春、帰りなむ(前編)

しゃ ゆう

1

 

どこからであろうか、懐かしい音が聞こえて、衛門えもんはまぶたを薄く閉じてじっと耳をすませた。ひそひそとした話し声や、木の車輪がきしむ音や、ゆっくり響く微かな足音が、風の音と混ざり合いながら少しずつ大きくなってくる。

夫である大江匡衡おおえのまさひらに伴って、赤染衛門あかぞめえもん尾張おわりに下ったのは、これが二度目のことだった。

かつて藤原道長の妻、倫子りんしに仕えていたころ、夜毎日毎よごとひごと牛車ぎっしゃの音は聞こえていた。

とくに思い出深いのはある春、一条院へと花見の会へゆく際に、和泉式部とともに乗った牛車である。それは屋根に檳榔びろうをあしらった四人乗りの牛車で、まだ新しい車輪がてらてらと光っていた。あの日の一条院には、人が降りられないほど牛車がつめかけ、従者が芋を洗うようであった。

音はさらに近づいて来て、それからぴたりと止まった。目頭に涙を浮かべていた衛門は、そのとき我に返った。

どうやら衛門を訪れる客のようであった。
 「衛門さまは病を得られて」

奥の間に聞こえたのはそこまでで、あとは風の音にかき消されてしまった。病と聞いて、対面は望めぬと思ったのであろう、牛車は離れていった。強い風がひとすじ、奥の間まで届いた。衛門はやや肩を縮め、身をすくめた。しばらくすると、ふみとともに、両手にしっかりと抱えねばならぬほどの大きな包みが衛門に手渡された。衛門は娘を枕元に呼び、包みを解かせた。とたんに、鼻がつんとする香りが、辺り一面にたちこめた。
 「まあ、これは何の香りでしょう」
 「これは丁子ちょうしですよ。こちらは甘松かんしょうね」

都でもなかなか手に入らない、珍しい香の原料が少しずつ、丁寧に包まれていた。貴族たちはこれらを調合して薫物にする。衛門はかつて、倫子が調合した香を分けてもらうために仲間の女房たちと列に並んだことを思い出し、口元がほころんだ。
「どなたがくださったのでしょう」

興味深そうに顔を床に近づける娘に、衛門はすぐには答えず、静かに文を広げた。案の定、見慣れた字があった。
 「三河守みかわのかみですよ」

三河守となった菅原為理ためよしは、かつて衛門の妹のもとに長らく通っていた。その縁で三河国へと下る道すがら、衛門のところへ立ち寄ったのは、梅の咲き始めのころであった。いまや風がさすように冷たくなってきたとは、早いものだ。妹が亡くなったのは五年前、為理が通っていたのはさらに昔のことだ。
 「あの方が生きていたら、尾張と三河は近くてよかったのですが」

為理はそう言い残し、任地へと下っていった。

為理は、妹のほかに多くの通いどころがあった。人が悪いわけではないのだが、あまりに風流に生まれつき、ごく自然な成り行きで、あちこちの女に心が移る質だったのだろう。妹が深く悩むうちに病で亡くなったのには、この方も一役買っているような気がして、為理との付き合いは気後れがした。病と伝えてよかったと衛門は思った。季節の変わり目に咳を少しわずらったが、すでにあらかた治っていた。

ところがしばらくして、衛門は小刻みに肩をゆらしはじめた。隣にいる娘がはっと気がついたときには、声さえもらして笑った。

為理の文には、歌が詠まれていた。

 

唐国の 物のしるしの くさぐさを やまと心に  乏しとやみむ

(唐のものをいろいろとお贈りしたことを、やまと心が足りないとご覧になりますか)

 

目を丸くして驚いている娘を見ても、衛門は緩んだ顔を引き締めることができなかった。やまと心をこのように話題にするとは、あの歌のことを聞き知ったに違いない。衛門はこれまで一度も、そのことを人に話したことはなかった。きっと夫が、どこかで話題にしたのだろう。衛門は心が温まった。月日はほんとうに早い。あの歌を贈ったばかりのころ、もはや夫婦の契りもこれまでかと衛門は覚悟していた。それはちょうど今と同じ、美しい虫の音が、木枯らしでかき消される、冬の初めであった。

 

2

 

 「お白湯さゆをお持ちしました」

丹後たんごのささやくような声が頭の上で聞こえたので衛門は頷いた。赤ん坊をあやしながらも、目は文机ふづくえに置かれた文の字を追っていた。文の主は藤原倫子、かつて衛門が仕えていた、藤原道長の妻である。

丹後が椀を持っていてくれるので、衛門は体を動かすことなく白湯をひと口啜った。顔を上げると、丹後が心配そうな顔でのぞきこんでいる。
 「早く乳母が見つかるといいのですがね……」

丹後はなんでも察しがよく、衛門は嬉しくなった。しかしそれもつかの間のこと、考え出すとため息がもれる。倫子からの文には、娘の彰子しょうしの女房としてそなたを召したいと書かれており、いつ京に戻れるのかと促すものだった。衛門としても、はやく倫子の役に立ちたい。だが、幼子につける乳母がいなくては、叶うはずもなかった。
 「あの人の赤子はもう、生まれたころでしょうか」

少し前までは、衛門の姪が乳母をしていた。しかし衛門の娘が生まれてから一年も立たぬうちに姪にも懐妊のきざしが見え、すぐ里帰りさせてしまった。丹後はその娘のことを言ったのである。
 「ええ、この間、たよりが来ました。女の子だそうよ」

かわりの乳母を、親類じゅう当たって探させてはいるが、すぐには見つからなかった。たとえふさわしい人が見つかっても、たやすく決まることはないだろう。
 「あの方は、旦那様がようやく首を縦に振ったというのに……」

衛門はしばらく返事をしなかった。

衛門の夫、大江匡衡は、学者であった。学者というものが、ここまで気難しいものだということを知ったのは、子が生まれてからのことであった。
 「姪は少し若すぎたのです」
 「けれどあの方は朗らかで、歌もお上手だったようなのに」

衛門は姪を思い出したようで言葉に詰まった。ため息がもれた。
 「歌が得手でも仕方がないのでしょう」
 「いいえ。そのようなことはございません。なんといっても旦那様は、歌では衛門さまには勝てないですもの」

これには衛門は笑ってしまった。丹後もつられて笑ったが、思い出したようにおもむろに白湯を衛門の口元に運んだ。
 「さあ、もう一口おあがりください」

衛門は若いころから和歌の名手だった。大臣家の歌合の歌は必ず評判になったものだ。

一方、夫の大江匡衡はもともと和歌が好きではなかった。一通り学びはしたものの、和歌を詠む暇があるならば、少しでも多く漢文の聖典にふれていたかった。その態度を一変させたきっかけが、衛門への恋であった。

 

匡衡

恋わびて 忍びにいづる 涙こそ 手に貫ける 玉と見えけん

(恋に悩み、人知れずこぼれる涙が、手に通した数珠の玉のように見えます)

 

数珠とともに贈られた歌に、衛門はすぐさま返事をした。

 

赤染衛門

ちづらなる 涙の玉も 聞こゆるを 手に貫ける 数はいくらぞ

(千にも連なる涙と世間では言いますが、あなたの手に連なる涙の数はいくつでしょうか)

 

手ひどく返しても間もなく歌はふたたび贈られてきた。

 

匡衡

あら浪の うち寄らぬまに 住の江の 岸の松影 いかにしてみん

(荒波が打ち寄せないうちに 住の江の松の姿をなんとかして見たいものです)

 

返し
赤染衛門

住の江の 岸のむら松 陰遠み 浪寄するかを 人は見きやは

(住の江に群れて生える松は、その姿を遠方から見るので、波が寄せるかどうかは見えないものです。あなたは見たのですか、見てはいないでしょう)

 

匡衡

岩代の 松にかかれる 露の命 絶えもこそすれ 結びとどめよ

(岩代の松にかかっている露のように儚い私の命が消えてしまいそうです。つなぎとめてください)

 

返し
赤染衛門

結びても 絶えんを松の はばかりに かけばにで見る 露の命ぞ

(露なら結んでも消えるものです。まして松の葉などにかけるというのでは、なおさらはかない露の命ですね。つなぎとめられません)

 

苺を檜破籠ひわりごに入れて
匡衡

紅の 袖匂ふまで ける玉 なにのもるとも 数へかねつつ

(紅に映える袖になるまで、血の涙の玉が貫いたのです。檜破籠に何が盛ってあるにしても、数は数えられないでしょう)

 

