編集後記

坂口 慶樹

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人の対話は、「本居宣長」のフィナーレである第五十章が話題だ。加えて四人は、小林秀雄先生の「美を求める心」と「当麻」も読み込んできたようだ。すみれの花や、能のシテの動きについて小林先生は、何をどのように感じ取っていたのか? 今回の対話もまた、「モーレツ」で「ビューティフル」である。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、生亀充子さん、小島奈菜子さん、橋本明子さん、本多哲也さんが寄稿された。

生亀さんは、『本居宣長』の精読を始めて約三年が経った頃、「ふと何かに掬い上げられるような不思議な感覚を覚えた」と言う。私たちが使う日本語という言語に備わっている「さだまり」とは何か。そして、その「さだまり」から生まれる「言霊の働き」とは何か。塾としての十二年にわたる精読の旅は、ひとまずお開きを迎えたが、生亀さんの自問自答の旅は、終わらない。

小島さんは、こういう自問から始めている。「あまりにも身近で『本当は信じているのに、信じていることを知らない』もの、その最たるものは言葉ではないか」。「文字を持たなかった我々の祖先が漢字に出会い、自国語を書き記せるようになるまでには、何とかして当時の知恵を後世に遺そうとした人々の切なる希いがあった」。その希いのたすきを、さらに後世につないでいこうとしたのが、本居宣長をはじめとする江戸時代の国学者たちだ。その苦闘のあとを記した小林先生に真摯に向き合う小島さんの言葉に、静かに耳を傾けてみよう。

橋本さんが立てた自問は、詠歌という行為の意味についてである。熟視したのは、「ことばは、『あはれにたへぬところより、ほころび出』る」ものであり、受け止めようとしても受け止め切れない程のあはれに出遭った際、私達は「めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為のうちに、進んで這入はいっていく」という小林先生の言葉である。そこから橋本さんには、どういう光景が、どういう深淵が、見えてきたのだろうか……

本多さんは、「熟視と自問自答による学びをひたむきに行ってきた塾生であれば誰しも共感してくれると思う」と前置きして、こう述べている。「熟視対象とした小林先生の文章の一節を何度も繰り返し読んでいき、ほとんど暗誦すらできるほどその熟視対象と触れ合い続けるうちに、活字だったはずの文章はもはや声に近いものになる」。そんな体感は、「宣長の声に、あるいは宣長を通して我が国の古代人たちの声に耳を澄ませた、小林先生の営みの一端に触れるようなものだったのではないか」という感慨と共鳴していく。

 

 

「考えるヒント」のコーナーには、本田悦朗さんが寄稿された。本田さんは、とある自問を抱いて、ベルグソンの「宗教と道徳の二つの源泉」と小林先生の「本居宣長」について、池田雅延塾頭と対話された。そこから、本田さんによる「ベルクソンと小林秀雄、『二源泉』と『本居宣長』への旅」が始まる。読者諸姉諸兄も、両書を鞄に入れて、本田さんの旅に同行されてみてはいかがだろうか。

 

 

この小林秀雄に学ぶ塾、通称山の上の家の塾における「本居宣長」精読十二年計画は、令和七年(二〇二五)三月をもってお開きを迎えた。終業を祝し、互いの健闘をたたえ合うべく、六月末に開かれた打上げ会(終業慶賀の会)の場で、池田雅延塾頭から、「本居宣長」における、次のような小林先生の言葉が紹介された。――学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的につかまれていたのである。

その言葉を噛み締めながら、今号の「『本居宣長』自問自答」に寄せられたエッセイを読み直してみた。小林先生が三十七歳のとき、昭和十四年(一九三九)に書いた作品「疑惑Ⅰ」のなかにある言葉を思い出した。

「独創的に書こう、個性的に考えよう、などといくら努力しても、独創的な文学や個性的な思想が出来上がるものではない。あらゆる場合に自己に忠実だった人が、独創的な仕事をしたまでである。そういう意味での自己というものは、心理学が説明出来る様なものでもなし、倫理学が教えられるようなものでもあるまい。ましてや自己反省というような空想的な仕事で達せられる様なものではない。それは実際の物事にぶつかり、物事の微妙さに驚き、複雑さに困却し、習い覚えた知識の如きは、肝心要の役には立たぬと痛感し、独力の工夫によって自分の力を試す、そういう経験を重ねて着々と得られるものに他ならない。このような経験は、人間に、結果として、それぞれ独特な表現の方法を与えざるを得ない」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第11集所収)

ここにある「物事」という言葉を、「『本居宣長』」という言葉に置き換えて、今一度読んでみよう。山の上の家の塾において、緊張しながらも池田塾頭の隣に座り(もしくはオンライン上で向き合い)、多数の塾生を眼の前に、必死に考え準備してきた「自問自答」を披露するという経験を、何度も重ねてきた塾生諸氏であれば、そうだそうだと、深い実感をもってうなずいてくれるはずである。

 

手前味噌ではあるが、今回のそれぞれのエッセイもまた、塾生の皆さん一人ひとりが、たっぷりと時間をかけて進めてきた、そういう「学問」の成果そのものなのである。

 

(了)