一 「あやしさ」の表情を見つめること
『本居宣長』も最終部に近づく四十三回は、「古事記伝」に現れた神についての「長々しい註釈文の姿は、神を論って、殆ど支離滅裂の体為にも見える」と述べて、この宣長による「迦微」という言葉を註釈した文章の奇妙さに、ことさらに注目している。そこで神を説くための言葉と文章が、このような「姿」になるのは何故なのか。つまり、人に合理的な理解を得られるような言葉、容易に共有化が可能なような、分かりやすい説明文にならないのは何故か。実はそのことを問いかけるのが「宣長の真意」であり、その難問を説き明かす言葉を紡ぎ出そうとしても、神とは何かを考える行為自体がこれを許さなかったという事態、いわばある特権的な経験を十全に象る表現方法の特殊性という微妙な問題への想像力を、読者に促しているようにみえる。そして、この本質的な難問への逆向きな考察例として、熊沢蕃山の「三輪物語」を批判した宣長の文章を引いていく。これは周知のように『玉勝間』(1)の五の巻冒頭部の「熊澤氏が神典を論へる事」、「あやしき事の説」、「また」、「漢籍と神御典とのけぢめ」という一続きの文章に展開される趣旨を踏まえているものである。神々の物語を叙述する手段として、「神書は、むかしの伝へをそのまゝかゝで、はるばる後の世に、寓言して書きたり」というのは、未開の古き世であったがためという不可抗力的な人智の限界を結論としてしまうこと。すなわち、「神書」の記す物語の「あやしさ」を、「理を明らか」にする術のない伝承者、書き手の知性の限界と表現技法の拙さに帰する儒学者の習癖に対して、宣長が言う「あやしきこと」とは何か、これをどう扱うのが適切なのかが説かれることになる。
まづ、神の御典を、いはゆる寓言也と見たるは、めづらしくもあらぬ、例のじゆし意や也、すべて儒者は、世中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれるから、神代の事どもを、みな寓言ぞ心得たり……(略)……人の智はかぎり有て、及ばぬところ多きことを、えさとらで、よろづの理を、おのがさとりもて、ことごとく知つくすべき物と思へる、からごころのひがごと也、すべて世中のことわりは、かぎりなきものにて、さらに人のみじかき智もて、しりつくすわざにあらざれば、神代の事あやしとて、凡人のいかでかはたはやすくはかりいはん……
(「熊澤氏が神典を論へる事」二三九)
「寓言」、たとえ話の向こう側には、必ずたとえられている事実が潜んでいる。そのどちらが主であるかと言えば、もちろん事実の方であり、それが合理的に解釈できれば「寓言」としての物語叙述のあり方は問題にされない、という受け止め方が「寓言」の「寓言」たる所以である。そしてこの読み方の前提こそが、世の事象の合理性には漏れも隙もないという思想であり、つまりは「理」から零れ落ちる謎や<怪>は一切あり得ない。それに対して、人智の限界を常に見据えている思想にとっては、拙き「寓言」と見えている物語叙述の<怪>は、それを遥かに遠ざけて見る合理論以前の、<怪>そのものが発動し、言葉を纏って象ろうとする表現動機の動きつつある形そのものを感じ取ろうとするだろう。さらに、こうした世界の合理的解釈の妥当性自体が時代や社会、文化によって相対的なものでしかなく、合理的解釈の納得の仕方や基準は、実はその時々で変化していること、すなわち、ある合理的解釈は厳密に言えばその時点での合理論に依存しているだけだということである。それは、たとえば近代哲学史を記した啓蒙書でも繙けば一目瞭然のはずなのだ。そうすると、この世の中に次々に現れる実に多様な<怪>も、ある合理的解釈に取り込まれたり、時を経れば他の合理的解釈へ回収されたりして、その了解の仕方は相対的と言わざるを得ない。つまり、今の「理」で解釈可能な<怪>は、その時には「事」として確認が可能であっても、時が過ぎれば「事」から再び<怪>へと変転する。そこを突いた宣長の批判が「あやしき事の説」の主眼なのである。
すべて神代の事どもゝ、今は世にさる事のなければこそ、あやしとは思ふなれ、今もあらましかば、あやしとはおもはましや、今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ
(「また」二四一)
