折口信夫氏の大森駅での呼びかけ

「本居宣長」には、その冒頭から、この書の成立に関わる、一大事件が記されています。「本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが『古事記』をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の『古事記伝』でと思い、読んだ事がある」と、小林秀雄先生はまずそう言います。ところがその道の信頼すべき大家である折口信夫氏宅を訪れると、折口氏は「古事記伝」に批判的であった橘守部の説を持ち出すなどして煮え切らず、小林先生自身も「話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の『古事記伝』の読後感を、もどかしく思った」上に、別れ際に折口氏から、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」という、気迫のこもった言葉を投げかけられ、恐らくは「古事記伝」を軸にして本居宣長を描きたいというねがいを胸に折口氏を訪ねた小林先生の目論見は、折口氏のこの言葉によって宙吊り状態になったように見えます。

私には、折口氏はこの別れ際の言葉で、何を小林先生に伝えたかったのか、という疑問がずっとありました。そしてこの言葉が、小林先生の訪問への折口氏の応答だとすると、その問いであるはずの小林先生の「古事記伝」の読後感が、「一向に言葉に成ってくれぬ」のはなぜか、「それが、殆ど無定形な動揺する感情であることに、はっきり気附いたのである」という文章は何を意味しているのかという疑問が、さらに湧いてきました。

 

以前、山本学さんの朗読で聞いた「無常という事」(小林秀雄エッセイ集 キングレコード、原文は新潮社刊「小林秀雄全作品」第14集所収)に、「先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線を辿るように心に滲みわたった。そんな経験は、はじめてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか」という一節がありました。その短文とは、ある若い女が「ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へと申すなり」という文ですが、山本学さんの朗読の効果もあってか、なま女房が深夜に鼓を打ちながら、巫女の姿でうたう様子が浮かび、ゾッとしながら聞いたことを思い出します。

小林先生が折口氏宅で気づいた「殆ど無定形な動揺する感情」というのも、あの比叡山での「ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがしつづけた」、あの時と同じものだったのではないでしょうか。比叡山での経験について、「僕は、ただある充ち足りた時間があったことを思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」があったのだと書かれています。小林先生は、あの時に「実に巧みに思い出していた」ものこそが、歴史というものではなかったかと自問しています。その先で「歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映ってくるばかりであった」と記して、「『古事記伝』を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ」と語ります。そして、この「解釈」から逃れるには、非常に難しいが、「心を虚しくして」「上手に思い出す」ことが、唯一のやり方であると記します。

小林先生が折口氏宅で、言葉にならなかったのは、「解釈を拒絶して動じないもの」を、「上手に思い出す」ことができない状態であったからではないでしょうか。

 

昭和二五年二月、小林先生は折口信夫氏に招かれて、対談をしています。「古典をめぐりて」という題で、国学院大学から刊行された雑誌『本流』に掲載されたものですが(同第17集所収)、ここで二人は宣長と「古事記伝」についての感想を述べています。

 

小林 僕は伝統というものを観念的に考えてはいかぬという考えです。伝統は物なのです。形なのです。妙な言い方になりますが、伝統というものは観念的なものじゃないので、物的に見えて来るのじゃないかと思うのです。本居宣長の『古事記伝』など読んでいて感ずるのですが、あの人には『古事記』というものが、古い茶碗とか、古いお寺とかいう様に、非常に物的に見えている感じですな、『古事記』の思想というものを考えているのではなくて、『古事記』という形が見えているという感じがします。

折口 宣長のしたところを見ると、漠然と出来ている『古事記』の線を彫って具体化しようとして努力している。私等とても、そういう努力の痕を慕い乍ら、彫りつづけている。だが刀もへらも変わってきた気がする。も一度初めから彫りなおしてもよいのではないかという気もします。

 

小林先生が折口氏の自宅を訪ねたのは、昭和二十五、六年であったと言われていますが、その少し前に行われたと思われるこの対談では、二人の宣長への評価と「古事記伝」の理解の仕方は、同じ方向を向いているように感じられます。さらに対談の「批評」についての話し合いの中で、折口氏は小林先生にこのように問いかけます。

 

折口 一つお暇なときに、何か解釈に堪える力のある、豊かな作物の、何か古いものの研究を聞かして頂きたいと思います。どうか、もう一遍都合をつけて頂きたいものです。今まで誰も考えたことのない新しい註釈事業が出来そうなものだと思うのです。

 

この折口氏の言葉は、刀もへらも変わってきている今、国学研究者とは全く違う小林先生の彫刻刀でもって、初めから彫り出してくださいと、折口氏が依頼していると考えるのは思い過ぎでしょうか。折口邸での二人のやりとりが、この対談を踏まえたものだったとすると、折口氏は小林先生が、「古事記伝」の読後感を言葉にできない状態が、何を表そうとしているか、非常によく理解されていたし、「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだった」のではないかという小林先生のつぶやきの意味も、了解した上で「黙って答えられなかった」のだと思います。では、折口氏は「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉で何を小林先生に伝えたかったのか。

 

折口信夫氏は、著作である「歌の話」の冒頭で、短歌の起こりにつて、「短歌の出来るまでには、いろんな形をとおって来ています。第一に、世間の人は、短い単純なものが初めで、それが拡がって、長い複雑なものとなるという考え方の、癖を持っています。ところが物質の進化の方面と、精神上のこととは反対で、複雑なものをだんだん整頓して、簡単にして行く能力の出来て来ることが、文明の進んでゆくありさまであります。短歌などもそれで、日本の初めの歌から、非常な整頓が行われ行われして、こういう簡単で、思いの深い詩の形が出来たのであります」と述べています。遠い祖先の時代からあった「たたえ言」が「ものがたり」というものになり、「ものがたり」の肝心な部分が、「歌」となったため、「時代が移ると、言葉の意味や、昔にいい習わしたわけが、わからなくなるために、後世では、なんの理くつもわからない『いい習わし』となって」しまい、「称え言」や「ものがたり」が作られた時の、複雑で豊かな精神を、思い出すことができなくなったのだと言います。この折口氏の論に沿って、「歌」から「称え言」に時代を遡るためには、現在を複雑とし、そこから古代を単純として解釈しようとする、物質の進化の歴史ではなく、現在の「心の動き」から、古代人の精神の複雑さを「上手に思い出し」ながら、精神の歴史を蘇らせて、形にすることが必要です。折口氏は小林先生との対談で、「無常という事」を二度取り上げながら、小林先生の批評の方法に、歴史の形を彫り出す新しい刀やへらを期待していたのだと感じます。

 

折口氏が大森駅の改札口で、「本居さんはね、やはり源氏ですよ」という言葉で小林先生に呼びかけ、伝えたかったのは、「解釈を拒絶して動じないもの」を、「上手に思い出す方法」だったのではないでしょうか。「歌」からいきなり「退っ引きならならぬ人間の相しか現れぬ」、「古事記」の世界を彫り出そうとすると「言葉にならない」。本居さんは紫式部に導かれつつ、「源氏物語」という「此世のものがたり」によって、「心の動き」を形にし、具体的に彫っていきました。なま女房が「此世のことはとてもかくても候」と心を動かしつつうたう、無常なる生者の「ものがたり」が、「後世」との出会いを信じる道でした。なま女房の願う後世は、「解釈を拒絶して動じない」、古代から連綿とつながる「常なるもの」でありましょう。折口氏は別れ際の言葉で、本居さんにとって、「源氏」という「此世」の「生死無常のものがたり」こそが、小林先生が比叡山で出会った、遠い古代の、「常なるもの」をありありと思い出す道であったことを、伝えたかったのではないでしょうか。

 

(了)