契沖と熊本Ⅸ

十八、若き光圀

 

ここで改めて、契沖と徳川光圀との間に深い親交があったことに触れておきたい。第一章でも紹介したように、契沖の最大の功績と呼ばれている著作が「万葉集」の訓詁くんこ注釈書である「万葉代匠記」(初稿本・精撰本)である。今でも、契沖より前の時代の注釈は旧注、彼以後の注釈が新注と呼ばれていることからも、その画期性と影響力は推して知るべしである。その書を契沖に依頼した張本人こそ、光圀であった。詳しくは後述するが、当初光圀は、契沖の親友である下河辺しもこうべ長流ちょうりゅう(*1)に委託していたのだが、長流の事情で続行不能となったため、長流に代わって筆をとることになったのが契沖だったのである。その書名に「代匠」とあるのは、長流の代わりにとも、光圀の代わりにという意味とも言われている。古典をきちんと整理したかたちで後世に引き継いでいきたいという光圀の意思は極めて強かった。例えば「万葉集」の研究以前にも、広く収集してきた、平安から江戸時代初期までの古典から、秀逸と思われる序文、跋文、日記、紀行などを三十巻の一書にまとめ「扶桑拾葉集」として幕府や朝廷に献呈していた。

 

 

さて前章では、光圀と熊本藩の三代藩主細川綱利つなとしとの交流に浅からぬものがあったとも述べたが、光圀にとって熊本という地は、より本質的に重要な場所の一つであった。そのことを理解するためには、光圀の生い立ちや、彼が人生いかに生きるべきかと、一心に追い求めたものを体感しておく必要がある。

光圀は、寛永五年(一六二八)六月十日、水戸城下で生まれた。父は水戸藩初代藩主の徳川頼房よりふさ、母は父の側室久子である。頼房は家康の末子であるため、光圀は家康の孫となる。ちなみに誕生の場所は、水戸城内や江戸藩邸ではなく、家臣三木之次ゆきつぐ邸であった。これには仔細がある。当初父の頼房は、「第一の寵妾ちょうしょう」おかつの存在に配慮して「破胎」を命じていたのだが、三木夫妻の深い配慮によって、このような取り扱いがなされていたのである。このことは、のちに光圀自身もよくよく認識していたようだ。

なお光圀の同母兄頼重よりしげも、同様に三木夫妻の手元でひそかに生れているが、久子が正式に側室として採用される以前の懐妊であったため、京都の寺院へ入れられていた。

寛永十年(一六三三)、六歳の光圀は、頼房の世子せいし(世継ぎ)として江戸に出て、小石川の水戸藩邸に入った。同十三年(一六三六)七月には、将軍家光の命により江戸城中で元服、家光の偏諱へんき(*2)をいただき光国(のちに、光國)と名のった。ちなみに、翌十四年、十六歳になっていた兄の頼重は、頼房との父子関係が公式に認められ、十六年には常陸国下館五万石の城主に、十九年には高松十二万石の地に封ぜられている。

同十七年、十三歳の光圀は、右近衛権中将に任ぜられ、従三位に昇進。この年から光圀には、(補導役)として、頼房重臣の伊藤友玄ともはる玄蕃げんば、小野言員ときかず、内藤高康の三名が任じられた。しかしながら、十六、七歳頃まで、光圀の生活態度は決して褒められたものではなく、むしろ品行不良という方が相応しい状況だった。

小野言員が光圀の日ごろの不行跡をいさめるために記した「小野諫草かんそう」や光圀侍医の井上玄桐げんとうによる「玄桐筆記」によれば、不良ぶりは身なりや態度に著しく、「ごんごだうだん(言語道断)のかぶき人(軽薄・異様な風体の者)に御ざ候」という周囲の評判が立つほどであった。例えば小野は、光圀をこのように厳しく諭している。「御かとく(家督)になされ候、水戸様の御めがね(眼鏡)さすかにてと、人〃申やうに御身を御もちてこそ、後かうかう(孝行)の第一にて御さ候へ」。平たく言えば、兄の頼重公を差し置いて水戸藩の世子にしてくれた父頼房公はさすがの慧眼だと人々に言われることこそ、一番の親孝行ではありませぬか、というところだろうか。

しかしながら、そんな奔放な光圀の思春期にも転機が訪れた。鈴木暎一氏によれば、「十七歳のころから、父の命とはいえ、自身の置かれている立場(坂口注;兄の頼重ではなく弟の自分が世子となったこと)にこれでよいのだろうかと強い疑念を抱くようになり、自覚的に『学問』に精出すようになった十八歳のとき、『史記』の『はく伝』を読んで感銘し、兄に世子を譲りたいと考えたものの『時勢ナリカタク』、兄の子を養子に迎える決意を固めるに至った」のである。

「史記」とは、前漢の司馬遷しばせんの撰によるもので、伝説以来の帝王を扱う本紀、年表などの諸表や制度を扱う書、諸侯を扱う世家、個人を扱う列伝の計一三〇巻からなる総合史である。この形式が紀伝体(*3)と呼ばれ、「漢書」以下の正史や周辺諸国の史書に承継されている。「伯夷(列)伝」はその冒頭にある、いんの諸侯、弧竹国王の子、伯夷としゅくせいという兄弟の物語だ。

国王は、弟の淑斉を世子にとねがいながら亡くなった。淑斉は固辞するも、兄の伯夷も引かず姿を消した。淑斉もそのあとを追って国を去る。二人は、周国の西伯昌せいはくしょうが徳の高い名君と聞き、当地へ入った。しかし、西伯は没したばかり。これを機に息子の武王は、位牌を車に載せていん国のちゅうおうを討つべく進軍した。二人は武王に対し「父の葬儀も行わないまま、家臣の身で主君を討つことは仁か?」と責めた。武王は二人を亡き者にしようとしたが、軍師の忠言に助けられ、兄弟は難を逃れる。その後武王は殷を滅ぼし、周国の天下となる。しかし二人は武王のふるまいを恥として、周国に仕えて録をむくらいなら……と、山に籠り野草で露命をつないだ。しかし天命は尽き、餓死してしまう。

この物語を、若き光圀はどう読んだのか…… 自らの境涯も踏まえ、「人生いかに生きるべきか」という問いを、胸元に突き付けられたのではないか。しかし、突き付けられたものは、家督に関することだけではなかった。この読書体験を契機として、わが国における、「史記の体」すなわち紀伝体による史書編纂へのきわめて強い関心が呼び起こされることになったのである。

六十八歳の光圀が、京都の遺迎院応空おうくう和尚に宛てた書簡がある(元禄八年(一六九五)十月二十九日付)

「下官十八歳の時分より少々書物を読聞申候、其時分より存候は、本朝に六部の国史古来之有候へ共、皆々編集の体にて史記の体に書き申候書之無候故、上古より近代迄の事を本紀列伝に仕、史記の体に編集申度存立、四十年以来方々才覚仕候て本朝の旧記共集申候へ共……」

六十年前の読書経験を振り返り、わが国には古来より六国史(日本書記、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)はあるが、すべて編年体で書かれていて、「史記」の体である紀伝体のものは皆無である。ならば自分こそが、上古から近代までのことを紀伝体で書いてみたいと思い立ち、四十年前から資料を収集してきた……という内容が明瞭に記されている。

人生いかに生きるべきか…… 確たる指針を我が物とした光圀は、日夜古書を読み、直接古人に向き合った。暇さえあれば、和歌を詠み同志の友を求めた。和歌については、正保二年(一六四五)、十八歳の年に、当代の人が詠んだ和歌を一巻にまとめて「笑々和歌集」と名付けている。光圀が記した序によれば、「万葉集」や「二十一代集」(「古今和歌集」から「新続古今和歌集」まで、約五百年間に編纂された勅撰和歌集)として先人が遺してくれたがゆえに、過去の名歌が今の時代にも生き続けている。当代の名歌も収集し引き継いでいかなければ、後世では顧みられなくなってしまう…… という強い使命感から自ら編纂したものである。

学び進めたのは、和歌ばかりではない。光圀の書斎は日新斎と名付けられていた。日新とは、『書経』『易経』などに頻出する言葉で、日々工夫をこらして誤りを正し、徳行を新たにする、という意だ。そんな意欲に燃えた光圀が追究した学問は、儒学の基本文献である四書五経(*4)の文義を悟得して「人倫の大義」を明らかにすることであった。但し、それは抽象的観念的な理論の操作でも、字句の細かな解釈や耽読のみの閑人の遊戯でもなかった。光圀が手製の書架に「人の人たるは腹に詩書あればなり、学の学たるは身道徳を行へばなり」と明記したように、学問とは自身が道徳を行うためのもの、すなわち、身を修め、正しい道を踏み進めるためのものであった。

