天武天皇と稗田阿礼

今から約一三〇〇年前、天武天皇、稗田阿礼、太安万侶という三人の傑物が同時代を生き、日本最古の歴史書である『古事記』が誕生した。その中で一際異彩を放っているのが稗田阿礼である。男性なのか女性なのか、そもそも実在していたのかいなかったのかを含め、阿礼に関して分かっていることは今のところほとんどない。『古事記』成立のために欠くべからざる存在であったにもかかわらず、謎の多い稗田阿礼とはいったいどのような人物なのであろうか。

 

阿礼の存在を示す唯一の記述は『古事記』の序である。本文より、

 

「時に、舎人とねりあり。うぢは稗田、名は阿礼、年はこれ廿八にじふはち。人となり聡明にして、目にわたれば口にみ、耳にふるれば心にしるす」

 

若くて聡明な天皇へのお仕え人。ひと目見れば暗誦し、一度聴けば記憶するというのだから並外れた能力である。

 

「すなはち、阿礼に勅語みことのりして、帝皇の日継ひつぎおよび先代の旧辞きうじみ習わしめたまひき」

 

天武天皇が阿礼に命じて、歴代天皇の皇位継承の記述および日本の歴史資料を誦習よみならいさせたというのである。ここで出てきた「誦習」という言葉は多くの人にとっては馴染みのない言葉であろう。この誦習とは一体何を意味するのか。歴史学者の津田左右吉は先ほどの阿礼の聡明さを表した記述を、ただの博覧強記の学者であるという程度に取り、阿礼の暗記力というものにそこまで重きを置いていなかった。そのため阿礼の仕事は記憶することではなくむしろ解読することであり、つまりテキストを前提とした仕事であるという態度をとった。これに対して本居宣長は、『古事記』序に書かれている通り、阿礼を大変な暗記力を持った学者であると解し、天武天皇の読み上げる言葉を音声として記憶するという意味で取っている。

 

そもそも『古事記』成立に向けての動きは、天武天皇が天武紀十年(681年)に詔を出し、『古事記』の編纂へんさんを宣言したことにより始まった。なぜ天武天皇はそのような決断をしたのか。その理由には、壬申の乱を平定した英雄天武天皇による、多くの氏族に対する強力な支配と理念の宣言という政治的な意図ももちろん含まれるが、その根本のところには天武天皇の「哀しみ」があったと本居宣長は言う。それは失われゆく古語ふることに対する哀しみである。

 

言葉というものは、その地に住む人々の歴史や風土、文化や精神など全てを内包している。そして一人格を有しているような、生きた総体である。日本人という国民性が日本語という言語に表れているのと同時に、私たちが使う日本語は私たちを日本人たらしめていて、それだけ言葉というのは人間になくてはならないものだ。日本人が日本語を使うとき、自身の中にある日本人としてのアイデンティティが言葉という形になって現れる。そういった、人間の内にある「こころ」の外への現れとしての出来事、本居宣長はそれを言葉の「ふり」と呼んだ。

 

ところが、天武天皇の時代、当時の官人の公的な文章は、漢文体が基本となっていた。エリートは漢文を扱うことが必須であり仕事は常に漢文である。そのため当時の日本には漢文偏重・日本語軽視という時代の雰囲気があった。日本語の存続の危機が到来していたのである。詳しく言えば、漢字漢文が輸入される前の、古くから日本人が使っていた本来の「ふり」を伴った清らかな古語が、日本から消失してしまうという極めて深刻な危機である。

 

