契沖と熊本Ⅶ

坂口 慶樹

十四、「上に宗因なくんば……」

 

「上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳ていとくよだれをねぶるべし。宗因は此道このみちの中興開山也といへり」。芭蕉に師事した去来(*1)が記した「去来抄」(修行教)にある先師芭蕉の言葉である。芭蕉は俳論書の類いを一切残さなかったので、彼が西山宗因について語っている、この唯一の言葉は、よく味わっておきたいと思う。まずは当該箇所の全文を引用する。

魯町ろちやう曰、不易流行の句は古説にや、先師の発明にや。去来曰、不易流行は万事にわたる也。しかれども俳諧の先達是をいふ人なし。長頭丸ちやうづまる已来いらい手をこ(込)むる一体久しく流行し、角樽つのだるや かたぶけのまふ 丑の年、花に水 あけてさかせよ 天龍寺、と云まで吟じたり。世の人俳諧は如此かくのごときものとのみ心得つめぬれば、其風を変ずる事をしらず。宗因師一度そのこ(凝)りかたまりたるを打破り給ひ、新風を天下に流行し侍れど、いまだ此教なし。しか(然)りしより此かた、都鄙とひの宗匠たち古風を不用もちひず、一旦流々りうりうを起せりといへども、又其風を長く己が物として、時々変ずべき道を知らず。先師はじめて俳諧の本体を見付、不易の句を立、又風は時々へんある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。しかれども先師常にいはく、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳のよだれをねぶるべし。宗因は此道の中興開山也といへり」(*2)

魯町は去来の弟である。芭蕉に関してよく言われる「不易流行」論については、前述の通り本人が文字として遺した言葉はない。その論について、魯町が「古くからの説なのか、それとも先師が初めて説いたものなのか?」と尋ねた。去来が答える。「不易流行」は俳諧のみならず、あらゆる分野に通じるもの。しかし、俳諧の諸先輩で、このことを説いた人は見当たらない。長頭丸(松永貞徳)以降、例示した二句のように、言葉に技巧を凝らす句風が流行はやった。世人は、俳諧とはそんなものだと思い込み、新風を吹かせることなど思いもよらなかった。西山宗因師が出て、貞門の硬化を打破し新風を吹き込んだが、宗因が不易流行について説くことはなかった。それ以来、各地の宗匠たちは思い思いの流儀をおこしたが、各自の句風に停滞するだけで、変化も必要であることには気付かなかった。そこに先師芭蕉が現れた。師は俳諧の本質を発明し不易の句を樹立、一方句風には変化が必要なことを悟り、流行の句には変化が必要なことを教えられた。しかしながら、先師は日頃からこのように言っていた。「宗因が世に出ていなければ、我々は今もって、貞徳の亜流にとどまっていただろう。宗因は俳諧の中興開山と言うべきである」。

この芭蕉の言葉については、保田與重郎氏が次のように述べていることに、よく留意しておきたい。

「宗因を押しつめるなら、貞徳によつて結果的に殺されてしまつた俳諧を甦らせ、貞門法式にしばられた俳人を開放すると共に、俳諧と共に彼らを無限の頽廃へ導くにすぎない。つまりその滑稽には、精神上の自信と安心はなく、ただ世俗一般の生活といふものが、滑稽を支へてゐるにすぎぬといふ、文芸の上から考えへると、はかない大衆文学的根拠しかもたなかつた。(中略)そこに止まる限りでは、何らいのちの秩序をもたない淵だといふことが、宗因の貞門に対する挑戦によつて芭蕉に知られた。芭蕉はこの時、宗因の形や跡を見たのではなく、己の心と俳諧の道を見たのである。即ち貞門と談林とを対決させて、終に真の道を知つたのであらう。流俗的な観念に挑戦する詩人の頽廃の諸相を、己の掌にひろげてゐた時、その間に一本の貫くみちを見る機縁を与へたことが、宗因は中興開山だと感謝した真意と思ふ」(「芭蕉」)

去来は、いわゆる「不易流行」論の枠組みのなかで芭蕉の言葉を捉え、「去来抄」に記した。保田氏は、芭蕉が、貞門の俳諧にまねび宗因の俳諧にまねび、宗因の挑戦を目の当たりにするなかで「己の心と俳諧の道を見た」と言っている。そのうえで私は、芭蕉がよく言っていたというこの言葉の底の底には、芭蕉が宗因に直かに接したうえで感得していた宗因の人生の歩み方や、西山宗因という人物の人格的な気質への共感があったような気がしてならないのである。

