「おのがはらの内にある物」

私は、新潮講座「小林秀雄と人生を読む夕べ」をしばらく受講したのち、コロナ禍の頃、山の上の家の塾に入塾しました。しかしながら、それまで通っていた講座の様子と全く違い、塾で交わされる『本居宣長』の自問自答のやりとりは、気高くそびえる遠い山並みから届く神々しい話に聞こえるばかりで、只々、懸命に耳を傾ける時間を費やしました。されど意を決し、入塾できた二度とない機会。「人生如何に生きるべきか」という、小林秀雄先生の生涯のテーマをもとに書かれた『本居宣長』から、少しでも自分ごととして、何か大切なことを受け取りたいと思い続け、約三年の月日が経った頃、ふと何かに掬い上げられるような不思議な感覚を覚えたのが、第二十四章にある、つぎの文章を読んでいた時でした。

―言語の問題を扱うのに、宣長は、私達に使われる言語という「物」に、外から触れる道を行かず、言語を使いこなす私達の心の働きを、内からつかもうとする。この考え方の結実が「詞の玉緒」という労作だと言える。言葉という道具を使うのは、確かに私達自身ではあるが、私達に与えられた道具には、私達にはどうにもならぬ、私達の力量を超えた道具の「さだまり」というものがあるだろう。言葉という道具は、あんまり身近かにあるから、これを「おのがはらの内の物」とし、自在に使いこなしている時には、私達は、道具と合体して、その「さだまり」を意識しないが、実は、この「さだまり」に捕えられ、その内にいるからこそ、私達は、言葉に関し自在なのである。そこに、宣長は、彼の言う「言霊」の働きを見ていた。そういう、言われてみれば、誰も承知しているという「低き所」に見ていたので、特に、「言霊」という高きに登らんとしたのではない。

(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集 272頁13行目〜、「本居宣長」第二十四章)

 

私たちに使われる言葉という道具は「おのがはらの内にある物」であり、その道具には、私たちにはどうにもならぬ「さだまり」がある。そういうしくみが成り立っていて、私たちの使う言葉に「言霊」という力が働いていると宣長さんは見ていた。小林先生は、宣長さんの思想を慎重に辿りながら、何かとても大事なことを論じられている。では、私たちの使う日本語という言語に仕組まれている「さだまり」とは何か。そして、その「さだまり」から生まれる「言霊の働き」とは何か。どうしたらその様相を捕えることができるのだろう。すでに「おのがはらの内」に備わっている物であるのに、その正体が一向に見えてこない。いかようにも掴みきれないジレンマ。それは日を追うごとに私を捕えて離さず、いつしか、幼い頃、夕暮れ時まで友達と遊んだあとの家路の、細長い小道に映る自分の影法師を踏もうとしても逃げられ、決して踏めない影踏み遊びで覚えた、あのもどかしい心境に包まれました。

小林先生は「言霊」について、『本居宣長』の中で、折にふれ、詳しく説かれていらっしゃいます。

―「言霊」という古語は、生活の中に織り込まれた言葉だったが、「言霊信仰」という現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのまま認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智慧だったので、特に信仰と呼ぶ様なものではなかった。言ってみれば、それは、物を動かすのに道具が有効であるのを知っていたように、人の心を動かすのには、驚くほどの効果を現す言葉という道具の力を知っていたという事であった。彼等は、生活人として、使用する道具のそれぞれの性質には精通していたに相違なく、道具を上手に使うとは、又道具に上手に使われる事だ、とよく承知していたであろう。

(同、第28集 45頁11行目〜、「本居宣長」第三十四章)

 

また、文字なき世に生きた古代の人々は、人の発する肉声を互いに頼り、信じて、健やかで豊かな暮らしを営んでいたとも綴られています。

―宣長は、言霊という言葉を持ち出した時、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生れた、という事、言葉の意味が、これを発音する人の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたという、全く簡明な事実に、改めて、注意を促したのだ。ココロの動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微妙なもので、話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思い通りにはならぬものであり、それが、語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような、「たましひ」を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである。

(同、第28集 171頁14行目〜、「本居宣長」第四十八章)

 

「言霊」とは、格式ある信仰儀式で願いを唱えるための言葉としてだけ登場するものではなく、むしろ、口誦のうちに生きていた古代人の肉声によって生まれた音に宿り、継承されたものであり、日々の無事安寧を願い暮らす人々の一音一音に込められたものなのだと伝えられています。