返し
赤染衛門

もりつらん 物はことにて 紅の 袖にはなにの 玉か数えん

(盛ってある物はさておいて、もともと紅色をした袖で何の玉を数えればいいのでしょう)

 

衛門とのやりとりをするうちに、匡衡は歌に深入りしていった。明らかに和歌においては、衛門のほうが数段上だということを、匡衡は認めざるをえなかった。幼いころから秀才と呼ばれ、周囲の期待を集めてきた匡衡にとって、勝てないものがあるというのは、それだけで心が惹きつけられた。いくら歌を贈っても、返ってくるのはつれない歌ばかりだった。しかし衛門は必ず返歌を寄こした。まるでつれない素振りさえ、どこか楽しんでいるかのようであり、それが匡衡を次の歌へとかきたてた。

 

泣き声が聞こえて来た。つい物思いにふけったかと、衛門は思わず腕のなかの赤ん坊を見たが、すやすやと眠り続けている。どうやら声の主は外にいるらしい。丹後はすぐに立った。
 「様子を見てまいります」

衛門の腕に力が入った。

戻ってきた丹後は困ったような顔をして、言葉も発しないので、衛門が急かすと、小さな声でぼそぼそと言った。
 「旅のお方だそうです。今夜一晩、泊めてさしあげてもよろしいでしょうか」

丹後が御簾を上げると、親子らしき姿があった。

女童めのわらわは十歳ほどだろうか、しゃがみこんで泣いていた。女童の背中をやさしくさするたびに、母親の薄い背中で幼子が大きく揺れた。
 「お嬢さんが足をくじいてしまったそうなのです」

子を見つめる母親のほうも顔が青ざめていた。衛門はわが子をおいて親子のほうへと近づいていった。
 「どちらからいらしたのですか」
 「近江でございます」

娘がこれから世話になる人に会いにきたのだが、ようやく京に入ったところで、当の娘がどうしても歩けなくなってしまったという。外は暗くなりつつあり、このままでは外で夜を越すことになるだろう、丹後が思わず声をかけたのも無理はない。衛門がうなずくと、丹後の声が弾んだ。
 「さあ、お上がりください」

母親は背中の幼子を下ろし、腕にしっかりと抱えながら幾度も礼をした。立ち上がっても小柄なその若い母親は、名を伊香いかといった。いい名だと伝えると、父が住んでいた近江の地名なのだという。丹後はすぐに女童をおぶって奥へと連れていった。伊香がおもむろに歩きはじめたとき、衛門は声をかけた。
 「外にいる方もお入りになって」

伊香は驚き、身をすくめた。
 「あれは外でいいのです」

伊香は旅に男衆を連れていることを言わないようにしていたが、この女主人は、広い心の持ち主だったようである。
 「このあたりは、夜とても冷え込みますから」

そう言い残して衛門は奥に下がっていった。その背に向けて、伊香はもう一度深々と頭を下げた。

 

3

 

翌朝、衛門が起きてみると、炊事場のほうから話し声が聞こえた。甲高い声が交っている。昨夜足を痛めていたという女童めのわらわが何か手伝いをしているようだった。

こちらの気配を察したのであろう、お目ざめになりましたか、と丹後に声をかけられた。その横から、元気そうな女の子がちょこんと顔をだした。
 「昨夜はどうもありがとうございました」

お辞儀をしてすっと上げた顔は、かすかに赤みがかっていた。

足の痛みはもういいのか、少女は素早く動き回っていた。頰と同じ、紅葉のような赤い小袖が似合っていた。
 「母は、今、水を汲みにいっています」
 「お断りしたのですが、どうしても行くといって」

お優しい方です、と丹後は独り言のように言って食事の支度を続けた。

少女は何かを見つけたのか、目を細めてつぶやいた。
 「紫に染まるかしら」

丹後はかまどに薪をくべていて、少女の声が届いていないようだった。視線の先を追うと、庭に残っていた朝顔が、光のなかで揺れていた。

井戸から帰ってきた伊香は、衛門の姿を見つけると、大切そうに水を抱えて庭のほうへやってきた。衛門が尋ねると、娘は生まれつき手先が器用で、裁縫や染物がことのほか好きなのだと話しはじめた。
 「最初に気がついたのは、私が着物のほつれを直しているときでした」

伊香の背中の赤子は、人形のように静かだった。
 「縫い物をしながらつい、うとうとしていたところ、娘が残りを縫ってしまったのです。八歳のときでした。見様見真似で覚えてしまったのでしょう。その場では叱りましたが、嬉しい思いでした。それからいつだったか、一度花染めを見せてからは、一緒に野山に出かけては植物をとってきて、始終染物をしています」

衛門が見やると、少女と朝顔がじっと見つめあっていた。
 「着物も自分で染めたのですか」
 「ええ」

きれいに染まっていると伝えると、伊香は明るい声になった。
 「椿です。何日も野をかけまわったり、ご近所にも頼み込んだりして、落ちた花をたくさん集めて、ひとりで染めたのです」
 「名残の紅葉のようですね」

伊香は嬉しそうに頷いた。娘の手による染物が季節に合っていると褒められるのはこのうえもない喜びのようだった。
 「いまは庭の朝顔を見て、考えているようですね」

伊香は頷いた。
 「紫は、娘の憧れの色なのです。花染めで濃い紫色を出すのは難しく、すぐ色あせてしまうのですが」

娘がこちらにやってきて、母の膝へ甘えるように顔をうずめた。
 「お母さま、私、いつかはあんな色も染められるかしら」
 「紫草むらさきで染めればきっと美しいわ。都へいけば、紫草で染めることができるかもしれないと楽しみにしていたのよね」

娘の顔はとたんに輝いたが、次の瞬間、眉間にも口元にもしわを寄せて衛門を驚かせた。
 「きっととっても冷たいわ」
 「お水のことね」

娘は大きく頷いて、まるで冷水のなかに両手を入れたかのように身を震わせた。衛門は笑った。
 「花染めは、温めた色水に浸してから、冷水の中で生地を洗うのを、何度も繰り返すことで、少しずつ色づいて、むらなく美しく染まります」

それは初耳だと衛門が伝えると、伊香は恥ずかしそうに微笑んだ。
 「何度もしているうちに娘が自分で気がついたのです」

伊香の誇らしげな姿に、衛門も心が浮き立つのを覚えた。まるで自分の娘が育ってゆく喜びを、先取りしたかのようだった。
 「これだけ好きで得手なことを持って生まれたのだから、何か縁があるに違いないと、いつも思っておりました」
 「それで京まで旅をされたのですね」

伊香はうなずき、これまでの旅のことを一通り語った。
 「夫の親戚に、代々着物の仕立てを生業なりわいとする家の主人がいるのです」

それは衛門も噂で聞いたことがあった。貴婦人たちはたいてい、みずからの着物を仕立ててもらうため、針仕事や染物を担う女房を抱えるものだが、急な入り用に間に合わぬときや、凝った仕立てを頼むときは、そういった家に頼むことがあった。伊香は、娘をその家の針子にしようというのだろう。
 「幾度となく頼んでも、なかなか聞き入れてくださいませんでした。でも夫が亡くなった際、ようやく文をくださって」

それで丸一日かけて、念願の都へと旅をしてきたのだと話し終えると、伊香は黙って、娘の着くずれを直した。衛門は、少女が去ったあとの朝顔を見つめ、あのような濃い紫の生地は、都でもなかなか手に入らないことを思った。花は、前に見たときより色が深まっていた。

 

赤ん坊の声がした。まるで話の区切りを待っていたかのような間の良さだった。

 

衛門は机の前に向かい、倫子への返事を書く準備を始めた。

硯に水をさし、墨をなじませて幾度か磨ってから、大きな木箱を開けて、紙を出そうとして、衛門は思わず苦笑をした。さきほどとは別の角度から泣き声が聞こえた。衛門の娘が起き出したようであった。

衛門は丹後を呼び、持ったばかりの筆を置いた。そして昨夜からやや痛む腰をようやくあげたころ、几帳を隔てた隣の部屋から、赤ん坊を抱えた母親がこちらをのぞいた。遠くから、お乳をさしあげてもいいでしょうか、と声が聞こえる。そばに来た丹後が、是非そうさせてあげてください、と言葉を添えた。
 「そうはいっても……」

伊香は小柄で、どちらかというと痩せていた。旅の疲れからか顔色も芳しくなかったので、食事を多めにするように丹後に言いつけたほどだった。傍目からはどう見てもふたり分のお乳が出るようには思えなかった。
 「何かお礼がしたいと、昨日から口を開くとそればかりで」

