山の上の家に通う道 ―「物の哀」を知るとは

心臓の鼓動が坂の途中でもう最高潮に達する、こうしてようやく小林秀雄先生の旧宅、山の上の家の裾までたどりつく。ハアハアとした息はみっともないと思うのだが、つい立ち止まって来た道を振り返りたくなる。竹林に覆われた坂には静かな空気が流れている。この道を日々の暮らしの中で上ったり下ったりしながら小林先生は様々な思いを巡らせてきたのかと思うと自分の中にじわじわと熱いものがこみ上げてくる。

そしていつも、静かな空気と鎌倉の匂いが私を幼い頃に連れて行く。その郷愁によって気持ちの高ぶりが一層強くなっているようだ。鎌倉の鶴岡八幡宮は私が七五三をしてもらったお宮さんである、四十年以上も経ってからその裏山をこうして息を切らしながら登る自分が不思議でならない。

 

私事であるが、それを話さなければ、私と小林秀雄先生とのつながりへ到達しない。

母と私の思い出の匂いのする鎌倉にまた来ようとは思いもよらぬことであったが、小林先生のことをこの塾で学び始めたばかりの駆け出しの私が、初めて「自問自答」したことは、

“「物の哀」を知る”

ということについてであった。

母は文学好きで一日の終わりに読書をしていた。トルストイやカミュなどの世界の名著を読んでいたかと思うと、團伊玖磨さんや佐藤愛子さんの軽妙なエッセイも好んで読んでいた。夕餉の支度を父にそろえるとゆっくりと晩酌をする父を居間に置いて、母は隣の部屋で読書をしていた。父の晩酌は二時間以上かかったし、よく同僚を引き連れて自宅で宴会をしていたから、母は働くだけ働いて、あとは少しの間、本を読むことを一日の至極の楽しみの時間としていた。夢中で読書する母に声をかけてもなかなか返事をしてくれない。私の手の届かない世界へ母は連れ去られていた。そんな姿をみて子供心に本の世界の魅惑とはどんなものだろうかと憧れを抱いた。読書は何はさておき、人から声をかけられても気が付かないほどに自分を夢中にさせる物であるという印象が私に植え付けられていた。そんな母だったから、幼少期は読みたい本があれば文句を言われずに買ってもらうことができた。母の真似をして、大人の仲間入りをさせてもらえたようで嬉しかった。

その読書好きな母は、短歌を作ることも趣味としていた。『神奈川新聞』の“神奈川歌壇”にせっせと投稿し、自分の歌が新聞に掲載されるだけでわくわくしたに違いない。鎌倉の瑞泉寺の花々を歌に詠んだ。時には自分の生活の憂さを晴らすために詠むこともあった。

だが、それだけではない、母は精神的苦悩を詩歌に込めていた気がしていた。

だから、「物の哀」という言葉を小林先生の「本居宣長」で読んだとき、特別な思いが私の中で引き寄せられたことは間違いない。外から見れば普通そうに見える主婦だった母が、父との生活の鬱憤を詠歌や読書で紛らわせていることは子供心に感じていた。

しかし、長い間、時には友人となり、時には姉妹となり、大きな愛情で育ててくれた母との濃密な母娘関係は、母の末期癌が発覚したことであっけなく幕を下ろすことになった。母がこの世を去ってから三年の月日が流れた。

 

人間は有限の命である。生命と名がつくものは有限の命である。母の死を、体のすべてで受け止め、骨の髄まで思い知らされていた。そんなことから、「物の哀」とは万物の生命が起源であると私は思っていた。しかし宣長は、まるで違うことを言っていた。

小林先生は、次のように書いている。

 

「事しあれば うれしかなしと 時々に うごくこゝろぞ 人のまごころ」と歌われている「まごころ」とは、「紫文要領」で考え抜かれた、人の心の「おのづからなる有りやう」なのだが、多様に錯雑する心の動きに即した宣長の分析を、注意して追っていくと、「わが心ながら、わが心にもまかせぬ物」たるところに、その驚くべき正体があるという、そういう所に、行着いているのが感得される。それが彼の「物の哀」論の土台を成している。―「是は悪しき事なれば、感ずまじとは思ひても、自然と忍びぬ所より感ずる也」という言葉にしても、この土台から発言されていると見てよいので、感情は分別を曇らせるというような忠告を、彼はしたいのではない。「まごころ」というものは私の命令などに決して従うものではない。その不思議に注目せよと言っているのだ。