<怪>で満ち溢れ、それらが錯綜している世界こそが先験的に存在し、その中からその時の「理」が了解可能な有様を、しかし限定的に構成している。つまり、あたりまえであるモノ、改めて思い巡らす必要もなく普通であるモノ、それらを前提として思考を出発させて不都合とは思われないモノ。たとえば、そういう疑う余地のない現実世界に我々が生きているということ、それ自体が実は現在の「理」による暗黙の了解に過ぎないのではないか、そういう地点まで退いて、自明の現実としか思われない世界を点検すれば、なんのことはない硬く不変と思って来た現実世界とは、我々の「理」という思想が組織した構築物であったというわけである。あるいはそれを「日常」と言い換えてもいい。しかし、この「日常」は、人智の遥かに及ばない自然の強大な力の前では、いとも簡単に崩壊してしまうではないか。そして、こうした経験が現在の「理」では想像もつかないほど頻繁に出現していた時にあっては、この「日常」を突き動かし反転させる強大な力との出会いの衝撃から、この経験を認識しようとする努力、それと向き合おうとする言葉の発生を深刻に考えてみる必要があるだろう。
したがって、「神書」に描かれた「あやしき」物語とは、原初に発生した「あやしき事」の威力についての切実な経験が、いつしか、誰の、ということもない言葉となり、文章となり、遂には物語となって展開して来たものであるという受け取り方へ姿勢転換することを求めているということなのであろう。それでは、我々にどういう姿勢を取ることを要請しているのであろうか。もう言うまでもなく、「あやしき事」を別の事へ、明解な「日常」の事へ置き換えることで理解したと納得するのではなく、「あやしき事」が伝承されて来た過程において、その身に纏った言葉の姿形を見定め、その淵源から身を起こした動きそのものを掬い取ろうとする行為、その中で淵源の威力を見定めようという努力と実践をしなければならない。すなわち、合理論を廃棄し、すべては、<怪>でしかないという不可知論の徹底まで、いったんは退いた上で、その<怪>の淵源から積み重ねられて来た言葉、それが「あやしき」物語であるならば、その言語行為に寄り添い、模倣しようとするような行為論への転換を決断するということなのだ。
論の端緒に戻るなら、「世中にあやしき事はなきことわりぞと、かたおちに思ひとれる」という認識は、実は限定的な「理」の働きの結果に過ぎない。しかし、この「理」の中にいるということに気づかない限り、「あやしき事」は我々から遥かに遠ざけられ、日常世界の普通のモノへと対象化されてしまうのである。
さて、『本居宣長』四十三回の前半部に引用、言及された「玉勝間」の文章について考察して来たが、こうした「神書」への対応の仕方の転換を促すことを、この『本居宣長』の本文は、「神代の伝説は、すべて神を歌い、神を物語ったものだ。ただ、題を神に取っている点が、尋常な歌や物語と相違するのだが、そこが相違するからと言って、歌や物語でなくなるわけはない」とした上で、さらに次のように敷衍している。
歌の魅力が、私達を捕えるから、私達は歌に直かに結ばれるのであり、私達の心中で、この魅力の持続が止めば、歌との縁は切れるのだ。魅力の持続を分析的に言ってみるなら、その謎めいた性質の感触を失えば、古伝説全体が崩れ去るという意識の保持に他なるまい。それなら、そういう意識は、謎が、古伝説の本質を成す事を確かめるように働く筈だろうから、謎は解かれるどころか、むしろ逆にいよいよ深められる事になろう。
それが、宣長が「古事記」を前にして、ただ一人で行けるところまで行ってみた、そのやり方であった。彼は、神の物語の呈する、分別を超えた趣を、「あはれ」と見て、この外へは、決して出ようとはしなかった。忍耐強い古言の分析は、すべてこの「あはれ」の内部で行われ、その結果、「あはれ」という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた「神しき」経験を、描き出すに到ったのである。
(四十三)
「あやしき」物語を「あはれ」と観じて、そのまま受け入れる行為を持続して行けば、その物語の<怪>は、遂に<神>の姿を帯びて見えてくるというのである。さらにこの「あはれ」の魅力に忘れずに保持する努力について、宣長が敢行したことが「自照を通じての「古事記」観照の道だった」とする。もちろんここで言う「自照」も「観照」も、通念的な意味合いで使用されているわけではない。向こう側に遠ざけられた対象を、主観を交えず冷静かつ客観的に観察する態度を言うのではない。この文脈においては、自らへの意識をそのまま深化させようとする努力の中で、「古事記」を観じていくという一連の行為においての動的認識を示唆しているのであって、ここでも、先に記した読書態度の転換へと我々を促し、我々を、読者を試みていると言うべきである。