衛門が小さく頷き、無理はせぬように伝えてほしいと言った。衛門は筆を持ったが、幾度か字を書き損じた。泣き声の合間から、「伊香さん、しっかり」と励ます声がした。風で持ち上がった几帳の隙間から、背中をさする丹後の手が見えた。しばらくして泣き声は風とともに消え、鈴虫の声が聞こえて来た。

 

親子はその日のうちに用をすませ、伊香は夕方、衛門の家にもう一度立ち寄った。今朝の女童はおらず、背中の赤ん坊がすやすやと眠っていた。静かな人だと衛門は思った。

深々と礼をしたのちに顔を上げると、伊香は衛門の顔をまっすぐに見つめた。
 「見知らぬ私どもを泊めてくださって、なんとお礼を申し上げたらよろしいのか……その上で、このようなことを申し上げるのは、まことに無礼だと存じてはいるのですが」

一瞬の沈黙の間に、深い呼吸が聞こえてきそうであった。声が震えていた。
 「乳母として、このお家においていただけないでしょうか」

娘と一緒に都へ来たのは、自分も雇ってはもらえまいかと考えていたからだったようだ。しかし娘の奉公先では、人手は足りており、用がなかったのだという。
 「あの子は、ほんとうは姉の子なのです。姉は産後すぐに亡くなったので、私が育てようと決めたのです。母のふりをするうちに、本当のことは言えなくなりました」

伊香は、そっと背中のほうへ目をやった。
 「この子が産まれてから、今度は夫が亡くなりました」

今にもこぼれ落ちそうな涙に、伊香は耐えていた。
 「あの子がひとりで食べていけるとわかるまで、見届けてやりたいのです」

先に声を出したのは丹後であった。
 「衛門様、あの……」

衛門は微笑みながら、言葉を重ねた。
 「実は困っていたのです。今朝も助かったの」

幼子の母は、絞り出すような声でお礼を言い、赤ん坊を起こさないようにと、それ以上は話そうとしなかった。突然、強い風が吹きぬけていった。
 「さあ、もう遅いですから、おあがりなさい」

風は、暖かくなった衛門の心にまで吹き込んだように思えた。誰にもわからぬよう、衛門は小さくため息をこぼした。

(つづく)

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年二月号

発行 平成三十年(二〇一八)二月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

小林秀雄「本居宣長」全景

九 「あしわけ小舟」を漕ぐ(下)

3

 

契沖は、真言宗の僧である。寛永十七年(一六四〇)の生れだから、享保十五年(一七三〇)に生れた宣長からすれば九十年前の人である。

その契沖については、出自から死去まで、「本居宣長」第七章に精しく書かれている。それはまた小林氏の契沖に対する共感の深さを示すもので、契沖の学問と生涯の神髄は、「本居宣長」の第六章、第七章で尽くされていると言っていいほどだ。が、「萬葉代匠記」の経緯については、第七章に次のように書かれているのみである。

―契沖の研究が、仏典漢籍から、ようやく国典に及んだのは、十年ほどの泉州閑居時代であった。「萬葉代匠記」が起稿されたのは、天和三年(四十四歳)頃と推定されているから、契沖の歌学と言われているものは、すべて二十年に足らぬ彼の晩年の成果であったと言ってよい。時期ははっきりしないが、長流は、水戸義公から、その「萬葉」註釈事業について、援助を請われた事があった。病弱の為か、狷介けんかいな性質の為か、任を果さず歿し、仕事は、契沖が受けつぐ事になった。「代匠記、初稿本」の序で、「かのおきな(長流)が、まだいとわかかりし時、かたばかりしるしおけるに、おのがおろかなるこころをそへて、萬葉代匠記となづけて、これをささぐ」と契沖は書いている。……

 

これに先立って、小林氏は、第六章に「あしわけ小舟」から、「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」を引き、次いでこう言っている。

―彼(宣長)が契沖の「大明眼」と言うのは、どういうものであったか。これはむつかしいが、宣長の言うところを、そのまま受取れば、古歌や古書には、その「本来の面目」がある、と言われて、はっと目がさめた、そういう事であり、私達に、或る種の直覚を要求している言葉のように思われる。「萬葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……

「本居宣長」を読んできて、私はいま、宣長の「もののあはれ」の説の濫觴へと遡り、「あしわけ小舟」を読んでいる。それは、契沖が「源註拾遺」で、「源氏物語」は「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」と言い、宣長はその「可翫詞花言葉」の体得・体現を徹底することによって「もののあはれ」の説に到達したのだが、宣長にとって「可翫詞花言葉」は、「源氏物語」に即して契沖に言われるより先に、十九歳で始めた詠歌修業を通じてすでに身についていたと思われるというところから始めている。そしてその「可翫詞花言葉」は、詠歌に打ちこむなかで定家本人から教わってもいて、契沖が「源註拾遺」で言った「定家卿の詞に、歌ははかなくよむ物と知りて、その外は何の習ひ伝へたる事もなしといへり、これ歌道においてはまことの習ひなるべし、然れば此物語を見るにも大意をこれになずらへて見るべし」にもただちに反応し、詞花言葉を翫ぶという詠歌の経験をそのまま「源氏物語」を読むという経験に活かしたと思われるのだが、そのとき、宣長が明瞭に意識においていたのが契沖の「一大明眼」であった。

契沖は、古歌や古書にはその「本来の面目」がある、「萬葉集」の古言は当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏物語」の雅言はこれを書いた人の雅意をそのまま現す、そこに思い当った、この直覚・直観こそが契沖の「一大明眼」であり、契沖は「萬葉集」を前にしても「源氏物語」を前にしても、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を見る、直かに見る、この態度を貫いた、これもまた契沖の「一大明眼」の具現であったのだが、契沖にその「一大明眼」をもたらしたのが「萬葉集」の校訂と注釈、すなわち「萬葉代匠記」の執筆だったのである。

小林氏は、「本居宣長」は、宣長について何か新しい説を打ち出そうとしたものではない、自分の行ったことは、宣長が残した文章の訓詁注釈である、そう言っている。「訓詁」とは古文に見える語句や文字の意味を明らかにすること、「注釈」とはその「訓詁」から進んで文意を汲み取ることと解していいが、それと同じ意味合で、私は小林氏の文章の熟視と訓詁を志している、ここでは、「萬葉代匠記」という言葉の訓詁を試みようと思う。

 

契沖の「泉州閑居時代」とは、室生山麓の岩窟で死のうとしたが果たさず、再び高野に上って修行した、それからのことである。小林氏も拠った朝日新聞社版『契沖全集』第九巻「伝記及伝記資料」所収の久松潜一氏「契沖伝」によれば、契沖が再び高野山を下りたのは三十歳前後と推定され、三十代のほぼ十年、和泉の国(現在の大阪府南部)の久井、次いで万町と、いずれも契沖の学徳に感じた人の家に寄寓して仏典、漢籍、和書に親しんだ。

前半五年ほどの久井時代は、真言宗に信心の篤い辻森吉行に招かれ、同家の蔵書であった仏典、漢籍の研究に従った。次いで延宝四年(一六七四)、三十四歳の年からは、祖父同士が加藤清正に仕えていたという縁で万町の伏屋長左衛門重賢家に移り、邸内の養寿庵にこもって同家所蔵の日本の古典を読破した。この万町時代が「萬葉代匠記」の揺籃となった。

「水戸義公」とは、水戸藩の第二代藩主、徳川光圀である。若くして修史の志を抱き、藩主となるや史書編纂のための「彰考館」を設け、俊英学者を全国から招聘して日本史の編纂事業を大規模に推し進めた。その成果が、今日、「大日本史」の名で知られるもので、「本居宣長」でも第三十一章で言及されているが、光圀は「大日本史」の編纂と並行して、日本の古典の蒐集整備にも力を注いだ。その古典整備の最たる対象が「萬葉集」だった。

宣長が現れるまで、「古事記」は誰にも読めない碑文のような存在になっていたが、「萬葉集」も同じだった。「古事記」ほどではなかったにしても、そこに書かれている萬葉仮名と呼ばれる漢字の群れをどう読めばよいのか、こうではないか、こうだろうという読みは古来いくつも試みられたが、それらはいずれも誰にも得心がゆくというものではなかった。

