契沖と熊本Ⅷ

坂口 慶樹

十六、契沖の弟

 

ここで、契沖まわりのことに話を戻したい。契沖には快旭かいきょくという弟がいて、家系図に「肥後熊本不動院五世住」とあるように、熊本で僧侶として終生を送ったことは、第一章で述べたとおりである。不動院は、私の生家からほど近い、現在の熊本市中央区なか唐人とうじんまちにあった。二〇一八年の六月、その場所を初めて訪れてみたところ、堂宇のたぐいはもはやなく、駐車場の一角に、朽ちて散乱した墓石群が埋もれていた。先年の大地震の影響もあったのか、無惨な光景が広がっていた。生い茂った草木で墓石の文字もほとんど読めない有様だった。

ところが、二〇二一年二月に再訪したところ、草木が刈り掃われ、墓石に刻まれた文字が読める状態になっていた。それと思しき墓石には、このように刻まれていた。

   享保二十乙卯天

 大阿闍梨法印快旭之寿蔵

   閏三月初八日

これは、彌富破魔雄氏論文や久松潜一氏の「契沖伝」(至文堂)に記載のものと同一だ。確かに快旭は、この場所に住んでいた。「寿蔵」とは、生前に自ら作り置く墓のことをいう。両氏によれば、その墓石に向かって右側面には、

 法華経一千部讀誦

        八十五歳

 題百萬遍念誦

とあり、没年月日と年齢は、亡くなったときに追刻したものと推定されている。

なお、彌富氏によれば、一時期この墓石は「既に廃滅した」ものと思われていたところ、昭和三年(一九二八)七月に発見され、彌富氏らが当時の熊本市長辛島知己氏に相談のうえ、「有志諸賢の同感共鳴により」資金を得て「保存の設備を施行し、簡単なる墓前祭を執行」するに至った。しかしながら、そういう有志諸賢の思いも空しく、戦争や大地震も含めて一世紀近くが経とうとするなかで、再び雑草雑木の中に埋もれる悲境に陥っているのである。

ちなみに、彌富破魔雄氏は熊本出身の国学者で、皇室の傳育ふいく官として明治四十五年(一九一二)から、のちの昭和天皇、秩父宮殿下、そして高松宮殿下の教育にあたった人物である。(*1)

さて、快旭は、十一歳頃に熊本の地に来たものと考えられている。「不動院松林寺は、もと熊本宮寺村(*2)にあった古刹であるが、これを天正十六年に、加藤清正が府内唐人町に移したもので」、何らかの縁故があって来熊したのであろう。延宝七年(一六七九)、二十九歳という若さで師快祐の後を継ぎ不動院の住持となり、法印の最上僧位まで得た。三十一歳の時には大阿闍梨となった。このような外形的な行跡もさることながら、国学や漢学においても造詣の深さがあったと、彌富氏は貴重な二つの具体例を挙げて評価している。

まずは、木山直元(*3)に贈った手紙と歌である。

「津々良何某は、上代の風を仰で、臨池りんちの妙あり。世の人かの筆の跡を得たるもの、秘蔵せずといふことなし。ひととせ歌を写して、予が家兄契沖へおくられしを、水戸の源黄門へ献じ高覧に備へられしかば、はなはだ珍重したまひて、文庫におさめさせたまふとうけ給る。今又本妙寺の日實師ののぞみによりて、日本紀竟宴歌にほんぎきょうえんか二まきを写されしを見侍り。目をおどろかし、感心のあまり、知らざる道の腰折こしおれをつらぬるものならし。

桑門快旭

 うつ(写)しおく もじの関守せきもり 末の世に かきながしたる 水ぐき(茎)のあと」

 

これは直元の歌集「微塵みじん集」のなかにあるもので、津々良何某とは直元のことである。快旭が、直元の「臨池の妙」すなわち達筆であることを褒めた文章であり、その筆跡のあまりの秀逸さに、自分は「知らざる道の腰折」すなわち不勉強でたいしたことのない歌を詠んだ、という謙遜の趣旨だ。「日本紀竟宴歌」については後に詳述するとして、彌富氏はその文章表現の妙に注目し、このように述べている。