承応三年(一六五四)、二十七歳の光圀は、前関白近衛このえ信尋のぶひろ(後陽成天皇の第四皇子)の末娘、十七歳の泰姫たいひめ(*5)と結婚が相成った。後に光圀に仕えた安藤年山(為章)が記した「年山紀聞きぶん」には「御生質の美なるのみならず、詩歌をさへこのみ玉ひて、古今集、いせ物語はそらにおぼえ、八代集(*6)、源氏物語などをよく覚えたまひしとぞ。また三体詩(*7)をも暗記したまひけるとぞ」とある。泰姫は、公家の息女として申し分のない教養を身に付けており、文学を愛していた光圀とって最高の伴侶だったのではなかろうか。二人の和歌のやり取りや、光圀による漢詩の添削のあとも残されていて、妻と過ごした穏やかな時間は、かけがえのないものだったように思われる。

 

十九、人間万事またかくの如し

 

明暦三年(一六五七)、光圀は三十歳となる新春を迎えた。ところが、松の内が明けた一月十八日、強風が吹くなかで、本郷丸山の本妙寺(現在の本郷三丁目駅の北西側付近)から出火した火の手は、湯島、神田、日本橋方面に広がり、夕方には、茅場、八丁堀付近まで焼き尽くした。翌日も延焼は止まず、正午ごろには小石川伝通院近くの武家屋敷から再び出火、水戸藩邸を焼いたあと、火は江戸城にも及んで天守閣も焼け落ちた。その被害は、本丸、二の丸、三の丸はじめ諸大名の邸宅五百軒、神社仏閣三百余、倉庫九千余、町数八百町に及んだ(「徳川実記」)。いわゆる明暦の大火である。

彼は、その時のことを和歌の詞書に残していた。「火いてきて風にふ(吹)かれゆく程に、郭内にありとある上中下のいらか(甍)ともことこと(悉)くや(焼)けうせぬ、われも煙のうちをのか(逃)れたと(辿)り行くままに、神田といふところの別墅べっしょに日を送る」。藩邸の消失後は、父頼房らと駒込(神田山、本郷台地)の別邸に避難、知り合いから生活物資などの援助も受けて暮らした。もう一つ、こんな漢詩もしたためていた(以下、読み下し)

きのふは玉楼金殿の観をさかんとし 今は原上一時の塵と成る 人間万事またかくの如し 年少驚くなかれ 老いていたらんと欲するを」

これらの言葉の真髄は、光圀の体の奥深くに刻み込まれたようで、後年の彼の行動まで大きく左右することになる。

それから間もなく、制作した詩文の批評を受けることも含めて、親交の深かった林羅山(*8)が、大火で莫大な蔵書を失って数日で亡くなってしまうという出来事もあった。約一年前には、若き光圀を指導役として、温かくも厳しく導いてくれた小野言員ときかずも亡くしており、彼の心の震幅もまた大きいものであったに違いあるまい。

胸中深くにあった存念に、ここぞという強烈な閃光を浴びせられた人間の動きは、迅速である。大火から、ほんの一ヶ月余りという二月二十七日、光圀は、駒込の別邸内の焼け残った茶屋を史局として開設、宿願となっていた歴史書の編纂、すなわち修史の事業の第一歩を踏み出した。史局員には、以前から指導を受けてきた人見ひとみ卜幽ぼくゆう、辻端亭たんていら四名が任命された。当初卜幽らは、資料の乏しさなどから修史の計画には必ずしも前向きではなかったようだが、光圀はそれを許さなかったと言われている。鈴木暎一氏によれば、大火で失われた書物には、幕命で羅山が中心となって編纂し将軍に献上していた、編年体による国史「本朝編年録」呈上本(*9)も含まれていた。

そんな光圀を、焦燥の念にかられていたと見る鈴木氏は、のちに光圀に仕える井上玄桐が記した「玄桐筆記」にある一節を紹介している。

(坂口注;光圀公が)常に仰られけるハ、堂上方どうじょうがたの習にて珍書を門外に出さず、是以あるひハ蠧損とそん、あるひハ火燬かきして烏有うゆうとなり、上代の遺事、古賢の懿蹟いせきとも後世に伝はらさる事皆是故也。我志は継往開来に在り、つとめて布拡へし。たとひ災変ありとても、関東・関西両地に蔵置きなは一方ハ伝へしとて、諸家よりご所望有に随而少も御秘惜ひせきなく御許借きょしゃくなされたり」。

光圀公はよく、こう仰っていた。「高位のお公家さんたちは、希少な書籍を門外不出とするのを常としている、しかしそれでは虫害や火災によって消失の憂き目に遭い、上代の歴史や古人の事績が後の世に伝わらなくなってしまうことになる。自分は、継往開来、すなわち先人の業績を継承し未来を創造していくことに努めたい」と。「関東と関西のどちらにも蔵を置いていれば、一方は必ず後世に伝えられるものだ」と言って、各方面から書籍の借覧依頼が来たときには、秘蔵することなく貸し出されていた、というのである。

十八歳の頃に抱いた、上古から近代にわたる先人たちの事跡を、編年体ではなく紀伝体でこそ書いてみたい、次の世に継いで行きたい、という強いねがいいは、自らが災変の火中に立たされたことによって、今まさに頂点に達していたのである。

そしてまた、新たな災いが光圀を襲う。同年五月下旬に光圀が、さらに八月初旬からは泰姫たいひめから尋子ちかこに改名していた夫人が体調を崩してしまった。大火後の心休まる暇のない生活は、若い二人にとって、想像以上のダメージとなっていたのだろう。

それでも光圀自身は、なんとか七月に快復することができた。しかし尋子は一時的に回復をみせたものの、翌万治元年(一六五八)に入り病状は悪化の一途をたどった。十月からは下痢が止まらず、ついに赤痢と判明した。光圀の治療にもあたった医師らが幕府から派遣されたが、なすすべはなく、十二月二十三日に息を引き取った。二十一歳だった(*10)。辞世が遺されている。

 をと(音)にのミ き(聞)きしをけふ(今日)は 身のうへ(上)

 わ(別)けやのほ(登)らん して(死出)の山道

 

最愛の妻の、こんな言葉を聴くことになった光圀の心境は、察するに余りある。

災厄続きの年が明けた万治二年(一六五九)の元旦、光圀は亡き尋子に「祭文」を捧げた。その一部を、鈴木氏による読み下し文で引いておく。

ものかはり、年改まれども、我がうれひは移ることなし。谷のうぐいす百たびさえづれども、我れ春なしと謂はん。去年の今日は対酌してさかづきを挙げ、今年の今日は独り坐して香を上る。嗚呼哀しいかな。幽冥ゆうめいとこしへに隔つ。天なるか命なるか。ただ霊来りいたれ」。

「我れ春なし」「独り坐して香を上る」……。そんな言葉を眺めているだけでも、胸が締めつけられる。祭文を綴りながら、この世とあの世の隔たりを、彼は痛いほど感じていたに違いない。

 

二十、彰考館誕生

 

寛文元年(一六六一)六月、光圀の父である水戸藩主頼房は、よう(皮膚の炎症疾患)を患い、進行の速さに抗しきれず七月末に亡くなった。葬儀は、光圀の意思によるものか、儒礼によって行われ、亡骸なきがらは久慈郡随留村(現、茨城県常陸太田市)の墓所に埋葬された(*11)

八月十九日、光圀は将軍家綱の命により、新たな水戸藩主として父頼房の遺領を継いだ。ちなみに、このとき光圀は、高松藩主となっていた兄頼重に対して、頼重の子松千代と采女を養子としてもらい受けることを強く要請している。兄ではなく自らが後継ぎとなったことについて「年来心に恥申し候」という言葉が残されているように、若いころ「史記」の「伯夷伝」を読んで心動かされた経験が、ここでも大きく作用したように思われる。

さらに同年十一月、光圀の生母久子が、頼房のあとを追うようにして逝った。

このように、公私にわたり心落ち着かない時を過ごしていたと思われるなか、宿願である修史編纂の事業も徐々に進み始めた。鈴木暎一氏によれば、寛文三年(一六六四)に五人であった史局員は、四年に七人、五年に九人、六年に十二人、七年に十六人、八年には二十人へと拡大していった。具体的な成果も現れた。ついに寛文十一年(一六七一)には、神武天皇から桓武天皇にいたる本紀二十六冊の草稿が、光圀の閲覧するところまできたのである。史局開設から十四年、光圀も含め史局員一同の努力の結実であった。

 翌十二年(一六七二)の春、光圀は、それまで駒込別邸内の焼け残りに設けていた史局を、小石川本邸内に移し、「彰考館しょうこうかん」と名付けた。「彰考」とは、中国西晋の杜預とよによる「春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん」序にある「彰往考来」、すなわち過去を明らかにして将来行うべき道を考える、という言葉から採られた。まさに光圀がわが使命と誓った、人生の指針そのものを指している。ちなみに彼は、同様の趣旨を表わすものとして「興廃継絶」という言葉もよく使っていた。すたれるをおこし、絶えたるを継ぐ、という意だ。さきに引いた「継往開来」という言葉とも同意である。彼は自らその志を全うすべく生きるのみならず、そのように生きている人もまた、心から賞賛していた(*12)。このような態度は、その後の人生においても一貫して変わるところはなかった。