しかも、それだけではなかった。いつしか「萬葉集」は、文字が読める読めないの困惑もさることながら、「萬葉集」とは本来、どういう姿の歌集であったのか、それがわからなくなっていた。平安時代以来、萬葉仮名をなんとか読もうとした人たちが、「萬葉集」と言われる本を写し写ししている間に、誤字・衍字えんじも混じれば脱字や恣意的改変も起り、かくして何種類もの「萬葉集」が存在することになった。そこでたとえば、これは柿本人麻呂の歌であると左注(歌の左側にある注記)に書かれていても、人麻呂はこの歌を、ほんとうにこう詠んだかどうかは疑わしいというような事態に陥っていた。

光圀は、そこを憂慮した。日本の修史にこれだけの手を尽す、そうであるなら日本の古典、就中「萬葉集」の再建も喫緊の大事と思った。光圀にそう思わせるに至った悲劇は、九〇〇年前、「萬葉集」が大伴家持によってその全容を調え終えられた直後に起っていた。

 

新潮日本古典集成『萬葉集』の伊藤博氏の解説によれば、「萬葉集」の編纂は七世紀の末、巻第一に「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」の歌を残した持統天皇が、皇位を譲って上皇となった文武年間(六九七~)に始り、桓武天皇が即位した天応元年(七八一)前後の頃まで、八十余年の歳月を閲して行われたらしいという。

したがって、編者も何度か入れ替わった。初期には歌人としても傑出していた柿本人麻呂が、次いでの時期には太安万侶が、さらには山部赤人、坂上郎女らが、歴代の編者として想定され得るが、今日見られる全二十巻の最後を担ったのは大伴家持である。

家持の前までに、今日の巻第一から巻第十六まではほぼ出来ていた。家持は、そこに最後の手を加えるとともに、巻第十七から巻第二十までを編み足して全二十巻とした。まだ整備すべきところが残ってはいたが、それにしても日をおかず、家持はその全容を公にして朝廷の認証を得るつもりであった、ところが、そうはいかなかった。

家持は、「萬葉集」を完結させた直後の延暦四年(七八五)に死去した。のみならず、死んで二十日余り、藤原種継暗殺事件が起り、家持はその首謀者とされて官位を剥奪され、罪人に落とし入れられた。種継は、桓武天皇の信任篤かったが、皇太子の早良親王とは対立していた。家持は、早良親王の東宮大夫であった。したがって、事件の首謀者というのは濡れ衣で、東宮大夫であったがための連座であったかも知れないのだが、ともあれ罪人の関わった財産や書類はすべて官庫に没収する、それが当時のならわしだった。家持は、「萬葉集」最後の巻第十七から巻第二十までだけでなく、巻第一から巻第十六までの最終整備にも深くかかわっていた。そのため、「萬葉集」は、全巻が罪人の書として忌避され、官庫の一隅に長く放置されることになったらしいと伊藤氏は言っている。

「萬葉集」が日の目を見たのは、それから約二十年後である。延暦二十五年(八〇六)三月、桓武天皇の病平癒のための大赦があり、家持は二十一年ぶりに罪を解かれて名誉を回復した。奇しくもこの日、桓武天皇は崩御し、平城へいぜい天皇が即位して大同元年となった。平城天皇は、桓武天皇がひらいた平安京よりも古京・平城京を愛した。その平城天皇の前に「萬葉集」が据えられ、古き時代の風雅・文雅の結晶「萬葉集」は、平城天皇によってようやく認証されたのであろうという。

しかし、「萬葉集」にとって、吹いた逆風はこの二十一年ではすまなかった。史上、国風暗黒時代と呼ばれる時代が「萬葉集」を襲った。平城天皇の弟、嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~)から淳和天皇を経て仁明天皇に至るまでの三十年間、制度、文物、すべてに唐風すなわち中国風がよしとされ、文芸面では漢詩文がもてはやされて倭歌やまとうたは片隅に追いやられた。その兆しはもう桓武天皇の時代に見えていたが、嵯峨天皇は兄平城天皇と戦を交えたほどの天皇である、「萬葉集」に関してはその存在さえ知らなかったかも知れない。平城天皇の在位はわずかに四年であった。この四年間を除いて「萬葉集」は、五十年にもわたって忘れ去られたも同然の境遇に置かれたのである。

 

五十年といえば、現代でも多くの物事が忘却の彼方へ去り、退化や風化が嘆かれるが、「萬葉集」の悲劇は現代文明の比ではなかった。「萬葉集」は、萬葉仮名で書かれていた。五十年の間に、その萬葉仮名が石化し、誰にも読めなくなっていった。国風暗黒時代がようやく幕を閉じ、「古今集」に代表される国風文化の幕が開く直前の寛平五年(八九三)、嵯峨天皇の即位から言えばざっと八十年の後、菅原道真の撰とされる「新撰萬葉集」が編まれた。その「新撰萬葉集」の序には、「萬葉集」は、「漸くに筆墨の跡を尋ぬるに、文句錯乱し、詩にもあらず賦にもあらず、字体雑糅ざつじゅうし、入ること難く悟ること難し」、そう書かれている。「賦」はここでは漢詩と解しておいてよいだろうが、「雑糅」は、種々の物事が雑然と入り混じっているさまである。要するに、「萬葉集」は、菅原道真級の学識をもってしても読めない、何がなんだかさっぱりわからない、そう言われていたのである。

「萬葉集」が編まれた頃は、平仮名も片仮名もまだ生まれていなかった。文字と言えば漢字しかなかった。その漢字が中国から日本に渡ってきたのは今から二〇〇〇年ほど前と言われているが、だとすれば「萬葉集」が編まれ始めた七世紀の末は、漢字が渡来してからもう数百年が過ぎた頃である。したがって、当時の知識人はかなり自在に漢字を使いこなしていたようなのだが、その漢字を用いて日本語を書き留めるということも漢字が渡来した直後の一世紀に始まり、五世紀、六世紀になるとその数はいちだんと増えていた。そして七世紀、「萬葉集」の時代ともなると、人それぞれに漢字による日本語表記の知恵を競うようにもなっていた。

こうして生まれた漢字の用法、後に「萬葉仮名」と呼ばれるようになる漢字の使用法によって記された萬葉歌を並べてみよう。( )の中は『国歌大観』で打たれている番号である。

 

熟田津尓船乗世武登月待者潮毛可奈比沼今者許藝乞菜(八)
春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山(二八)
東野炎立所見而反見為者月西渡(四九)
田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留(三一八)
宇良宇良尓照流春日尓比婆理安我里情悲毛比登里志於母倍婆(四二九二)

 

「萬葉集」には約四、五〇〇の歌が収録されている。その約四、五〇〇首すべてが、こういう表情で並んでいたのである。まさに「字体雑糅し、入ること難く悟ること難し」であるが、いまここに引いた五首は、今日では次のように訓まれている。

 

熟田津にきたづに 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山
ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて 返り見すれば 月かたぶきぬ
田子の浦ゆ 打ち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり こころ悲しも 独りし思へば

 

「萬葉仮名」で書き残された萬葉歌は、今ではこうしてほとんどが読める。依然として難訓歌はあり訓みをめぐって議論の絶えない歌もいくつかあるが、ともかく「萬葉集」は今は読める。永きにわたって仮死状態に陥っていた「萬葉集」が、ここまで息を吹き返したについては、何人もの学者や歌人の蘇生努力、すなわち萬葉仮名訓読の試行錯誤が繰返されたのだが、それらを踏まえてというより、それらを一気に飛び越えてと言っていいまでに、今日通行の訓みの過半を示したのが契沖だった、契沖の「萬葉代匠記」だった。大伴家持の手で「萬葉集」が最終的に成ってから、契沖が「萬葉代匠記」を書き上げるまで、その間およそ九〇〇年の歳月を要した。

 

「萬葉集」は、世に顧みられることなく放置されていた八十年の間に、誰にも訓めなくなった。一言で言えば、萬葉仮名には、こう読ませるためにはこう書く、こう書かれていればこう読むというような、万人共有の正書法などはまるでなく、すべては筆録者各人の恣意に拠っていた。漢字には表意性と表音性が備っているが、日本語を漢字で、漢字だけで記すにあたっては、その両方が随時、随意に利用された。

『新潮日本文学辞典』の「萬葉集」の項で一見しよう。まずは表意文字として漢字を用いた場合である。これには、日本語の意味に相当する漢字を用いたものと、漢語をそのまま用いたものとがある。前者の例としては「我」(われ)「暖」(はる)「丸雪」(あられ)「京師」(みやこ)などがあり、後者の例としては「餓鬼」(がき)「法師」(ほうし)「布施(ふせ)」などがある。

次いで、表音文字としての用法では、漢字の音を借りたものとして「和礼」(われ)「波流」(はる)「安良礼」(あられ)「美夜故」(みやこ)などがあり、漢字の訓を借りたものとして「鴨」(助詞の「かも」)「名津蚊為」(なつかし)などがある。