人間が言葉を持つようになったのは、遥か原始時代に「二足直立歩行」ができるようになったからだと考えられています。二足歩行を始めたことで口腔や喉に変化が生まれ、口腔内に広がった共鳴空間に声帯から呼気が送り込まれて複雑な発声をすることができるようになった。そのような生物学的進化を遂げて、人間は肉声で言葉をつくり、仲間と意識や考えを共有することを経験し、場の語らいを愉しみ、さらに文字を発明して、のちに文化と称されるものを後世に継承し蓄積するという知恵をも獲得して、人間の歴史を紡いできたといえます。

私たちの祖先は、と言えば、およそ四万年前に日本列島に出現したと言われています。では、その遥か昔、私たちの住まう島国の地では、どんな言葉の種がまかれ、どんな言葉の芽が育っていったのか。

大陸を隔てた日本列島は、地震や火山活動などに見舞われる厳しい環境でありながら、美しい四季の移ろう中、豊かな循環をめぐらす水流と多様な植生の広がる山々に恵まれた島国。その豊潤な大地は、縄文時代や、更に遡って旧石器時代の先人たちに、争いごとより人間性を涵養する素養を授けてくれたのでしょう。その森羅万象から届くさまざまな音を模倣しながら、仲間内の交わりを愉しみ、言葉という道具を工夫していった、当時の人々の光景が想像されます。その痕跡につながるかもしれない興味深い説があります。

日本語の特徴の一つは、ほぼすべての音節が母音で終わる「開音節」の言葉であり、世界の他言語を見渡すと、いわゆる「母音語族」に属するのは、日本語とポリネシア語のみであるとされています。医学博士の角田忠信氏が、その日本語の母音の音の働きに着目し、話者の脳内では、周囲から聞こえてくる音が他の言語話者とは異なる処理がなされていることをご著書『日本語人の脳』の中で説いています。開かれた響きをもつ母音の「開音節」は、繊細さや曖昧さといった日本人特有の感性を育てたという、言霊のルーツに触れるような話です。

和の心に通じる大和言葉は、森羅万象の対象物に親しみを込めた眼差しを向け、あるがままの様子を表現しようと母音の素朴な響きを駆使したもの。例えば、川の流れは「さらさら」、雷の音は「ごろごろ」といったオノマトペなど、柔らかな音そのもので、対象物への感情移入がしやすくなる。母音との親和性を大切にしながら自然界の事物・事象を表現することで、意識の中に言語と情緒と自然が混然一体となる働きが生まれ、日本文化独特の世界観を創り上げていったというのです。またそこには、大陸文化の波風に対し、対象や風景を「共に眺め、思いを分かち合う」という、大和言葉の根底に潜む、したたかな独自の精神のこだわりが見えてくるとも言われています。四季折々の風情を愛でながら、共に語らい、飲食を楽しむ日本の伝統的慣習は、同じ対象を愛おしみ、言葉を交わすことで、他者の思いやこころを感じ、何かに共感する喜び、また同時に、互いの違いを知り、互いを尊び、面白がる喜びを知る情緒を育てる。そして、そこに醸成される間合いの美とも言える空気を感受しながら、新たな視座を捉えようとする至高を目指す精神が生まれる。私たちの先人たちの、長い年月のこころの葛藤と交流の積み重ねによって、日本の精神文化は丁寧に創り上げられてきたと語られています。

このように、厳しくも豊かな自然環境の中で、共により良い暮らしを送ろうと苦心してきた先人たちの魂のほとばしりが、きっと日本の言葉の一音一音に織り込まれているのでしょう。そして、きっとそれが言霊の始まりであり、言霊の「さだまり」となるもの。今日まで継承されているその言語の使い手である私たちは、そのさだまりのある言葉に育てられ、護られている。一方で私たちは、そこに内包している精神性や価値観を引き継いでゆかなくてはならないのでしょう。

おのがはらのうちにあると諭された「さだまり」を、僅かながらも捉えられたようでもあり、言霊は常に言葉のうちに宿り、使い手の私たちがこころを働かせれば、こちらを向いてくれるものだということが腑に落ちた気がしました。

私のこころに投じられた影法師を巡る自問自答の旅は、上古の人々が、自らの肉声で言葉という道具を試作し、そこにより善く生きるための力を宿したという歴史があったこと、そして時を超え、いまもその言語の力を受け継いでいることを知るという、感謝の思いに満ちた、かけがえのない時間となりました。

 

(了)