編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの男女四人の対話は、元禄期の三代文豪の一人である近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」を観てきた、江戸紫の似合う女が口火を切る。彼女によれば、太夫たゆうと三味線と人形遣いが一体となって魅せる浄瑠璃の演目もさることながら、近松が遺した辞世がまた面白いのだという。はたして、何がいいのか? そこに、「本居宣長」を熟読中の四人は何を思ったのか?

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、松広一良さん、越尾淳さん、森本ゆかりさん、そして入田丈司さんが寄稿された。

松広さんは、中江藤樹の学問に向かう態度に関する熊沢蕃山の言葉を受けて、小林秀雄先生が書いている「書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である」という言葉を熟視した。そのうえで、「心法」、「読む」という言葉について、それぞれ、小林先生の他の作品とも向き合い、先生がその一文に込めている深意をくみ取ることに努めた。その成果がここにある、じっくりと味読いただきたい。

越尾さんは、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長といった学問上の「豪傑」たちのことを思い続けるにつけて、彼らが世界を席巻しているK-POP(韓国のポピュラー音楽)グループのような「かっこいい」存在に感じられてきた、と言う。彼らは、なぜかっこいいのか。その理由は、「豪傑」たちの、当時の「常識」をはるかに超越した学問上の態度にあった。はたして、その態度とは? 越尾さんの語るところに耳を傾けてみよう。

前号に続き寄稿された森本さんの自問自答は、宣長が「模俲もこうされる手本と模俲する自己との対立」をどのように受け入れ、自分のものにしたのだろうか、という疑問から始まった。事前に相談をした池田雅延塾頭からは、「対立とは何か」をしっかり押さえること、本文中の抽象的な言葉も、具体的な言葉に落とし込み、著者のいいたいことの肝心要を自得すること、というアドバイスを得た。それは、自身の読書も含め、日常生活上のヒントにもなったようだ。

入田さんが熟視しているのは、「誠に『物のあはれ』を知っていた式部は、決してその『本意』を押し通そうとはしなかった。通そうとするさかしらな『我執』が、無心無垢むくにも通ずる『本意』を台なしにしてしまうからである」という小林先生の言葉である。さらに先生は、宣長が言うところの「よろずの事にふれて、おのずから心がウゴ」いた経験を「高次な経験に豊かに育成する道はある」と言っている。新たな自問が生まれた、「高次な経験」とは何か?

 

 

ここで、今号の「『本居宣長』自問自答」に寄稿された皆さんが、主として熟視された言葉を、今一度振り返ってみたい。松広さんは「心法」と「読む」、越尾さんは「豪傑」、森本さんは「対立」、そして入田さんは「高次の経験」という言葉である。それぞれの言葉に向き合った皆さんの文章を読んでいると、その一言一言に、小林先生がどれだけ心血を注ぎ、深意を込めたのかが、肌感覚として伝わってくるようだ。もちろん、そこに到るまでに、寄稿者の皆さんがじっくりと向き合った、長い時間があったことは、言うまでもない。

そんなことを思っていると、小林先生が、読書について、このように述べているくだりを思い出した。

「読書百遍という言葉は、科学上の書物に関して言われたのではない。正確に表現する事が全く不可能な、又それ故に価値ある人間的な真実が、工夫をこらした言葉で書かれている書物に関する言葉です。そういう場合、一遍の読書とはほとんど意味をなさぬ事でしょう。そういう種類の書物がある。文学上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐ある協力をねがっているのです。作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希うはずがあろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力のない愛などというものを私は考える事が出来ませぬ」(「読書週間」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)

 

私たち「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生による、「本居宣長」精読十二年計画も最終年度に入り、いよいよ年度としての第二コーナーを回ったところまで来た。残すところ、あと六か月である。ここで改めて、小林先生が言うところの忍耐力のある愛読者として、「本居宣長」という作品に、そこに登場する「豪傑」たちに、そして小林秀雄という大先達に向き合い、最終ゴールのテープを切るまで、集中力を保ち力強く走り続けることを、ここで改めて誓い合いたい。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅵ

十二、泉州万町での好会

 

