「精神」、「言葉」、そして「イメージ」

―私は、人の生きる姿を、心の葛藤に見てから、次第に、肉体と精神を意識するようになった。土、蜜蝋、油絵具などを使って、キャンヴァスに土台を作る行為は、アルキケミー、生命を与える儀式だった。木の枠を、骨、岩、自然界の構造と見立て、蝋を流すと、表面は皮膚に変容した。そこに、布、スポンジ、釘、金ブラシなど、普段は用いない道具を使うと、作品は、聞いたことのない言葉で語り始めた。柔らかい道具には、柔らかい、鋭く尖ったものには、尖ったエネルギーが現れた。開いた穴、引っ掻いた傷、塗られた白い薬のあり様は、七歳の時に、火傷を負い、治療を受けた皮膚に似ていた。イメージはどこから来るのだろうか。記憶からか。(1995年、展覧会への出展作品説明から)

小林秀雄先生の「本居宣長」との出会いは、私の意識下に眠っていた「精神」、「言葉」、そして「イメージ」を呼び起こした。

 

 

第十九章で、小林先生は、宣長の学びの成長と精神を、躍動感のある言葉で説明している。

―彼(著者注;宣長)の回想文のなだらかに流れるような文体は、彼の学問が「歌まなび」から「道のまなび」に極めて自然に成長した姿であり、歌の美しさが、おのずから道の正しさを指すようになる、彼の学問の内的必然の律動を伝えるであろう。(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.213、15行目〜)

―さて、宣長が回想文で、われ知らず追っているものは、言わば書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性であり、その動きの中で、真淵の「冠辞考」が、あたかも思いもかけず生じた事件の如く、語られている。そして、それが「歌まなび」から、「道のまなび」に転ずる切っかけを作ったと言うのだが、事件の性質については、はっきりした説明を欠いている。一体何が起ったのか。(同p.214、9行目〜)

ここで小林先生は、宣長の成長を「彼の学問の内的必然の律動」と言っている。その言葉を、簡単に捉えてはならない。宣長の学びは、問いを繰り返し、思索し、遂に到達する、そういうものであった。そんな自問自答の喜びは、一入ひとしおだったであろう。また先生は、宣長が追っていたものは、「己れを捨ててのめり込む精神の弾力性」であったと言っている。「己れを捨ててのめり込む精神の弾力性」も同じだ。精神の弾力性は、強い意志と鍛錬が背景にあったに違いない。宣長は、経験から信念を持ち得たのであろう。小林先生の使う言葉は、学びの精神を鮮やかに表現する。宣長の言葉を、全身全霊で受け止めているのだ。

 

小林先生は、賀茂真淵が枕詞の語義について説いている「冠辞考」について説明した後、彼が抱いていた基本的な直観を、「今日普通使われている言葉で言えば、言語表現に於けるメタフォーア(*)の価値に関して働いていたと言ってよいであろう」と述べたうえで、「私達は言葉の意味を理解する以前に、言葉の調べを感じていた事に間違いあるまい。今日、私達が慣れ、その正確と能率とを自負さえしている散文も、よく見れば遠い昔のメタフォーアの残骸をとり集めて成っている。……素朴な心情が、分化を自覚しない未熟な意識が、具体的で特殊な、直接感性に訴えて来る言語像に執着するのは、見やすい理だが、この種の言語像が、どんなに豊かになっても、生活経験の多様性をおおうわけにはいかないのだから、その言語構造には、到るところに裂け目があるだろう、暗所が残っているだろう」と述べ、以下のように続けている。

―ところで、この種の言語像への、未熟なと呼んでも、詩的なと呼んでもいい強い傾きを、言語活動の不具疾患と考えるわけにはいかないのだし、やはりそこに、言語活動という、人々の尋常な共同作業が行われていると見なす以上、この一見偏頗へんぱな傾きも、誰にも共通の知覚が求めたいという願いを、内に秘めていると考えざるを得まい。この秘められた知性の努力が、メタフォーアを創り出し、言葉の間隙かんげきを埋めようとするだろう。メタフォーアとは、言わば言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたものである。真淵が、「万葉集」を穴のあくほど見詰めて、「ひたぶるに真ごゝろなるを、雅言みやびごともて飾れ」る姿に感得したものは、この初動の生態だったと考えていい。(同p.220、3行目〜)

