十二、泉州万町での好会
連歌師としてのみならず自由と破格の俳諧師として、西山宗因の人気が急騰する一方、古格を破られた側になる、松永貞徳を祖とする貞門俳諧からの手厳しい反発が起きていた延宝二年(一六七四)の八月、宗因は、高野山への参詣を行った。
八月三日、大阪天満を出発、和泉国万町という山里に宿泊した。伏屋重左衛門重賢邸である。さっそく重賢に所望され、こう詠んだ。
いなばもる 里や泉州 万町楽
その重賢とともに高野山へ出立。途中で吉田清章と合流、五日には高野山に入り、弘法大師が入定している奥之院の「御廟をおがみ奉りて、亡親ならびに六親万霊に水を手向、香をひねりて、西方浄土の願後仏出世の暁をいのりて」(「高野山詣記」)、同行三人で俳諧に興じた。
大徳院に二泊し、七日に下山。その後、七世紀半ばに有間皇子が、中大兄皇子と蘇我赤兄に仕組まれ絞殺された藤代御坂をはじめ(*1)、紀三井寺、玉津島神社などを経て、九日には泉州尾崎村の清章邸に到着。二日ほどゆっくりして、俳諧に興じつつ帰阪した。
その高野参詣への往路、老境七十歳の宗因が万町重賢邸に宿泊したとき、同じ敷地の離れに、一人の青年が滞在していた。
その青年は、十一歳で尼崎にあった父母の家を離れた。当時、父は尼崎城主青山大蔵少輔幸成に仕えていた。けっして晴れやかではなかった家庭の事情によったのか、兄弟は散り散りになった。彼は大阪の寺での修行後、十三歳で剃髪、高野山に入り本格的な修行を積んだ。二十三歳の年に山を下り、若くして大阪の別寺で住持となる。翌年には阿闍梨位も得た。しかし数年後、何らかの理由で寺から姿を消した。その後は、奈良の長谷寺や室生山の辺りを彷徨っていたようだ。弟子筋の僧が残した文章によれば、「室生山南ニ、一厳窟有リ。師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為、形骸を棄ツルニ堪ヘタリト、乃チ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニ塗ル、命終ルニ由ナク、已ヲ得ズシテ去ル」(「録契沖遺事」)。
青年は死にきれず、その場を去った。彼の名は、契沖である。
ここで、第二章でも触れた彼の家族について、振り返っておこう。父元全は、熊本城主加藤清正の片腕であった下川又左衛門元宣の末子であり、二代目又左衛門となった元真の弟である。契沖は、加藤家改易後、元全が青山幸成公に仕えていた頃に尼崎で生まれたのである。
さて、室生の地を去った契沖が、そこで詠んだ歌をながめて、彼の心持ちを体感しておきたい。
旅にして 今日も暮れぬと 聞くもう(憂)し 室生の寺の 入相の鐘
たれかまた 後も籠りて 独り見む 室生の山の 有明の月
夕闇迫るなか、晩鐘が響きわたる、胸に沁み入る……
夜明けて残る月、自分のような若僧が、同じように一人きりで見入ることになるのだろうか……
彼は、その後再び高野に上ったが、今度はすぐに下山し、山中で出会った、和泉の久井村の辻森吉行邸に滞留した。水戸彰考館(*2)の安藤為章(*3)が記した伝記によれば、「錫を泉州久井里に掛く。山水幽奇を愛し、居ること数歳なり。三蔵を護り悉曇に通ず、旁ら諸宗章疏を窺ひ、十三経に至る。史・漢・文選・白氏文集、跋渉せざる無し」とある。辻森家の書庫には、漢籍や仏典が豊富にあり独習には困らなかったようだ。加えて、悉曇、いわゆるサンスクリット語を表記する梵字にも、高野山におけるのと同様に精励する時間を得たのであろう。
ちなみに、辻森家は、のちに辻井家と改名して今もある。久松潛一氏によれば、井水は清く香気あり、契沖が深く愛したことが改名の理由だという。現在でも、その井戸は「僧契沖遺愛の井戸」(和泉市文化財保護委員会指定)として、丁寧に保存、整備されており、直かに見ることができる。
