ベルクソンと小林秀雄、「二源泉」と「本居宣長」への旅 第二回
  「本居宣長」第一章 その1 「主調低音」

小林秀雄さんの「本居宣長」は難解で、その中でも第一章は特に難しいとされている。そうだろうか、小林さんの「本居宣長」は、それほどに難解だろうか。

第一章を俯瞰すると、民俗学の泰斗、折口信夫氏に本居宣長についての話を聞きに行くというところから始まる。次に本居宣長のことを雑誌に連載をすることとなり、なんとも言葉にならない想いを抱えながら三重県の松阪まで宣長のお墓参りに行ったという話になり、そこから宣長の遺言書の引用になる。この遺言書には「申披六ヶ敷筋(もうしひらきむつかしきすじ)」の指図さしずがあり、おそらく宣長以外には誰にも理解し得ない謎がそこには横たわっている。そして最後に宣長がどれほど桜が好きであったかの紹介がなされて第一章は終わる。

私見では、詰まるところ、第一章は三つの部分で構成されている。すなわち、折口信夫氏との思い出、宣長の遺言状、そしてそれにまつわってではあるが宣長がどれほど桜に愛着を持っていたかという話に分けられる。

 

そこでさて、一旦ここまでを書いて、ここから先は私塾l’ecodaの同人誌『身交ふ』に掲載された池田雅延氏の「小林秀雄『本居宣長』を読む(一)開講にあたって」で気になる部分があったので、そこを紹介したい。それは、

 

昭和十六年の夏、先生は哲学者、三木清氏と「実験的精神」と題して対談し((同第14集所収:筆者註「小林秀雄全作品」第14集所収の意)、そこで言っています。―誰それの思想は、こういうものだと解らせることはできない、思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ……

 

という部分だ。この前の部分で池田氏は小林さんの言う思想はイデオロギーとは違うということを説明されてから、では、思想とは何かを述べられる際にこのような小林さんの言葉を引かれている。小林さんの「本居宣長」はこういう意図をもって描かれた思想のドラマであるということも。

さらに言うと、池田氏はしばしば「小林先生は、自分の文章は散文ではないのだ、僕は詩を書いているんだ、と仰っていた」ということを言われる。小林さんの文章はボードレールから強く影響を受けていたようだが、その背景には「思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ」という思いがあるのだろう。

 

本題に戻ろう。まず、濫觴らんしょうというのに相応しい折口信夫氏との思い出の部分を引用したい。

 

   本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた

 

この短い文章に詰まった「本居宣長」のテーマの一つを池田氏は「主調低音」と呼び、Web雑誌『好・信・楽』に連載されている「小林秀雄『本居宣長』全景」の (四)〜(十四)を割かれている。私のような凡人は読み飛ばしてしまいそうなエピソードだが、これが実は「本居宣長」の大きな柱の一つとなって行くことに気づく人は多くないだろう。詳しくは池田氏の文章を読んでいただくこととして、私なりに補足の真似事のようなことをしてみたい。

「小林秀雄『本居宣長』全景」(四)で折口氏を小林さんが訪ねたのは昭和二十五年前半と考察されている。小林さんは明治三十五年(1902年)の生まれだからこのとき四十七か四十八歳、『古事記伝』を読んだ戦争中というのはそれより五年から十年以上前になろうから四十歳前後にはもう本居宣長について書こうと思っていたと見てよいだろう (『身交ふ』の「小林秀雄『本居宣長』を読む」(二)では池田氏は小林さんが言っている戦争中とは昭和十二年に始まった日中戦争以後と考察されている)。しかし、実際に「本居宣長」が雑誌に掲載され始めたのは昭和四十年(1965年)であるので小林さんは六十三歳、折口氏に「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われてから数えても十五年経っている。池田氏はWeb雑誌『考える人』の連載「随筆 小林秀雄」の最終回で「時間をかけるということ」と題して色々と述べられている。なかでもヨットに積まれているユニバーサルモーターの話は感動的であるのだが、それは各人読んでいただくこととして、我々はそこにも出てくる円熟という言葉をもっと考えないといけないと思う。何かを成そうとするのではなく自然と成っていくもの、それが歳をとるという意味でなければならないと私は思う。実際、「本居宣長」が単行本として成ったのは昭和五十二年(1977年)であるから本居宣長について書こうと思ってから少なくとも三十二年は経っているのだ。

脇道に逸れてばかりいるが、もう少しだけ話をしたい。小林さんの言葉は先の引用文の後、段落が変わって次のように続く。

 

   今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである。

 

自然と成っていくことが円熟ということと述べたが、それは、結局じっくりと時間をかけ、ある意味、美との交わりの中で体感していくことで成っていくものだということをこの文章は言っているように思う。言葉は決して自由には操れない。思想という美を織りなそうというとき美に交わり言葉という道具をその思考の延長となしうるまで身につかせるように、いやこの歳の小林さんならばもうきっと自在を得てはいただろうが、それでも思い通りには決してならない大理石を彫るような気持ちでこの「本居宣長」を書かれていただろうことには想いを馳せたいと思う。

 

さて、これらの短い文章が、なぜ「本居宣長」の「主調低音」なのか。小林さんの「おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが」について池田氏は「小林秀雄『本居宣長』を読む」(二)の中で『この自ら』は、『必然的に』と言ってもいい」と指摘されている。それは折口信夫氏と話しに行った小林さんに最後に折口氏が、

 

「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。

 

ということが忘れられなかったということだろう。この辺りの詳しい経緯は池田氏の書かれたものを読んでいただきたいが、

 

その核心は「もののあはれ」です。そしてこのとき、小林先生における「『古事記伝』の本居宣長」は、「『源氏物語』から『古事記』への本居宣長」に変貌したのです。

――― 池田雅延「小林秀雄『本居宣長』を読む(二)」

という部分の引用は外せない。すなわち、小林さんはそれまで宣長の仕事については「古事記」のことで頭がいっぱいであったが、折口氏の指摘によってさらに眼をひらかれたということ、そして「その核心」が「もののあはれ」であるということだけは読者にも憶えていて欲しいと思う。つまりはこの「本居宣長」の「主調低音」は「もののあはれを知る」であるということを。

 

(つづく)