第十九章の後半では、「ひたぶる」という言葉が何度も繰り返され、真淵が見詰めた万葉歌人の、言葉を整えようとする姿が説明されている。人々の、誰にも共通の知覚を求めたいと創り出されたメタフォーアが、「言語の意味体系の生長発展に、初動を与えたもの」と言い表されている。小林先生の、言語に生命を観る鋭い感覚と、それを真正面から捉える様に圧倒される。先生は、言語を、生き物と考えていたのだろうか。

 

第三十二章に、荻生徂徠が、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、則ち物の意味と形とに関する語の用法に注目したことについて詳しい記述がある。前者は「興の功」で「言語の本能としての比喩の働き」であり、後者は「観之功」で「人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能」と捉え、「物の意味が、語るにつれて発展すれば、これと表裏をなして物の形は、『黙シテ之ニ存シ、情態目ニ在リ』」と書かれている。

―言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である。そういう言語観に基いて、徂徠が、興観の功という言葉を使用しているのは、明らかであり、そういう働きとしての言語を、理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい。そういう事にかけては、言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事に、自足している、歌うたう者、あるいは、これに耳を傾ける者に、くものはなかろう。この事を念頭に置いて、興観の功の説明を締めくくる、徂徠の言葉を読むべきだ、と私は思う。(同第28集p.13、14行目〜)

注目したいのは、言葉には、意味を伝える働きだけではなく、新しい意味を生み出していく働きがあり、物の姿を映し出す力があると言っている点である。唐突だが、比喩の働きが、生命が在り続けるために必要だったと考えて良いだろうか。音楽や絵画はどうだろうか。音楽の音符や記号、絵画の色や形は、言語と似た働きをする。調べを伝え、物の姿を映し出す。言語、音楽、絵画を通じた比喩の働きは、共通の知覚を求めたいと願ってきた人々が、生命を繋いでいくために生まれたと考えて良いだろうか。

 

さらに小林先生は、第三十六章で、宣長は、歌の起こる所まで行き、歌の本義を求めたことを述べ、歌人らがどう言葉を整えたか、そこで行われている精神の自発性を解き明かしている。

―宣長は、「歌といふ物のおこる所」に歌の本義を求めたが、既述のように、その「歌といふ物のおこる所」とは、即ち言語というものの出で来る所であり、歌は言語の粋であると考えた事が、彼の歌学の最大の特色を成していた。「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづからアヤある辞」(「石上私淑言」巻一)と歌を定義する彼の歌学は、表現活動を主題とする言語心理学でもあった。この心理の動きを、彼は「自然の事」とか「自然の妙」とか呼んだが、そういう時、彼が思い浮べていたのは、誰にも自明な精神の自発性に他ならなかった、……堪え難い心の動揺に、どうして堪えるか。逃げず、ごまかさず、これに堪え抜く、恐らくたった一つの道は、これを直視し、その性質を見極め、これをわが所有と変ずる、そういう道だ。力技でも難業でもない、それが誰の心にも、おのずから開けている「言辞の道」だ、と宣長は考えたのである。(同p.58、2行目〜)

ここで宣長は、歌の起こる所を「物のあはれにたへぬところ」と表現している。私達は、この世で物と出会う時、記憶の底にあったと思われるものが蘇り、情感が溢れることがある。この状態こそ「物のあはれにたへぬところ」だと想う。情感が、自ずから形象を整えようとするのは、精神の自発性に他ならない。所与の力であろう。古代から今に至るまで、一人ひとりが人生の中で直面する厳しい試練を経て、こころの動揺を我がものとして来たと考えると、遺された言葉を前に、身が引き締まる。

 

さて、第十九章から複数の章を辿って得た学び、「精神」、「言葉」、そして「イメージ」を、私は、どう今後に生かしたら良いだろうか。第四十九章と、江藤淳氏との対談「『本居宣長』をめぐって」(同第28集)に、ヒントがあった。

―神々は、彼等(著者注;上古の人々)を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう。そういう声が、彼等に聞えて来たという事は、言ってみれば、自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はないと感じて生きて行く、その味いだったであろう。其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の「性質情状」カタチを、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らすという事になる。(同p.189、3行目〜)