契沖は、久井の地で五年ほど過ごしたあと、延宝二年、三十五歳の年に万町の伏屋重左衛門重賢邸に転居した。より詳しく言えば、重賢邸内にある養寿庵という離れに住んだ。久松氏によれば、伏屋家を訪れた際に見せてもらった摺物があり(「和泉国池田郡万町伏屋氏圍内契沖法師寓庵幣垣舎(しでがきのや)図」)、このように書かれていた。「(坂口注;契沖)師の祖父元宜下川又佐衛門、加藤家に仕ふ。父元全下川善兵衛、青山家に仕ふ。重賢の祖父一安飛騨守、豊太閤君に仕ふ。父竹麿泉州池田家を嗣伏屋氏と改む。其祖よりのしたしみの因により、師も亦ここに来る」。
重賢の祖父も太閤秀吉に仕えていたのであり、その縁があってこそ契沖は、当地に住むことになったのだ。その摺物には、西山宗因のことも記されている。契沖がいた養寿庵のすぐそばに「梅の屋跡」という庵があり、「梅の屋に西山梅翁遊宿す」と書かれていた。
その宗因は、第八章で触れたように、加藤清正の家臣であった西山次郎左衛門の子であるが、祖父は、大阪夏の陣の豊臣方の勇士、御宿勘兵衛正友と見られている(*4)。野間光辰氏によれば、勘兵衛は、北条氏の重臣に仕えて数々の戦功をあげたあと、いったんは徳川家康の旗下に入ったものの、家康に恨むところあり、一時高野山に身を隠した。その後、越前黄門結城秀康の執りなしにより越前家に召し抱えられ、勘兵衛改め御宿越前と称した。秀康の没後は不遇をかこっていたようだが、東西での風雲急を告げるなかで豊臣方に招かれ大阪に入城、大野主馬治房隊に属した。
慶長二十年(元和元年、一六一五)四月六日、家康は諸大名に出陣を命じ、大阪夏の陣が始まった。大阪城の南側に広がる上町台地一帯で、徳川軍十五万五千、豊臣方五万五千の兵が激突した。岡山口では、大野治房隊が将軍徳川秀忠の本陣近くまで迫る一方、天王寺口では、真田幸村隊が、大御所徳川家康の本陣に突入し、家康をあと一歩のところまで追い詰めた。
しかしながら、御宿越前は、大阪城本丸に乱入した越前勢の旧友、野木右近の手にかかって討死。一方、「日の本一の兵」「日本ニハタメシ(例)ナキ勇士」と絶賛された真田幸村も、力尽き田んぼの畔に腰を下ろしているところを、越前勢の西野久作(仁左衛門)に首を取られた(「慶長見聞書」)。野間氏によれば、「茶臼山の本陣に、真田幸村と御宿越前の首級を実検した家康が、『さてさて御宿めは年の寄たる事かな』といい、また後に『御宿が若き折ならば、あの者などに首をとらるる事にてはなき』と側近に洩らしたそうである。恐らく当時すでに、鬢髭を黒く染めて出陣した斎藤別当実盛(*5)を思わせるような老武者であったことだろう」。
さて、ともかくも当夜は、それぞれの祖が豊臣家と縁の深かった三名が、泉州の一つの敷地に滞在していたことになる。この奇遇については、契沖研究の泰斗である久松氏が、このように述懐している。
「宗因の宿った夜は契沖も宗因と会し、秋の一夜を重賢と三人で語り合ったと想像することも出来る。七十歳の宗因を中心として契沖と重賢とが語り合ったとすればそれは和歌や連歌・俳諧のことであったかも知れず、またあるいは没落した豊臣氏や加藤家に対する追憶であったかも知れぬ。とにかく和泉の山村の静かな秋の一夜のこの好会を想像して、私は無限の感慨を禁じ得ないのである」。
その和泉の山村も、今では開発が進み、養寿庵跡は、泉北高速鉄道の一大ターミナル駅である和泉中央駅から歩いて約十分のところにある。土壁が残り「史跡 契沖養寿庵跡」という石碑が立てられていて、往時を偲ぶことができる。
ちなみに契沖は、その好会の場所で、こんな歌を詠んでいた。
和泉の国いつみのこほり、池田河といふ河の流れ来る岸に、ある人のつくり
おける庵をかりて住みけるころ、その河のいとおもしろく流るる、嶋めいたる
処に梅ありて、月夜ににほひ来けるを読る
夕月夜 梅が香おくる 河風に 岸根の草の 身をぞ忘るる