日本人にとって漢字との出会いは、それまでに類を見ない事件であった。もともと日本は文字というものを持っていなかったため、使われていた言葉は全て口語である。当然話し言葉なので話したそばからその存在は消え、言葉を記録する術を持っていなかった。そうなると、その地域において後世に伝えるべき歴史や民話、祝詞は口承伝達でのみ引き継がれる。日本人はそうして記憶を繋いできた。そこに中国から漢字漢文が伝わり、文字という「姿」を持った文語の表意性、また記述すれば地域や時間を超えて伝わるという利便性に、日本人は大きな衝撃を受け、また酔いしれてしまった。漢文は瞬く間に広がり、それとともに日本人がそれまで持っていた古語は、日本人の中でいつしか消失していき、時代が進むと、本来の古語というものは天武天皇を除いて誰も知らないというところまで、日本語は追い詰められたのである。つまり天武天皇は、かつての日本人ならば誰しもが共有していた「古語のふり」を摑んでおり、古言ふることの世界の持つ美しさ、また古言によって「私」が証せられる豊かさを知る、ただ一人の人物ということになる。だからこそ天武天皇は哀しんだ。自分が亡くなった時、それは清らかな古語が日本から完全に消失することを意味していて、これから生まれてくる日本人は未来永劫、日本の「原色」というものを知らぬまま生きるという悲劇、また大変な困難を強いられなければいけないということとなる。なんとかして自分の中にある古語を後世に伝えなければならない、天武天皇の願いは切実であった。その使命感が、『古事記』という国家の一大事業を興したのである。

 

『古事記』編纂に当たって天武天皇は、全国から資料を集め、帝紀と上古の諸事の記定きていを進めるよう臣下に指示し、それと同時に天武天皇自ら『古事記』の元となる「帝紀・旧辞」の討覈とうかく、訂正、撰録を進められた。つまり天武天皇自身が集まった資料をひとつにまとめ、日本で唯一となる天皇のお墨付きを得た歴史資料である定本「帝紀・旧辞」を作り上げたのだ。この本の完成には四年もの時間が費やされた。

 

ここでようやく稗田阿礼の出番である。阿礼の役割は、残された時間の少ない天武天皇の中にある古語を受け継いで絶やさないことであり、天武天皇は阿礼に対して「帝紀・旧辞」の言葉を読んで聞かせた。それも書かれていることをそのまま音読したわけではない。この「帝紀・旧辞」は古字が多くて読みづらく、また各氏族から集めてきた資料であるため、はなはだ不揃いなものであったことが予想される。『古事記』として均整のとれた書物にするため、何より天武天皇の中にある清らかな古語を後世に伝えるため、天皇は「帝紀・旧辞」にある言葉を咀嚼して自身の言葉として阿礼に語った。

 

ここで再び、「誦習」の問題を考える。これまでの話を踏まえると、この『古事記』編纂の目的は古語を後世に伝えることであり、それは「からのふり」の混ざらない清らかな古語でなくてはならない。その清らかな古語が持つ「古語のふり」は漢文を用いた時点で、「漢のふり」が混じった偽物となってしまう。だから天武天皇は書き言葉から話し言葉への変換を行い、「帝紀・旧辞」の言葉に清らかな古語としての命を吹き込んだ。その清らかな古語は読み聞かせを通じて阿礼の中にうつるが、保存はあくまで過程であり、自身の中に息づく古語を再生することができて初めてその仕事は完遂する。阿礼自身の言葉に天武天皇の唱えた清らかな古語としての命を再び吹き込むのである。つまり、話し言葉としての再生を前提とするならば話し言葉として記憶する必要があり、再生に際してテキストが介在しては元も子もない。誦習は阿礼の暗誦と一体である。

 

天武天皇は、誦習を通じて、自らの中にある清らかな古語を阿礼の中にうつすということを続けたが、その言葉は書物になることはなかった。『古事記』序に言う、

 

「しかれども、とき移り世かわりて、いまだその事を行ひたまはざりき」

 

天武天皇が崩御し、阿礼誦習の「帝紀・旧辞」は阿礼の口に残ったままとなってしまった。天武天皇は生前、『古事記』完成を見届けることはできなかったのだ。そしてそのまま『古事記』編纂の事業は止まってしまう。天武天皇の崩御以後、律令の制定や新通貨発行など3度の皇位継承が行われる中で当代の天皇が自身の政策に注力したことも原因ではあるが、何より発起人でこの事業に一番の情熱を燃やしていた天武天皇がかむあがりましたことが大きいのであろう。

 