さらには、表意性、表音性の外に出て、戯書と呼ばれるものもある。「蜂音」「牛鳴」は蜂の飛ぶ音、牛の鳴く声の擬声語を利用してそれぞれ「ぶ」「む」の音を表す、あるいは「二二」で「し」の音を表し、「重二」も「し」、「二五」は「とお」、「十六」は「しし」、「八十一」は「くく」の音を表すなどの数遊びめいたもの、「山上復有山」と書いて「出」と読ませるような手の込んだものもある、「出」の字の形はたしかに「山の上にまた山」である。

それどころか、『日本古典文学大辞典』の「萬葉仮名」の項によれば、「萬葉集」の多彩な文字づかいの背後には、歌の筆録者たちの文学的な用字意識があり、漢字を仮名として使用しながら表意性を捨てきることはせず、漢字の意味喚起性にもこだわったところから多様な文字選択が生じているという。たとえば「恋」は、「孤悲」とも書かれている。ということは、それによって萬葉仮名は、いっそう複雑になり、「文句錯乱、字体雑糅」の度をますます深めていたのである。

 

この、「萬葉集」の「文句錯乱、字体雑糅」状態を、最初に重く見たのは村上天皇であった。大伴家持が死んだ延暦四年からでは一六六年後の天暦五年(九五一)、村上天皇は宮中の梨壺に和歌所を設け、坂上望城、紀時文、大中臣能宣、清原元輔、源順の五人に「古今集」に次ぐ勅撰集「後撰集」の編纂と、「萬葉集」の付点とを命じた。「点」とは本来は漢文訓読のための補助記号を言い、返り点などがそれにあたるが、そこから転じて注釈のことも「点」と言うようになった。

村上天皇は、この「梨壺の五人」に、「萬葉集」を読み解けと命じたのである。これは史上唯一の公式事業であるばかりでなく、平仮名・片仮名が生まれた後の時代で、初めて「萬葉集」を一般に読めるものにしたという意味で画期的だったと『日本古典文学大辞典』にはある。この「梨壺の五人」が残した訓みは「古点」と呼ばれ、その数、四〇〇〇首を超えていたと推定されている。ちなみに、清原元輔は清少納言の父である。

これを承けて、平安時代には藤原道長らの「次点」が現れもしたが、梨壺の五人に次いで特筆されるのは鎌倉時代の僧、仙覚である。仙覚は十三歳で「萬葉集」の研究を志し、四十四歳の年に諸本を見る機会を得て校訂本をつくり、それまでは点のついていなかった一五二首に訓をつけた。その後も校訂作業を続けて仙覚新点本を完成させ、最後は「萬葉集註釈」を著して難解歌八一一首に注を施すなどした。この仙覚の校訂事業と注釈は、「萬葉集」の享受・承継史上、不滅の意義をもつとされている。

 

それから四〇〇年余り、「萬葉集」はその間にまた錯綜し、江戸期に入って光圀が立った。光圀は、水戸家の事業として、「萬葉集」の自前の校訂と注釈とを志していた。延宝五年(一六七七)、彰考館の史臣、佐々宗淳らに京都で「萬葉集」関係の書を集めさせ、天和元年(一六八一)には注釈を、翌年には校合を史臣たちに命じ、それと並行して下河辺長流に協力を頼んだ。しかし長流は、小林氏の文を引けば「病弱の為か、狷介な性質の為か」、任を果さずに死んで光圀の要請は契沖が引き継いだ。

契沖は、天和三年(一六八三)頃、「萬葉代匠記」の執筆にかかり、貞享四年(一六八七)頃に初稿本を完成、さらに元禄二年(一六八九)、初稿本の全面改稿にかかり、翌三年、その結果を精選本として光圀に献じた。初稿本は初稿本で、今日なお輝き続ける大著だが、光圀はそのすべてをよしとして満足はしなかった。契沖が叩き台として用いたのは、当時最も流布していた木活字本の寛永版本であった。契沖は他の本はほとんど見ず、寛永版本だけで本文改訂や改訓を行い、註釈を施していた、光圀の不満は、契沖の用いた本が寛永版本だけであったことにあった。そこで光圀は、水戸家で集めた四種の本を校合した「四点萬葉」その他の本を契沖に貸し与え、契沖は、その、より精密な校訂本を叩き台としてまた全巻にわたって「萬葉集」を読み解いた、それが精選本だった。初稿本から精撰本まで、要した歳月はわずかに七年ほどだった。契沖の学識の広さ深さと集中力を思うべきだろう。

こうして「萬葉集」は、契沖によって、本来の姿と心に復した。契沖の「萬葉代匠記」は、大伴家持が仕上げたまま石化していた「萬葉集」の大半を、ほぼ家持が意図したとおりの「萬葉集」として蘇生させた。林勉氏によれば(「万葉代匠記と契沖の万葉集研究」、岩波書店「契沖研究」〈一九八四年刊〉所収)、契沖が底本としたと思われる寛永版本に、彼がどの程度の本文校訂や改訓を試みたかを見てみると、その該当箇所は三五七〇ヶ所に上り、うち一九六一ヶ所、すなわち約五〇パーセントが現在なお「萬葉」研究の世界で認められている、部分的な支持まで加えれば、約六三パーセントが今日も生きているという。林氏は、「萬葉代匠記」の「萬葉」研究史上における重要度は、その質の高さは言うまでもなく、創見の量においても注目に価すると言っている。

 

先に、戯書と呼ばれる萬葉仮名として「山上復有山」を紹介したが、これを「出づ」と初めて訓んだのも契沖だった。

この戯書は、巻第九の「虚蝉乃 世人有者……」と始まる長歌(一七八七番歌)の中に、「毎見 恋者雖益 色二 山上復有山 一可知美」と見えているのだが、契沖が底本としたと思われる寛永版本の訓は、濁点を補って書き写すと、「ミルゴトニ コヒハマサレド イロイロニ ヤマノヘニマタ アルヤマハ ヒトシリヌベミ……」だった。

これを契沖は訓み変えた。まず初稿本ではこう言っている。

―これは色に出でば人しるぬべみといふべきを、「古楽府」に藁砧今何在、山上更有山といふは、藁砧をば、砆といふゆへに夫の字とし、出の字は、まことには、中の画上下をつらぬきて、二の山にはあらざれども、しか見ゆれば、夫はすでに遠く出てゆけりといふ心に、山上更有山と作れるをふみて、出るといふ事を、山のうへにまたある山とはいへり。唐ノ孟遲が詩に、山上有山不得帰と作れるも、「古楽府」によれり……

そして、精選本ではこう言っている。

―色二山上復有山、、今按、此ヲ三句ニヨメルハ非ナリ。(中略)イロニイデバ、ト一句ニ読ベシ、其故ハ「古楽府」ニ、藁砧今何在、山上更安山、云々。此山上更安山トハ、出ノ字ヲ云へり。正シク山ヲフタツ重テカクニハアラネド、見タル所相似タル故ナリ。唐ノ孟遲ガ、山上有山不得帰、ト作レルモ此ニ依レリ。今モ此義ヲ意得テ、イデト云フタ文字ヲ、山上復有山トハカケルナリ。……

宣長の言う「難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ」の「古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ」がここにも見て取れるが、「ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタ」契沖の「一大明眼」は、宣長と上田秋成との論争を紹介し、宣長の「古学の眼を以て見る」ということに説き及ぶ第四十一章に至って披露される。

―自分の学問は、古書を考える学問に於いて、古今独歩たる契沖の大明眼によって、早速に目がさめたところに始った、と宣長は言うのだが(「あしわけをぶね」)、その契沖の古伝についての考えはというと、―「和漢ともにはかりがたきことおほし。ことに本朝は神国にて、人の代となりても、国史に記する所神異かぞへがたし。ただ仰てこれを信ずべし」(「萬葉代匠記」巻第二)という、まことに簡明なものであった。……

とまず小林氏は言い、次いで、契沖の注を読む。

―この契沖の言葉は、天智天皇の不予に際して奉献した大后おおきさきの御歌、「青旗の 木幡こはたの上を かよふとは 目には見れども ただに逢はぬかも」の訓詁の結びとなっている言葉だ。「木ノシゲリタルハ、青キ旗ヲ立タラムヤウニ見ユ」という意味合から、「青旗」は、「木幡」の枕詞をなす。木幡は天皇の御陵のある山科やましなに近い。天皇崩じ給わん後、「神儀ノ天カケリテ木幡ヲ過、大津宮ノ空ニモ通ハセ給ハム事ヲ、皇后兼テ知食シラシメセドモ、神ト人ト道異ナレバ、ヨソニハ見奉ルトモ、ウツツニ直ニハエアヒ奉ラザラムカト、ナゲキテヨマセ給ヘルカ」と契沖はあんずる。そして、「いかさまにも只ならぬ御詞なり」と感歎するのである。……