なお、当時の史館員には、前出の人見ひとみ卜幽ぼくゆうの養子懋斎ぼうさい、吉広菊潭きくたん(元常)、板垣聊爾りょうじ宗憺そうたん、中村篁渓こうけいらがいた。幕府の儒官を務めてきている林家(羅山、鵞峯)とゆかりのある人物が多かったようだ(*13)

新しい館には、自ら揮毫して「彰考館」という扁額を掲げた。その傍らには、五ヶ条の「史館警」という訓示も記した。そこには、こんなくだりがある(以下、読み下し)

「文を論じ、事を考ふるには、各々まさに力をつくすべし。もし他のばくする所有れば、則ち虚心に之を議し、独見を執ることなかれ」。

第三者からの批判は喜んで受け入れ、虚心に無私に議論を尽くそう、そんな心構えである。もちろんそのためには、全国各地に散在しているはずの関連資料をさらに広く収集することが必須だ。まさに、志を同じくする新しい仲間が必要となっていた。

 

 

(*1)寛永元年(一六二四)~貞享三年(一六八六)。国学者、歌人。著作に「万葉集管見」など。

(*2)将軍や大名が、臣や元服する者に自分の名の一字を与えること。

(*3)紀伝体に対して、もう一つの歴史書編纂のスタイルは編年体と呼ばれ、出来事が生起した順に記述していくものを言う。

(*4)「四書」は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、「五経」は「易経」「詩経」「書経」「礼記」「春秋」を言う。

(*5)明暦二年(一六五六)に尋子(ちかこ)と命名された。

(*6)平安初期から鎌倉初期までの「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」「金葉和歌集」「詞花和歌集」「千載和歌集」「新古今和歌集」を言う。

(*7)中国、唐代の詩の選集。編者は南宋の周弼(しゅうひつ)。

(*8)江戸初期の儒学者。徳川家康以後四代の将軍に仕え、幕府の文書行政に携わった。天正一一(一五八三)~明暦三(一六五七)。

(*9)正保元年(一六四四)の呈上本では神武天皇から持統天皇までで、その後は林読耕斎が文武天皇から淳和天皇までを書き継いで翌年に献じていたが、未完のままであった。

(*10)「水戸紀年」では二十三歳。

(*11)その後水戸徳川家代々の墓所となり。瑞龍山と言われている。現在は内部拝観不可。

(*12)例えば、光圀が二十三歳のときに亡くなった尾張の敬公(義直)を偲ぶ詞に、「更に朝儀を考へ、善く図史を読み、廃れるを興し、絶えたるを継ぎ、道の弛みを張皇し、聖殿を経営す」と述べ、元禄元年(一六八八)綱吉将軍が、忍岡の孔子廟を拝したことを賀した文には、綱吉を讃えて、「道を学び風を移し、廃れたるを起し、絶えたるを継ぐ」と言っている。

(*13)寛文二年(一六六二)十月、林鵞峯に、未刊の「本朝編年録」を完成させる旨幕命が下り、鵞峯は寛文十年(一六七〇)、ついに「本朝通鑑」(全三一〇巻)として完成、将軍家綱に献上した。

 

 

【参考文献】

・鈴木暎一「徳川光圀」(人物叢書、吉川弘文館)

・名越時正「水戸光圀」(日本教文社)

 

(つづく)

 

小林秀雄「本居宣長」全景(四十三)

第三十章「宣長と新井白石」

 

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小林秀雄先生の「本居宣長」第三十一章は、次のように言われて始まります。

―さて、ここで話の方向を変えよう。「古事記」は、文学としては、興味あるものだが、歴史として、信用するわけには参らない、今日では、そう考えるのが常識となっている。だが、「古事記」の神代之巻の荒唐無稽こうとうむけいな内容は、近世に這入はいると、もう歴史家達を当惑させていたのである。「大日本史」が神武に始まっているのは、周知の事だが、幕府の命で「本朝通ほんちょうつがん」を修した林家にしても、やはり、先ず神代之巻は敬遠して、その正編を神武から始めざるを得なかった。……

「大日本史」は江戸時代の明暦三年(一六五七)、藩主、徳川光圀の命によって水戸藩で編纂事業が開始され、二五〇年後の明治三九年(一九〇六)、全三九七巻となって完成した大部の歴史書です。第一代と伝えられる神武天皇から第一〇〇代後小松天皇までの歴史が漢文の紀伝体で編述されていますが、じんぐう皇后、すなわち記紀に見えている仲哀ちゅうあい天皇の皇后を皇位から除き、第三八代天智天皇の第一皇子、大友皇子を第三九代弘文天皇とし、朝廷の皇統が南朝と北朝とに分裂して対立していた南北朝時代(西暦一三三六~一三九二)は南朝を正統とした筆づかいは三大特筆と言われ、こういう朱子学に拠った大義名分論を前面に出した「大日本史」にあっては「古事記」の神代までは棚上げされて「古事記」「日本書紀」が第一代天皇と伝える神武天皇の時代から始められていることも広く知られていましたが、こうした「大日本史」の有様ありようについては小林先生自身が本篇の結びで精しく考察しています。

また「本朝通鑑」は徳川幕府の命によって林羅山と林鷲峯が共編した修史書で、最終的には儒教的合理主義の立場で神代から慶長一六年(一六一一)までの歴史が漢文編年体で記されています。

 

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そしてさて、第三十一章の準主役とも言える新井あらい白石はくせきの登場です。小林先生は言います、

―このような時世にあって、新井白石がただ一人、歴史家として、この問題を回避せず、正面からこれに取組んだ(「古史通」「古史通わくもん」)。彼は、はっきりと、こう言う、―「旧事くじ古事記日本書紀等の書は、みなこれ朝廷の勅旨ちょくし(勅命の趣旨/池田註記)に係りて、我国上古神世より始て、歴代君臣の事業を記載せられし所也。されど其しるされし所にはおのおの異同ありし事、孔子春秋の書を伝ふるものゝ、其説に異同ある事のごとし。さらば専ら日本書紀の説にのみしたがひて、旧事紀古事記等の書を廃せん事しかるべからず。たゞいづれの書にいでし所なりとも、其事実にたがふる所なく、其理義におゐて長ぜりと見ゆる説にしたがふを、稽古けいこの学とは、いふべきものなり」(「古史通」読法・凡例はんれい―白石が、「旧事紀」を「記紀」と同列に評価していたという事はともかく、これらは皆わが朝廷の「歴代君臣の事業」を記した実録であって、神代の記録があるからと言って、これを敬遠したり、神典(神のことが記された書物/池田註記)扱いにしたりする理由はないという考えは、当時としては、まことに大胆なものであった。……

「旧事紀」は「旧事本紀くじほんぎ」のことで、『精選版日本国語大辞典』に「平安前期の歴史書。一〇巻。著者未詳。神代本紀、陰陽本紀以下一一に分け、神代から推古すいこ天皇までの天皇の事跡を述べたもの。」と言われ、「稽古の学」は、同じく、まず「稽古」について「古(いにしえ)を稽(かんが)える」の意とあり、次いで「古事を考えて、物事のかつてあったあり方とこれからあるべき姿とを正確に知ること。」と言われていますが、白石の言葉は続きます。

―「旧事紀古事記なども、秘説有之様に申候へども、よく料簡れうけん仕見可申候。此二書などは、史記漢書同格の史筆にて御座候。其史文と申ものに、何等の神秘可之哉。或祓又は祝文など申は、神道口訣くけつの沙汰も可御座候。能上古中古今古三代の雅言俗言五方の方言をよくわきまへ候時は、分明まかりなり候。上古の言語格類を以てきはめ候へば、古事記之文段も下坂の丸のごとくに相済申ものに御座候」(「名山蔵めいざんぞう手簡しゅかん附録」)……。

これを受けて小林先生は言います、―秘説と見るのも史書と受取るのも、こちらの料簡次第であり、古言もわきまえず、読み方に関する工夫もなく、稽古の学は無理だというのだ。白石もわが上代には文字なく、漢字を使って国文を作る困難、安万やすまの「於字即難」云々うんぬんの「古事記」序の言葉に注目し、上古の記載では、「其義を語言の間に求めて、其記せし所の文字にかかはるべからず」(読法)と言っている。これは宣長と同じ考えであるが、それから先きが、まるで違って来るところが面白いのである。……

