先人の懐に入り込む―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(三)

本多 哲也

【(承前)丸山論文に沿って その五 徂徠の「歴史意識」】

前回の小文において、徂徠の「歴史意識」についてより精しくしたいと私は述べたが、早速今回は、この「歴史意識」のことから書きたいと思う。前回「歴史意識」について述べるにあたって、丸山眞男氏が徂徠をどう読んだかについては、氏の論文から引用したが、肝心の徂徠の原文については、触れていなかったので、まずは徂徠の言葉に耳を傾けることから始めたいと思う。

―それ古今は殊なり。何を以てかその殊なるを見ん。ただそれ物なり。物は世を以て殊なり、世は物を以て殊なり。けだし秦漢よりして後は、聖人あることなし。然れどもまたおのおの建つる所あり。ただその知、物にあまねからず。聖人なき所以なり。然りといへども、すでに物あれば、必ずこれを志に徴してその殊なるを見る。殊なるを以て相映じて、しかるのち以てその世を論ずるに足る。しからずして、一定の権衡を懸けて、以て百世を歴詆れきていするは、また易易いいたるのみ。これ己を直くしてその世を問はず。すなはち何ぞ史を以てなさん。故に今を知らんと欲する者は必ず古に通じ、古に通ぜんと欲する者は必ず史なり。史は必ず志にして、しかるのち六経ますます明らかなり。六経明らかにして、聖人の道に古今なし。それ然るのち天下は得て治むべし。故に君子は必ず世を論ず。またただ物なり。(岩波書店刊『日本思想大系36荻生徂徠』「学則」p.193)

これは、徂徠の「学則」からの引用である。徂徠の「歴史意識」をより精しくしたい私としては、徂徠の書いた一節を省かずにおきたく、このように引用したが、丸山氏が引いているのは下線を付した箇所のみである。まずは丸山氏の論文に沿って、下線部分を軸に考えてみよう。

この一節で重要な語は「殊」である。前回稿で、丸山氏が徂徠の「歴史意識」について述べた際に、私はその「歴史意識」とは「古代と現在とが全く異なるものであるという認識のこと」であると書いた。それをここでも繰り返したいのだが、徂徠にとって、あらゆる「世」すなわち時代で、「物」は、「殊」すなわち特殊なものであり、これが何よりの大前提なのである。「志」とは、丸山氏の注釈によれば、「誌即ち記録」、『日本思想大系36 荻生徂徠』の注釈によれば、「広義的には記録・文献、狭義的には史書で文物制度を事項別に記した篇」のことであり、「志に徴して」、すなわち各時代の記録を見ることで、時代ごとに制度文物が「殊なる」ことは明らかではないか、と徂徠は言っている。それにもかかわらず、「一定の権衡を懸けて、以て百世を歴詆」しようとするとは何と浅はかなことか、「易易たるのみ」という徂徠は呆れているが、その相手は、「理」によって万物を説明せんとする朱子学派であるというのは、これまで見てきた通りである。「殊」を捉えることが「史」を捉えることだと徂徠は言いたいのであり、それが丸山氏の言葉を借りれば「歴史意識」だと言えよう。

この「学則」の一節を踏まえ、徂徠の別の著作「答問書」と合わせて、丸山氏は次のように言う。

―彼が歴史においてなにより求めるのは「事実」である。従つて「朱子流の理窟」を「古今の事跡の上へおしわたし」、「事実に構はず、只聞済よき様にと心懸」ける如き非実証的な態度は峻厳に拒否されねばならぬ。徂徠が儒教の古典としての六経について主観の混入を排したことは既に縷説した如くである。それは聖人と聖人の道を信仰にまで絶対化したことの反面であつた。しかるにこの実証的精神はここに儒教古典の範囲を超えて一切の歴史的事象にまで拡張されるに至つた。(東京大学出版会刊『日本政治思想史研究』「近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」p.101、なお以下では単に「第一論文」と表記)

歴史を正しく見るとは、「殊なる」事実が時代ごとに現れることの素直な認識である。主観を交えず事実を見ることを、丸山氏は「実証」という語で言い換えているが、その意味で、徂徠の「歴史意識」は「実証的精神」であると言えよう。ここでも前回稿の振り返りも兼ねて書くが、徂徠は「道」の意味を「六経に記された制度文物」という具体的事物に限定し、朱子学の「理」による解釈、概念的な理解をはねのけていた。書かれていることにひたすら目を凝らすのが、徂徠の「古文辞学」である。だから、事物にこだわる「実証的精神」は、そもそも「儒教古典」に対しては当然行われていたのだが、それと同じ向き合い方が「一切の歴史的事象」にまで広げられているところに徂徠の特質があることを、丸山氏は言いたいのである。反対に、「理」を万能とする朱子学は、「理屈から考えるなら現実はかくあるべし」という思惟が先だって、現実を見る目は曇ってしまう。これは「非実証的な態度」と言うべきものになる。