若くして阿闍梨位も得、住持となった身であったにも拘わらず、三十代半ばの彼にとって、いまだ我が身は岸根の草、すなわち川岸近くに生えてすぐ水に浸かってしまう草のような存在だった。これはけっして謙遜ではなかろう。
十三、松尾桃青
西山宗因は、契沖が滞在していた和泉の山村を経て、高野山への参詣を行った翌年の延宝三年(一六七五)四月下旬、親交が続いていた岩城平藩主、内藤風虎の江戸屋敷に招かれ、約二ケ月間にわたり江戸に滞在し、俳席に招かれた。宗因の東下を心待ちにしていた俳人の田代松意らは、宗因からの発句を掲げて「江戸誹諧 談林十百韻」を制作出版、全国的に大きな反響を巻き起こした。
当時の江戸において、松意一派は「(江戸)談林」と呼ばれており、宗因は発句に敬意を込めたのだろう。ところが、この句をもって「宗因派」による江戸での旗揚げ宣言とみなす誤用が広がり、宗因風がすべて「談林」と呼ばれるようになったことには留意が必要である(*6)。第十一章でも見たように、宗因には、一派を立ち上げようなどというつもりはなく、これは、当時の商業出版の隆盛に周囲の取り巻きが乗じて起きた、意図せざる事象の一つであった。
同年五月には、本所猿江の大徳院で、宗因歓迎の百韻の俳席が催された。発句は主賓の宗因である。
これは「源氏物語」の「若紫」にある「いと尊き大徳なりけり」(「大徳」は高徳の僧の意)を踏まえた句であり、当院の住職、蹤画への表敬の念が込められている。脇(句)は住職が付け、第三以降が続いた。脇は、「宗」と「因」という字面の通り、宗因への尊崇と感謝の気持ちの表明でもあろう。
さてここで、第四を詠んだ桃青という人物に注目しよう。彼こそ、郷里の伊賀から江戸に移住して二、三年目(*7)、三十二歳の松尾桃青、のちの松尾芭蕉である。芭蕉は十代の末頃から、藤堂藩伊賀付の侍大将五千石の藤堂新七郎家の嫡子、主計良忠に出仕していた。この良忠が俳諧をたしなみ、北村季吟(*8)に師事し蟬吟と号していたことから、芭蕉も俳諧に親しむようになった。ところが、寛文六年(一六六六)、二十三歳のとき、二歳年上の蟬吟が病死してしまう。それがための没頭なのか、翌寛文七年(一六六七)から、季吟編「続山の井」など句集への入集が活発になっていく。季吟は、松永貞徳の直門として「貞門の新鋭」と言われていたほどだから、芭蕉も当初は、貞門風の歌を詠んでいたのである。しかし、そこに変化が現れる。大徳院での宗因歓迎の俳席の連衆として加わったころから、いわゆる談林風の俳諧の傾向が見えるようになる。すなわち芭蕉は、後年、いわゆる蕉風を確立する前までには、貞門風の句や談林風の句を詠んでいたのである。
ここでは、麻生磯次氏による「若き芭蕉」(新潮社)という伝記的物語(*9)を参照しながら、芭蕉の成長の軌跡を、彼が詠んだ句を通じて直かに体感しておきたい。
彼が、若い頃、宗房と号していた時代に詠んだ句がある。
萩が風に吹かれて音を立てている。これこそ秋風が、口移しに伝えた声だろう、という意である。ところで、季吟が季語を集録しつつ付句の心得や発句の作例を示した、俳諧を嗜む者には必携の書「山の井」によれば、「萩は風に応へて声のあなれば、秋風の口まね、定宿などともいひ……」とあり、「あき風の 口まねするや 萩の声」という例句が挙げられている。まさに芭蕉は、師事した季吟の教えを忠実に実践することで、貞門の俳風に追随していたのである。
次に、こんな句を詠んでいた。
楚々とした女郎花の風情に、その美しさに、ただただ心動かされるばかり…… という意である。「我折る」とは、我執を去るという意味の俗語である。僧正遍照の「名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花 われ落ちにきと 人にかたるな」(巻第四、秋歌上)を踏まえたうえで、「我折る」という言葉を使い卑俗的なおかしみを醸し出している。ここには、芭蕉の句が貞門風から談林風に一歩進み出した感がある。