―「太古朴陋ぼくろうの俗、いづれの国にかなかるべき。異朝の書にいふ所の盤古ばんこ氏、大荒の世に生れて、其頭四岳となり、其眼日月となりしといふ事のごとき、女媧ぢよくわ氏石をりて、天を補ひ、ごうたちて、四極をたてしといふことのごとき、みなこれ我国にして、太古の時の事を言つぎ、語嗣かたりつぎしに相同じ。こうこうの世、聖人不取といひし事は、たゞに其説の荒誕なるためにもあらず。其疑ひをき給ひしが故也。(中略)旧事紀に見へし所も、有が如くなきが如くなる事のみ多くて、わずかに覚めぬる人の、その見し夢を説くに似たる事ども、世の人の言嗣し所の、隠れたるあらわれたる、其異同あるまゝに記し置れしは、その疑を伝へられしと見へたり。日本書紀にも、またこれによられて、諸説を雑記され、其用捨に至りては、後世の君子をまたれしとは申す也。然るを、後の其説をつくれる人々、目前の事を論ずるごとくに、ことごとくしらずといふ所なきに至りてやむ。いと心得がたき事なり」(読法)―敏感鋭利な白石という人の面目がよく現れている文だが、彼の研究の、少くとも基本の態度はこれで明瞭だろう。それは、神代の記載をそのまま受取ってはならぬという考えである。そのまま受取るから、荒唐無稽と、これを否定し去るか、秘説と解して、これを肯定するかの、二つの道しかない事になるので、そのように粗忽そこつ性急なことであっては、歴史研究は覚束おぼつかない。歴史家は、あの誰も知る、「多キテ、闕ハシキヲ」という君子の慎重な態度を学ぶべきであり、そういう態度をしっかり決めれば、記載文から「太古朴陋の俗」が透けて見えて来るであろう。「朴質の言」が、其処そこから発しているとわかれば、その真意がわかって来るであろう。つまり、これに惑わされる事はないはずである。幼稚な表現で、実は何が言いたかったのか、あるいは、われしらず、実は何を表現しているのか、これを推定するのは難かしくはないのだ。要するに、「其ことばを以て、其意を害する事なからんは、其書をよむことの要旨とすべきもの也」という事になる。宣長では、決して離れる事のなかった「詞」と「意」とが、離れるのである。……

―「カミとはヒト也。我国の俗凡其尊ぶ所の人を称して、加美といふ。古今の語相同じ、これ尊尚の義と聞えたり。今字を仮用カリモチふるに至りて、カミとしるしカミとしるす等のワカレは出来れり」云々、と「古史通」の初めにある。「古史通」は知らなくても、白石の「神とは人也」は承知している、と言ってもいいほど、この言葉は、今日、有名になっている。もっともこの点では、白石を合理主義者と呼んでみたり、宣長を自然主義者と呼んでみたりするのと同断で、言わば当方の都合で勝手に有名にしたということもある。それはそれとして、ここに白石に触れるのは、宣長の考えを説くのに、これと全く反対な考えを持ち出すのもよかろうと思ったからだ。「古史通」は、江戸期の古代史研究の高峰として、特に古語の吟味を土台としている点で、「古事記伝」と並び称されているのが普通のようだが、並称されるには、仕事の性質があまり違いすぎるのである。……

―「記紀」の神代の記述に出て来る、神々による最初の事件と言えば、伊邪那岐命イザナギノミコト伊邪那美命イザナミノミコト所謂いわゆる「国生み」である。この神々の奇怪な行為も、「神とは人也」という考えを定めて、分析して行けば、人間の尋常な行動の比喩的な表現、白石の言葉で言えば、「形容カタドリ」に過ぎぬとわかって来るので、そうすれば、素材となった史実も歴然と見えて来る、と白石は考える。では、史実はどんな風に現れるか、これも実例で一見した方がよかろう。……

―二柱の男女神が、高天原たかまのはらから天浮橋に降り立ち、あま沼矛 ぬ ぼこで、潮を画く、其の矛の先きからしただり落ちる潮が、シマとなった。ついで、二神は、天之御柱をめぐる恋愛に失敗して、蛭子ルゴを生み、淡島アワシマを生むという物語は、誰も知るところで、くわしく述べる要もあるまいが、白石に言わせれば、二神は優れた男女の武将を指すのであって、―「舟師をひきゐて、海にうかび、西に下りて、一島に至り給ひしに、初には其島神シマツカミ迎ヘ戦ひぬれども、つひにはオノヅカら来り降りたれば、天神所宝戈ほうくわを建て、其地を得給ひし事のしるしとし、二柱の神こゝにとまりて、なほ南北の地をトナへむ事を相議あひはかりて、男神はみづから左軍に将とし、女神は右軍に将たらしめて、此島を行廻りて、其軍を合せて進み、戦はむと約し給ひしに、右軍節度を受ずして軽く進みて先んじ、左軍後れて期を失ふ、二柱の神、行遇ひ給ふ事をよろこびたまひしかども、すでに前後マジハらず、其戦利なくして、はづかに辺海の民を虜略リョリャクし、海中の一小島を得たまふのみなりしかば、其虜略せし所のものを放還ハナチカヘし、其得し所の小島を棄て、終にその兵を引て、高天ツ原に還り給ひしといふ事のごとし」(「古史通」巻之一)―一読して明らかなように、「神」を「人」と飜訳すれば、神話の史実へのちく訳は、立ちどころに成るという文章の姿である。成る程「上古の言語格類を以て推究候へば、古事記之文段も下坂の丸のごとくに相済申ものに御座候」という自信のほどもうかがえようというものだ。……

 

          3

 

―ところで、いにしえの言語格類は、どう求められているか。例えば、二柱の男女神が、国生みの為に、高天原から、天浮橋に降りたつ、その「高天原」という言葉をとってみよう。白石によれば、漢字にかかわらず、古語によって義をこうとするなら、困難は少しもない。タカは古にいう所の高国タカノクニ、「常陸ひたち風土記」にある多珂タカグンの地を言うのだし、上古の俗語を尋ねてみれば、アメウミ也、ハラカミ也で、古語に「多訶阿麻能播羅タカアマノハラといひしは、多珂海上之地といふがごとし」という事になる。こう簡単に決ってしまうのも、天上に人が住めるわけがない、という尺度から釈くからだ、と考える他はないのである。宣長の吟味となると、これはもうひどく慎重綿密なものであり、到底同日の談ではないのだが、これについては、いずれ詳しく言わねばならぬ。……

―白石は、「太古朴陋の俗」による言葉の使い方を、正そうとするのだが、太古の人々の素朴な意のうちに、素直に這入って行く宣長には、「太古朴陋の俗」というような白石の言い方は、全く無縁なのである。古人の意のうちに居て、その意を通して口をいてみなければ、どうして古語の義などが解けようか。古人にとって、「高天原」という言葉を正しく使う事と、「高天原」という物を正しく知る事とが、どうして区別出来ようか。言葉の使い方は、物の見方に、どう仕様もなく見合うものだ。「見る」「知る」「語る」という私達の働きは、特に意識して離そうとしない限り、一体をなしている。このように考える宣長と、「朴陋の俗」を批判し、観察して古人を知ろうとした白石とは、事ごとに話が食違う事になる。特に両者の場合、扱われた古記が、歴史の形で書かれた神の物語であったが為に、二人の歩いた道に、大変きわった対照が現れるという事になった。……

―これはなかなか厄介な問題だ。これまでも、津田左右吉そうきち氏の意見を、幾度か持出したが、これについても、同氏の意見が書かれているので、引用してみようと思う。問題が上手に解かれているからではない。むしろ、それは不手際ふてぎわで、見ようによっては、論者の当惑が現れているとも受取れ、それが、問題のまことに面倒な性質を、問わず語りに語っていると思われるからだ。― ……

―「徳川時代の学者などは、一種の浅薄なる支那式合理主義から、事実で無いもの不合理なものは、虚偽であり妄誕もうたんであって、何等なんらの価値の無いものと考え、そうしてまた一種の尚古しょうこ主義から、すうごんなる記紀の記載の如きは、勿論もちろん、虚偽や妄誕であるべき筈が無いから、それは事実を記したもので無くてはならぬと推断し、従って其の不合理な物語の裏面に潜む合理的な事実があり、虚偽妄誕に似た説話に包まれている真の事実が無ければならぬ、と臆測おくそくしたのである。そうしてそれがために、新井白石の如く、不合理な物語をいて合理的に解釈しようとし、事実と認め難いものに於いて無理に事実を看取しようとして、はなはだしき牽強けんきょう附会ふかいの説をなすに至ったのである。これに反して本居宣長の如きは、古事記の記載を一々文字通りに事実と見なしたのであるが、それとても歴史的事実をそこに認めようとする点に於いて、やはり事実で無ければ価値が無いという思想をっていたことが窺われ、また人間のこととしては不合理であるが神のこととしては事実であるという点に於いて、人間については白石と同じような合理主義を抱いていたことが知られる。宣長の思想の根柢こんていに存在する一種の自然主義からも、そう考えねばならなかったろう。さて今日記紀を読む人には、宣長の態度を継承するものはあるまいが、其の所説に於いて必ずしも白石と同じで無いにせよ、なお彼の先蹤せんしょうに(意識して或はせずして)追従するものが少なくないようである」(「古事記及び日本書紀の新研究」)……

