第三十章中天武天皇の哀しみ
第三十章は、「古事記」が撰録されるに至った理由はその「序」に明記されているが、「古事記伝」に見られる宣長の解に従ってまとめてみよう、と言って始められ、
――天武天皇の修史の動機は、尋常な、実際問題に即したものであった。即ち、諸家に伝えられた書伝えの類いは、今日既に「正実ニ違フ」ものとなっているので、その「偽リヲ削リ、実ヲ定メテ」これを後世に遺さねばならぬというのであった。私家の立場を離れ、国家的見地に立って、新しく修史の事を始めねばならぬという考えは、「日本書紀」の場合と同じであったが、この書伝えの失が何によって起ったか、従って、これを改めるのには、どうしたらよいかという点で、「古事記」撰録の場合、更に特別な考え方が加わっていた。それは、「書紀」の編纂者の思ってもみなかった事で、書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基いていた。宣長に言わせれば、「そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、漢文章に牽れて、本の語は漸クに違ひもてゆく故に、如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり」という事であった。……
と、ここに言われている「上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験」については、前回、粗方ながら観望したが、「如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり」の「哀しみたまへるなり」を重く見て、小林氏は次のように言うのである。
――宣長が、天武天皇の「哀しみ」を言う時、天皇、阿礼、安万侶の三人の人物の、まことに幸運な廻り合いという、この事件の個性が、はっきりと感じとられていた、と見てよいであろう。宣長が見てとったところでは、歴史家としての天皇の「哀しみ」は、本質的に歌人の感受性から発していたが、又、これは尋常な一般生活人の歴史感覚の上に立ったものでもあった。「日本書紀」の伝えるところによれば、天武十年に国史編纂の計画があり、それが後の「日本書紀」の原撰と考えられている。従って、欽定の国史を、国文によって記述しようというような企ては、当時としては、全く異例な、大胆なものであった事を、天皇自身よく知っていた筈であろう。よく知った上での発想だったであろう。……
天武十年は西暦682年で、「古事記」が成った和同五年(712)からでは三十年前だが、その天武十年の国史編纂計画によって編まれた史書が今日の「日本書紀」の原型になっていると考えられ、そうであるならその原型書も先進国中国に倣った漢文表記であっただろうから、天武天皇の命によって新たに編む国史を漢文ではなく国文で記述するということは異例も異例、大胆も大胆な新機軸だったのであり、天武天皇自身、そのことはよく知っていたであろう、よくよく知った上での発想だったであろうと小林氏は言っているのだが、この天武天皇の「発想」の根は深かったのである。
小林氏は、続けて言う。
――天皇の「哀しみ」には、当時の政治の通念への苦しい反省はあったであろうが、感傷も懐古趣味もありはしなかったであろう。支那の正史の編纂方式を模倣して、漢文で立派な史書を物したところで、実際には誰がどんな風に読んでいたのか。これを読むものは、貴族にせよ、公民にせよ、極く限られた人々に過ぎず、それもただ、知的な訓読によって歴史の筋書を辿るに止まり、直接心を動かされる史書に接していたわけではない。そのような歴史を掲げ、これに潤色されている国家権威の内容は薄弱であった。これは覆い切れるものではなかったろう。天皇の「削偽定実」という歴史認識は、国語による表現の問題に、逢着せざるを得なかったのである。……
これが天武天皇の「発想」の根である、国語による表現の問題である。
(第三十章中了)