宗因は、人生これからという二十九歳のとき主家改易という緊急事態に直面、先に「肥後道記」でくわしく見たように、故郷の熊本を離れて単身上京、連歌一筋に精進し一流の連歌師として活躍した。晩年には、俳諧の道でも新たな挑戦を行った。貞門俳諧からの大反撥にも動じることはなかった。加えて、大名諸侯の求めに応じ全国各地を旅し、居所を定めない生き方を貫いた。最期の状況もよく分かっていない。

一方、芭蕉は、二十三歳のときに仕え、ともに俳諧に親しんでいた藤堂良忠(号は、蟬吟)を亡くし俳諧修行に専心した。二十九歳で東下し宗匠となった。三十七歳のときに「市中に住侘すみわびて、きょを深川のほとりに移」(俳文「芝の戸」)した。その後は、故郷の伊勢はもちろん、関西、鹿島、奥州など全国各地への旅を続け、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」という句を遺し大阪の南御堂みなみみどうで、ついに逝った。宗因同様、俳論書の類いは一切残していない。

約四十歳の年齢差がある二人の間に、頻繁な交流があったわけではないようだ。しかし、去来が書いている「常にいはく」という言葉をよくよくながめていると、芭蕉にとって宗因の存在はけっして小さくなかったように思われる。私には、芭蕉が人生いかに生きるべきかと、日々切実な自問自答を続けて行くうえで、宗因は偉大な人生の先達だったような気がしてならないのである。

 

十五、泉州万町の好会再考

 

「契沖と熊本」と題する論考であるにも拘わらず、ここまで西山宗因と松尾芭蕉らに紙幅を割いてきたのには、理由わけがある。第十二章「泉州万町まんちょうでの好会」において、和泉の国にあった伏屋重左衛門重賢邸の敷地内に、若き契沖と老境の宗因が宿泊し、場合によっては二人が対面していた可能性もあることに触れた。そこで引用した、契沖研究の泰斗、久松潜一氏の述懐、わけても氏が「無限の感慨」というまでの言葉を使った深意を、より深く噛みしめたかったからなのである。その内容を今一度引いておこう。

「宗因の宿った夜は契沖も宗因と会し、秋の一夜を重賢と三人で語り合ったと想像することも出来る。七十歳の宗因を中心として契沖と重賢とが語り合ったとすればそれは和歌や連歌・俳諧のことであったかも知れず、またあるいは没落した豊臣氏や加藤家に対する追憶であったかも知れぬ。とにかく和泉の山村の静かな秋の一夜のこの好会を想像して、私は無限の感慨を禁じ得ないのである」。

重賢の祖父、一安飛騨守は、太閤秀吉に仕えていた。宗因の父は加藤清正の家臣であり、祖父は大坂夏の陣の豊臣方の勇士、御宿みしゅく勘兵衛正友と見られている。そして契沖の祖父、元宜もとよし(下川又佐衛門)は、清正に仕え熊本城留守居役であり、伯父の元真がその後を継いだ。

さらには、第一章でも触れたように、彌富氏論文(「契沖と熊本」快旭阿闍梨墓碑保存会)によれば、契沖の母方の祖母は、宗因が「たの(頼)む木陰」のような存在として仕えていた加藤右馬允正方(風庵)の姪にあたるという奇縁もあった。しかし久松氏は、このように豊臣氏や加藤家に縁のあった三人が敷地内に同宿したことや、連歌や俳諧について会話をしたことだけをもって「無限の感慨」と言われているわけではないように思うのだ。

言うまでもなく、西山宗因は、これまでくわしく見てきた通り、のちに「元禄の三大作家」と呼ばれることになる松尾芭蕉と井原西鶴が仰ぎ見た大先達であった。そして契沖は、このあと、親友の下河辺長流しもこうべちょうりゅう(*3)亡き後を継いで「万葉代匠記」を著し、徳川光圀(*4)に献じることになる。契沖より前の「万葉集」の注釈が古注、以後の注釈が新注と呼ばれることからもわかるように、和泉の久井や万町で読み込んだ和漢書の知見も十二分に発揮して、現在にも通じる多くの新たなみを示すという画期的な成果を挙げた。さらには、その注釈の過程で得られた知見は、「和字正濫抄しょうらんしょう」に示された通り歴史的仮名遣いの原型の確立につながった。

しかしながら、契沖の功績は、そのような学問的知見に留まらなかった。わけても、その著作などを通じて大きな薫陶を受けた、若き日の本居宣長(*5)にとって契沖は、その後の学問に向き合う態度という意味で、かげがえのない存在であった。ここでは、第一章で引いた、宣長が若かりし頃の京都への遊学時代を思い出しているくだりについて、小林秀雄先生が語っているところに、今一度耳を傾けてみたい。