江藤氏との対談で小林先生は、「古事記伝」の「性質情状アルカタチ」は、ベルグソンが言っている「イマージュ」としっくりくるのであり、それは「主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験」と述べている。さらに先生は、宣長が見た神話の世界は、「『かたち』の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だった」と、宣長は、ベルグソンが見ていた「無私な、芸術家によって行われる努力」を神話の世界に見ていたと付け加えている。

 

さあ、私は、第四十九章で言われているように「柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の『性質情状』を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らす」ことにしよう。これに尽きる。古今東西、この道の歩き方は尊い。生きる道標に、宣長と小林先生がいる。池田雅延塾頭、茂木健一郎副塾頭という先達がいる。道の険しさを共有する塾の同志がいる。そう思うと、心強い。

 

 

(*)隠喩。ある観念を表わすために、それに類似、共通した性質を示す別の観念を持つ言葉を用いることをいう。

 

(了)

 

「躍る」という言葉から学んだこと

昨日の雨で、満開だった桜はずいぶん散った。本居宣長さんが好きだった桜花の、咲き散る季節に、小林秀雄先生の『本居宣長』に向かっている。

 

第四十九章を繰り返し読んでいて、「躍る」という言葉が心に留まった。理由ははっきりとしない。言葉が、フワッと立ち上がってきた。小林先生の言われる直観であろうか。

しかもこの言葉は、その場ですぐさま、私にとって、大事な物に思えた。それまで、本文の中身、具体的には、神、自然、人との関係、古学の眼、古伝説について考えてきたが、あのとき以来、この「躍る」が私の思索のほとんどを占めてしまい、どうにもならなくなった。そこで急遽方向を変え、この言葉の第四十九章でのあり様を辿ることにした。小林先生の『本居宣長』を理解する手がかりになるかも知れないという、予感めいたものがあった。

本文の「躍る」を追って辿ると、二箇所に似た表現を発見した。一つは、「古学の眼」の説明のところで、小林先生は、宣長の身振りを「理解と信念が織りなす難題の中心に躍り込んだ」と言われ、二つ目は、「古伝説」の説明のところで、上古の人々の生活を「柔らかく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混じる、多種多様な事物の『性質情状』(カタチ)を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らす」と言われている。どちらも、難局で、挑むような勢いで「躍る」が使われている。実際の文は、次のようにある。

―このような、畳み掛けるような語調は、「古学の眼」を得んとして、理解と信念とが織りなす難題の中心に躍り込んだ、その宣長の身振を、よく現していると言ってよかろう。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集p.182、15行目〜)

―神々は、彼等を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう。そういう声が、彼等に聞えて来たという事は、言ってみれば、自然全体のうちに、自分等は居るのだし、自分等全体の中に自然が在る、これほど確かな事はないと感じて生きて行く、その味いだったであろう。其処で、彼等は、言うに言われぬ、恐ろしい頑丈な圧力とともに、これ又言うに言われぬ、柔かく豊かな恵みも現している自然の姿、恐怖と魅惑とが細かく入り混る、多種多様な事物の「性質情状」を、そのまま素直に感受し、その困難な表現に心を躍らすという事になる。(同p.189、3行目〜)

私はこれまで、書き言葉で、「踊る」と「躍る」の違いを意識して使っては来なかった。その違いを調べようと、辞書を引くと、「踊る」は、音楽やリズムに合わせて体を揺れ動かすことで、ある文献には、この文字は、人に操られて行動するときも用いられるとあった。

一方、「躍る」は、飛んだり跳ねたりして勢いよく動くこと、文献には、「胸が躍る」「心臓が躍る」のように喜び、驚き、期待、緊張などで、胸がわくわくする、ドキドキする、動悸が激しくなるなどについても用いられるとあった。小林先生は、敢えて、「躍る」の方を、第四十九章で使っているのだ。私自身が、この第四十九章ばかりでなく、作品『本居宣長』全体を通して、わくわくドキドキしてきたことを思い起こす。宣長や小林先生の、古伝説から学ぶ鼓動、真の学びに伴う身体の反応を、私は感じてきたのかも知れない。先生が「躍る」と綴ったのは、そのような本当の学びを伝えるために、必要だったからに違いない。そう考えると、「躍る」との出逢いは、偶然ではないと思いたくなる。