連歌師としてのみならず自由と破格の俳諧師として、西山宗因の人気が急騰する一方、古格を破られた側になる、松永貞徳ていとくを祖とする貞門俳諧からの手厳しい反発が起きていた延宝二年(一六七四)の八月、宗因は、高野山への参詣を行った。

八月三日、大阪天満を出発、和泉国万町まんちょうという山里に宿泊した。伏屋ふせや重左衛門重賢邸である。さっそく重賢に所望され、こう詠んだ。

いなばもる 里や泉州 万町楽

その重賢とともに高野山へ出立。途中で吉田清章と合流、五日には高野山に入り、弘法大師が入定にゅうじょうしている奥之院の「御廟ごびょうをおがみ奉りて、亡親ならびに六親万霊ろくしんばんれいに水を手向たむけ、香をひねりて、西方浄土の願後仏出世の暁をいのりて」(「高野山詣記」)、同行三人で俳諧に興じた。

露の世や 万事の分別 奥の院
宗因
露間をや のぞき入道 奥の院
清章
句づくりや 月をこころの 奥の院
重賢

大徳院に二泊し、七日に下山。その後、七世紀半ばに有間皇子ありまのみこが、中大兄皇子なかのおおえのみこ蘇我赤兄そがのあかえに仕組まれ絞殺された藤代御坂ふじしろみさかをはじめ(*1)、紀三井寺、玉津島神社などを経て、九日には泉州尾崎村の清章邸に到着。二日ほどゆっくりして、俳諧に興じつつ帰阪した。

高野那智の 中にふらりや としの秋
宗因

 

その高野参詣への往路、老境七十歳の宗因が万町重賢邸に宿泊したとき、同じ敷地の離れに、一人の青年が滞在していた。

その青年は、十一歳で尼崎にあった父母の家を離れた。当時、父は尼崎城主青山大蔵少輔ゆきなりに仕えていた。けっして晴れやかではなかった家庭の事情によったのか、兄弟は散り散りになった。彼は大阪の寺での修行後、十三歳で剃髪ていはつ、高野山に入り本格的な修行を積んだ。二十三歳の年に山を下り、若くして大阪の別寺で住持となる。翌年には阿闍梨位も得た。しかし数年後、何らかの理由で寺から姿を消した。その後は、奈良の長谷寺や室生むろう山の辺りを彷徨さまよっていたようだ。弟子筋の僧が残した文章によれば、「室生山南ニ、一厳窟有リ。師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為オモヘラク、形骸を棄ツルニ堪ヘタリト、スナハチ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニマミル、命終ルニヨシナク、ヤムヲ得ズシテ去ル」(「録契沖遺事」)

青年は死にきれず、その場を去った。彼の名は、契沖である。

ここで、第二章でも触れた彼の家族について、振り返っておこう。父元全は、熊本城主加藤清正の片腕であった下川又左衛門元宣もとよしの末子であり、二代目又左衛門となった元真の弟である。契沖は、加藤家改易後、元全が青山幸成公に仕えていた頃に尼崎で生まれたのである。

さて、室生の地を去った契沖が、そこで詠んだ歌をながめて、彼の心持ちを体感しておきたい。

旅にして 今日も暮れぬと 聞くもう(憂)し 室生の寺の 入相いりあひの鐘

たれかまた 後も籠りて 独り見む 室生の山の 有明の月

夕闇迫るなか、晩鐘が響きわたる、胸に沁み入る……

夜明けて残る月、自分のような若僧が、同じように一人きりで見入ることになるのだろうか……

彼は、その後再び高野に上ったが、今度はすぐに下山し、山中で出会った、和泉の久井ひさい村の辻森吉行邸に滞留した。水戸彰考館(*2)の安藤為章ためあきら(*3)が記した伝記によれば、「しゃくを泉州久井里に掛く。山水幽奇を愛し、居ること数歳なり。三蔵を護り悉曇しったんに通ず、かたはら諸宗章疏しょうしょうかがひ、十三経に至る。史・漢・文選・白氏文集、跋渉ばっしょうせざる無し」とある。辻森家の書庫には、漢籍や仏典が豊富にあり独習には困らなかったようだ。加えて、悉曇、いわゆるサンスクリット語を表記する梵字ぼんじにも、高野山におけるのと同様に精励する時間を得たのであろう。