「一篇の用語よく洗練され、語法もまたよく整ひ、したがつて文意の徹底して居る点は、(中略)出色あるものとするをはばからぬ」。また歌については「二句に体言を据ゑて居る手法や縁語の用ひざまなど、当時の歌としては、さる方にめでたい歌で、決して『知らざる道』といふ詞を、そのままに信用してはならない程である」。

もう一つは漢文で、熊本不動院の「霹靂へきれき記」にある一文である。但し、漢文で長いため、ここでは彌富氏による要旨を紹介したい。その姿は感じ取っていただけると思う。

「寛文十一年三月八日の夜、暴風雨にはかに起こりて、霹靂一閃いっせん、護摩堂の上に落雷す。時に先師、堂中に持呪誦経じじゆしやうきやうす。徒弟房に居り、恐懼きやうくして地に伏す。師は晏然自若あんぜんじじやくとして、神色平時の如し。而して本尊並に脇士等、いささかの損傷もなく、只、雷の穿うがつ所のあなのみ存せり。翌日隣人とぶらひ来り、これを見て感嘆敬礼して去る。本尊は釈迦院の弉善大師の彫造せし像なり。先師、法諱はうきは快祐、俗姓は眞嶋氏、隈本の人。この落雷に堂像、行者些かの損傷もなかりしかは、是に明王の加持力であると同時に、亦師の専精の力なり

  弟子快旭、紀其顛末、以繋之不朽者也。

    時天和年歳次辛酉菊秋吉旦

          当寺中興第五世天台沙門大阿闍梨法印快旭誌焉」

これが記されたのが天和元年(一六八一)、快旭三十一歳のときである。落雷があった寛文十一年(一六七一)は二十一歳(*4)、徒弟の一人として凄まじい雷鳴に恐れおののいていたのであろう。これについて彌富氏は、「一読するに行文流暢りゅうちょう、措辞よく体をなし、意またこれにしたがつて簡潔、要を尽くして居る。凡手でない事が十分に察せられる」と評している。

 さらに、快旭に関する資料が極めて少ないなか、彌富氏論文「契沖と熊本」を納めた「契沖と熊本」(快旭阿闍梨墓碑保存会)という書籍中に、石原後凋氏の「紫のゆかり」というエッセイがあり、「肥後国誌」の中に快旭についての記述があるという。調べてみると、確かに「肥後国誌略」(元之巻、肥後国府部下巻)に、次のように記してあった。

  天満宮 祭九月二十五日 新三丁目内塩屋町侍小路

   細川若州候御会所近辺、船場せんば町川筋土手際ニアリ。勧請年代不分明。天台宗不動院住持支配之。延宝七年正月三日ノ夜、不動院住持快旭法印夢想ヲ感ジ、神体ヲ夜半ニ不動院ヘ移シケルニ、同十五日近隣ニ火失アリテ社壇類焼ス。ソノ後ヤシロヲ建テ遷座ス。

加えて石原氏は「今の文林堂主人丹邊氏は曰く」と、次のような話を紹介されていた。

「ある時藤公(坂口注;加藤清正)の重臣貴田孫兵衛、洗馬川に網を投げられると、木の塊がかかって来た。ひき上げて見られると天神の御像である。が御祭しようナドといふ考は勿論なかつたのでそのまま水に投込んでしまはれた。後日再びその辺をあさられると、又しも右の御像が網にひつかかつた。スルト孫兵衛もこれキツと『あるやうあらう』と信念し、叢祠さうしを川の西岸なる藪中に建立して崇敬をいたされた。よつて里人は藪天神と称へたさうであつた。後年道の西側に移し奉つて、久しくこの地の守護神として祝祭してゐたが、近年米穀取引所改築の際また今の所におうつし申し上げた」。

