「ながむる」行為であり、それは荻生徂徠の言う「かん」の字の心で、日本語の「なげく」「ながむる」という古語によって、その起源がひとつであったことが、国語の体系の中に記憶として保存されているのだ。「きょうの功」、つまり「言語の本能としての比喩の働き」によって表現として成立した言葉の「形」には、そのときの古人の心の動きが自ずと表れている。それを自ら「ながむる」ことによって「事物と人情」が「親和」し、歌(言葉)となるのである。

さらに第三十七章では、「きょう」の力が発現するためにもまず「ながむる」行為が必要であることが示されている。私たちは、眼さえあれば物が見える、というわけではないのだ。上記の引用文の直前では、この表現行為の起点にある心の動揺について、「じょう」と「欲」という、異なる心の状態について言及されている。「欲」に基づく意図的な行為からは歌は生まれず、ただ生きているだけで自ずと動いてしまう、人が本来持って生まれたままの「こころ」が歌を生み出すのだ、「物の『かたち』が、有るがままに見えなくなってしまう」ように我々は生きている、のだ、と。

「歌ハ情ヨリイヅルモノナレバ、欲トハ別也」(「あしわけをぶね」)、意欲と感慨とは、本質的に対立する。物に応じて慨嘆がいたんする時は、物に没入して、己れを去るものだが、己れを押し立てなければ、意欲する事は出来ない。「よろづの事、わが思ふかたのみをたてて、世の人のいふところをひたすらにいひおとすは、是すなはちものあはれしらぬ我執がしゅうのつよき人也」とあり、又、「我執をはなれ、人情にしたがへるかきざま、とりもなをさず、物の哀をしれる書ざま也」(「紫文要領しぶんようりょう」巻上)とも言う。人の生きた心は動いて止まぬ。この、言わば「わが心ながら、わが心にもまかせぬ」心のうちにあって、己れを立て、己れに執するとは、自我とは、かくの如きものという「不動心」を案出する事に他なるまい。これはどうしても無理を通す事になる。人為的に案出された自我観念は、意欲と結んで、絶えず自己を主張し、自己を防衛していなければ、「動くこそ人のまごころ」という、心の自然な有りように対抗し、これにして行けないのである。

この、我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引提ひっさげた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には、当然、おのれの意図や関心にもとづいて、計算出来る世界しか映じてはいない。当人は、それと気附きづかぬものだが。

(第三十七章 『小林秀雄全作品』第28集 p.721行目~)

 

宣長ははっきり「情」と「欲」を別のものとしており、小林秀雄はそれを受けて、動く心を「不動」にすることが可能であるかのような自我観念は「人為的に案出された」ものに過ぎないと言う。日常生活を営む上では「現実を対象化し、合理化して、これを支配する」ことがどうしても必要になるが、そうした「意欲を引提ひっさげた」ままでは、「己れの意図や関心にもとづいて、計算出来る世界しか」見えてはいない。そもそも「物」が見えていないので、「物をながむる」ことも当然できない。物になぞらえて表現する比喩である「きょう」の力も、物が見えて初めて発揮することができるものだ。元来心は「わが心ながら、わが心にもまかせぬ」もの、「生きた心は動いて止まぬ」のが本来の姿なのだが、この「意欲」を滅そうと努力しなければ、本来の「歌がほころび出る無私な」姿が現れることはない。「欲」を「情」へとうつすために、なんとか「我執をはなれ、人情にしたが」おうとすることで、ようやく「ものあはれをし」ることが可能になる、と宣長は言っているのだ【注2】

出会った物事に自ずと心を動かされ、その動揺をなんとか言葉に成そうと努力し、成した表現を自ら「ながむる(眺/詠)」こと。この一連の行為を繰り返し行うことによって、言葉の形と意味とが一体の、「事物と人情」が「親和」した歌が生み出される、それが「ながむる」というひとつの行為であると、小林秀雄は言っているのだ。このような言語観を再び見出すことが、なぜ必要だと考えたのか。『本居宣長』の単行本刊行に際して行われた、文芸評論家の江藤淳氏との対談の中で、小林秀雄は次のように語っている。

 

話が少々外れるが、私は若いころから、ベルグソンの影響を大変受けて来た。大体言葉というものの問題に初めて目を開かれたのもベルグソンなのです。それから後、いろいろな言語に関する本は読みましたけれども、最初はベルグソンだったのです。あの人の「物質と記憶」という著作は、あの人の本で一番大事で、一番読まれていない本だと言っていいが、その序文の中で、こういう事が言われている。自分の説くところは、徹底した二元論である。実在論も観念論も学問としては行き過ぎだ、と自分は思う。その点では、自分の哲学は常識の立場に立つと言っていい。常識は、実在論にも観念論にも偏しない、中間の道を歩いている。常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。常識にとっては、対象は対象自体で存在し、しかも私達に見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これは「imageイマージュ」だが、それ自体で存在するイマージュだとベルグソンは言うのです。この常識人の見方は哲学的にも全く正しいと自分は考えるのだが、哲学者が存在と現象とを分離してしまって以来、この正しさを知識人に説く事が非常に難かしい事になった。この困難を避けなかったところに自分の哲学の難解が現れて来る。また世人の誤解も生ずる事になる、と彼は言うのです。

ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。

「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」に性質情状アルカタチです。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された経験だったのだ。(下線は引用者)

この純粋な知覚経験の上に払われた、無私な、芸術家によって行われる努力を、宣長は神話の世界に見ていた。私はそう思った。「古事記伝」には、ベルグソンが行った哲学の革新を思わせるものがあるのですよ。私達を取りかこんでいる物のあるがままの「かたち」を、どこまでも追うという学問の道、ベルグソンの所謂いわゆる「イマージュ」と一体となる「ヴィジョン」をつかむ道は開けているのだ。たとえ、それがどんなに説き難いものであってもだ。これは私の単なる思い付きではない。哲学が芸術家の仕事に深く関係せざるを得ないというところで、「古事記伝」と、ベルグソンの哲学の革新との間には、本質的なアナロジーがあるのを、私は悟った。

(「本居宣長」をめぐって(対談) 『小林秀雄全作品』第28集 p.22813行目~)

 

科学の知見に強く影響され、「知識人」によって学問が専門化・分化した結果、下線部で言われている「主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験」、つまり私たち「常識人」が経験しているありのままの世界を、言葉で捉えることが難しくなった。吉川幸次郎氏が「文学の効用」として示していた力が軽んじられるようになり、言語観、つまり言語に対する態度がすっかり変わってしまった。小林秀雄は、現在に至っても続いているこうした状況への危機感から、言葉の本来のあり方を示そうとしているのである。言葉本来の力による「知覚の拡大とか深化」がなければ、私たちの経験の本当の「かたち」をつかむことは叶わないということだ。

同じ危機感は、『本居宣長』執筆以前から繰り返し著されていた。「表現について」という文章にあるように、フランスにおける象徴派詩人達の運動も、同じ危機感から発している。

 

ボオドレエル以後の象徴派詩人達の運動は、文学の散文化による自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守りつづけて来た運動だと言えます。浪漫派文学は、先ず自己告白によって口火を切った。偽りの外的形式を否定して真の内容が吐露したかった。それはいい。ところが、吐露する形式はどういう事にならねばならぬか。そういう事まで考える余裕はなかったのである。ただ何も彼も吐き出してしまいたかった。その自由と無秩序とのうちに、せっかく現そうとした自己の姿が迷い込んで了ったのである。この告白の嵐に、一つの大きな秩序を与えたものが、合理的な観察態度なのである。ところが、この態度がもたらした正確な描写という手法は、文学の新しい秩序を創り出したというより、むしろ文学によって事物の秩序を明るみに出した。告白の嵐の中に道を失った自我は、観察機械たる自己を発見するという始末になった。これは発見とは言えまい。新しい型の紛失です。そこで、こういう問題が現れます。一般の趨勢すうせいに抗して、象徴派の詩人達は、内的現実を守った、つまり自己表現の問題から眼を離さなかったのであるが、彼等が詩人の本能から感得していた自己とは、告白によっても現れないし、描写の対象となる様なものでもなかった。自己とは詩魂しこんの事である。それはreprésentation(明示)によって語る事は出来ない、詩という象徴symboleだけが明かす事が出来る。ただしsymboleという言葉は曖昧あいまいです。ヴァレリイは、サンボリスト達の運動は、音楽からその富を奪回しようとした一群の詩人の運動と定義した方がいいと言っている。強いてsymboleという言葉を使うなら、その最も古い意味合いで、詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符わりふに、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである。これはつまる処、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。これは、まさしく音楽に固有な富である。

(「表現について」 『小林秀雄全作品』第18集 p.4812行目~)

 