―このように、白石と宣長とが、「記紀」の上代の記述につき、極端な説を成して誤ったのも、元を尋ねて行けば、やはり、儒学の考え方に捕えられていたが為だ、と津田氏は見る。尚古主義と結んだ観念的な合理主義が、客観的な歴史研究への道をはばんだと見るのであるが、このように、歴史研究の方法の未熟という面から、問題を割切ろうとしても、二人がめいめい持って生れた、身を投げかけるようにして、取組まねばならなかった歴史問題の実質には、触れないで過ぎて了うように思われる。所謂実証主義的歴史観に立つ今日の歴史家は、奇怪な「記紀」の上代の物語などにつまずきはしないだろう。それは、津田氏の言い方で言えば、「実際上の事実」ではないが、「未開人の心理上の事実」であり、そう受取れば、別に仔細しさいはないようだ。しかし、歴史事実を、そのように二種類に分類してみたところで、事はやさしくはならない。かえって、むつかしくなるだろう。津田氏も、同じ著作の結論で言っている。「記紀の上代の物語は歴史では無くしてむしろ詩である。そうして詩は歴史よりも却ってよく国民の内生活を語るものである」と。では、歴史と詩とは、何処どこでどう違うのか、どこでどう関係するのか。このほとんど見通しの利かぬ難題のうちに、歴史家は投げ返されるのである。……

 

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―「古史通」は、白石自身の言うところによれば(「与佐久間洞巌書」)、将軍家宣いえのぶの甲府宰相さいしょう綱豊時代、侍講じこうだった彼が、下命によって書いたものだ。好学の綱豊が、書紀神代之巻の解に苦しみ、白石に解明を求めた事があり、白石はこれに応じ、研究を「古史通と名づけ候て、それにまた或問三巻を附し」呈上した。「それにて本朝開国以来、およそ文字に載せ置候ほどの事においては、掌を見るが如くに事済むべく候か」と言っているように、白石は非常な自信を持っていたが、何分にも、神典を、ただの実録に引下ろした研究の事であったから、当時として、公表は先ずむつかしいものであった。綱豊も愛読して秘蔵していたが、死後、やきてられた。……

 ―白石は、自分の為のものを、享保元年に脱稿しているが、こう言っている、―「古史通の事は、畢竟ひっきゃうよのつねの人のいらぬものに候。又事により人の驚き怪しむべきものに候。本朝神代の由来、手近くしれ候ものに有之候。故にいやがり候衆もあるべく候事に候。但し此一部は、加州へうつしとられ候き」。―文中、「加州へうつしとられ候」とあるのは、加賀侯前田綱紀に所望され、草稿を貸した事を指すので、綱紀から、「本朝古今第一の書、万古の疑を決し候」という謝辞を得たと言っている。そういう次第で、「古史通」は、大変孤独な仕事であったから、当時の学界が、これをどう評価したかは、残念ながらわからない。ただ注意して置いてもいいのは、右の加賀の文庫にった写本とは別に、水戸藩でも借り写し、水戸の文庫にも納ったことが、佐久間宛の別の白石の手簡で、わかっている事だ。すると、彰考館しょうこうかん総裁安積澹泊あさかたんぱくが、これを読んでいた事は、充分考えられるという事になる。仕事の性質が、他見をはばかるものである事は、承知していた筈だから、読んでも、黙っていたであろう。黙って、どう評価していたろうか。想像してみるのも無駄ではあるまい。……

 

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―「大日本史」と言えば、誰も直ぐ、皇国の大義名分を明らかにしようとした史書だと言う。それはそうに違いないが、この声は大きくなり過ぎ、言わば、目立った意匠いしょうが、内容の質実な性質を隠して了った嫌いはなかっただろうか。修史の方法は、「がん綱目こうもく」を典範とする朱子学の史観の強い影響下にあったのだが、この史観の根本的な特徴は、大義とは、歴史のうちに在る以上、誰も逃れられない歴史の理法であるという考え方にあったのであり、それ故に、史家達は、私心や偏見を去り、歴史事実に忠実でありさえすれば、歴史の意義は、おのずから現れて来るという確信のうちに、安心して仕事をしていたので、それが、わが国近世の史家が取っていた、基本的な態度なのであった。「大日本史」は、言うまでもなく、近世の史学の上で、最大の努力が払われ、最高の成績があげられた仕事だが、編纂へんさん者、光圀みつくに以下の史家達の意識的な努力は、研究方法の上で、今日の言葉で言ってみるなら、出来るだけ客観的、実証的になろうとしたところにあった。……

―白石と澹泊との場合にしても、その点を見損ってはなるまい。この二人の同年配の優れた歴史家は、昵懇じっこんであった。勿論、見解の相違はあったが、「大日本史」の編集につき、親しく意見を交換していた程の知己の間柄であった。澹泊に、白石の天才的な鋭さが見えていなかった筈はないし、又それ故に、この堅実慎重な学者に、「古史通」の説く、古伝の無理な合理化がうべなえたとも思われないのである。白石は、「大日本史」編纂者が、特に上代史につき、外国史料を軽視した事に、強い不満を持っていた、―「本朝国史々々とのみ申す事に候、まづは本朝の始末大かた夢中に夢を説き候やうの事に候」(「与佐久間洞巌書」)―このような語調は、「古史通」という、彼の一隻眼いっせきがんから発しているとは言えよう。しかし、「古史通」は、確かに、「神とは人也」という、己れの発想に固執した、彼のはげしい気象を現してはいるが、彼の史観を現しているとは言い難い。白石の史観はという事になれば、「古史通」の読法に、「史は実につて事を記して、世のかんかいを示すものなり」とあるが、そんな言葉なら澹泊にでも言えた事だし、白石の史観が、白石らしくはっきり現れているのは、「古史通」ではない、やはり「藩翰はんかん」や「とく余論」に於いてである。……

―光圀が「大日本史」を神武から始めたのも、勿論、「実に拠つて事を記す」史家の立前たてまえからで、「記紀」の神代の記述を史実と認める事は出来ないという、全く簡単な理由に基いたのである。実とは人の世の実であり、神の世は、定義上、歴史から切捨てるという事で充分だ。白石とても、この点では同じなので、人の世を、神武からさかのぼって拡大させてみても、別段変った事が出来たわけでもないだろう。「神とは人也」という発想を信じた白石の眼には、神話化された史実は、掌を指すように、明らかだったに相違ないが、そうしてあきらめて行って、天御中主尊あまのみなかぬしのみことまで遡れば、この神の化生という作り話は、どういう実に拠ったものか、全く不明であるという事になる。利用して来た着想は、もう役に立たぬ。役に立たぬどころか、「神とは人也」という命題自体がはらんでいる矛盾の為に、自滅するのである。しかし、白石はそうは考えなかった。「或問」は言う、―「此二神(天御中主尊、→国常立尊くにのとこたちのみことの化生いづれが先、いづれが後也とは見へず。凡そ天地万物の始、無よりして有ならずといふ事なし、有は無より生ずといひし即此也」、―すると、白石もまた、神の世は切捨てた事になる。「大日本史」とともに、「上世の事は、年代悠遠、神異にして測られざれば、すべて之を称して神世とふ」と言っている事になる。逆に、神武から始めた「大日本史」にしても、「神とは人也」という白石の考えに無縁だったわけではない。東征の神武は、戦利あらず、「之をうれふ、すなははかりていはく、我は是ひのかみ子孫ミコなり」云々、とあるのを見れば、明らかであろう。

 

          6 附 言

 

この連載を、私は、「小林秀雄『本居宣長』全景」と題して書いてきましたが、そのココロを言えば、「本居宣長」の文章を写生します、議論はしません、ということでした。幸いにして私は二十三歳の年、新潮社への入社を許され、小林先生の本を造る係を命じられて先生の「本居宣長」の初版本も造らせていただきましたが、この初版本は発売と同時に売れに売れ、書評も新聞、雑誌に続々掲載されて、私は毎日、それらを斬り抜いて小林先生に送り続けました。

ところが、そういう「本居宣長」旋風がようやく鎮まった頃、先生のお宅をお訪ねした私に先生はこう言われました、「毎日、書評を送ってくれてありがとう、しかし、困ったもんだね、あれだけ書評が出ても、僕の文章をきちんと読んで書いてくれている評者は二人しかいなかった。あとはよく読みもしないで勝手な議論を世間にふっかけているだけだった……」。しかし、先生の言われる「勝手な議論」は「本居宣長」で始まったわけではありませんでした。それより十数年前、私が小林先生の存在を知って読み始めたころにもう、小林秀雄論なるものはそのほとんどが「勝手な議論」ばかりでした。ではなぜそうなるかと言えば、小林秀雄読者の誰も彼もが「小林秀雄の歯切れよさ」に眼がくらみ、小林秀雄の文章はそこそこにして小林秀雄調を気取ってみせたからです。そういうわけで『本居宣長』の初版本を出させてもらった後の私は、小林先生に関する議論を忌避し、小林先生の文章を隅々まで写し取るような読み方を自分自身、心がけ、そういう読み方を読者にも呼びかけることで先生の無念を晴らそうとしてきました。小林先生の文章は写生するように読むと言い出したについてもそのきっかけと理由は直接聴かされた小林先生の言葉にあるのですが、そこから後は、次回、お話しします。

(了)

 

先人の懐に入り込む
    ―小林秀雄と丸山眞男をめぐって(六)