ちなみに、文林堂は、豊富な画材の品揃えのある文房具の老舗で、創業は明治十年。創業前には、細川家御用染物師として細川家の転封と共に小倉へ移住、寛永九年(一六三二)、細川忠利公の熊本転封とともに来住している。熊本出身の小説家、徳富蘆花ろかも「少年時代熊本目貫めぬきの洗馬橋を渡つて向かふ角の文林堂といふ大きな文房具店で熊次は時折筆を買った」と記している(「富士」第三巻)

私は、新たに快旭の足跡を直に確認できそうな直観を得て、現在では熊本市中央区新町二丁目となっている現地に足を運んだ。足跡はあった。「藪天神」は、船場菅原神社として、コンパクトな敷地に美しく整然と整備されていた。

そんな境内に、古びた石碑があった。昭和十五年(一九四〇)に建てられた「場社碑」で、次のように刻まれていた(判読不明箇所は□)

  加藤清正之臣貴田孫兵衛 坪井川に投網の際 不□天神の尊像懸りしが 之を元の川中に投せしに 翌年再び其尊像を網中に得て□以て遂に奇瑞を感じ 之を拾揚し其洲辺に小祠を建て 之を祭祝奉るに至れりと伝ふ 里俗之を呼て藪天神と称す 天台宗不動院之を支配せしが 延寶七年正月三日夜時に 不動院住持快旭法印霊夢を感じ神躰を夜半に不動院へ移しける同十五日近隣に火失ありて其社壇類焼す 其後社を建て遷座すと云ふ 爾後明治の末 町□代富重利平翁之時亦今の地に三遷せられし者にして□けるに 数々の霊験に徴を里民の崇敬篤き亦故あり□□□志□に 富重徳次渡邊小次郎両氏其由来煙滅せむ事を□し 碑を後世に貽さん事を計られ 余に文を□せらる余生□此地に享けし者仍不文志顧みず概□を誌す事爾□焉

 皇紀二千六百年祝典日

 昭和十五年十一月十日

      丹邉楽山撰並書

 

加藤清正の家来であった貴田孫兵衛が坪井川から引き上げた天神像が、藪天神のご神体として祀られていた。延宝七年(一六七九)正月三日夜、同社を管理していた不動院の住持快旭が夢に感じて、ご神体を不動院に移したところ、十五日に発生した近隣火災によって同社が消失、後日再建のうえ遷座した、という概要である。

なお当神社は、今ではむしろ、肥後てまり唄「せんば山の狸」(*5)のゆかりの神社として有名になっていて、境内には寄進されたタヌキの像が多数置かれている。行き届いた整備をされている管理者の方には頭が下がる思いでいっぱいである。ただ、契沖の弟である快旭という僧が、この近くにあった寺院の住持として亡くなるまで住んでいたこと、ご神体を火災から守った人物でもあったことは、今では地元の方でさえ、ご存じの方はほとんどいらっしゃらないのではなかろうか。

私は、快旭が、この地で生きていた足跡をまた一つ確認できた喜びを噛み締めながらも、駐車場の片隅で、なかば土に埋もれた墓石(寿蔵)のことを思い浮かべると、いたたまれなくなってしまった。この小論も、そんな両方の心持ちが強い動機の一つとなってしたため始めたものであることを、改めて記しておきたい。

 

十七、僧快旭におくること葉

 

彌富氏論文のなかで、契沖が弟快旭に送った詞が紹介されている。その経緯は以下の通りである。「木山直平の筆に係る『契沖家集』といふ書が、近時我が友平野君(*6)の手によつて発見せられた。編者直平の自筆である所が、すこぶる貴いのである。此の巻尾に『僧快旭におくること葉』といふ一篇の文詞がある」。以下、その内容を見ていくことにしよう。なお、契沖が自身の出自を語っているくだりは、第一章他で既出の内容であるため割愛する。参考まで、全文を末尾に付しておく。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

「肥後の國くまもとの城わた(渡)りに、快旭といふ此おい(老)法師が弟なるが、い(往)にし月おこせたるふみ(文)にいへるやうぞまづ悲しき」(( )内は筆者、以下同様)。熊本の快旭から届いた手紙には悲しいことが書いてあった。