停滞していた『古事記』編纂事業は、和銅四年(711年)九月元明天皇の詔勅によって再び大きく動き始める。宮廷専属の文人学者であり壬申の乱の勲功者でもある太安万侶に白羽の矢が立ち、稗田阿礼とともに撰述を始める。この時、諸説あるが阿礼は推定五十四歳で、天武天皇による誦習から実に二十五年もの長い時間が経過していた。しかし阿礼はこれだけの時間が空いているにもかかわらず、確かに「古語のふり」を摑んで離すことはなかった。阿礼は安万侶の前で天武天皇の言葉を唱えることができたのである。そして阿礼の神業を前にして、安万侶は阿礼の古語をなんとかして記述しようと苦心した。この行為は天武天皇が行なったことと正反対の働きであり、つまり阿礼の唱える清らかな古語を、「漢のふり」が混じることなく、それでいて『古事記』という体裁の整った一冊の書物として、読者が読めるよう本文を記定することである。それは今まで誰もやったことのない、安万侶による全く新しい発明を要する大変難しい仕事であった。しかし、安万侶は独自の表記法を編み出し、それにより漢字でありながら漢文体をそのままに借りることなく、古語・古意を記述することができた。これは日本語における漢文との長年の格闘の結実であり、漢字漢文をそのままの形で使うのではなく自国語として消化してしまうという、世界史における稀代のブレイクスルーでもあった。こうして和銅五年(712年)正月二十八日に『古事記』は元明天皇に撰進され、天武天皇の悲願が、三十一年という長い時間をかけてようやく実現したのだ。

 

ここで注目すべきは元明天皇の詔勅が出てから『古事記』を撰進するまでの時間である。その間わずか四ヶ月、素人目にも早すぎはしないだろうか。安万侶の仕事の困難さと分量に、四ヶ月という数字はあまりにも見合わない。なぜこんなに早く終わったのか。

 

このことに関して本居宣長はどのように考えているのか見てみよう。彼はこの部分において『古事記伝』の注釈に、「余計な作為を加えず、阿礼の言葉をそのまま書きうつしたからだ」と加えている。宣長は、まず「なべての地を、阿礼が語と定めて」、仕事を始めた人だ。彼は阿礼が語る言葉は天武天皇の言葉であると信じ、その道をまっすぐに進んだからこそ『古事記』の声が聞こえ、それまで誰も読むことができなかった『古事記』を読むことができたのである。その宣長がこの説明で十分だとした。その実感が、分からない。彼のことを少しでも分かりたい一心で『古事記伝』を開くと、先に挙げた「誦習」の一文に宣長はこのような注釈を加えている。

 

「令誦習とは、旧記ふるきふみまきをはなれて、そらによみうかべて、其語をしばしば口なれしむるをいふなり」

 

ご覧の通り宣長は、「誦む」という言葉に「うかべる」という言葉を付け加えて意味を膨らませている。さらに調べると、「訓方よみざまの事」という章において宣長は「誦」という一字に対して「ウカベる」というかなを振っている。ここに誦習という言葉における宣長の語感がはっきりと感じられたような気がした。誦習というのは、側から見れば天武天皇が阿礼に古語を読み聞かせていて、それは現象として間違ってはいないが、その実当人たちにとっての感覚は、天武天皇が自身の心に映じた『古事記』の映像世界を、ふたりの前に投影させている、と宣長は見たに違いない。宣長が『古事記伝』の当該の本文において「うつす」という言葉に漢字を当てない理由は、それが「移す」であり、また「映す」であって「写す」であるからだと思われる。阿礼は安万侶の前で、天武天皇がやって見せたのと同じように『古事記』の世界を浮かべて見せた。安万侶はその世界をそのまま書き写した、目の前に広がる景色をありのままにスケッチしたのだ。浮かんでくる世界と描かれるものの間に違いが生じぬよう注意を払いながら、次々と書き留めていくことで『古事記』は完成した。安万侶の仕事における創造性はその点において発揮されたのである。四ヶ月で終わったことに対する宣長の言葉の真意はそこにある。

 