【改めて「忠臣蔵」へ】

前回、「常識」という語をめぐって思索し、ようやく「忠臣蔵Ⅰ」へ戻ってくる準備が整った。浅野あさの内匠頭たくみのかみの心事の話へと帰って来よう。

―私が話を戻すのは、言葉に成りにくい彼(筆者注:浅野内匠頭のこと)の心事である。彼が、封建君主として、周囲と取結んで来た社会関係は、今まで、何んの支障もなく働いて来たのだが、ここで崩れ去った。突然崩れ去っただけで、彼が長年親しんで来た、彼の君主意識が消え去ったわけではなかったろう。しかし、それが現実の内容を失い、夢と化さんとする事に、彼が気が付かなかった筈もなかろう。彼は、無論、これに心のうちで抵抗しただろうが、同時に抵抗の空しさもよく承知していたであろう。もし、これが彼の思い知ったという事ならば、彼の心事を、封建的と呼ぶのは、おかしな事だろう。(「忠臣蔵Ⅰ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収、p.229~30)

赤穂藩主という「封建君主」であった内匠頭は、勅使ちょくし饗応きょうおうがかりとして勤めることになった江戸城内で吉良きら上野こうずけのすけを切りつけ、それがゆえに処罰されることとなり、彼の封建君主としての立場は崩れ去った。切腹を命じられてその時を待つ内匠頭の意識に、小林先生は迫る。赤穂藩主であった自分、勅使饗応掛だった自分、そうした地位を基に築かれていた社会関係、それら一切はすでに現実の内容を失っているが、それでもなお彼の心事には、「君主意識」は残っているだろう、しかし、この状況をいかんともしがたい、それでも、空しいことをはっきり意識しながら、空しく抵抗したに違いないのである。

ここでさらに内匠頭の葛藤に目を凝らしていきたい。これはすでに触れたことだが、江戸時代の武士を中心とする社会を説明するものとして「封建」という歴史用語がある。小林先生もそれを踏まえて、先の引用箇所でも「封建君主」という語を使っている。この語は、それが指し示す社会制度がうまく働いているときには、たしかに分析に有効な概念であろう。しかし、切腹直前の浅野内匠頭は、封建制度から逸脱してしまったのであり、そうなった彼の心事はもはや「封建的」という語で説明しつくせぬことを小林先生は言うのである。それでもなお「封建君主」としての意識が消え去らずに残っているとすれば、肝心なのは、現在私たちが「封建」という語で説明しようとするものに囚われながら、それに従ったり抗ったりして生きた浅野内匠頭その人の姿を感じることである。それを感じるために、常識を働かせていく必要がある。

さて、内匠頭が死んだのち、家老の大石おおいし内蔵くらのすけが四十六人の浪士を率いて、吉良邸に討ち入りをした。これが有名な赤穂浪士事件であるわけだが、当時これに対して二つの反応があった。

―事件をめぐって、当時の儒者達が、内匠頭と内蔵助との行動が、正しいか不正であるかを、やかましく論じていた時、近松門左衛門は、ただこれは芝居になると考えていた。事件は、先ず何を措いても劇的であると考えていた。(同上、p.232)

事件に対する一つ目の反応は、為政者に抱えられた儒者たちのものである。改めてここで確認しておくと、当時の江戸幕府は、社会秩序の安定のために儒学、とりわけ朱子学を政治の中心に据えていた。現在の高校教科書の記述を参考として引用する。

―幕藩体制の安定とともに、儒学のもつ意義が増大した。社会における人々の役割を説き、上下の身分秩序を重んじ、「忠孝・礼儀」を尊ぶ考え方が望まれたからである。(山川出版社刊『詳説日本史研究』第23集、p.283)

この安定した社会秩序、幕藩体制は、すでに触れたとおり「封建社会」のことであり、この社会のなかで為政者と儒者は蜜月の関係にあった。そんな彼らにとって、赤穂浪士事件は儒学を中心とする秩序を揺るがすものであり、儒者たちが事件の正不正を「やかましく」論じるのも必然であったと言える。

一方で、浄瑠璃と歌舞伎の作家であった近松門左衛門は、「ただこれは芝居になる」といって反応し、実際に浄瑠璃劇を作った。そして、庶民は、その劇を見て面白がるということで反応した。近松から数十年のちに、竹田出雲は「仮名手本忠臣蔵」を作り、これは浄瑠璃のみならず歌舞伎の有名作品になり、人口に膾炙した。

思えば、「忠臣蔵Ⅰ」の冒頭は、次のように始まっている。

―文士劇で「忠臣蔵」をやった時、正宗白鳥さんが、こんな連中のやるのを、ともかく見ていられるのは不思議だな、「忠臣蔵」という芝居は不思議な芝居だな、と言った。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集、p.223)

事件直後にすでに名のある近松が、浄瑠璃作家として、より近代的に言えば文学者として鋭敏に反応したのは当然として、そこから途切れず今日に至るまで「忠臣蔵」という劇が人々の間で流行り続けた。しかし何が面白いのか一言をもって語れない。正宗氏の「不思議な芝居だな」という一言は、小林先生には、この劇に対する本当の感想であると思えた。そして、それならば、劇を作った近松の動機も、「ただこれは芝居になる」というよりほか、表現のしようのないものだったに違いないと考えたのだろう。劇作家は事件当事者たちの「言葉に成りにくい心事」を捉え、人々は劇を通じてそれを見つめた。そこには儒者のようなやかましさはない。現代歴史家たちのように外部の知識をもって分析してみるという態度は、なおさらないのである。

「忠臣蔵Ⅰ」の結語部分で、小林先生は次のように言う。

―内匠頭の心事に皆同情したが、内蔵助等の同情が最も自信あるのものであったのは言うまでもない。この自信は、復讐の情念に裏付けられていたのだが、又、思想と教養とに支えられてもいた。封建的思想或は教養が、彼等にどう経験され、生きられていたかを想像してみるのは興味ある事だ。事件に関する少しばかりの知識を応用してみたいと思うのだが、これは次の機会にする。(同上、p.232~3)

現代から見て「封建的思想」と呼びうるものは、内匠頭や内蔵助の心事を語り尽くすことができるものではないが、同時にそれに取り巻かれて彼らが生きていたということ、しかもそれは彼らの思想にも深く関わっていたものだったということもまた事実である。「封建的思想或は教養が、彼等にどう経験され、生きられていたかを想像してみる」ということが、小林先生にとって重要な関心事となり、以前書いたことを繰り返すなら、これまで各回で主題を変えてきた『考えるヒント』という連載作品は、一つの方向性を得ることになるのである。

 

【「忠臣蔵Ⅱ」について(一)復讐の情念】

「忠臣蔵Ⅰ」の結語部分で、「復讐の情念」という言葉が出てきたが、「忠臣蔵Ⅱ」の前半はそれを受けて、復讐に関する作品が二つ登場する。一つは菊池寛の「ある抗議書」であり、もう一つはシェイクスピアの「ハムレット」である。

まず小林先生は、「ある抗議書」の筋立てを説明する。主人公は、自分が愛する妹夫婦を強盗に殺され、その強盗が裁判所で死刑判決を受けたという状況にある。そこで主人公が思うのは、次のようなことである。

―主人公は、この時、突然はっきりと感ずる。自分が今まで日夜想い描いて来たのは、仇敵というたしかに血の通っていた極悪人であったが、今は、社会的制裁を待つ犯罪者と呼ばれる、何かしら空漠たる存在に化したと。復讐を、裁判所の手に託してみたら、何か大事なものが、脱落して了った事をはっきりと感じた。だが、彼には、それが何んであるかを言う事が出来なかった。(「忠臣蔵Ⅱ」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収、p.239)

そして、小説の要約を終えるところで次のように言う。

―自分は抗議する、と主人公は言う、しかし、誰に向って抗議するのか。誰が抗議に答えるのか。子供らしい抗議は空しいであろう。無論「ある抗議書」は、こんな風に分析的には書かれていない。作者は、ただ率直に、問うたのである。社会的制裁の合理性合法性が、人々の眼をかすめて、包み隠して了ったものは、一体何んであろうか、と。(同上、p.240)

もう一つの作品「ハムレット」についての記述に移ろう。デンマークの先王を父に持っていた主人公のハムレットは、父を殺し新たに王位に就いた叔父への復讐の念を抱く。これが劇の動機になるわけだが、その発端にあるのは、死んだのちにハムレットに語りかけた父の亡霊である。「ハムレット」は世界的に有名な古典の一つであり、ハムレットを一つの人物造型として表現する際に「懐疑的な人物である」というものがあるが、小林先生はそれを踏まえて次のように言う。

―ハムレットは、何んとなく人々がそう思い込むようになった懐疑派ではない。もし、彼が懐疑派なら、復讐の意味や価値について疑いを持つ事は易々たる事ではなかったか。殺したところで何になる、と。なるほど、彼は、人生の事凡て疑わしい、と言った風な事をしきりに言うが、いったん彼に取りついた復讐の情念だけは疑いはしない。疑う事も出来ない。(同上、p.240~1)

全てのことを疑ってかかるハムレットが、自らの行動にとって最も重要な動機たる復讐の情念だけは疑っていない、ということから、小林先生は、この復讐の情念が根本的に分析しがたいものであり、作者もそのことを意識していたはずだと言う。