これを承けて、小林氏はさらに言う、

―皇后にとっては、目に見る天皇の御魂も、直に逢う天皇の聖体も、現実に、直接に、わが心にふれて来る確かな「事」であるのに変りはないので、そういう生活感情の率直な表現は、人を動かさずには置かず、其処には、この判じにくい表現は、何の譬喩ひゆかというような、曖昧な思索の入りこむ余地はない、というのが、契沖の「只ならぬ御詞」という言葉の含みなのだ。歌の姿が神異なら神異で、「ただ仰てこれを信ず」るがよいのである。「歌道のまこと」を得るには、他に道はない。この契沖の明眼は、宣長の学問のうちに播かれた種であった。国史を遡って行けば、それは神歌神語に極まるのだし、もし現在のうちに過去が生きているのを感得出来ずに、歴史を云々するのは意味を成さない事なら、契沖の得た「まこと」は、今日も猶「まこと」である筈だ。そういう一と筋の道が、人の道を問う学問を貫くのを、恐らく宣長は、契沖を知った時に、早くも予感していたと見ていい。……

これを小林氏は、第六章の末尾ではこう言っている。

―彼は、「契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也」とまで言っている。宣長の感動を想っていると、これは、契沖の訓詁註解の、言わば外証的な正確に由来するのではない、契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関するもうを開かれたのではない、およそ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである。……

 

しかし宣長は、「萬葉代匠記」を、読み通すことはできなかったようだ。初稿本だけは写本を読めたようだが、精選本は読めなかった。「萬葉代匠記」は、そもそもは光圀の、水戸家の「萬葉集」再建事業のための基礎資料として要請されたものであった。したがって、契沖から水戸家に献じられた後は、水戸家の「釈萬葉集」のための参考資料として秘蔵された。そのため、精選本の写本が世に流布することはほとんどなかったらしいのである。宣長が今井似閑の「似閑書入本」を読んで言った、「契沖伝説ノ義、代匠記ヲ待タズシテ明カナルモノ也」には、そういう事情が伴っていたと思われる。小林氏が精読した「青旗の 木幡の上を かよふとは」の歌の注釈は、精選本に見えるものであるが、ここに小林氏が引いている注釈の結語、「和漢ともにはかりがたきことおほし。ことに本朝は神国にて、人の代となりても、国史に記する所神異かぞへがたし。たゞ仰てこれを信ずべし」は、初稿本に記されている。

 

4

 

こうして契沖は、藤原定家が「源氏物語」について言った「可翫詞花言葉」を「萬葉集」で実行し、「萬葉集」の「詞花言葉」を「翫味」「翫索」して「一大明眼」をひらき、そしてついに前人未到の歌学を打ち立てて古歌本来の面目に達したのだが、その契沖に先立って、歌を詠むという実際行動の心構えとして「可翫詞花言葉」を宣長に示したのは定家であった。

先に、小林氏は、歌とは何かという課題が宣長の体当りを受け、これを廻って様々な問題が群がり生じた、歌の本質とは何かに始り、その風体、起源、歴史……と、あらゆる問題が宣長に応答を迫ったと言い、この意識の直接な現れが「あしわけ小舟」の沸騰する文体を成していると言っていたが、わけても歌の歴史を追い、「新古今集」に至って定家に説き及ぶくだりは殊のほか煮えたぎっている。

宣長は、歌の道の興廃を論じれば、と言って、上代の「古事記」「日本書紀」に見えている歌から説き起こし、「萬葉集」、「古今集」、そしてそれ以後の勅撰集と、歌が興隆してきた歴史を辿っていき、「新古今集」に至って言う。

―サテ新古今ハ、此道ノ至極セル処ニテ、此上ナシ、上一人ヨリ下々マデ此道ヲモテアソビ、大ニ世ニ行ハルル事、延喜天暦ノコロニモナヲマサリテ、此道大ニ興隆スル時也、凡ソ歌道ノ盛ナル事、此時ニシクハナシ、歌ノメデタキ事モ、古ヘノハサルモノニテ、マヅハ今ノ世ニモカナヒ、末代マデ変ズベカラズ、メデタクウルハシキ事、此集ニスギタルハナシ……

「新古今集」は第八番の勅撰和歌集である。後鳥羽上皇の命で鎌倉時代の初期、元久二年(一二〇五)に一応の完成を見た。「古今集」からでは三〇〇年ちかくが経っていた。

「上一人」は天皇である。「延喜天暦ノ比」は醍醐天皇と村上天皇の時代、すなわち、「古今集」と「後撰集」が編まれた時代である。歌の道は、そういう盛時をも凌いで、「新古今集」に至って頂点に達した、この上はもうないと言うのである。

しかも、「新古今集」の時代は上も下も歌に粉骨砕身したから、名人も多く出た、その名人の数でもこの時代を抜く時代はないが、

―ソノ名人ノ中ニモ、定家卿コトニスグレ玉ヘリ、サレバ俊成卿ノ子息トイヒ、コトニ歌モ父ヨリモナヲスグレテ、他人ノ及バヌ処ヲ詠ミイデ玉フユヘニ、天下コゾッテアフグ事ナラビナシ、マコトニ古今独歩ノ人ニテ、末代マデ此道ノ師範トアフグモコトハリ也、予、又此卿ヲ以テ、詠歌ノ規範トシ、遠ク歌道ノ師トアフグ処也……

定家は「新古今集」の撰者のひとりでもあった。

では、その「新古今集」のような歌を詠もうと思えばどうするか。「新古今集」ばかりを見るのはよくない、レベルが違い過ぎるからだ。そうではなくて、「古今集」に始る三代集、すなわち「古今集」「後撰集」「拾遺集」をよく見るのがよい。現に「新古今集」時代の名人たちは、いずれも三代集を手本にした、なかでも定家は、心を古風に染めよ、そのためには三代集を手本にせよ、と言った、三代集をよくよく学べば、おのずから風体がよくなり、「新古今集」を髣髴とさせる歌になるのだ、と宣長は書いている。

いずれ詳しく見ることになるが、定家の時代、他の諸芸と同じように、歌も父から子へ、師から弟子へという伝授が重視されていたと思われている。が、宣長は、とんでもないと言う。歌の道に伝授ということが言われ、それが幅をきかすようになったのは定家の子、為家の代からであり、定家の代まではそういうことはない。定家自身、「コノ道バカリハ身一ッニアル事ナリ」と言っているが、

―ヨクヨク歌道ノ本意ヲ味フテミヨ、古今ノ序ニ、人ノ心ヲタネトシテヨロヅノ事ノハトナルトイヒ、定家卿ハ、和歌ニ師匠ナシ、旧歌ヲ以テ師トストノ玉ヘル如ク、此道バカリハ、心ヨリイデクル事ニテ、ナカナカ人ヨリ伝フベキ事ニアラズ、フルキ歌ヲ、イク度モイク度モミテ、心ヲソムルヨリ外ノ伝授ハ、サラニナキ事也……。

そう宣長は書いている。

 

こうして、歌の歴史から説き起して詠歌の心得を説く宣長の背後に、定家はずっと立っていたのだが、近世になって、先達と言われる人たちですら歌道に暗く、歌学に疎くなった。そのため、古書の注解なども浅薄で誤りが多くなった、歌というものは、深い心と玄妙な味を探らなければ真意は表れ難い、注によってはとんでもない歌に見えてしまうこともしばしばある、契沖は、そういう蒙昧暗愚な近世の歌学界に現れた、「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼ヲ開キテ、此ノ道ノ陰晦ヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世ノ妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来ノ面目ヲミツケエタリ……」、この宣長の敬歎と感服は、「あしわけ小舟」のいわば最終章で言われるのだが、それに続いてほとんど結語のように、宣長はこう言うのである。

―ヨッテ詠歌ハトヲク定家卿ヲ師トシテ、ソノオシエニシタガヒ、ソノ風ヲシタフ、歌学ハチカク契沖師ヲ師トシテ、ソノ説ニモトヅキテ、ソノ趣キニシタガフモノナリ……

定家に発して契沖を経た「可翫詞花言葉」は、こういう実地に歌を詠むという切実な経験のなかで宣長に受け取られたと思われるのだが、この「可翫詞花言葉」が容易でないことは、「あしわけ小舟」でもう言われている。小林氏は第六章に引いている。