ちなみに、辻森家は、のちに辻井家と改名して今もある。久松潛一氏によれば、井水は清く香気あり、契沖が深く愛したことが改名の理由だという。現在でも、その井戸は「僧契沖遺愛の井戸」(和泉市文化財保護委員会指定)として、丁寧に保存、整備されており、直かに見ることができる。

契沖は、久井の地で五年ほど過ごしたあと、延宝二年、三十五歳の年に万町まんちょう伏屋ふせや重左衛門重賢邸に転居した。より詳しく言えば、重賢邸内にある養寿庵という離れに住んだ。久松氏によれば、伏屋家を訪れた際に見せてもらった摺物すりものがあり(「和泉国池田郡万町伏屋氏圍内契沖法師寓庵幣垣舎(しでがきのや)図」)、このように書かれていた。「(坂口注;契沖)師の祖父元宜下川又佐衛門、加藤家に仕ふ。父元全下川善兵衛、青山家に仕ふ。重賢の祖父一安飛騨守、豊太閤君に仕ふ。父竹麿泉州池田家をつぎ伏屋氏と改む。其祖よりのしたしみのちなみにより、師も亦ここに来る」。

重賢の祖父も太閤秀吉に仕えていたのであり、その縁があってこそ契沖は、当地に住むことになったのだ。その摺物には、西山宗因のことも記されている。契沖がいた養寿庵のすぐそばに「梅の屋跡」という庵があり、「梅の屋に西山梅翁遊宿す」と書かれていた。

その宗因は、第八章で触れたように、加藤清正の家臣であった西山次郎左衛門の子であるが、祖父は、大阪夏の陣の豊臣方の勇士、御宿みしゅく勘兵衛正友と見られている(*4)。野間光辰氏によれば、勘兵衛は、北条氏の重臣に仕えて数々の戦功をあげたあと、いったんは徳川家康の旗下に入ったものの、家康に恨むところあり、一時高野山に身を隠した。その後、越前黄門結城秀康の執りなしにより越前家に召し抱えられ、勘兵衛改め御宿越前と称した。秀康の没後は不遇をかこっていたようだが、東西での風雲急を告げるなかで豊臣方に招かれ大阪に入城、大野主馬治房はるふさ隊に属した。

慶長二十年(元和元年、一六一五)四月六日、家康は諸大名に出陣を命じ、大阪夏の陣が始まった。大阪城の南側に広がる上町かみまち台地一帯で、徳川軍十五万五千、豊臣方五万五千の兵が激突した。岡山口では、大野治房隊が将軍徳川秀忠の本陣近くまで迫る一方、天王寺口では、真田幸村隊が、大御所徳川家康の本陣に突入し、家康をあと一歩のところまで追い詰めた。

しかしながら、御宿越前は、大阪城本丸に乱入した越前勢の旧友、野木右近の手にかかって討死。一方、「日の本一のつはもの」「日本ニハタメシ(例)ナキ勇士」と絶賛された真田幸村も、力尽き田んぼのあぜに腰を下ろしているところを、越前勢の西野久作(仁左衛門)に首を取られた(「慶長見聞書」)。野間氏によれば、「茶臼山の本陣に、真田幸村と御宿越前の首級を実検した家康が、『さてさて御宿めは年の寄たる事かな』といい、また後に『御宿が若き折ならば、あの者などに首をとらるる事にてはなき』と側近に洩らしたそうである。恐らく当時すでに、鬢髭びんひげを黒く染めて出陣した斎藤別当実盛(*5)を思わせるような老武者であったことだろう」。

さて、ともかくも当夜は、それぞれの祖が豊臣家と縁の深かった三名が、泉州の一つの敷地に滞在していたことになる。この奇遇については、契沖研究の泰斗たいとである久松氏が、このように述懐している。

「宗因の宿った夜は契沖も宗因と会し、秋の一夜を重賢と三人で語り合ったと想像することも出来る。七十歳の宗因を中心として契沖と重賢とが語り合ったとすればそれは和歌や連歌・俳諧のことであったかも知れず、またあるいは没落した豊臣氏や加藤家に対する追憶であったかも知れぬ。とにかく和泉の山村の静かな秋の一夜のこの好会を想像して、私は無限の感慨を禁じ得ないのである」。