「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に、甦っているのは、言わばその強い予感である。彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである」(「本居宣長」第四章、「小林秀雄全作品」第27集所収)

宣長は、契沖について、このように述べていた。

「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼メイガンヲ開キテ、此道の陰晦インクワイヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世の妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来の面目メンボクヲミツエケタリ。大凡オオヨソ近来此人ノイ(出)ヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニエヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロ(驚)カシタルユヘニ、ヤウヤウ目をサ(覚)マシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハイニ、此人ノ書ヲミテ、サツソク(早速)ニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロ(悪)キ事ヲサト(悟)レリ、コレヒト(偏)ヘニ、沖師ノタマモノ(賜物)也」(「あしわけをぶね」)

ここで宣長が言っている、契沖の「大明眼」とはなにか? 「本居宣長」第六章などで詳述されているところだが、小林先生は「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である」と述べたあと、宣長の次のような言葉を引いている。「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」(「紫文要領」)。これは、「源氏物語」の従来の注釈書が、例えば「蛍の巻」の中で紫式部が使っている「仏のうるはしき心」という言葉について、仏教の教説にこじつけた解釈を施すことで、「式部のたとへの本意と大きに相違して」結果的に読者を道に迷わせてしまっているような事例が数多あまたあることに、注意を促しているくだりである。先に引いた「酒ニエヒ、夢ヲミテヰル如クニテ」というのは、注釈者たちがそれぞれ我田引水な解釈を施し、作者の意とするところが置いてけぼりにされてしまっているという、嘆かわしい状況を例えていたのだ。

そして小林先生は、同章を次のように述べて締めくくっている。

「考える道が、『他のうへにて思ふ』ことから、『みづからの事にて思ふ』ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、『契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也』とまで言っている。宣長の感動を思っていると、これは、契沖の訓詁註解の、いわば外証的な正確に由来するのではない。契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関するもうを開かれたのではない。およそ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである」。

その後宣長は、契沖から学んだ学問に向き合う態度で、かつ学者として生きる道とは何かという自問を抱きながら、「源氏物語」の本質に触れた。「ふる物語をみて、今にむかしをなぞらへ、むかしを今になぞらへて、よみならへば、世の有さま、人の心ばへをしりて、物のあはれをしる」(「紫文要領」)。そういう基本的な態度そのままに、すべて漢字で記され長年にわたり読解困難となっていた「古事記」に向かい、前人未到の本格的な訓読を完遂し「古事記伝」として上梓したのである。

ここでまた宣長の声を聴いておこう。彼は「古事記伝」の冒頭でこのように言っている。「大御国にもと文字はなかりしかば、上ツ代の古事フルコトどもも何も、タダに人の口に言ヒ伝へ、耳に聴き伝はり来ぬるを……」文体カキザマの事)。大陸から漢字という文字が入ってくる以前のわが国では、言伝え、すなわち口頭言語のみでつつがなく生活が続けられていた。「古事記」には、天武天皇の強い志をもとにして、古人の「言語モノイヒのさま」が遺されていたのである。今では、そんな「古事記」も、子ども向けも含めて誰もが読めるかたちで普及しているが、その原点には契沖がいた、と言っても過言ではないのである。

そうすると、延宝二年(一六七四)八月の西山宗因と契沖との好会は、松尾芭蕉と井原西鶴という元禄の二大巨星と、「源氏物語」で開眼し「古事記」を「やすらかに見」つめみ上げることで、文字なき時代の日本人の発声のすがたを再現しえた本居宣長という巨星につながる人物たちの邂逅と見ることもできるだろう。

いや、このような簡単な言葉だけでは、とても言い尽くすことなどできない。久松氏が覚えた「無限の感慨」の深淵は、途方もなく深いのである。

 

 

(*1)慶安四年(一六五一)~宝永元年(一七〇四)。向井去来。長崎生れ。聖堂祭酒・儒医向井元升の次男。貞享元年(一六八四)、其角を通して芭蕉に入門。

(*2)「去来抄・三冊子・旅寝論」穎原退蔵校訂、岩波文庫

(*3)寛永元年(一六二四)~貞享三年(一六八六)。江戸前期の国学者。著作に「万葉集管見」など。

(*4)寛永五年(一六二八)~元禄十三(一七〇〇)。水戸義公とも。「万葉代匠記」は光圀の依頼により執筆された。

(*5)享保十五年(一七三〇)~享和一年(一八〇一)。江戸中期の国学者。

 

【参考文献】

・岡本明「去来抄評釋」名著刊行会

・阿部喜三男「松尾芭蕉」吉川弘文館

 

(つづく)