次に、「躍る」が、「努力」の言葉に繋がるのを、二箇所に発見する。宣長の「古学の眼」が書かれ、上田秋成の学問への姿勢を問うところと、「古伝説」について、宣長の考え方を説明するところで、使われている。小林先生は、読者に分かるように、意図して、ついに置いたに違いない。私にとって、これらの言葉との出会いは、必然であるし、運命であると確信する。小林先生は、次のように熱く語っている。

―そんな馬鹿な事があるか。生活の上で、真を求めて前進する人々は、真を得んとして誤る危険を、決してそのように恐れるものではない。それが、誰もが熟知している努力というものの姿である。この事を熟慮するなら、彼等が「かしこき事」としている態度には、何が欠けているかは明らかであろう。欠けているのは、生きた知慧には、おのずから備っている、尋常で健全な、内から発する努力なのである。(同p.183、15行目〜)

―そういう彼の考えからすれば、上古の人々の生活は、自然の懐に抱かれて行われていたと言っても、ただ、子供の自然感情の鋭敏な動きを言うのではない。そういう事は二の次であって、自分等を捕えて離さぬ、輝く太陽にも、青い海にも、高い山にも宿っている力、自分等の意志から、全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向い、どういう態度を取り、どう行動したらいいか、「その性質情状アルカタチ」を見究めようとした大人達の努力に、注目していたのである。これは、言霊の働きをたなければ、出来ない事であった。そして、この働きも亦、空や山や海の、遥か見知らぬ彼方から、彼等の許に、やって来たと考える他はないのであった。神々は、彼等を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう。(同p.188、15行目〜)

小林先生は、真実を求めて前進する人は間違う危険を恐れてはならないと言う。それが、努力の姿であると、強く示している。先生自身の、経験から出た確信のある言葉に、圧倒される。ここでは、生半可な努力を言っているのではない。上古の大人たちの、彼らを捕らえて離さない自然の威力の「性質情状」を見極めようとした努力を言う。言霊の働きを信じて俟つ、血の滲むような努力を見せた結果、神々は、彼等を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろうと説明するのである。小林先生の使う言葉には、「躍る」にも、「努力」にも、生命の胎動、新しい知慧が生まれる脈打ちを感じる。

以上の通り、小林先生は、これまで取り上げた、「躍る」と「努力」を、学ぶことや生きることの意義に、躍動感が伝わるように使っている。これらを、段落のなかに、リズムを作るかのように置き、まるで散文詩のように構成している。読者には、二つの言葉から、古伝説の学び方がはっきりと見えてくる。本物の学びとは、今で言う主観的あるいは客観的視点という物差しに踊らされず、自らの内から生まれて来る感覚、素朴な情、あるがままの事物を素直に受け止めて、真実を追求するものである。事物と自らの直接的な対峙があり、相見あいまみえて、信じて、始まる。そこに、心が躍り、学びの厳しさや喜び、学びを押し進めようとする努力が生まれる。事物と相見えることのない学びは、形だけで、中身が伴わないものと言ってよいだろう。残念ながら、そのような学びは、人を豊かにしない。社会に還元されないし、良い未来も作らない。

 

私は、「小林秀雄に学ぶ塾」に入塾して、今年で四年になる。やっと学びの出発地点に立つことができたように感じる。これまで脈々と続いてきた国語の力や、古代から伝えられてきた人々の心ばえ、気立て、心遣いや気配り、風情や趣向に支えられ生きていると思うと、今使っている言葉や、振る舞いが、違って見えてくる。信じることの大切さや、責任を考えさせられる。恥ずかしい話だが、これまで、自分に、運命という言葉を使ったことがなかった。本章における小林先生の問い、「誰のものでもない自分の運命の特殊性の完璧な姿、それ自身で充実した意味を見極めて、これを真として信ずるという事は、己れの運命は天与のものという考えに向い、これを支えていなければ、不可能ではないか」には、滝に打たれるような感じがした。遅ればせながら、自らの可能性を、天与の運命と信じて生きていかなければならないと思う。今、小林先生の「本居宣長」に、出会えていることに感謝したい。

 

今週末で、東京の桜は散ってしまう。宣長さんは、山桜の花が好きで、山桜の歌を三百首も詠む。また、山桜の木を墓の後ろの塚に植えるよう生前に言い遺す。松坂の山桜は、これからが花の見頃となるだろう。最後に、宣長さんの歌に心を重ねて、古代に想いを馳せたい。

桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな

(同27集、p.36、12行目)

 

(了)