宗因と初対面した翌年、延宝四年(一六七六)には、親友山口信章(素堂)と両吟で天満宮奉納百韻を二つ興行した。
「梅」という言葉には、「梅翁」と号した宗因が暗示されている。宗因は言うまでもなく大坂天満宮連歌所の元宗匠であった。見事な梅花に、鶯はもちろん、天満宮となじみ深い牛までも初音の心持ちで鳴くだろう、という意である。梅なら鶯と来るべきところに、牛をもってきた点が談林風を感じさせる。次の信章の句は、紀貫之「古今和歌集」仮名序の冒頭にある「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を踏まえたものである。
芭蕉と信章による両吟の、もう一つの百韻は、こんな発句と脇で始まっている。
信章は、端的に宗因の俳風が俳壇を風靡していると詠んだ。続けて芭蕉も、その俳風に接し、おかげで我々のような者でも、この時を謳歌しているという。麻生氏の言っているように「談林の俳風に対する傾倒ぶりが露骨に示されている」とともに、「宗因の俳風が芭蕉や信章にとって大きな魅力であったことが思いやられる」。
このように、貞門風を脱し、宗因風に寄っていた芭蕉であったが、延宝年代の終わりごろから、そこから離れようとする傾向が見てとれるようになる。
延宝八年(一六八〇)に、次のような句を詠んでいる。
蜘蛛よ、どうだい、この秋風が吹くなかで、お前はなんと鳴くのかい? という句意である。「枕草子」にある、蓑虫が逃げ去った親を慕い、秋風が吹くと「ちちよ、ちちよ」と鳴く、という件を踏まえている。麻生氏によれば「黙りこくっているのは蜘蛛だけではなく、芭蕉自身の孤独の姿でもあった。芭蕉は次第に談林の浮華を離れて、真実なものを求めようとしていたのである」。
同じ時期に詠まれた、虫にまつわる句が、もう一つある。
水に落ちた桐の葉に、虫がすがりついていた。ここでも、寄る辺のない虫に自らの姿を重ねたのであろうか。その虫のさまを「旅寝と言ったところに、談林らしい誇張が見られるが、その虫をあわれに思う心が寓せられているのであって、談林特有のふざけたものではない」。
同年の冬に、芭蕉は、江戸市中から深川に住まいを移した。その草庵は、徳川家康が江戸の城下町整備のなかで開削した水路、小名木川が隅田川と合流する辺りにあった。現在は、地下鉄の森下駅もしくは清澄白河駅から十分ほど歩いた住宅地のなか、芭蕉庵史跡展望庭園として整備されている。夜には、ライトアップされた萬年橋と清州橋をともに見ることができる夜景スポットにもなっている。しかしながら当時は、葦などの生えた水辺で、人家もまばらな、わびしい場所だったようである。
その芭蕉庵での隠棲生活について、彼はこんな句を詠んでいた。
月をわび、身をわび、拙きをわびて、わぶと答へむとすれど、
問ふ人もなし、なほわびわびて
「月侘斎」とは、茶人めかした架空の人物であろうが、芭蕉自身を思わせる。また、「奈良茶歌」とは、にぎやかな酒席の歌ではなく、奈良茶漬を食べながら、わびしく口ずさむ歌をいう。「侘テすめ」の「すめ」に、「澄め」と「住め」を掛け、奈良茶歌の歌声が侘しく澄むように、侘に徹して今の境遇に安住せよ、と自らに言い聞かせる句意である。
また、大風がひどく吹く夜があった。海抜が低い土地柄、浸水も気掛かりだった。そこで、こんな句を詠んだ。
外では嵐のなか、門人の李下が植えてくれた芭蕉の葉が、ばたばたと音を立てている。庵のなかでは雨漏りの水が、用意した盥に、ぽたりぽたりと滴る。「芭蕉は草庵の夜の底にじっと身を沈めて、自分の姿をみつめ、自分をとりかこむ自然の動きに耳を傾けていた」。
このように三十代半ばを過ぎた頃の芭蕉の句に垣間見ることのできる、世俗を離れ孤独に徹しようとする心境、そして、自然の動きにひたすら耳を傾ける態度は、そのまま後年の俳風にも通じているようには感じられないだろうか。
う(憂)き我を さびしがらせよ 閑古鳥