安万侶は『古事記』序で阿礼の唱える古語を指して、「言意ことばこころ並にすなほ」としている。これは安万侶が阿礼の古語に触れて得た実感の告白である。この言葉に対して宣長は、「阿礼が誦る語のいと古かりけむほど知られて貴し」として、確かに阿礼の言葉は天武天皇の唱えた清らかな古語であった、という感慨を込めている。そして宣長にも彼らが見ていたように『古事記』の世界が見えてきた時、きっと今までにない感動を覚えたことであろう。彼の格別の喜びと畏敬の念は、「これぞ大御国の学問ものまなびの本なりける」という言葉に凝縮されている。天武天皇と稗田阿礼の目に映じた古言の世界はこうして時代を超えた。それは『古事記』を読む私たちの目の前にも開けている。

 

[参考文献]

新潮日本古典集成『古事記』(西宮一民校注) 新潮社

本居宣長全集 第九巻 筑摩書房

(了)

 

二十二歳の所感

僕がはじめて小林秀雄の名前を知ったのは高校2年の冬です。2013年のセンター試験において小林秀雄の「つば」が出題されたのですが、これは国語の受験業界に激震が走った事件でもありました。試験翌日の古典の授業で、先生がそのことについて熱心に語っていらした思い出があります。高校時代までの僕は部活オンリーで読書習慣など全く持ち合わせていませんでしたから、その時、小林秀雄という名前だけ知ってそれっきりでした。そういった文豪の名前は知ることはあれど実際に読むことはなく、この先そういう機会があることも、当時は考えられませんでした。

 

しかし僕はいま、運命の巡り合わせによって「小林秀雄に学ぶ塾」へ通っています。初めは小林秀雄旧宅という建物の荘厳な佇まい、集う雅びな大人の方々、そして小林秀雄を読むという塾のぴりりとした緊張感に19歳の青年は完全に気圧されていました。加えて塾頭と塾生の言っていることが全然理解できない。入塾当初に比べればいくらか見通しは良くなりましたが、まだまだ分からないことは多いです。しかし、塾に来るたび「分からないけど、何かすごそうなことを言っているぞ」というような直感と感動がないまぜになった感情を覚えるのです。これが塾に通うようになった大きな動機です。分かったとか分からないとかということも大切ではあるのですが、何よりも塾に来てその学びの空気を体いっぱいに感じることそれ自体が、とても意味のあることのように思えるのです。

 

この学ぶ塾にて塾生が行うことは、小林秀雄著の『本居宣長』を読んで「質問」することです。質問と言っても好きな食べ物は何かというようなことではありません。質問という言葉について、『小林秀雄 学生との対話』(新潮社)の中に次のような言葉があります。

 

「実際、質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。僕は本当にそうだと思う。ベルグソンもそう言っていますからね。僕ら人間の分際で、この難しい人生に向かって、答えを出すこと、解決を与えることはおそらくできない。ただ、正しく訊くことはできる。

だから諸君、正しく訊こうと、そう考えておくれよ。ただ質問すれば答えてくれるだろうなどと思ってはいけない。『どうしますか、今の、現代の混乱を?』なんて問われてもどう答えますか。質問がなっていないじゃないか。質問するというのは、自分で考えることだ。僕はだんだん、自分で考えるうちに、『おそらく人間にできるのは、人生に対して、うまく質問することだけだ。答えるなんてことは、とてもできやしないのではないかな』と、そういうふうに思うようになった。さあ、何か僕に訊いてみたいことはありますか」

 

はい、いの一番に手を挙げたくなる。この人なら、誰にも聞けず、胸に秘めていた質問に答えてくれそうだ。この学ぶ塾において、質問者は「うまく質問する」ために労を惜しまず作品に向き合い、質問を仕上げます。塾頭もその本気さに応じ、質問に関するお話をされる。質問の出来を激賞されることもあれば、手厳しい指導をされることもしばしばです。早い話が道場です。ある方は質問を一刀両断された後の懇親会で、「幸せな時間であった」と語っていらっしゃいました。歳を重ねるほど、自分に対して真剣になってくれる人がどれだけ貴重なことか。ありがたさが身に染みるという様子が伝わる言葉として印象的でした。この学ぶ塾は、小林秀雄の著書『本居宣長』を、小林秀雄自身が執筆に費やした時間と同じ、12年6ヶ月かけて読もうとしています。えらい計画なのですが、それだけ腰を入れて取り組む価値のある作品なのです。質問道もそれだけ奥が深いのです。