「此の國の守の太郎がねの君は、ふん(文)月二十日あまり一日、江戸にしてわづかにひと日ふつかなやみ給ひて、う(失)せ給ひしかば、申すべきかぎりは中々いふにやはおよぶ。(中略)すなはち水戸の源参議の御むすめ、まことには、今出川殿のなるを、將軍の御はか(計)らひにて御むすめ(娘)とし給ひて、おんむこ(御婿)君と定まり、來むずる年ばかりや、こなたには渡したまはむ、など聞えつるを、あへなくてうたてき世の中のこと、などあり。かねてより此御なか(仲)らひあらんことは、こゝにもう(受)けたまりつるを、げに白河なみ(波)のなるせ(鳴る瀬)あは(泡)とこそたと(譬)ふべかりけりな」。「此の國の守の太郎がねの君」とは、熊本藩の三代藩主細川綱利の第九子で長男の與一郎のことである。五代将軍家綱の計らいで、この君と、公家の今出川家の姫君を徳川光圀の養女として、妻合めあわせることになっていたところ、君が元禄十三年(一七〇〇)七月二十一日に、わずか十四歳で、江戸で早世してしまい、縁談が水泡に帰してしまったことを快旭が嘆いていたのである。後述することになるが、光圀と綱利の親交は浅からぬものがあった。「かねてより此御なからひあらんことは、こゝにもうけたまりつる」とは、そのことを、契沖も承知していたと言っているように思われる。もちろん契沖と光圀との間にも、それに勝るとも劣らぬ深い親交があっただけに、人ごとではなかったものと思われる。

「をとこ君、まだことし十四にならせたまへば、女君は只ひいな(雛)やなにやにうづも(埋)るばかりにて、おは(御座)せけんなれば、をし(鴛鴦)鳥のはね、かたみ(互)に霜はら(払)ふならひも、し(知)ろしめ(召)さじや」。姫君は、ひな人形などに囲まれているような年齢でおいでなので、おしどりの夫婦が交互に場所を入れ替って霜を払い合うようなこともご存じではなかろう。「をし鳥のはね……」の表現は、枕草子「水鳥、鴛鴦をしいとあはれなり。かたみに居かはりて、『羽の上の霜払ふ』らむほどなど」(第三十八段)(*7)を踏まえたものだろうか。

「宰相の君は、わがつくば山とよそ(余所)ながら、みかげたのむ身なれば、そのゆゑよりかゝり、かの太郎がねの御事も、又はなれぬ故ありて、よそには聞きすぐされず」。光圀さまは、遠く筑波山のある常陸ひたちの地から、このたびの婚姻について今出川家のご威光に託しておいでなので、與一郎君の件も、聞き流されるということはない、という意か。(*8)

契沖は、父元全が、祖父を継いで熊本藩の家老を務めた兄元真(二代目としての下川又左衛門)に「子のつらにて」養育され、加藤家の改易とその後の断絶ののちは、尼崎城主の青山氏に「わづかなる仕へ」をして零落していったことに触れたあと、このように記している。「今は其の末なるものとては、いかなるえ(縁)にかありけむ、快旭ひとりはかなくてす(住)めるを、僧ながらかへりわぶめる」。すっかり落ちぶれてしまった一家の子として、どういう機縁か熊本の地に独り離れて住むことになってしまった、弟快旭のことを思うと不憫でならない、そんな心境であろうか。

「かゝれば野邊は(這)ふくず(葛)の、こなたかなたにつきて、こしはな(腰離)るばかりの歌ながら、五をよみいだ(詠出)してなん、はるかにかしこながら、姫君の御心をいたはしみ奉るになんありける」。「野邊はふくずの、こなたかなたにつきて」とは、当時大阪の円珠庵(*9)に住んでいた契沖にとってみれば、「快旭ひとりはかなくてすめる」西の熊本と、お世話になっている光圀の住む東の常陸(*10)の双方に心を配って思い煩っているという心情を表しているのだろう。

そこで、姫君の心をいたみ、腰折れ歌を五首捧げることにした。

 あ(逢)ふにこそ 別れはを(惜)しめ 浮世とて

 見ぬなき人に こひ(恋)やわた(渡)らん

 