宣長は「動く」「思ふ」「知る」「感ずる」という言葉を、その時その時で、同じ意味合いに使う。「物の哀をしる」とは「自然としのびぬ所より感ずる」事だ。「世にあらゆる事にみなそれぞれの物の哀はある」がそのどれを選ぶかは、私の自由だと言うような事はありはしない。私が「哀」を求めて、これを得るのではない。むしろ私が「哀」に捕えられ、「哀」をしらされるのだ。

(新潮社刊、『小林秀雄全作品』第28集71頁、『本居宣長」37章)

 

小林先生の緻密に考察された文章は、読んでいく者がその言葉のすべてに取り囲まれ、その世界へ連れ込まれる。本居宣長がそこに座って机に向かい、熱心に考えている世界に自分も一緒に居るような気持ちにさせられるのだ。自分の中には無い未知の部分の皮をはがされ、最後は刃物で抉られたように深く感じ入った所がある。以下に引用する。

 

我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引提げた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には当然、己れの意図や関心に基づいて、計算できる世界しか映じてはいない。当人は、それと気附かぬものだが。宣長が考えるのは、そういう自我が、事物と人情との間に介入して来て、両者の本来の関係を妨げるという事である。これは、宣長の思想の決定的な性質であって、学者の「つとめ」は道を「行ふ」にはなく、道を「考へ明らめる」にあるという、「うひ山ぶみ」で強調されている思想にしても、本はといえば、其処に発している。

事物と人情の間に、おのずから成立している親和がないところに、歌はない。これは彼の歌学を貫く一番大事な考えだ。

(同72頁から73頁)

 

人間には執着があり、自分都合というものを捨てられない。これは私に突き刺さる言葉だった。我執を捨て去り、計算づくではないと主張したところで、やはり人間は自分の思うとおりにしたいし、そのように生きている。完全に我執を捨て去ることができなくとも、自分と対象となる事物との間に強引に関係性を作り上げたり、理由をつくったりする。それが人間ではないのか。本当に精神の奥深いところまで薄皮をめくりすすめていけば、「物の哀」というものは、自分の思う通りではない場所からやってきて、思い知らされるのだという。それは、知覚でもなく、自覚でもない。自我でないところの何かに思い知らされるのだという。

 

とは言え私は、宣長の言う「物の哀」を知る境地に辿り着くまでの道のりはまだまだ遠いと自覚せざるをえない。この自覚は、母の思い出とともに父の思い出にさかのぼる。母に続いて一昨年、教師だった父は、満開の桜の日に亡くなった。父を病院から連れて帰る霊柩車の中から見た、桜の花びらが、ひとひらずつ、ゆっくりと散る様は私の目に焼きついている。桜の花びらを見ながら私は、父が入学式で生徒を講堂へ迎え入れる姿を思い浮かべた。今もその光景はリアルなのだ。だからどうしても私が感じる「物の哀」は、人間の“死”というものに結びついてしまう。外から“知らされる哀”ではなく、私は「哀」を実感として自分の中に重い大きな石のように抱えているのだ。そんな大きな実感の石を抱きながら、桜の花びらを見つめる気持ちにはなれない。宣長の言う「物の哀」を知るというのは、外から知らされ、捕われるのだから、私が本当の意味での「物の哀」を知るには時間の経過が必要かもしれない。

いまの私には、桜の花びらが散る景色を見つめる勇気もなく、その情景がただ怖いのだ。

しかしこの怖さも、宣長の言う「物の哀」なのかもしれない。“いや、まだ違う”と考えつつ、これから宣長の言う「物の哀」に私が出会えたとしても、それは言葉や文章に尽くしがたい“何か”なのではないかと自問自答している。

 

学びの入口に立ち、苦悩した私は、山の上の家の「自問自答」の質問台に立った時、塾頭から「余計なものを捨てて小林先生の文章には素直に、真っ直ぐに向き合いなさい」という示唆をもらった。人から受け入れてもらう、認めてもらうことは、人は誰しも嬉しいが、自分以外の考えを素直に受け入れること、素直に小林先生の思想を受け入れることがこんなにも心地よいことだったとは知らなかった。小林先生の言葉が胸にしみいり、時には突き刺さる。そうした経験は新たな気持ちで「物の哀」に向かう姿勢を教えてくれたような気がする。山の上の家への坂道を一歩ずつ登るように、これからも「自問自答」を続けていこうと思う。

(了)