二 文の表情を眺めること
この四十三回の後半では、宣長と真淵の関係についての「締め括り」を書くとして真淵の「国意考」に描かれた「古道」についての議論へ分け入り、宣長と真淵の学問の決定的な違いについて、四十七回までを費やして考察して行くことになる。そして、ここで問題となって来たのは、やはり「あやしき事の説」から身を起こした問題意識であり、真淵が「萬葉集」から「祝詞」へ、「万葉のますらをの手ぶり」からさらに遡って「人まろなどの及ぶべき言ならぬ」「上古人の風雅」を「祝詞」の文章表現に見て取って、自らの「古道」を解明しようとしたところへ言及していく。
「天下の人、大を好て、大を得たる人なし。故に、己は小を尽て、大に入べく、人代を尽て、神代をうかがふべく思ひて、今まで勤たり。……」
(四十三回)
真淵が宣長へ送った最後の書簡をこのように引用しつつ、晩年の真淵においては、追究した「国意」の核心をなすべき「古道」への憧れに集中する余り、それは人為、人智を廃し、「心のいにしへ」へ還ることに他ならないと主張することになったところに注目する。この真淵の思いが、天地自然の道に従うことを是としたために、老荘思想の「天地自然」の重視と神道との親和性へ言及していくが、しかし、実はそこに宣長との決定的な差異があると次のように指摘する。真淵の「国意考」と、宣長の「直毘霊」の近似性を認めつつも、真淵が提出した「原型」を「宣長流に模倣した」記述が現れてはいるが、「その機微は深く隠れていた」とする。それが「老荘の意は、神の道にかなうという真淵の考えに対し、宣長が称えた反対」に端的に示されていると、宣長の「くず花」を引用する。
「かの老荘は、おのづから神の道に似たる事多し。これかのさかしらを厭て、自然を尊むが故也、かの自然の物は、こゝもかしこも大抵同じ事なるを思ひ合すべし。但しかれらが道は、もとさかしらを厭ふから、自然の道をしひて立てんとする物成る故に、その自然は真の自然にあらず、もし自然に任すをよしとせば、さかしらなる世は、そのさかしらのまゝにてあらんこそ、真の自然には有べきに、そのさかしらを厭ひ悪むは。返りて自然に背ける強事也、さて神の道は、さかしらを厭ひて、自然を立んとする道にはあらず、もとより神の道のまゝなる道也、これいかでかかの老荘と同じからん、されど後世に至りて説くところは、かの老荘といとよく似たることあり、かれも自然をいひ、これも神の道のまゝなる由をいえば也、そもそもかくの如く、末にて説くところの似たればとて、その本を同じといふべきにもあらず、又似たるをしひて厭ふべきにもあらず、人はいかにいふ共、ただ古伝のまゝに説くべきもの也」
(四十三)
さて、上記のように真淵と宣長の「似て非なる」関係を叙述して来たところで、その主旨が真淵と宣長の思考の対比的な関係から、その是非を明らかにすることにあるのではないとする。つまり、「古道」と老荘思想との親和性を強調する真淵に対して、反論する宣長という構図を描くことが問題なのではないと、次のように続ける。
ここに、煩を厭わず、二人の曖昧な文を、幾つも挙げるのも、生きた思想の持つ表情を感じて欲しいと思うからで、この感じを摑まえていないと、古道に関する二人の思想が、どう出会って、突き当たり、受け継がれたかという、言わば、思想が演ずる劇とでも言うべきものを、語る事が出来ないからだ。
(四十三回)
実を言うと、私は、この先に記述されている一文に触発されて本稿を書き起こしていると言ってもいいので、この「生きた思想の持つ表情を感じ」取るとはどういうことか、それを目標に論を重ねて行くが、ここでまず、そのことを自ら証する文章として、引用文に続くところを確かめてみよう。
右の「くず花」中の文の表情を眺めていると、やはり宣長が、当時の儒家のうちで、最も重んじていた徂徠の顔が浮かんで来る事を、附記しておこう。……古道を言うのに、老子を持ち出すのは、賛成出来ないと言う宣長の口吻には、明らかに徂徠の老子観が感じられる。……
(四十三回)