―彼は、最初に飛んでもない事を聞いて了った男だ。これを信じ、復讐を誓ってから、人生という芝居を始めた男だ。先ず亡霊の言を信じたから、実人生がことごとく疑わしくなった男だ。作者は、復讐の重荷を負った男の悩みを、雄弁多彩に語って、誤りはしなかった。恐らく作者は、ハムレットの言行の混迷や矛盾が、復讐の念自体の暗さから発している事を、はっきりと見ていたであろう。(同上、p.241)

こうして二つの復讐にまつわる作品について語ったうえで、改めて赤穂浪士事件を並べてみたときに、小林先生はこう言う。

―いずれにしても、復讐心の根は定かならず、深く延びて、誰にもこれを辿る事が出来ない。その根は社会の成立とともに古いからだ。(同上、p.242)

復讐心の根は暗い、この言い方は、「忠臣蔵Ⅰ」の中から前回までで引用した「人の心は、その最も肝腎なところで暗い」という表現と重なる。誰も分析がかなわないが、確かにあって人間の行動や社会の成立の基盤にあるもの。復讐心はその一例である。「復讐の念は人間社会の成立とともに古い」という小林先生の考えを、率直に受け取り、先に進んでいきたい。

 

【「忠臣蔵Ⅱ」について(二)思想を経験してみる】

ここまで復讐の情念について語られてきた「忠臣蔵Ⅱ」は、後半部において、赤穂浪士の話に再び焦点が当たる。

―さて前置きが長くなったが、赤穂浪士の復讐事件は、日本の歴史に見られる復讐の典型的なものであるばかりでなく、比類のないものでもあるので、復讐というものに関し、この程度の事は予め考えて置かないと、これに近付き難いと思ったからである。(同上、p.243)

赤穂浪士の事件を「典型的」であると同時に「比類ないもの」だと小林先生は言う。復讐の典型とはすなわち、すでに見たように、人類の歴史とともに古い復讐の情念が、そのことを忘れたような秩序ある社会体制の中で突然噴き出し、その存在を誰も疑えないといった意味合いに取れる。では、比類のなさとは何か。

―仇討というものは、普通、血族中の或るものの為に、私怨を晴すのが目的で行われたものだが、赤穂浪士の仇討となると、まるで様子が変って来て、他に類例のない主君の為の仇討となる。(中略)感情の爆発というようなものでは決してなく、確信された一思想の実践であった。(同上、p.243)

この「一思想の実践」ということを小林先生はさらに別の言い方で次のように言う。

―ことに、この復讐事件では、当事者達の思想と行動とは一つのものであった。「忠臣蔵」が演じられる以前に、その現実の素材は、素顔の名優達によって名演されたと言える。(同上、p.244)

非合理的な精神の最たるものである復讐の情念が、確かな思想とそれに基づき統率の取れた行動として表現された。赤穂浪士事件の特異性、比類なさはそこにある。

ここで、先に引いた「忠臣蔵Ⅰ」の結語部分の一節、「(内匠頭に対する同情についての、内蔵助の)自信は、復讐の情念に裏付けられていたのだが、又、思想と教養とに支えられてもいた」という表現が思い出される。内蔵助を事件に駆り立てたのは、復讐の情念という、ある意味で人類普遍とも言える感情であったに違いない。しかし同時に、復讐は、思想の実践という形式で敢行された。この意味はもっと掘り下げて考えたい。そのために、あえて私は「思想とは何か」という問いではなく、「思想の実践とは何か」と問うてみたいと思う。前者の問いは、間違えなければ、的確な答えを導き出せるかもしれないが、思想ではなくイデオロギー、すなわち人間の外部にあってその内実を虚ろにした観念に行き着いてしまう恐れがあるからである。小林先生は次のように言う。

―徳川の平和時代となっては、武士とはまことに厄介な戦国の遺物となった。徳川幕府の維持しようとした政治秩序とは、戦国の群雄割拠の状態を、そっくりそのまま固定した封建制の秩序であり、乱世の権力主義を、そのまま受け継いだ政治組織の下に、平和社会の秩序を保とうとしたものだ。武士が、御用儒学者によって、武士道という不自然な義務を負わされたのも、元はと言えば、この矛盾から来ている。これは歴史家の好む考え方であるが、歴史を分析して、歴史の矛盾を得たところで、別段自慢にもなるまい。矛盾のない歴史などというものがある筈はないからだ。私は、文学者の習癖に基き、矛盾が、実際に、どう生きられ、どう経験されたかを想像する面倒を好む。(同上、p.246)

安直に「武士道」と言うとき、それはイデオロギーである。これを封建思想などと言い換えてみてもよかろう。武士道とは、時代と社会の矛盾から生まれたのだ、と言ってみることは易しい。しかし、私たちが真に目を凝らすべきは、矛盾そのものではない、矛盾を意識しながら生きざるを得なかった人の方である。それを受け入れざるを得なかった意識的な武士たちは、武士道という矛盾を生きてみたのである。

―武士道とは、武士が自らの思い出を賭した平和時の新しい発明品なのであって、戦国の遺物ではない。自己を遺物と観じて誰も生きられたわけがない。彼等は、実在の敵との戦いを止めて、自己との観念上の戦いを始めた。彼等はかつての自然児が知らなかった苦しみ、思想を経験してみるという不自然な苦しみを知ったのである。(同上、p.247~8)

武士道を、それを抱えて生きざるを得なかった武士たちの姿をありありと浮かべて言い直してみるとき、それは単にイデオロギーとは言えない新しい深みを帯びる。外から与えられたイデオロギーも、それを受け入れながらも戦い、苦しみながら生きていくことができる。それが、思想を経験してみるということである。内蔵助の、内匠頭に対する同情は、最も自信のあるものだったと小林先生が言ったのは、同じ苦しみを黙して共有しているという自信が彼らにはあったはずだということではないか。

―何んであれ、人のして了った行為を、傍人がさかのぼって分析すれば、自動人形のからくりの他に何が得られるだろうか。率直に、この老人の置かれた状態に身を置いて思えば、何か恐ろしいものがはっきりと見えて来るだろう。不自然なもの、自然の性情に逆らうもの、逆らわなければ生きて行かれぬ思想というものの裸の姿が見えて来るだろう。(同上、p.248)

内蔵助は、後世の歴史家のような「傍人」としてではなく、死を待つばかりの内匠頭の心事に迫ったはずだ。そこではっきりと見えてくるのは、「何か恐ろしいもの」であった。主君と忠臣は、武士道という思想を経験してみた同士である。その姿は感得できたに違いない。そして、内蔵助が思い知ったのは、その恐ろしいものが、自らの生にも存在しているということであった。思想と自らの命とが、分かちがたく触れているということであった。

 

【歴史に身を投ずること、歴史が皮膚に触れること】

ところで、ここまで書いてきて、私にはある一つの対話が想起された。小林先生が河上徹太郎氏と交わした対談「歴史について」である。河上氏が自らの祖父について書いた経験に触れたところで交わされた、以下の対話に耳を澄ませたい。

 

小林:君の言いたいのは、歴史と歴史の海のなかに浸かっている自分というものは、極度にしたしい関係にあるということじゃないかな。歴史という実在との一種の接触感を、僕らは生き甲斐という言葉で呼んでいるのではないか。たとえば、君がお祖父さんの歴史を書くことは、お祖父さんの生き甲斐のなかに身を投ずるということだろう?

河上:そう。そうなると、僕はもう自分が生きているんじゃなくて、お祖父さんが生きているんだ。

小林:君はもうお祖父さんになっているわけだよ。

河上:なっているんだよ。こっちの意志で導ける歴史というもの、そんなものはないんだよ。―今、僕は風邪をひいて、一週間皮膚がぞくぞくしている。この皮膚のぞくぞくみたいなものが、歴史なんだよ。外の空気が、こう皮膚に触れるんだよ。歴史は、僕の身体に連結している、自分の頭脳の任意になるものではない。

小林:うん……。(「歴史について」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収、p.320~1)

 

私には、小林先生の「(故人の)生き甲斐のなかに身を投ずる」、河上氏の「外の空気が、皮膚に触れる」という表現は、「忠臣蔵Ⅱ」の言葉で言えば、「文学者の習癖」、すなわち「矛盾が、実際に、どう生きられ、どう経験されたかを想像する面倒を好む」ことが極まったところで生まれたものに思える。

内匠頭と内蔵助の心事に迫るということを、小林先生は実践してみた。それは、彼らが思い知ったことを、自らも思い知ろうと試みることにほかならない。その体験を言語によって結論づけることはできないだろう。しかし、彼らが経験し生きていたのは、言語が織りなす思想の世界だったのである。彼らの経験はいかなるものであったのか。「忠臣蔵Ⅱ」は次のように終わる。この一節を借りて、本稿も次へと繋げたい。

―彼等に言葉を供給したのは儒学であった。この問題も錯雑したものだが、又の機会にしよう。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集、p.250)

 

 

(つづく)

 

