小林秀雄「本居宣長」全景(四十)

池田 雅延

第三十章日本人の宿命的言語経験

 

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今回から、第三十章である、次のように書き出されている。

―既に触れたが、「古事記」撰録の理由は、その「序」に明記されているのだが、「古事記伝」に見られる宣長の解に従って、ここでもう一遍註釈風にまとめてみよう。……

そして、言われる、

―天武天皇の修史(歴史書の編修/池田注記)の動機は、尋常な、実際問題に即したものであった。即ち、諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、その「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」これを後世に遺さねばならぬというのであった。……

このくだりは、先に第二十八章に、「そこで、『記の起り』についてだが、これは宣長のみに従って、『序』から引いて置くのがよいと思う」と前置きして、次のように言われていた。

―「ココに天皇ミコトノりしたまはく、れ聞く、諸家のもたる所の、帝紀及び本辞、既に正実にたがひ、多く虚偽を加ふと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾ばくの年をも経ずして、其の旨滅びなむとす。すなはち、邦家ほうかの経緯、王化の鴻基こうきなり。れ帝紀を撰録し、旧辞を討覈タウカクして、偽りを削り、実を定めて、後葉ノチノヨツタへむとすとのたまふ。……

「もたる」は持ってきて差し出す、「帝紀」は歴代天皇とその関連事項の記録、「本辞」は一般的事項の伝承、であり、

「邦家の経緯」は国家の基幹、「王化の鴻基」は天皇政治の基礎、「討覈タウカクして」は、詳しく調べて、であるが、第三十章で言われる「諸家に伝えられた書伝え」とは、主には当時の名家旧家に写本の形で伝わっていた「帝紀」や「本辞」であり、そこには家々の家譜、すなわち「私家の立場で記された歴史」も混じっていただろうが、当然と言えば当然のことに家譜は今日風に言うなら「手前味噌」や「我田引水」にも走って「正実ニ違フ」ものとなっていただろう、天武天皇は家々から差し出されたそれらについての報告を受けて、「諸家に伝えられた書伝え」の「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」後世に遺そうとした、とまずは解されるのである、だが、それだけではなかった。

―私家の立場を離れ、国家的見地に立って、新しく修史の事を始めねばならぬという考えは、「日本書紀」の場合と同じであったが、この書伝えのシツが何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。……

「日本書紀」は、「古事記」に先立つこと八年、天武天皇の第三皇子、舎人とねり親王が主裁して養老四年(七二〇)に成った日本最初の勅撰の歴史書である。「漢書」「後漢書」など中国の正史(国家によって編纂された正式の歴史書/池田注記、『大辞林』による)に倣い、日本の正史たる「日本書」を目指して編まれていた。

ところが、その「日本書紀」にも「書伝えのシツ」のあとはあった。初歩的な「失」としては誤字脱字など書写者の過失があり、次いでは故意の舞文もあったであろう、しかし、天武天皇自らが見分して狼狽し、焦燥を覚えた「失」、

―それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。……

と小林氏は言い、

―宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、ヨロヅノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノタビごとに、カラ文章コトバヒカれて、本の語はヤウヤクに違ひもてゆく故に、如此カクては後遂ノチツヒに、古語はひたぶるにウセはてなむ物ぞと、かしこく所思看オモホシメカナシみたまへるなり」という事であった。……

と言う。

 

2

 

古代、日本に久しく文字というものはなかったが、近代と言われる今日からすれば一五〇〇年前とも二〇〇〇年前とも想定される古代のある時期、中国から漢字が渡来し、日本人は漢字という文字の羅列に目を奪われるとともに、今日言われる文化文明が中国には豊かに花開いているらしいと推察し、その中国の文化文明も招来しようと漢字漢文の習得に躍起となった、そういう日本の文字文化の発育期を、宣長は「そのかみ世のならひとして、ヨロヅノ事を漢文に書キ伝ふ」と言っているのだが、中国から漢字を受け入れた日本人は、その漢字を解読することによって何よりも中国の先進文明を会得しようとし、そこに印されている事柄の意味内容を把握するための手段として和訓(漢字・漢語に対応する固有の日本語をあてて読むこと、「山」をやま、「人」をひと、と読む類)というものを発明したが、漢字漢文解読の最大の動機は中国の先進文明を取得するところにあったから、彼らは和訓を発明するとともに漢文の記述法を正確に体得しようともしただろう、したがって、「諸家に伝えられた書伝え」の日本語は、そういうふうにして体得された漢字・漢文の記述法で書かれていたのである。

ところが、こうして彼らが「ヨロヅノ事を漢文に書キ伝」えているうちに、困ったことが起っていた。文字がなかった時代の日本語はすべて話し言葉であった、だが、そういう話し言葉の日本語を漢字漢文に写し取って書き留めるとたちまち表音・表意文字である漢字に引きずられて意味内容が中国風になり、このままでは日本語は消滅してしまうと天武天皇は憂慮し哀しまれたのだと宣長は言っている、「古事記」撰録の理由はこうして完全消滅の危機に瀕していた古代日本語の保持にあった、しかもこの「古事記」の撰録理由、撰録動機は「日本書紀」の編纂者の思ってもみなかった事だったと小林氏は言うのである。

そこをさらに踏み込んでみると、天武天皇が言った「諸家に伝えられた書伝え」の「失」は、漢字が「図形と言語とが結合して生まれた象形文字」(このことは第二十八章で言われている/池田注記)であることによって一文字ごとに字義が対応している、そのため、漢字に移しとられた日本語はそういう漢字の表意性に引きずられて意味内容のあやが中国風になり、日本語が日本語として読まれなくなって日本の歴史も日本の歴史ではなくなってしまうというところに急所があった。第二十九章では次のように言われていた。

口誦こうしょうのうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文のサマに書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか。……

この「失」に気づいた天武天皇は、今すぐここを、こここそを正しておかなければ日本の歴史は誤って後世に伝わると直感し、「諸家に伝えられた書伝え」の「偽リヲ削リ、実ヲ定メ」るために国家的事業としての修史を、すなわち歴史書の編修を決意したというのである。しかも、決意しただけではなかった、「偽リヲ削リ、実ヲ定メ」るために、天皇はとてつもない一計を案じた、その一計とは……。

(第四十回第三十章 了)