単なる「観察機械」としての自己ではなく、ここで「詩魂しこん」と呼ばれている「深くかくれた自己の姿」、自分自身の人生を「どう生きるか」という難問に直面した時にず出会う問い、「自分の心(精神、人格)はどのように作られているのか」を見出すことを可能にする言語表現のあり方。それを小林秀雄は、本居宣長が『古事記伝』で古人達から受け継いだ、「ながむる」という表現行為のあり方に見出したのではないか。上記の文中にある「象徴symbole」の本来の意味である「割符わりふ」という語は、『本居宣長』本文中では「しるし」という語がそれに当たる。「割符わりふ」の脚注に「紙片などに文字を書き、証印を押して二つに割り、当事者双方が一つずつ持つもの。後日、合せてみて当事者である証拠とする。symboleの語源、古代ギリシャ語のsymbolaは、コインなどを割って作った割符をいう」とあり、「しるし」も同じsymboleの意味で使われている。まず割符の片方として言葉の形を作ると、もう片方の割符として意味が現れ、その双方が合うように形を整える。宣長が古人達の行為を模倣して得た、この「ながむる」行為こそ、象徴派詩人達が目指した表現行為そのものであると、小林秀雄は考えたのではないだろうか。

そういう意味で、「しるし」という語は次のように、言葉の「かたち(肉声のあや」と意味とが表裏一体のものとして成り立つ場面に現れる。次の第三十五章にある宣命せんみょう皇国言みくにことばで記された上代の詔勅。同書p.46)についての文章がその一つだ。

宣命の言霊ことだまは、先ずるというワザが作り出す、音声のアヤに宿って現れた。これが自明ではなかった人々に、どうして「宣命譜せんみょうふ」などが必要だったろうか。何も音声のアヤだけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザの、多かれすくなかれ意識的に制御されたアヤは、すべて広い意味での言語と呼べる事を思うなら、初めにアヤがあったのであり、初めに意味があったのではないという言い方も、無理なく出来るわけであり、すくなくとも、先ず意味を合点してからしゃべり出すという事は、非常に考えにくくなるだろう。例えば、「お早う」とか「今日は」という言葉を、先ずその意味を知ってから、使うようになったなどという日本人は、一人もいないだろう。意味も知らぬ事をしゃべる子供、とよく大人は言うが、口真似が、言葉のやりとりに習熟する、自分もやって来た、たった一つの道であった事は、忘れ勝ちだ。そればかりではない。大人になったからと言って、日に新たな、生きた言語の活動のうちに身を置いている以上、この、言語を学ぶ基本的態度を変更するわけにはいかないのである。(中略)

言語に関し、「身に触れて知る」という、しっかりした経験を「なほざりに思ひすつる」人々は、「言霊ことだまのさきはふ国」の住人とは認められない。

この言語共同体を信ずるとは、言葉が、各人に固有な、表現的な動作や表情のうちに深く入り込み、そのしるしとして生きている理由を、即ち言葉のそれぞれのアヤになわれた意味を、信ずる事に他ならないからである。更に言えば、其処そこに辞書がいっする言語の真の意味合を認めるなら、この意味合は、表現と理解とが不離な、生きた言葉のやりとりのうちにしか現れまい。実際にやりとりをしてみることによって、それは明瞭化し、錬磨れんまされ、成長もするであろう。

(第三十五章 『小林秀雄全作品』第28集 p.482行目~)

 

「内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザ」によって生み出された「あや」という「かたち」は、本来が表現行為であればこそ、模倣することによって、半ば無意識的なものとして身についてゆき、習慣のような身体運動の記憶として蓄積される。だからこそ、自分自身で行為することによって初めて「かたち」に意味が結びつく「表現と理解とが不離な」もの、「représentation(明示)によって語る事は出来ない、詩という象徴symboleだけが明かす事が出来る」ものなのだ。宣命せんみょうはこの「あや」を成す表現行為であり、その精確な模倣のために古人達は「宣命譜」を必要とした。この宣長の言う「あや」こそ、象徴派詩人たちが奪回しようとした「音楽に固有の富」であり、そうして成った「割符」の片方として、もう片方の「詩魂」が現れ、己の心のあり方を知ることができるのだ。本稿の冒頭に挙げた「音声(形)になぜ意味が宿るのか」といった問いが示すように、形に結びついた「意味」が自明に存在している、という通念が定着している現代において、この表現行為としての言語のあり方こそ、小林秀雄が新たに示したい言語観だったのではないか。

「ながむる(眺/詠)」行為が本来、「表現と理解とが不離な」、「自己認識と言語表現とが一体」の行為であること。これこそ、本居宣長が長年『古事記』を愛読吟味して『古事記伝』を書き上げたことで見出された、大きな発見ではないだろうか。小林秀雄が、フランスの象徴派詩人達やベルグソンの思想に見出すことのなかった、この言語本来のあり方が、『本居宣長』全篇の執筆によって初めて見出されたように、私には思われる。

 

【注1】他の二つである「羣」「怨」は、「興」「観」の応用であることが『本居宣長』第三十二章で言及されている。

【注2】この考え方を宣長は「源氏物語」を読み「紫文要領」を書くことで得たというが、本稿でそこまで触れることは叶わない。『本居宣長』第十三章から第十八章、第二十四章などに詳述されている。

(了)