真淵と宣長の「古道」、「神の道」の把握の仕方、その対照性について詳述しながらも、宣長の文章の深層に荻生徂徠の顔が透けて見えてくるという指摘は、しかし、単なる影響関係などという安っぽく稚拙な発想を述べているのではない。これは文の表情について眺め入るという経験に基づいて発想されていたことを、先の引用でも押さえたはずである。そして、「老子についての徂徠の考えは、既に書いたから繰返すまい」として、この四十三回は終わるのだが、このさりげない示唆に気づいた読者は、そのまま三十二回へ連れ戻されるのだ。そしてこのように必要に応じて読者に再読と熟考を促して止まないという文体の仕組みこそが、『本居宣長』全体を組み上げているのである。それは、本誌2022(令和4)年春号「<時間論>Ⅳ」の「三 旋回する文体」、また、同年夏号の「<時間論>Ⅴ」の最後に記した通り、「旋回する文体」の端的なあり方を示している。
三 徂徠の面影
『本居宣長』に荻生徂徠が登場するのは、四回、五回、九回、十回、十一回、三十二回、三十三回、三十四回そして先に引用した四十三回である。これらに記された徂徠の学問への言及と、そこに描かれた徂徠像について、実は本誌「好*信*楽」のバックナンバーにおいても多くの論考が重ねられて来ているので、まずは先行する諸論考について振り返ってみよう。
①坂口慶樹「「興」のはたらき・「観」のちから」(2018年2月号)、②安田博道「荻生徂徠が信じた[言葉]」(2019年9・10月号)、③小島奈菜子「言葉の世界で物を見る」(2020年1・2月号)、④池田雅延「小林秀雄「本居宣長」全景二十三「独」の学脈(中)」(2020年1・2月号)、以降、池田雅延の連載稿が続き、⑤「「本居宣長」全景」二十四「「独」の学脈(下)」(2020年3・4月号)、⑥「「本居宣長」全景二十六「言は道を載せて」」(2020年秋号)、⑦「「本居宣長」全景二十八「歌の事から道の事へ」」(2021年春号)、⑧「「本居宣長」全景三十二「反面教師、賀茂真淵(四)」」(2022年春号)の5本の論考がある。また同年同号には、⑨庄宏樹「なぜ「学問は歴史に極まる」のか」(2022年春号)があり、この次の号には、⑩小島奈菜子「「物」としての言葉」(2022年夏号)が掲載され、この後、小島論はこのテーマに関わる考察をさらに展開し、現在までこれを継続していると言って良いだろう。つまり、⑪「荻生徂徠の「物」と「心」」(2023年春号)、⑫「「興」――言語の本能としての比喩の働き」(2024年冬号)、⑬「「ながむる」――事物と人情が親和する行為」(2024年夏号)というように、2020年以降の小島論には荻生徂徠の言語論を『本居宣長』の全体を支える基本構造へ向けて拡張して行こうとする試みで一貫している。
これらの各論は、『本居宣長』に引用言及されている徂徠の言葉とその思想を、それぞれの論者が自らの言葉を傾けて、掴み取ろうとした試み。いわば、各々の<歌>の萌芽から紡ぎ出された文章に他ならないが、その要点のみを確かめておこう。
①坂口論は、『本居宣長』三十二回と三十四回に渡って言及される徂徠の言葉、特に『論語』陽貨第17の「詩」の「興」、「観」の機能の中、言語の本質としての「転義」の動きを見出すところ、「ここに何かがあると直覚した」というのは注目すべき表現である。②安田論は徂徠の言語論の核心部、「辞ハ事ト嫺フ」と命名行為の関係を考察する。③小島論は、「興」の効力から言葉としての名が「物」を喚起する過程を説き、ベルクソンの用語「イマージュ」へ展開する。徂徠の「物」を解こうとする序章であろう。さて、④から⑧まで徂徠に関わるすべてに目配りをした池田論中の白眉は⑤の「独の学脈(下)」である。吉川幸次郎の、解説の域を遥かに越えた、厖大にして緻密な「徂徠学案」(『荻生徂徠』日本思想大系36岩波書店所収)を繙きつつ、徂徠の編み出した「古文辞学」の方法の確認だけでなく、これを自らの文章として実践したものである。これは「古文辞」への関わり方、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なという徂徠の言の「体翫」(仁斎)に他ならない。⑨庄論は、「徂徠先生答問書」の「学問は歴史に極まり候事に候」というその「歴史」の内実を探って、「礼楽」を尊重した徂徠は「幽蘭」なる古琴の曲の復元まで試みたことを紹介する。