こうした「歴史意識」あるいは「実証的精神」を持った徂徠の学問はどうなるのか。

―徂徠において元来「学とは先王の道を学ぶを謂ふなり。先王の道は詩・書・礼・楽にあり。故に学の方も亦詩書礼楽を学ぶのみ」(弁名下)であるべき筈であるのに、いまや「一定の権衡」乃至「道理」の覊束から徹底的に解放された精神は、「見聞広く事実に行わたり候を学問と申事に候故、学問は歴史に極まり候事に候」(答問書上)といひ、「学問は只広く何をもかをも取入置て、己が知見を広むる事にて候」(同上)といふ言葉となつて、彼の学問的関心をも無限の曠野に駆り立てるのである。(「第一論文」p.102)

前回稿まで追ってきた徂徠の学問は、「六経」(この引用箇所では、「詩書礼楽」と書かれている)という「先王の道」が記されたものに限定されていた。朱子学においては、「理」によって全てのことを語ってしまおうとするので、このように学問対象を限定する必要ははなから存在しなかったわけだが、徂徠はそうではなく、「道」の学問は、あくまで経典という古文辞と向き合う、それ以上のものになり得ないのだ。これが、丸山氏の言い方では、「元来」の徂徠学なのだが、そこで終わらない。これまで述べた徂徠の「歴史意識」が、先王がすでにいなくなってから後の、あらゆる時代の「殊なる物」について、「広く」見て知ろう、考えようとする。このとき、朱子学流の「理」などのように、彼を縛るものは何もない、そのことが「無限の曠野に駆り立てる」という喩えで表されている。「実証的精神はここに儒教古典の範囲を超えて一切の歴史的事象にまで拡張されるに至つた」という先の引用と同じことが、ここで再度言われているのである。

 

【丸山論文に沿って その六 徂徠学の「公私の分裂」】

以上のように、徂徠の学問が、「道」だけに限られないことが示され、丸山氏は続ける。

―聖人の道を一切の対立から超越せしめたことは、はしたなくも彼(本多注:徂徠)の学問対象をして、直接治国平天下を目指す経学の方面と、「見聞広く事実に行わたり」、「只広く何をもかもを取入れん」とする方向とに分岐せしめるに至つたのである。われわれは前者を公的な側面、後者を私的な側面と呼び、進んでその意味を追究することによつて、かかる公私の分岐が実は徂徠学全体を貫く根本的性格なる所以を明かにしよう。(「第一論文」p.102-3)

「徂徠学における公私の分岐」というのが、ここから先、丸山氏の最も強調したいところであり、「第一論文」においてこれまで描かれてきた徂徠像の仕上げの一筆になることが窺える。ここで、公私とは何を表しているのか、これまでの丸山氏の論を振り返りつつ、精しくしよう。

上の一節で「公的な側面」とされているのは「直接治国平天下を目指す経学の方面」のことである。「経学」は、その字が示す通り、「六経」についての学問である。「六経」に記されているのは、動かすことのできない「聖人の道」であり、その本質は「治国平天下」に限られる。そして、この「道」は、現代にそのまま適用できる「規範」ではなく、「一切の対立から超越」した絶対的な「存在」である、丸山氏の言い方に沿えば「ゾルレン」ではなく「ザイン」である、というのが前回稿までの確認である。

一方で、「私的な側面」とされているのは何か。それは、経学以外の全ての学問のことであると言ってよいだろう。すでに述べた通り、徂徠の学問的関心は、時代時代で「殊なる」あらゆる事実、一言で言えば「歴史」に及ぶ。「道」を明らかにしようとしても、歴史を知ることにはならない。歴史を学ぶには、「見聞広く」「只広く」という態度が必須である。仮に、道を知ることすなわち歴史を知ることだと言ってしまえば、それは朱子学流の「理」万能主義への安直な回帰になってしまう。こうして、丸山氏は、ここで徂徠学における「公私の分岐」を明言するのである。

―道の外在化によつて一応ブランクとなつた個人的=内面的領域を奔流の様に満すものは、朱子学の道学的合理主義によつて抑圧された人間の自然的性情より外のものではありえない。(「第一論文」p.109-10)

「道の外在化」とは、「道」は中国古代のある一時期にのみ現れた、偉大な存在であり、それゆえに現代の人間に対して、何ら直接の規範にならないという意味で、先の引用における「超越」と重なる。それゆえ、万物の運動から人間の内心までを通貫する朱子学の「理」のような窮屈なものは存在しなくなり、人間の内面は「ブランク」すなわち空白、完全に自由の状態となる。そこを満たすのは「人間の自然的性情」のみである、と丸山氏は言う。

ここまで踏まえれば、丸山氏がとりわけ力を込めて書いた、以下の一節は、もはや細かな注釈がなくとも、言うところを明らかにして聞き取れよう。

―かくて徂徠学における公私の分裂が日本儒教思想史の上にもつ意味はいまや漸く明かとなつた。われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程は、徂徠学に至つて規範(道)の公的=政治的なものへまでの昇華によつて、私的=内面的生活の一切のリゴリズムよりの解放となつて現はれたのである。(「第一論文」p.110)

