「もののあはれを知る」と「あだなる」

ここ数年、小林秀雄の『本居宣長』を読んでいるが、中でも『源氏物語』に関する叙述に惹かれている。今回は、その第十四章で言われている「『物のあはれを知る』と『あだなる』とは別事であるという宣長の答えは、『情』と『欲』との考えを混同してはならぬ、という考えの延長線上にある」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集154頁6行)とはどのようなことを言っているのか、私なりに「情」と「欲」、および「物のあはれを知る」と「あだなる」ということを中心に考えてみた。

 

まず、「情」と「欲」とはどう違うのであろうか。

『小林秀雄全作品』第27集152頁に、宣長の『あしわけをぶね』からの引用がある。

 

欲バカリニシテ、情ニアヅカラヌ事アリ、欲ヨリシテ、情ニアヅカル事アリ。又情ヨリシテ、欲ニアヅカル事アリ。情バカリニシテ、欲ニアヅカラヌ事アリ。コノ内、歌ハ、情ヨリイヅルモノナレバ欲トハ別也。欲ヨリイヅル事モ、情ニアヅカレバ、歌アル也。サテ、ソノ欲ト情トノワカチハ、欲ハ、タダネガヒモトムル心ノミニテ、感慨ナシ、情ハ、モノニ感ジテ慨歎スルモノ也。恋ト云モノモ、モトハ欲ヨリイヅレドモ、フカク情ニワタルモノ也

 

宣長は、欲だけで情に関与しない事があり、欲から出て情に関与することがある、また情から出て欲に関与する事があり、情だけで欲に関与しないことがある、と言っている。

また、「欲はただ願い求める心だけで感慨がなく、情は、ものに感じて慨歎するもの」ということなので、欲は「実生活の必要なり目的なりを追って、その為に、己を消費するもの」であり、自分の目的や欲求を達成しようとする心の動きや実行に移すことを指すと言える。

一方、情は、その特色はそれが「感慨」であるところにあり、153頁6行目に、

 

「情」は己を顧み、「感慨」を生み出す。生み出された「感慨」は、自主的な意識の世界を形成する傾向があり、感動が認識を誘い、認識が感動を呼ぶ動きを重ねているうちに、豊かにもなり、深くもなり、遂に、「欲」の世界から抜け出て自立する喜びに育つのだが、喜びが、喜びに堪えず、その出口を物語という表現に求めるのも亦、全く自然な事だ。

 

とあるように、情は、「あはれ」という深い感慨を伴うもので、ものに感じて「あはれ」を認識していく、認識することによってまた「あはれ」を感じていくという心の動きが深まるうちに、「欲」の世界から抜け出て、「情」の段階に達することが「もののあはれを知る」ということで、その表出が歌であり、物語である、ということを言っているのだと考えた。

 

次に、「もののあはれを知る」と「あだなる」(「あだなる」は誠意がなく浮気であるようなあり方)とは別事である、ということに関してであるが、まず153頁に『紫文要領』からの引用があり、質問者と宣長との問答が紹介されている。

 

物語は教誡の書ではないのであるから、「儒仏の道」や「尋常の了簡」からすると善悪の評価にはあずからぬものだ。「ただ人情の有りのままを書しるして、みる人に、人の情はかくのごとき物ぞ」といふ事を知らする也、是物の哀れをしらする也」、それが物語の道であるという説は承知したが、それならば、紫式部の本意は、「物のあはれしるを、よき人とし、しらぬを、あしき人とす」という事になる筈だが、それがよく合点出来ないと質問者は言う。何故かというと、「源氏」の「巻巻に、ひたすらあだなるを、あしき事にいひ、まめなるを、ほめたる心ばへのみ見えて、あだなる人を、よしとする心は見えず、いかが」宣長答えて言う、「あだなるをよしとするとは、たれかはいへる。あだなるを、いましむるは、尋常の論はさらにもいはず、物語にてもいはば、あだなるは、物の哀しらぬにちかし。されば、いかでそれをよしとはせむ。まへにもいへる如く、物のあはれをしると、あだなるは別の事にて、たがひにあずからぬ事也、但し、物語の本意は、まめなるとあだなるとは緊要にあらず。もののあはれをしるとしらぬが、よしあしの緊要関鍵なり。

 

つまり、「もののあはれをしる」と「あだなる」こととを質問者は混同していて、例えば『源氏物語』に描かれた様々な恋愛の事象を、一般の読者は「あだなる」と捉え、それと「もののあはれ」を直結して考えていることに宣長は異議を唱えているのであろう。

156頁からは「夕霧」の巻が紹介され、

 

物の哀をば、いかにも深くしりて、さて、あだあだしからぬやうにたもつを、よきほどといふ也。物の哀をしればとて、あだなるべき物にもあらず、しらねばとて実(まめ)なるべき物にもあらず。されど、そこをよくたもつ人はなきものにて、物の哀をしり過れば、あだなるが多きゆへに、かくいへる也。

 

とあるように、「物の哀れを知り過ぎれば、あだなることが多くなるため、そのような誤解が生じる」とも宣長は述べている。

「帚木」の巻の雨夜の品定めで、「あだなる」と「まめなる」を男たちは話題にしている、しかし、源氏は、居眠りをしていて、人々の話に無関心で、藤壺の人柄を一人思っている。

世間というものは、物事のよしあしを「まめなる」か「あだなる」かによって区分けしようとする。しかもその評価の基準を物語の世界にも持ち込んでくる。だが宣長は、物語というものは「まめなる」か「あだなる」かの議論をしようとするものではない、「もののあはれ」というものを事細かに描こうとするものなのだ、と言う。

「あだなる」ことであれ「まめなる」ことであれ、いずれにもせよそこにある「情」や「もののあはれを知る」心の在りかたを描くことが「物語の本意(本質)」であり、宣長は、『源氏物語』は人間がさまざまな局面、出来事で感じる「あはれ」を物語という形に調えることにより、人間とはどういうものか、人の心とはどういうものか、ということを表現しているということを言いたかったのである。

当時は『源氏物語』に対して、様々な恋愛事情を描いて人間の欲や「あだなる」様相を肯定、あるいは奨励すらしているという誤解がおそらく多く、それに対する宣長の反論という意味も大きかったのではないだろうか。『本居宣長』の引用文を通して、宣長が生きた時代に一般の人々が『源氏物語』に抱いていた評価と、それに対して「もののあはれ」が描かれている、という新しい評価軸を打ち出した宣長の思想との対比を改めて確認することができた。

(了)