そして、⑩から⑬の小島論は、徂徠の詩論「興」、「観」の考察から「名」と「物」との本来的な絆を浮き彫りにしようという姿勢で一貫している。そこで特筆すべきは⑪から⑬の近作で、『本居宣長』にて引用、言及されている徂徠の言葉、文章をもう一度徂徠の著した原典に戻り、周囲の文脈を改めて確かめつつ、そこから再び『本居宣長』の文章を見つめ直すという高密度な論を展開している。小島論の核心は、まずは徂徠から宣長に繋がる言語論を逍遥するかに見えるが、実はこれらの考察の深部には徂徠の表現した「物」という概念に潜んでいる大きな拡がりへ、その可能性への強い憧れが感じられる。
以上、『本居宣長』全体に見え隠れする徂徠の言葉に関わる言及を、本誌の先行諸論において、簡潔にではあるが確認したこととする。
では、ここで『本居宣長』以外の小林秀雄の批評作品に引用言及される荻生徂徠の姿を見渡してみれば、さらに遡って幾つも拾うことが出来る。これについては『好*信*楽』2022(令和4)年春号「<時間論>Ⅳ」に詳しく記したところであるが、1958(昭和33)年の「新潮」5月号から1963(昭和38)年同6月号で中断するまで書き続けられたベルグソン論、「感想」の連載中に、中江藤樹、伊藤仁斎、そして荻生徂徠に関わる批評作品を矢継ぎ早に発表していたのであった。なかでも荻生徂徠の学問への言及がもっとも充実した内容を持ち、費やした紙数ももっとも多いだろう。
「文藝春秋」での連載稿「考へるヒント」シリーズを中心に、徂徠に触れている文章が、もちろん深浅の別はあるものの、随所に現れている。1961(昭和36)年は、「忠臣蔵Ⅱ」、「学問」、「徂徠」、「弁名」。翌1962(昭和37)年は、「考えるという事」、「ヒューマニズム」、「天という言葉」、1963(昭和38)年は、「哲学」、「天命を知るとは」、「歴史」、「物」。そして1964(昭和39)年には「道徳」(6月)というように「感想」連載中から中断の後を貫き、1965(昭和40)年の「本居宣長」連載開始に到るまでの時間において、徂徠への言及は繰り返されていたことになる。そして、これらの中で先ず押さえておきたい文章が「考えるという事」である。そこに、荻生徂徠の著作の読後感が率直に記されている。
徂徠は、宋儒の理学に正面から衝突し、これを批判したから、彼の知性の動きは、明らさまに現れている。その分析力の精到は、「弁道」や「弁名」を読んでいて感嘆の情を禁じ得ない。同時に、私は、感嘆してみて、初めて感得出来る何かが其処にある事を知る。
(「考えるという事」)
小林秀雄が荻生徂徠の著作を手に取り、これを精読する契機となったのは、1961年の「学問」冒頭部に記されているように、「忠臣蔵」で山鹿素行の思想を追跡する結果として、その先に拡がって来たのが「我が国の近世の学問とか思想とかという厄介な問題」であったというが、1958(昭和33)年には「論語」と題する文章があり、翌1959(昭和34)年には「好き嫌い」で伊藤仁斎についての詳述が見えるし、1960(昭和35)年には「言葉」において本居宣長の言語観に言及している。つまり、1960年前後の時期にこれらの話題に集中して取り組んでいるからには、特に伊藤仁斎から荻生徂徠への儒学思想の流れについても視野に入っていたはずであるし、1960年には「本居宣長――「物のあはれ」の説について」という充実した宣長論が展開されており、この作品の核心部に、本居宣長が繰り返し論じた言葉、言語の捉え方、その生態についての洞察が示されていたことは看過できない。これを踏まえれば、「考えるという事」がこの作品の後に続く変奏の一つとしての意味を帯びて来る。すなわち、「物のあはれ」の説の中に、単なる感覚的な美意識を脱して、極めて動的な言語観を把握した深層には、宣長と徂徠の言語観が親和性をもって重なっているという直観が、この「考えるという事」に表現されていると考えられるのである。
「考えるヒント」という題を貰って、考えつくところを、こうして書いているわけだが、前に、徂徠の「弁名」にふれたので、宣長が、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。
(「考えるという事」)
と開始されるが、つまり徂徠が実行した<弁名>という思考、儒教思想の依拠する概念語を改めて吟味するということを、宣長が「考える」という語の成立をどう解したか、そこに移行して確かめてみるということ。そして、それが「考える」という行為を正すことに繋がり、宣長自身の学問基盤を形成していたことを説きつつ、「この点では、徂徠も同様であったと見てよい」と言う。