―源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ワブンハカカルル也、シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ッモ我物ニナラズ、今日文章カク時ノ用ニタタズ、タマタマ雅言ヲカキテモ、大ニ心得チガヒシテ、アラレヌサマニ、カキナス、コレミナ見ヤウアシク、心ノ用ヒヤウアシキユヘ也、源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ、心ヲ用テ、モシ我物ニナル時ハ、歌ヲヨミ、文章ヲカク、ミナ古人トカハル事ナカルベシ……

これが、小林氏が言った、「詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事」であった。

 

宣長の「もののあはれを知る」の説は、これだけの手間暇をかけて、「あしわけ小舟」に続いた「紫文要領」で本格的に打ち出されるのだが、「あしわけ小舟」において「もののあはれ」という言葉自体は、ただ一ヵ所に見えるのみである。

―スベテ此道ハ風雅ヲムネトシテ、物ノアハレヲ感ズル処ガ第一ナルニ、ソレヲバワキヘナシテ、タダモノヒタフルニ流義ダテヲ云ヒ、家ノ自慢バカリヲスルハ、大キニ此道ニソムク大不風雅ノ至リ、我慢我執ノ甚ダシキモノ也トシルベシ……

宣長の「もののあはれを知る」も、第八章以降、小林氏によって語られる中江藤樹から伊藤仁斎、荻生徂徠へと受け継がれた「独」の血脈を承けていた。

(第九回 了)

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一八年一月号

発行 平成三十年(二〇一八)一月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

「小林秀雄に学ぶ塾」サテライト塾のご案内

☆大阪塾についてのご案内

 

2018年1月から、池田雅延塾頭を講師とする「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」を年4回、関西学院大学梅田キャンパスにおいて開催中です。

 

* 2018年の予定
 第2回 4月14日(土) : 「本居宣長」について
 第3回 7月7日(土) : 「美を求める心」について
 第4回 10月13日(土) : 「ドストエフスキイの生活」について
 【13:00 開場 13:30 開会 15:30 閉会】


* 会費

 正会員
  年会費 :
8,000円
  勉強会1回単位会費 :
2,500円
 学生会員
  年会費 :
4,000円
  勉強会1回単位会費 :
1,500円

 

* お申込み・お問合せ
  宛先:ikedalabinkansai◆gmail.com
    ◆を@に変えてメールをお送りください。
  詳細は以下のTwitterにも掲載しています。
    小林秀雄と人生を縦走する勉強会‏ @ikedalabkansai

 

 

☆広島塾について

 

小林秀雄の思想に触れ、困難な現代を生きる糧とすることを目的とした池田塾をより広く知ってもらい、参加してもらうため、2015年に広島塾が発足しました。「池田塾in広島」と称して、春と秋に開催しています。

 

*第6回池田塾 in 広島

日時

2018年4月15日(日)14:00~17:00
※16:00~17:00 質疑応答

「無私を得るということ」

講師

池田雅延塾頭

参加費

一般3,000円、学生1,000円
(参加者数により変わる場合があります)

場所

合人社ウェンディひと・まちプラザ
広島市まちづくり市民交流プラザ

申し込み

お名前、ご住所、お電話番号をお書きの上、次のアドレスまでご連絡ください。
宛先:yositen2015◆gmail.com
◆を@に変えてメールをお送りください。

日時 2017年10月22日(日)

    14時~15時  池田雅延氏「信じることと知ること」

    15時~16時  杉本圭司氏「小林秀雄と音楽」

    16時~17時  質疑応答懇談会

 

会場 広島市男女共同参画推進センター(ゆいぽーと)

 

参加費 一般3,000円、学生1,000円(参加者数により変わる場合があります)。

 

お申込み・お問合せ

 お名前、ご住所、参加希望の理由を簡単にご記入の上、ご連絡ください。

   宛先:yositen2015◆gmail.com

     ◆を@に変えてメールをお送りください。

 

     ――――

 

以 上

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一七年十二月号

発行 平成二九年(二〇一七)十二月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

編集スタッフ

坂口 慶樹

渋谷 遼典

小島奈菜子

藤村 薫

岩田 良子

Webディレクション

金田 卓士

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一七年十一月号

発行 平成二九年(二〇一七)十一月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

Webディレクション

金田 卓士

 

「小林秀雄に学ぶ塾」サテライト塾のご案内

☆広島塾について

小林秀雄の思想に触れ、困難な現代を生きる糧とすることを目的とした池田塾をより広く知ってもらい、参加してもらうため、2015年に広島塾が発足しました。「池田塾in広島」と称して、春と秋に開催しています。

 

*第5回広島塾のご案内

今回は講師として池田雅延塾頭と、小林秀雄研究者の杉本圭司さんをお迎えします。杉本さんは雑誌『考える人』(新潮社刊)に評論「契りのストラディヴァリウス」「小林秀雄の時 ある冬の夜のモオツァルト」等を発表、現在は本誌『好・信・楽』に「ブラームスの勇気」を連載されています。

 

日時 2017年10月22日(日)

    14時~15時  池田雅延氏「信じることと知ること」

    15時~16時  杉本圭司氏「小林秀雄と音楽」

    16時~17時  質疑応答懇談会

 

会場 広島市男女共同参画推進センター(ゆいぽーと)

 

参加費 一般3,000円、学生1,000円(参加者数により変わる場合があります)。

 

お申込み・お問合せ

 お名前、ご住所、参加希望の理由を簡単にご記入の上、ご連絡ください。

   宛先:yositen2015◆gmail.com

     ◆を@に変えてメールをお送りください。

 

     ――――

 

☆大阪塾について

関西圏の方々と小林秀雄が観じていた人生を学ぶ場を作りたいとの思いから、池田雅延塾頭を講師とし、2018年1月から「小林秀雄と人生を縦走する勉強会」を年4回、関西学院大学梅田キャンパスにおいて開きます。

 

*小林秀雄と人生を縦走する勉強会 発足記念講演会

この勉強会の開始に先立ち、「西洋文化と日本人~島崎藤村と小林秀雄が向き合った西洋」をテーマとして発足記念特別講演会を催します。

 

日時 2017年11月3日(金・祝)13時〜17時

13:30~14:30 細川正義氏「島崎藤村における国際性と文明批評」

細川氏は関西学院大学名誉教授。当会の顧問をお願いしています。

14:45~15:15 池田雅延氏「小林秀雄先生の思い出―ランボーから宣長へ」

 

会場 関西学院大学 梅田キャンパス

 

参加費 無料

 

お申込み・お問合せ

  宛先:ikedalabinkansai◆gmail.com

    ◆を@に変えてメールをお送りください。

 

・詳細は以下のTwitterをご覧ください。

 小林秀雄と人生を縦走する勉強会‏ @ikedalabkansai

https://twitter.com/ikedalabkansai

 

以 上

 

奥付

小林秀雄に学ぶ塾 同人誌

好・信・楽  二〇一七年十月号

発行 平成二九年(二〇一七)十月一日

編集人  池田 雅延
発行人  茂木 健一郎
発行所  小林秀雄に学ぶ塾

Webディレクション

金田 卓士

 

紫式部が「省略」したこと

しゃ ゆう

「源氏物語」が時に未完の大作と誤解されるのは、かの有名な「浮舟入水のくだり」のためではないだろうか。

薫と匂宮の、二人の男性に契った浮舟は、恋敵同士の争いが烈しくなるにつれ、進退に窮して、死のうと思う。しかし入水を決心するものの、失神したところを僧都に助けられたのをきっかけに、出家して尼として生き始める。やがて、浮舟を忘れられなかった薫が、とうとう彼女の居所をつきとめる。薫は、還俗し元の契りを結ぶよう手紙をしたため、浮舟の弟を使者として届けさせるが、返事はなく手ぶらで帰って来る弟の姿に、どうしていいかわからない。薫は、「誰かが、浮舟を隠しているのだろうか」と疑う。

物語はここで終わる。この結末が当時としては全くの異例であったことは小林秀雄も書いているが、現代の読者にとっても、その特異さはあまり変わらないように思える。

しかし、本居宣長は「源氏物語は完結している」とはっきり断言している。『本居宣長』第十五章で、小林秀雄は次のように言っている。

 