ベルクソンと小林秀雄、「二源泉」と「本居宣長」への旅 第二回
  「本居宣長」第一章 その1 「主調低音」

小林秀雄さんの「本居宣長」は難解で、その中でも第一章は特に難しいとされている。そうだろうか、小林さんの「本居宣長」は、それほどに難解だろうか。

第一章を俯瞰すると、民俗学の泰斗、折口信夫氏に本居宣長についての話を聞きに行くというところから始まる。次に本居宣長のことを雑誌に連載をすることとなり、なんとも言葉にならない想いを抱えながら三重県の松阪まで宣長のお墓参りに行ったという話になり、そこから宣長の遺言書の引用になる。この遺言書には「申披六ヶ敷筋(もうしひらきむつかしきすじ)」の指図さしずがあり、おそらく宣長以外には誰にも理解し得ない謎がそこには横たわっている。そして最後に宣長がどれほど桜が好きであったかの紹介がなされて第一章は終わる。

私見では、詰まるところ、第一章は三つの部分で構成されている。すなわち、折口信夫氏との思い出、宣長の遺言状、そしてそれにまつわってではあるが宣長がどれほど桜に愛着を持っていたかという話に分けられる。

 

そこでさて、一旦ここまでを書いて、ここから先は私塾l’ecodaの同人誌『身交ふ』に掲載された池田雅延氏の「小林秀雄『本居宣長』を読む(一)開講にあたって」で気になる部分があったので、そこを紹介したい。それは、

 

昭和十六年の夏、先生は哲学者、三木清氏と「実験的精神」と題して対談し((同第14集所収:筆者註「小林秀雄全作品」第14集所収の意)、そこで言っています。―誰それの思想は、こういうものだと解らせることはできない、思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ……

 

という部分だ。この前の部分で池田氏は小林さんの言う思想はイデオロギーとは違うということを説明されてから、では、思想とは何かを述べられる際にこのような小林さんの言葉を引かれている。小林さんの「本居宣長」はこういう意図をもって描かれた思想のドラマであるということも。

さらに言うと、池田氏はしばしば「小林先生は、自分の文章は散文ではないのだ、僕は詩を書いているんだ、と仰っていた」ということを言われる。小林さんの文章はボードレールから強く影響を受けていたようだが、その背景には「思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ」という思いがあるのだろう。

 

本題に戻ろう。まず、濫觴らんしょうというのに相応しい折口信夫氏との思い出の部分を引用したい。

 

   本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。それから間もなく、折口信夫氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、橘守部の「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出て了った。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた

 

この短い文章に詰まった「本居宣長」のテーマの一つを池田氏は「主調低音」と呼び、Web雑誌『好・信・楽』に連載されている「小林秀雄『本居宣長』全景」の (四)〜(十四)を割かれている。私のような凡人は読み飛ばしてしまいそうなエピソードだが、これが実は「本居宣長」の大きな柱の一つとなって行くことに気づく人は多くないだろう。詳しくは池田氏の文章を読んでいただくこととして、私なりに補足の真似事のようなことをしてみたい。

「小林秀雄『本居宣長』全景」(四)で折口氏を小林さんが訪ねたのは昭和二十五年前半と考察されている。小林さんは明治三十五年(1902年)の生まれだからこのとき四十七か四十八歳、『古事記伝』を読んだ戦争中というのはそれより五年から十年以上前になろうから四十歳前後にはもう本居宣長について書こうと思っていたと見てよいだろう (『身交ふ』の「小林秀雄『本居宣長』を読む」(二)では池田氏は小林さんが言っている戦争中とは昭和十二年に始まった日中戦争以後と考察されている)。しかし、実際に「本居宣長」が雑誌に掲載され始めたのは昭和四十年(1965年)であるので小林さんは六十三歳、折口氏に「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われてから数えても十五年経っている。池田氏はWeb雑誌『考える人』の連載「随筆 小林秀雄」の最終回で「時間をかけるということ」と題して色々と述べられている。なかでもヨットに積まれているユニバーサルモーターの話は感動的であるのだが、それは各人読んでいただくこととして、我々はそこにも出てくる円熟という言葉をもっと考えないといけないと思う。何かを成そうとするのではなく自然と成っていくもの、それが歳をとるという意味でなければならないと私は思う。実際、「本居宣長」が単行本として成ったのは昭和五十二年(1977年)であるから本居宣長について書こうと思ってから少なくとも三十二年は経っているのだ。

脇道に逸れてばかりいるが、もう少しだけ話をしたい。小林さんの言葉は先の引用文の後、段落が変わって次のように続く。

 

   今、こうして、自ら浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これを廻って、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである。

 

自然と成っていくことが円熟ということと述べたが、それは、結局じっくりと時間をかけ、ある意味、美との交わりの中で体感していくことで成っていくものだということをこの文章は言っているように思う。言葉は決して自由には操れない。思想という美を織りなそうというとき美に交わり言葉という道具をその思考の延長となしうるまで身につかせるように、いやこの歳の小林さんならばもうきっと自在を得てはいただろうが、それでも思い通りには決してならない大理石を彫るような気持ちでこの「本居宣長」を書かれていただろうことには想いを馳せたいと思う。

 

さて、これらの短い文章が、なぜ「本居宣長」の「主調低音」なのか。小林さんの「おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが」について池田氏は「小林秀雄『本居宣長』を読む」(二)の中で『この自ら』は、『必然的に』と言ってもいい」と指摘されている。それは折口信夫氏と話しに行った小林さんに最後に折口氏が、

 

「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。

 

ということが忘れられなかったということだろう。この辺りの詳しい経緯は池田氏の書かれたものを読んでいただきたいが、

 

その核心は「もののあはれ」です。そしてこのとき、小林先生における「『古事記伝』の本居宣長」は、「『源氏物語』から『古事記』への本居宣長」に変貌したのです。

――― 池田雅延「小林秀雄『本居宣長』を読む(二)」

という部分の引用は外せない。すなわち、小林さんはそれまで宣長の仕事については「古事記」のことで頭がいっぱいであったが、折口氏の指摘によってさらに眼をひらかれたということ、そして「その核心」が「もののあはれ」であるということだけは読者にも憶えていて欲しいと思う。つまりはこの「本居宣長」の「主調低音」は「もののあはれを知る」であるということを。

 

(つづく)

 

編集後記

小林秀雄に学ぶ塾、通称山の上の家の塾における「本居宣長」精読十二年計画は、令和七年(二〇二五)三月をもってお開きを迎えた。そのため、塾生が事前に時間をかけて懸命に考え、塾の場で披露し池田雅延塾頭からのアドバイスを得て、エッセイとして練り上げていくという過程を通じて産み出された作品の掲載は、前号をもって小休止という状況である。そのため今号では「『本居宣長』自問自答」への寄稿はなく、連載稿中心の小編成の号となった。

 

とはいえ連載稿もまた、文字通り小林秀雄先生に学ぶという本塾での長い体験を通じてそれぞれの筆者が自身のものとしてきた、古典や古人に「身交むかふ」態度をもって執筆されているものばかりである。読者の皆さんには、ぜひお目通しいただき、忌憚のないご指導やご鞭撻を心底からお願いする次第である。

 

そのように、本塾はひとまずのお開きを迎えたものの、塾生の学びもそれで終わってしまったということでは決してない。なぜならば、私たちが繰り返し挑んできた自問自答の根底には、小林秀雄先生の一生涯のテーマである「人生いかに生きるべきか」という自問が生き続けているからである。当たり前のことだが、塾生一人ひとりは今、日々自身の生活を生きている。そのなかでこそ、本塾で学んできたことについての、より深くより本質的な気付きや反省があるに違いない。その気付きや反省こそが、さらに深化した「『本居宣長』自問自答」になるものと確信している。塾生による、そのような寄稿を今から心待ちにしているところである。

 

最後に、小林先生の「還暦」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)という作品にある、「荘子」の中で孔子の言葉として言及されている「陸沈りくちん」についてのくだりをご紹介して、筆をおきたい。先生は「世間に捨てられるのも、世間を捨てるのも易しい事だ。世間に迎合するのも水に自然と沈むようなものでもっと易しいが、一番困難で、一番積極的な生き方は、世間の直中ただなかに、つまり水無きところに沈む事だ」と孔子が考えたと述べたうえで、このように言っている。

「孔子は、七十三で死んだが、誰も知る通り、彼は、十五で学に志してから、幾つかの年齢の段階を踏み、七十歳で学が成就した、と言った。これが、自分には、そういう次第であったが、他人には又別のやり方があろう、という彼の告白だったとしたら、何も面白い事はない。又、そんな事では、彼の出現が、学問史上の大事件になった筈もない。彼は単に学問的知識を殖やすのには時間がかかると言ったのではない。そんな事は、彼の考えてもみなかった事で、彼は、まるで違った意味で、年齢は真の学問にとっては、その本質的な条件をなすと言ったのである。世の中は、時をかけて、みんなと一緒に暮らしてみなければ納得出来ない事柄に満ちている。実際、誰も肝心な事は、世の中に生きてみて納得しているのだ。この人間生活の経験の基本的な姿の痛切な反省を、彼は陸沈と呼んだと考えてみてはどうだろうか」

 

(了)

 

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