彼の「弁名」によると、学問で貴ぶべきものは先ず「思」とか「思惟」とかの働きであるが、「思」とともに「謀」という働きを持たねば、学者としては駄目だ、と考えている。「思」は主として心に関して言われる言葉だが、「謀」とは、人の為に謀る、人に就いて謀ると言うように、主として営為、処置、術を指す言葉だ。「思」が精しくなり、委曲を尽せば、「慮」となり、「慮」を以って事に処せば、必ず「謀」となる。これは一貫した人間の働きであって、学者が、これを、ばらばらにしてよい訳はない。なるほど、これは、全く常識に適った見解である。宣長も徂徠も、この常識的見解を取って動かなかった思想家で、二人の眼には、当時の学問の大勢が、空漠たる物しりの多弁と映じていた。
(「考えるという事」)
というように「考える」という語の活動する領域を、「一貫した人間の働き」として把握するところに、宣長と徂徠の思想における根底の一致を見る。そして、宣長が「直毘霊」において「古の大御世には、道といふ言挙もさらになかりき、其はたゞ物にゆく道こそありけれ」と言い、古代の人々の生きる術が、それ自体として抽象化された概念である「道」などという言葉で表現されたことはなかったと注意を促す。そしてここでも宣長と徂徠との密接な関係に言及し、彼らの言語観を集約して説いている。
宣長の言う「物」には、勿論、精神に対する物質というような面倒な意味合いはないので、あの名高い「物のあはれ」の「物」である。宣長も亦徂徠の言う「世ハ言ヲ載セテ以テ遷ル」と言う事について、非常に鋭い感覚を持っていた。宣長は「下心」という言葉をよく使うが、言葉の生命は人が言葉を使っているのか、言葉が人を使っているのか定かではないままに転じて行く。これが言葉に隠れた「下ごころ」であり、これを見抜くのが言語の研究の基本であり、言葉の表面の意味は二の次だ、という考えである。……(略)……宣長にとって、「物」とは、考えるという行為に必須な条件なので、「物」という言葉は、そのように働けば、それで充分な言葉なのである。前に言ったように、「考える」とは、何かをむかえる行為であり、その何かが「物」なのだ。徂徠が、「物トハ教ヘノ条件ナリ」と言う時も、同じ事を言っているのである。
(「考えるという事」)
なお、この作品が書かれる少し前に「弁名」と題する文章を書いており、その終わり近くに徂徠の『弁名』の読後感を「徂徠の説くところは、生き生きとしていて、少しも古くなっていない。彼は言葉が、個人を越えた社会的事実である事を、はっきり見て取っていた」と述べ、「徂徠という人間が、言語問題の本質的な難解に当たって砕けている様が、躍如としているというところに「弁名」の魅力はある」と結んでいた。
もちろん、宣長と徂徠の関係、特に言語論的な親和性については夙に知られているところで、『本居宣長全集』第九巻の「古事記伝」の「解題」を草した大野晋(2)も、「今回の調査で判明した、宣長自筆の『徂徠集』と名づけた小冊」に言及し、「徂徠の学問の中心的な思想は、言は事であるという点にある。宣長は言葉によって事柄を明らかにするという徂徠の方法を、心の底深く学びとった。この方法が、後の、『古事記伝』全部を貫く基本的姿勢として確固と守り通されている」と指摘している。しかし、この「言は事」であるという言語論的思考の徹底性を具体的に、「歌」と「詩」という特殊な言語行為の中に探ろうという試みは、小林秀雄の『本居宣長』において、初めて精密かつ個性的な文体を以って実行された、というのが私の論点である。その四十三回の読解から、『本居宣長』以外の批評作品に荻生徂徠を説くところを見渡してみたが、それらの記述が、本居宣長の言語観と重なりあって『本居宣長』本文の大きな支えとなっているという構造を、改めて熟考すべきではなかろうか。
四 詩の機能
それでは、荻生徂徠を論じている小林秀雄の言葉に、さらに分け入って行こう。先に挙げた「弁名」の中には、徂徠の言語観を端的に把握した記述が見て取れるので、まずはそれを押さえておきたいが、「徂徠」において記された「古文辞学」の淵源、つまりは徂徠の学問の始発の動機が「四書五経素読の吟味役」を長く勤めた際に「本文ばかりを、年月久しく、詠め暮し」たという特殊な経験に胚胎しており、しかも、この経験の内実が経書の言葉自体についての学究的な指向性を有していたからではなく、それは「審美的な性質」(「弁名」)を帯びたものであり、それを考えなければ徂徠の創始した「古文辞の研究の筋道を、決して理解する事は出来ない」(同)とする。こうした言語、文章への向き合い方の示唆が『本居宣長』における「詩」についての考察へ向かって、小林秀雄の記述は進展して行ったように思う。