 

【問いを精しくする】

さて、ここで一度立ち止まりたい。丸山氏は徂徠学に「公私の分裂」を見た。そこに至るまでの道程を追ってきた一読者としては、その鮮やかとも言える論理に、なるほどと思わされる。ただ同時に、次ようにも思うのである。この「分裂」は徂徠自身には「分裂」と意識されていただろうか。

もう一度、冒頭で少し長く引いた「学則」からの引用を読んでみよう。丸山氏の、公私の分裂という結論に向かう論理の筋から一度外れて、以下の部分を見つめ直したい。すでに引いた箇所だが、繰り返す。

―故に今を知らんと欲する者は必ず古に通じ、古に通ぜんと欲する者は必ず史なり。史は必ず志にして、しかるのち六経ますます明らかなり。六経明らかにして、聖人の道に古今なし。それ然るのち天下は得て治むべし。故に君子は必ず世を論ず。またただ物なり。

この「今を知る」と「古に通ずる」ということの、複雑な絡み合いとでも表現したくなる言い回しが、徂徠の本心であるという気がする。つまり、公私の学問それぞれの両極にまっすぐ向かっていくような、単純な分裂ではないのではないかと、私には感じられる。このことは、たとえば丸山氏も、徂徠が私的領域である詩について述べている箇所で、「詩によつて人情を知ることは先王への道への必須の道程だ、といふ様に、結局先王の道へ関係づけられてゐる」(「第一論文」p.111)と書いていることから、公的な領域と私的な領域が、全く無関連であるとはそもそも書かれていない。とはいえ、やはり論文全体の主眼は、徂徠学が公私に分裂していることを強調する方に向いていることは否めない。

ここまで「第一論文」から引いてきたのは、「第三節 徂徠学の特質」であったが、その次節「第四節 国学特に宣長学との関連」の中に、次の一節がある。

―しかし蘐園けんえん学派そのものに於ても、もはや徂徠学以上の理論的発展は見られなかつた。それどころか、蘐園がその黄金時代を誇つた頃、すでに、外面的な隆盛の蔭には徂徠学の分裂が進行してゐた。(「第一論文」p.142)

「蘐園学派」とは、荻生徂徠の門下生たちの総称である。朱子学が官学として幅を利かせていた時代に、荻生徂徠はいわば私学の雄として注目を集め、丸山氏の表現を借りれば、「思想界に絶大な共鳴を呼んだ」のであるが、そうとなれば、当然、彼に入門を請う者も多く、「当時第一流の俊才を以て目すべき人物」たちが蘐園学派を構成した。しかしながら、彼らが徂徠に次ぐ「理論的発展」を見せることはなく、むしろ彼らによって「徂徠学の分裂」が進んだ、と丸山氏は言うのである。具体的には、

―徂徠学の分裂はまづ人格的な分裂として表面化したのである。徂徠学の公的な側面と私的な側面は蘐園門下において夫々異つた担ひ手トレーガーを見出すこととなつた。(「第一論文」p.143)

とあり、前者の例に太宰しゅんだい、後者の例に服部南郭なんかくなどの学者の名前が挙がり、この春台と南郭の「喰ひ違ひ」の例が示されるのだが、ここではそれを深追いしない。ここで言いたいのは、丸山氏は、徂徠の学問において生まれた公私の分裂が、蘐園門下の分裂となって表出する様を描き出しているということだ。そしてこれは、反対の見方をすれば、次のように言えまいか。蘐園学派の分裂という明らかな事象から遡って、その契機が徂徠の思惟にすでに胚胎していた、という筋道を立てるために、先に第三節において徂徠学における「公私の分裂」を殊更に強調していた、それが丸山氏の意図なのではないか。

この観点で翻ってみると、先に引用した一節の中に、「われわれがこれまで辿つて来た規範と自然の連続的構成の分解過程」と記されている箇所がある通り、丸山氏は、論文全体の構成において、朱子学から徂徠学、そしてさらに後続の学問へ、という一連を「分解過程」として描いているのであった。それならば、徂徠の思惟における公私の分裂の強調は、当然のことであると言える。

ここまで考えて、この論考の中心にある問い、すなわち「徂徠の懐に入り込む」とはどういうことかという問いを、今一歩精しくすることができるように思う。徂徠の思惟に、丸山氏が「公私の分裂」と表現した性格があることは認めたうえで、むしろそうした性格を孕みながらも、その複雑さが保たれていること、そこにあるはずの徂徠の心中の努力を、私は想いたい。丸山氏は、徂徠学の分裂した性格にもかかわらず、それが徂徠自身においてはある統一性を持っていた理由として、徂徠学の「体系的統一性が同時に人格的統一性を伴ひうるのは、徂徠の殆んど超人的な博学多識を俟つてはじめて可能だった」と述べている。なるほど「博学多識」も重要な要因には違いなかろうが、私としては、それ以上に、徂徠の精神の緊張状態を想像し、それはいかなるものだったのかと問うていきたいと考えている。

(つづく)