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
さて、ここまで、芭蕉が松永貞徳や北村季吟ら貞門に学び、西山宗因に学び、いよいよ自身の本領を発揮せんとする入口に立つまでの軌跡を振り返ってきた。ここで、保田與重郎氏が紹介している「往時の俳諧師の考へた、俳諧変遷史についての思想を云うに適した文章」(*10)があるので、引いておきたい。
「(松永)貞徳亡後(松永)維舟(北村)季吟両氏、先師の風体を弥ほどこす(中略)(安原)貞室松賢両士洛に居て貞徳伝来の誹諧より他事なく専ら行ひければ、此門に遊ぶ誹士あまたなりしに、(中略)摂州大坂に西山宗因といへる豪傑の士出て、連歌を里村家に学び、誹諧は(山崎)宗鑑が遺風を慕ひ、自分の風流を潤色して専ら行ふ、その後武州に下向し、談林軒(田代)松意といへる誹士の方に寄宿して大に行ふ、松意が軒号より思ひ付、仏家の檀林に附会して、これを世俗談林誹諧といふ、武江此一風に流行す。亦摂州に戻り大にふるふ。既に後水尾院にも、貞徳流を遊されしかども、談林風のさかんなりしを、ゑいりよにかけさせられ、いでや談林の誹諧を遊しける。(中略)ここにおいて貞徳流の古風を荒廃して、誹諧宗因に一変す。宗因門人に井原西鶴といへる英雄有りて、一日に二万三千句独吟す。談林かく盛んに成し時、桃青といへる誹士(中略)宗因が行ふ所の談林の当風になびき居て、ほどなく工夫をこらし、悟道して、当流をうとみ、季吟門人なれども、古風にもよらず、発明して一派を行ふ。都会の人々次第にここに集り門人市をなす。芭蕉洞の庵なるを、世人終に芭蕉庵と号し、亦芭蕉翁と称し、東府に盛なりし宗因の弘めし談林誹諧大におとろ(衰)ふ」(八文字屋瑞笑「俳論. 卷之1-3 / 秋月下白露 編輯」早稲田大学図書館蔵)。
天和二年(一六八二)、芭蕉が三十九歳、西鶴が四十一歳の春、宗因は逝った。しかし、どこでどう逝ったのか、精しいところは不明なようだ。今も、大阪市の天満からほど近い兎我野町の西福寺にお墓はある。ただし墓石には、息子の宗春らの名前と合わせるかたちで「実省院円斎宗因居士」という法名が表に刻まれており、宗因が実際に大阪で亡くなりこの地で眠っているのかどうか、定かではない。私はその墓前に立ち、居所を定めず「一生旅程雲水」のごとき七十八年の生涯を貫いた、「肥後牢人」西山宗因らしいお墓だと感じ入った。
(*1)宗因は、前章で紹介した「肥後道記」のなかで、有間皇子が紀伊への護送中に詠んだ歌を踏まえた歌を詠んでいる。
(*2)明暦三年(一六五七)、徳川光圀が「大日本史」編纂のために設立した施設。
(*3)江戸前期の儒学者、国学者。万治二年(一六五九)~享保元年(一七一六)。
(*4)野間光辰「宗因と正方」、「談林叢談」岩波書店
(*5)平安末期の武将で保元・平治の乱で活躍、源平合戦のはじめ木曽義仲と戦い壮絶な死を遂げた。
(*6)第一章で便宜的に「談林派」と記載しているが、事情の詳細は本文に記した通りである。
(*7)芭蕉の東下の時期については、諸説ある。
(*8)江戸前期の歌人・俳人・和学者。寛永元年(一六二四)~宝永二年(一七〇五)。
(*9)麻生氏には、「既に研究ずみの材料を土台にして、生き生きとした芭蕉の姿を刻み上げようとした」「物語ではあるが虚構の物語ではなく、従来の芭蕉の研究を吟味した上で、自由に構想をめぐらした」「芭蕉物語」という著作がある。「若き芭蕉」は、同様の手法によって「芭蕉が真に芭蕉らしくなり、蕉風を樹立するまでの苦悩を描こうとした」作品である。
(*10)保田與重郎「芭蕉」、講談社学術文庫
【参考文献】
・小林秀雄「本居宣長」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集所収
・久松潛一「契沖」、「人物叢書」吉川弘文館
・北川央「大阪城をめぐる人々」創元社
(つづく)