 阿蘇山の 神もたぐ(偶)ひて 守りぬらし

 など筑波根つくはねの かげ(影)なかりけむ

阿蘇の神は一緒になって幼い二人を守ってくれたのであろうか、筑波山の威光も届かなかったのか……

 

 いまよりは 鼓の瀧よ 音なせそ 

 たちま(立舞)ふ人は あは(泡)と消えにき

熊本にあるという鼓の瀧よ、もう音は出さなくていい。立ち舞う君は泡と消えてしまったのだから…… ちなみに鼓の瀧は、現在の熊本市西区河内町野出に位置し、歌枕(*11)として知られている。(*12)

 

 白河は くろ(黒)きすぢ(筋)だに なしと聞くを

 などわが袖は すみ(墨)にやつせる

熊本を流れる清らかな白川には、黒い筋など見えないと聞いている。それに比べて、なぜわが袖は、こんなに黒く汚れてしまったのか……(契沖は泣き濡れてしまったのだ)ちなみに、阿蘇カルデラを源流とする白川は、快旭が住持を務めた不動院からすぐのところを流れている、現在の一級河川である。契沖は快旭から白川のことを聞かされていたのであろう。

 

 名も聞かじ なにそは今は たはれ(多波連)

 波のぬれぎぬ(濡衣) ほ(干)さじわが身に

すっかり私は泣き濡れてしまった、そんな身で濡れ衣を干すことなどできようか…… 多波連島は、宇土市住吉町の有明海に浮かぶ島。平安時代からの歌枕で、濡れ衣の象徴とされた。「伊勢物語」(六十一)にある歌が念頭にあったのか。「名にしおはば あだにぞあるべき たはれ島 波のぬれぎぬ 着るといふなり」

 

この「こと葉」が記された時期については、平野氏らにより元禄十三年と推定されている。契沖は翌年に六十二歳で亡くなっているので、その前年に記されたものとなる。契沖が詠んだ五首には、阿蘇山、鼓の瀧、白河(川)、たはれ島、というように熊本の地理が織り込まれている。かつては家族が暮らし、今や散り散りになった兄弟のなかで、弟快旭が独り住まう熊本の地は、契沖にとって、いつまで経っても想像以上に大きな存在だったのではあるまいか、そんな思いが強くなるばかりである。

 

 

(*1)ちなみに、彌富氏の祖父千左衛門氏は、熊本出身の政治家横井小楠が、熊本の沼山津に閑居隠棲していた頃のよき理解者であり、パトロンでもあったそうである(山崎貞士「新熊本文学散歩」)。

(*2)現在の熊本県熊本市西区二本木の一部。

(*3)熊本在住で、契沖門下で歌を学んだ人物(第一章参照)。

(*4)漢文本文に記載のある干支「壬子」を正とすれば、二十二歳となる。

(*5)「あんたがたどこさ 肥後さ……」で知られるわらべ歌。

(*6)熊本出身の郷土史家の平野流香氏のこと。

(*7)「10」巻三に「羽の上の 霜うち払ふ 人もなし 鴛鴦の独り寝 今朝ぞ悲しき」とある。

(*8)ちなみに「古今和歌集」に、「常陸歌」として「筑波嶺の このもかのもに 影はあれど 君がみかげに ますかげはなし」(一〇九五)という歌がある。

(*9)現在の大阪市天王寺区空清町にある。

(*10)当時光圀は、現在の茨城県常陸太田市にある西山荘で隠棲していた。

(*11)和歌に多く詠みこまれる名所・旧跡。

(*12)平安時代の女流歌人、檜垣が詠んだとされる歌がある。音にきく つゝみが瀧を うちみれば たゝ山川の なるにそ有ける 但し、「拾遺集」には読み人知らずとして収録(巻九、雑下)。

 