 

僕は、『本居宣長』の文中に出てくる「誦習」という言葉をめぐって質問を作りました。「誦習」とは、簡単に言うと「古事記」の編纂を勅命した天武天皇が、臣下である稗田阿礼に「古事記」の元となる資料を読んで聞かせ、暗誦させたことを表しています。この天武天皇の唱えたお言葉が「古事記」の元になったのです。阿礼が暗唱するお言葉を、文字に起こして「古事記」という本の形にまとめた人物が太安萬侶であり、その安萬侶が「古事記」編纂の経緯について記述した「古事記序」において、「誦習」という言葉をただ一度だけ使っています。「古事記」の研究をした本居宣長がこの言葉に着目し、その宣長がなぜ「誦習」を大切にしたのかということに関して、小林秀雄は『本居宣長』の文中で丁寧に語っています。この小林秀雄の言葉を読んで感動したことが僕の質問の出発点です。『本居宣長』を繰り返し読むことで、この言葉を中心に置いた全体像はある程度見えてきました。しかし、肝心要の「誦習」という言葉そのものに対するイメージが自分の中でまだ摑めていないところがあって、質問としてはいまいちピンボケしているような状態だったのです。小林秀雄で分からないなら本居宣長に直接聞くしかないな。こうして『古事記伝』を開きました。

そして『古事記伝』を読みこんでみて、最終的に出来上がった質問が以下の通りです。

 

―宣長が稗田阿礼の「誦習」を大切にしたことについて考えたいと思います。「古の実のありさま」とも言うべき、古言の世界は、会話の上に生きているものであり、それでもなんとか文字にして後世に伝えたく、苦心した天武天皇は、まず阿礼の内に、自身の中にある古言をうつし、阿礼という人の口から発せられた言葉を、その姿そのままに書きうつさせようと考えた。阿礼は「誦習」によって、天武天皇が保持しつづけていた古来の言語世界に習熟した、すなわち阿礼の口から出た言葉は、天武天皇の唱えた貴き古語そのものであり、そのことを伝える太安萬侶の言葉を、宣長はまっすぐに信じたのではないでしょうか。……

 

ご覧いただいたように、質問というのは、長い時間をかけて本と向き合うことで、自分の感動を認識する経験であります。「小林秀雄に学ぶ塾」において、質問は、ただ問うだけでなく「自問自答」という形になるまで練り上げる必要があり、この自答にその認識の練度が表れます。この認識とはつまり自分を知るということにほかなりませんね。身の周りの全ての物事が自分を知るきっかけになるとは思うのですが、自分がどんなことに感動し、どんなことを考えるのか、質問とは長い時間をかけて、己を深く知る経験でもあります。当初は思いもよらなかった感動が突然訪れ、そして感動している自分に出会う。己を見つめ上げたと言えるまでに、この認識を極限まで研ぎ澄ませた質問が美しい。小林秀雄が「本当にうまく質問ができたら、もう答えはいらない」と語るのは、真の言葉なのです。

 

この、塾での質問は、非常に時間と労力を要する根気のいる作業です。自分の質問が近づくと1か月前から気が重いです。そしてこの塾は、カルチャーセンターではありません。明日から役立つ生活の知恵を教えてもらうというような、そんな即効性もお手軽さも期待しない方がよいです。それでも人が集うのです。学ぶ塾にはコミュニティとしての一面もあり、そこで得られる恩恵もあることは確かですが、それが一番の理由では継続して通塾できません。何よりの理由として、現代において「質問」という行為を通じ、好きで学問をやっているという、その純粋な営みに魅力を感じる人が多いからこそ、塾の今日があるのだと思います。世代も背景もばらばらな人間がその道場に通って勉強する。まさに学ぶ塾は「人生の鍛錬」の場であると実感しております。

(了)