四書五経を、「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に」浮んだ様々な疑いを種として、経学とは、かくの如きものと合点するに至ったとまで極言している事は、既記の通りだが、このような書物に対する経験の性質について、こう言って誤解されなければ、その審美的な性質について、考えるところがなければ、彼の古文辞学の研究の筋道を、決して理解する事は出来まい。……(略)……
では、読むともなく、見るともなく、詠められた古文辞とは、徂徠にはどういう物であったか、無論、これは言い難い事だが、別段不思議な経験ではないだろう。例えば岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、これに対し、誰でも見るともなく、読むともない態度を取らざるを得まい。見えているのは岩ではなく、精神の印しに違いない。だが、印しは読めない。だが、又、読む事を私達に要求している事は確かである。言葉は、私達の日常の使用を脱し、私達から離れて生きる存在となり、私達に謎をかけて来る物となる。徂徠が、古文辞を詠め暮らして出会ったものは、そういう気味合いの言葉の現前であって、これが、彼が経学というものを合点する種となったと言うのは、この経験によって、言葉の本質に触れたと信じたという意味なのだ。
(「弁名」)
さらに、このことから「特定の古文辞に限らず、古い過去から伝承して来ている私達のすべての言葉には、みなその定かならぬ起原を暗示している意味不明の碑文の如き性質が秘められている事を知るであろう」と続け、それなら学問は「先ず言語の学でなければならぬ筈だ」と『弁名』という著作が文字通りに『弁名』と題された所以を指摘している。 この徂徠が「徂徠先生答問書」の下巻で、「朱子之新注」が「聖教のはしご」にはならないこと、そうした儒学の伝統的注釈を繙くことが、実は「古聖人之教」に近づく階梯ではないと答えた際に、それではどうすべきかと問者に示した自らの学に関わる経験を示す。素読の吟味で経書の本文だけを詠め暮らしていたことが自らの学問の動機になったこと、すなわち注釈に頼らず本文を見つめる読書を勧め、これを「愚老が懺悔物語」として自嘲気味に記している。これは先の「徂徠」に書かれたばかりではなく、『本居宣長』十回にも詳述されているが、重要なことは、「弁名」で徂徠の同じ経験を引き、そこに「審美的な性質」を見出したところである。
私達は、毎日、読んだり、話したりして生活している、つまり、私達が、社会生活に至便な言葉という道具を馳駆している限り、読むともなく、見るともなく、ただ、うつらうつらと書物を眺めるなどというような事は、ただぼ放心に過ぎまいが、徂徠が、自分が言葉というものについて自得するところがあったのは、この放心によった、と言うなら、話は違って来るだろう。話は逆になるだろう。
(「弁名」)
つまり、言語が情報伝達、言語的コミュニケーションの媒介としての記号である限り、あるいは、そのように我々の日常生活において運用されている限りは、我々は自ら馳駆している言葉、文章そのものに向き合うことをしない。一義的かつ透明な記号を使用していると思い込んでいる限りは、日常的コミュニケーションの場において、言葉はその度毎に消費され、伝達の機能を果たせばその場限りで雲散霧消してしまうのである。しかし、その眼前の言葉、文章が特定の指向対象と結合しない時、普通それは意味不明というケースとされ、それに対応する知識、意味をこちらが新たに補填して臨むという行為へ向かう。未知の単語にぶつかったら、辞書を調べてその意味するところを確認した後、再度読み直すというありきたりの作業をするわけだが、既定の意味なるもの自体が未知である場合にはお手上げということになる。確かに単語自体は新造語でない限りは意味の手がかりは得られるだろう。しかし、それが連なって現れる文章の発信元の明確な意思が露わになるような表現として構成されていない場合、発信元に送り返せない文章は、それ自体としての姿を我々に見せてくるばかりである。言葉そのものの姿形こそが露わになるような経験は、言い換えれば、日常の社会生活へ意味を還元するという言葉の通常の働きを諦めざるを得ない経験とは、とりもなおさず詩的言語との出会いという非日常的な世界を開く扉を押すことに他ならないのだ。