【参考資料】

僧快旭におくること葉

肥後の國くまもとの城わたりに、快旭といふ此おい法師が弟なるが、いにし月おこせたるふみにいへるやうぞまづ悲しき。此の國の守の太郎がねの君は、ふん月二十日あまり一日、江戸にしてわづかにひと日ふつかなやみ給ひて、うせ給ひしかば、申すべきかぎりは中々いふにやはおよぶ。國こぞりてわかきものは親を失ひ、老いたるものはおのがわが子を、まどはしたらんやうになげくなる。すなはち水戸の源参議の御むすめ、まことには、今出川殿のなるを、將軍の御はからひにて御むすめとし給ひて、おんむこ君と定まり、來むずる年ばかりや、こなたには渡したまはむ、など聞えつるを、あへなくてうたてき世の中のこと、などあり。かねてより此御なからひあらんことは、こゝにもうけたまりつるを、げに白河なみのなるせあはとこそたとふべかりけりな。をとこ君、まだことし十四にならせたまへば、女君は只ひいなやなにやにうづもるばかりにて、おはせけんなれば、をし鳥のはね、かたみに霜はらふならひも、しろしめさじや。されど人々のとかくいふにつけてわれもさはをとこもたりとおぼしけむや。このほどいかにと、思ふばかりの御よはひに、いまよりゆゝしき色に、やつれたまひつゝ、ありて後は、枕をだにならべたまへることなきものしが、さらにひとりねかなしびたまはんを、思ひやりたてまつれば、法師の心だにぞいとをしく、たゞならぬや。宰相の君は、わがつくば山とよそながら、みかげたのむ身なれば、そのゆゑよりかゝり、かの太郎がねの御事も、又はなれぬ故ありて、よそには聞きすぐされず。おのがおほぢは、かの國のむかしの守、清正と聞こえたまへるに仕へて、下川のなにがしと、時にかずまへられしものなり。又は母方につけるおほぢは、はざま氏にて今の國の守にはおゝぢにておはせるが、小倉といふ所知りておはせし時に、弓射るつはものゝあづかりにて仕へしを、つかひにさゝれて、何とかいふ所渡るほど、ゆくりなきあらしま風にあひて、おぼれてうせぬ。そのしるしをさめる石、ちいさき島中に、今もありとなん。もと勝部氏なるを、又何とかやもいへば、われはそれがあひだならんとて、みづからおへりとか。そのめなるはすなはち、われらがおほばよ。片倉右馬允、主君の氏たまひて後は、加藤といひけるそれがめひにて、父は片岡、又は青木ともいひけるが手よりはなれて、小倉に行きてければ、こはちこふばかりなるひとりにて、あまたのむすめぐして、おやのもとにかゝりてやしなひし。かたくな法師が父は、兄がおやのあとをつぎて忠廣と聞こえ給へる世に、父が知れりしに、ひとへまして一萬石をはみしがもとにありて、人もえあなどらねば、時々の遊びに心をのみ入れて、兄がこのつらにてこそありけむを、かの國ほどなくほろびてのち、猶さすらへながら、兄がもとに年へてよそに、わづかなる仕へせしより、世はうきものとや知りそめたりけむ。今は其の末なるものとては、いかなるえにかありけむ、快旭ひとりはかなくてすめるを、僧ながらかへりわぶめる。本妙寺といふ寺は、清正のみがきたてたまへるが、今も國の光といふばかりにてのこれるに、おほぢ、をぢなどが名かきつけたるもの、又春の草、秋の木の葉にも、うづもれてなんある。かゝれば野邊はふくずの、こなたかなたにつきて、こしはなるばかりの歌ながら、五をよみいだしてなん、はるかにかしこながら、姫君の御心をいたはしみ奉るになんありける。

 あふにこそ 別れはをしめ 浮世とて 見ぬなき人に こひやわたらん

 阿蘇山の 神もたぐひて 守りぬらし など筑波根の かげなかりけむ

 いまよりは 鼓の瀧よ 音なせそ たちまふ人は あはと消えにき

 白河は くろきすぢだに なしと聞くを などわが袖は すみにやつせる

 名も聞かじ なにそは今は たはれ島 波のぬれぎぬ ほさじわが身に

 

【参考文献】

・「枕草子」(「新潮日本古典集成」、萩谷朴校注)

 

(つづく)