彼(本居宣長―筆者注)は、「夢浮橋」(「源氏物語」の最終巻)という巻名は、「此物語のすべてにもわたるべき名也」(『玉の小櫛』)と書いている。(中略)「光源氏の君といひし人をはじめ、何も何も、ことごとく、夢に見たりし事のごとくなるを、殊に、はてなる此の巻の、とぢめのやうよ、まことにのこりおほくて、見果てずさめぬる夢のごとくにぞありける」(中略)宣長がここで言う夢とは、夢にして夢にあらざる、作者のよく意識された構想のめでたさであって、読者の勝手な夢ではない。(中略)

式部の夢の間然する所のない統一性というものの上に、彼の「源氏」論は、はっきりと立っていた。此の物語の一見異様に見える結末こそ、作者の夢の必然の帰結に外ならず、夢がここまで純化されれば、もうその先はない。夢は果てたのである。

<新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.166>

 

紫式部の「夢」とは、どのようなものだったのだろうか。書くうちに、物語のほうから、結末を要求するような「夢」とは。

「紫文要領」で宣長が浮舟のことを書いた箇所は「本居宣長」にも引用されている。

 

「薫のかたの哀をしれば、匂宮のあはれをしらぬ也。匂宮の哀をしれば、薫のあはれをしらぬ也、故に思ひわびたる也。かの蘆屋のをとめも、此の心ばへにて、身を生田の川にしづめて、むなしうなれり、是いづかたの物の哀をも、すてぬといふ物なり。匂宮にあひ奉りしとて、あだなる人とはいふべからず、これも一身を失ひて、両方の物の哀れを全くしる人也」

(薫のもののあはれを知れば、匂宮のもののあはれを知ることができない。逆もしかりである。故に浮舟は思いわずらっていた。かの「蘆屋のをとめ」も、このような心だったために、身を生田の川に沈め亡くなった。これはどちらのもののあはれも捨てないということである。匂宮と契ったからといって、あだっぽい人であると言ってはならず、浮舟は、一身を失って、両方のもののあはれを完全に知る人である)

<同p.165、現代語訳:筆者>

 

両方のもののあはれを知るとは、少なくとも、感情に流されるままに道徳を忘れ、どちらの男にも逢うということとも、打算でどちらかを選び、どちらかを忘れようと決意することとも違うだろう。浮舟はただ、二十歳を超えているとはいえその幼い心と小さな体で、真剣に二人の男性の心を受け取ろうとした。それゆえに発狂してしまった、宣長はそう言っているように思えるのである。

 

さて、小林秀雄が「源氏物語」の浮舟の挿話について語り始めるその直前に、次の様な文章がある。

 

「此物語の他に歌道なし」と言った時に、彼が観じていたものは、成熟した意識のうちに童心が現れるかと思えば、逆に子供らしさのうちに、意外にも大人びたものが見える、そういう『此物語』の姿だったに違いない、と私は思っている。

<同p.165>

 

「此物語の他に歌道なし」の「此物語」はむろん「源氏物語」のことで、「源氏物語」はその自在な表現力で、物語の道を通して歌の道についても語っている、歌道を知りたければ源氏を読むことである、という宣長の思想を現しているが、ここで私が心を奪われたのは「大人」と「子供」の対比である。

光源氏は「よきことのかぎり」を集めて書いた、魅力的な「大人」である。そのような大人にも、子供のような逡巡があることは「本居宣長」本文にも描かれている。夕顔への執心、藤壺への断ちきれぬ思いなどがそうである。とすれば、「子供」のほうを代表するのは、浮舟ではないだろうか。浮舟は、もののあはれを知る「子供」として創作されたのではないか。「本居宣長」や「源氏物語」本文を読むうちに、私はその思いがしきりにしはじめた。

もののあはれを知る理想的な人間として光源氏を書いたのち、紫式部が書かなければならなかったのは、この世で持ちうるよきものをすべて所持し、誰にでも好かれるような源氏には程遠い、たいした取り柄も持たぬ子供のような女なのではなかったろうか。「よきことのかぎり」を集めて光源氏を創る無双の妙手は、やがて、性格のない浮舟を作り出す技術を発明したように思われる。

 

「夜中ばかりにや、なりぬらんと、思ふ程に、尼君、咳きおぼほれて、起きにたり。火影に、頭つきは、いと白きに、黒き物を被きて、この君(浮舟)の臥し給へるを、怪しがりて、鼬とかいふなる物が、さる業する、額にてをあてて、怪し、これは、誰ぞと、執念げなる声にて、見おこせたる、更に、たゞいま食ひてんとするとぞ、おぼゆる」−−―「いみじき様にて、生き返り、人になりても、また、ありし、いろいろの憂きことを、思ひ乱れ、むつかしとも、恐ろしとも、物を思ふよ。死なましかばこれよりも、恐ろしげなる、物の中にこそは、あらましか」

これだけの文章でも、熟視するなら、この全く性格を紛失してしまったように見える浮舟を、生き生きと性格附けているのは、式部の文体そのものに他ならぬと合点するだろう。

<同p.169-p.170>

 

どんなに完璧な大人にも、女々しい心は存在している。それが人間の本性であることを、紫式部は知っていたが、思うに、「源氏物語」を描くうちにいよいよ確信したのではないだろうか。物語を書くということが、彼女が日頃思っていたことを、さらに深く認識させたとしても不思議はない。もし、そうであるならば、「女々しい心だけを持つ人」がどんな風に振る舞うのか、描いてみたくなるのは自然ではないか。創作は常に実験である。Aという人物が存在し、Bという環境に置かれたなら、どういう物語が生まれるか。物語作家は、それを頭の中で練り上げるのではなく、物語を書くという実験によって考えるものではないだろうか。

「女々しい心だけを持つ人」として書かれる浮舟は、必然的に光源氏の死後に登場することになる。この二人の登場人物は、物語の制約上、同時には存在できないからである。もし同時に登場したら、浮舟は、ほとんど「見えない」存在になってしまう。また、光源氏と恋愛をさせるとしても、光源氏と並ぶ貴公子を登場させることはできず、浮舟は窮地に陥ることがないからである。光源氏が太陽なら、浮舟は月といえるかもしれない。太陽が沈み、夜の闇に包まれて、月の光は幻想的になる。そして、情そのものを生々しく表現するなら、浮舟はできるだけ性格の特徴を持たない人物であるほうが、都合が良い。作者の筆だけが、池の上の月光を浮かび上がらせるように描くのが、最も読者に伝わるのではないか。以上は私の想像に過ぎないが、傑作はいつも必然的な形をしているような気がするのである。

浮舟は、二人の男性との恋に否応なく翻弄されながらも、どちらの男性の「あはれ」にも引き寄せられ、現実的な解決をすることができないという役回りである。その、か弱く、はかない女童のようなこころは、道理をわきまえ、堂々としているように見える「大人」の情と、鏡に写したように同じ姿をしている、と小林は書いている。

 

紫式部は、深く心をこめて描いた光源氏の晩年を、省略することができた作家である。紫式部の「夢」とは、どのようなものだったかと考えるとき、私の心にまず浮かんだのはそのことであった。光源氏の晩年は、式部の「夢」ではなかった。彼女は「雲隠」という文章のない巻の「巻名」に、光源氏への思いのすべてをこめただろう。この物語の結末も、この類稀なる作家の「省略」によって創られたのではないか。

浮舟は、終盤になると、ただ一人の「もののあはれを知る」人物として、浮舟を愛する薫にさえ理解されぬ心を伴って、深く沈み込んでゆく。浮舟という月を取り巻く闇は、「もののあはれを知る」光のない、現実の闇にも例えられよう。誰にも理解されず、ゆえに誰にも助けられない。不完全でありながら、死ぬことさえできない。彼女は自力で現実を生きていくしかないのである。私たちも皆、そういう運命を背負って生まれて来たのではないか。そのようにも思わせる書きぶりである。

「人の、かくし据ゑたるにやあらむ」

  (誰かが、浮舟を隠しているのではないだろうか)

この、想像力に欠けた薫の言葉は、式部の織った「夢」である物語を醒ます、現実という名の「魔」のようである。薫のいる現実の側からは、物語を続ける手立てはなく、その必要もない。「もののあはれ」をなだらかに見せるための物語で、「もののあはれを知る」唯一の登場人物の心が離れてしまったとき、読者は本を閉じて、現実へ戻る他ないのである。もう一度始めから読みたくなるような、深い余情を持て余しながら。

宣長もこの類稀なる物語を何度も読み返し、自身の注釈を書き替えてきた。「玉の小櫛」では物語の終わりに際し、歌を一首残している。

なつかしみ またも来てみむ つみのこす 春野のすみれ けふ暮れぬとも

小林はこう書いている。

―作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。

(了)