だから、「徂徠先生答問書」に記された徂徠の特殊な言語的経験は、詩の読み方を強いる経験だったというのであって、これこそが「言葉の本質に触れた」経験であり、しかもそれは「審美的な性質」のものだったと言うのである。
彼の語るところは、蕃山や仁斎とは又風が変わっていて面白い。いずれにしても、学問の方法を語るより、むしろその秘訣を語る。今言を以て、古言を視るなとは、言われればすぐ守れるようなやさしい忠告ではない。古言には古言に固有な姿がある。今言に代置されて会得されるのを拒絶している姿がある。これに出会うのがむつかしいと言うのである。
(「徂徠」)
こう記されているところから直ちに想い起こされるのは、『本居宣長』で論じられる「歌の事」であるが、これについては以前の拙稿でも書いたことであり、『源氏物語』の読解に関わる宣長の姿勢についても、『本居宣長』本文において繰り返し説かれ、「道の事」へ踏み込む準備として慎重に考察されているところであるから、ここで繰り返す必要もないと思う。しかし、荻生徂徠の詩論については、宣長と徂徠の言語観の重なりということを踏まえるなら、慎重に読み解いておかねばならないだろう。
「徂徠先生答問書」中巻で、最後の問者が、「詩文章ノ学ハ無益ナル儀」ではないかと問うのに対し、それは「宗儒ノ詞章記誦ナトト申候ヲ御聞入候事年久敷候故」の思い込みであり、つまりは「宋儒」の注釈学説等を記憶するばかりだから「詩文章」を侮る気持ちになるのだとして、「詩経」味読の効用を次のように述べる。
マツ五経ノ内ニ詩経ト申物御座候。是ハタタ吾邦ノ和歌ナトノヤウナル物ニテ、別ニ心身ヲ治メ候道理ヲ説タル物ニテモ、又国天下ヲ治候道ヲ説タル物ニテモ無御座候、古ノ人ノウキニツケウレシキニツケウメキ出シタル言ノ葉ニ候ヲ、其中ニテ人情ニヨクカナヒ言葉モヨクカナヒ、又其時其国ノ風俗ヲシラルヘキヲ、聖人ノ集メヲキ人ニ教ヘ給フニテ候、是ヲ学ヒ候トテ道理ノ便ニハ成申サス候へトモ、言葉ヲ巧ニシテ人情ヲヨノへ候故、ソノ力ニテ自然ト心コナレ、道理モネレ、又道理ノ上ハカリニテハ見エカタキ世ノ風儀国ノ風儀モ心ニ移リ、ワカ心ヲノツカラニ人情ニ行ワタリ、高キ位ヨリ賤キ人ノ事ヲモシリ、男ガ女ノ心ユキヲモシリ、又カシコキガ愚ナル人ノ心アハヒヲモシラルル益御座候。又詞ノ巧ナル物ナルユへ、其事ヲイフトナシニ自然ニ其心ヲ人ニ会得サスル益アリテ、人ヲ教ヘ諭シ諷諌スルニ益多ク候。殊ニ理屈ヨリ外ニ、君子ノ風儀風俗ト云モノノアル事ハ、是ヨリナラテハ会得ナリカタク候。(3)
この後には再び和歌に触れる箇所があるが、「此方ノ和歌ナトモ同趣ニ候得共、ナニトナク只風俗ノ女ラシク候ハ、聖人ナキ国故ト被存候」とだけ記している。
この徂徠の文章は、小林秀雄の諸作品にも引用されていないのだが、『本居宣長』三十二回冒頭で、村岡典嗣「徂徠学と宣長学の関係」中の「稿本」調査によって、宣長が徂徠の主要な著作を「京都遊学中に殆ど読まれていた事が確実になった」と記して、「今度、筑摩版全集で、未発表だった稿本に、初めて接した機会に、書いておきたい」としたその「稿本」に存在するものである。ここで言う「稿本」とは、筑摩版『本居宣長』全集第十三巻所収の未刊行の原稿「本居宣長随筆」を指しており、その中から「玉勝間」の項目へ採用された記述も多いものである。この随筆原稿に見える「詩」、「詩経」の項目にある徂徠『論語徴』からの引用については、『本居宣長』三十二回に明瞭だが、上の引用文は別の「詩」〔110〕に、「●答問書【荻生茂卿】曰、」と示されているように、「徂徠先生答問書」からの引用である。しかしこれは、『本居宣長』全五十回のどこに置かれていてもしっくり馴染む文章と思うのである。
(つづく)
【注】
(1)本居宣長『玉勝間』からの引用は、『本居宣長全集』第一巻(昭和43年5月筑摩書房)によった。
(2)大野晋「解題」(『本居宣長全集』第九巻 昭和43年7月筑摩書房)
(3)この荻生徂徠「徂徠先生答問書」からの引用文は、『本居宣長全集』第十三巻「本居宣長随筆」(筑摩書房 昭和46年9月)によっている。なお同文は『荻生徂徠全集』第一巻(みすず書房 昭和48年7月)所収の「徂徠先生答問書」においても漢字仮名遣いの別はあるが、すべて同文と確認できる。本文引用にあたっては漢字は新字に改めている。
○小林秀雄『本居宣長』と、その他の小林秀雄作品からの引用はすべて、『小林秀雄全作品』(新潮社)によった。