その和泉の山村も、今では開発が進み、養寿庵跡は、泉北高速鉄道の一大ターミナル駅である和泉中央駅から歩いて約十分のところにある。土壁が残り「史跡 契沖養寿庵跡」という石碑が立てられていて、往時を偲ぶことができる。

ちなみに契沖は、その好会の場所で、こんな歌を詠んでいた。

和泉の国いつみのこほり、池田河といふ河の流れ来る岸に、ある人のつくり

おける庵をかりて住みけるころ、その河のいとおもしろく流るる、嶋めいたる

処に梅ありて、月夜ににほひ来けるを読る

月夜つくよ 梅が香おくる 河風に 岸根の草の 身をぞ忘るる

若くして阿闍梨位も得、住持となった身であったにも拘わらず、三十代半ばの彼にとって、いまだ我が身は岸根の草、すなわち川岸近くに生えてすぐ水に浸かってしまう草のような存在だった。これはけっして謙遜ではなかろう。

 

十三、松尾桃青

 

西山宗因は、契沖が滞在していた和泉の山村を経て、高野山への参詣を行った翌年の延宝三年(一六七五)四月下旬、親交が続いていた岩城平いわきたいら藩主、内藤風虎の江戸屋敷に招かれ、約二ケ月間にわたり江戸に滞在し、俳席に招かれた。宗因の東下とうかを心待ちにしていた俳人の田代松意しょういらは、宗因からの発句を掲げて「江戸誹諧 談林十百韻とつぴやくいん」を制作出版、全国的に大きな反響を巻き起こした。

さればここに 談林の木あり 梅の花
梅翁
世俗 眠をさます うぐひす
雪柴
朝露 たばこの煙 よこをれて
在色
駕籠かごかきすぐる あとの山嵐
一鐵

当時の江戸において、松意一派は「(江戸)談林」と呼ばれており、宗因は発句に敬意を込めたのだろう。ところが、この句をもって「宗因派」による江戸での旗揚げ宣言とみなす誤用が広がり、宗因風がすべて「談林」と呼ばれるようになったことには留意が必要である(*6)。第十一章でも見たように、宗因には、一派を立ち上げようなどというつもりはなく、これは、当時の商業出版の隆盛に周囲の取り巻きが乗じて起きた、意図せざる事象の一つであった。

同年五月には、本所猿江の大徳院で、宗因歓迎の百韻の俳席が催された。発句は主賓しゅひんの宗因である。

いと涼しき 大徳だいとこ也けり のりの水
宗因

これは「源氏物語」の「若紫」にある「いとたふとき大徳なりけり」(「大徳」は高徳の僧の意)を踏まえた句であり、当院の住職、しょうかくへの表敬の念が込められている。脇(句)は住職が付け、第三以降が続いた。脇は、「宗」と「因」という字づらの通り、宗因への尊崇と感謝の気持ちの表明でもあろう。

のきばむねと 因む蓮池
蹤画
反橋の けしきに扇 ひらき来て
幽山
石壇よりも 夕日こぼるる
桃青
領境 松に残して 一時雨
信章

さてここで、第四を詠んだ桃青という人物に注目しよう。彼こそ、郷里の伊賀から江戸に移住して二、三年目(*7)、三十二歳の松尾桃青、のちの松尾芭蕉である。芭蕉は十代の末頃から、藤堂藩伊賀付の侍大将五千石の藤堂新七郎家の嫡子ちゃくし主計かずえ良忠よしただに出仕していた。この良忠が俳諧をたしなみ、北村季吟きぎん(*8)に師事し蟬吟せんぎんと号していたことから、芭蕉も俳諧に親しむようになった。ところが、寛文六年(一六六六)、二十三歳のとき、二歳年上の蟬吟が病死してしまう。それがための没頭なのか、翌寛文七年(一六六七)から、季吟編「続山の井」など句集への入集が活発になっていく。季吟は、松永貞徳の直門じきもんとして「貞門の新鋭」と言われていたほどだから、芭蕉も当初は、貞門風の歌を詠んでいたのである。しかし、そこに変化が現れる。大徳院での宗因歓迎の俳席の連衆として加わったころから、いわゆる談林風の俳諧の傾向が見えるようになる。すなわち芭蕉は、後年、いわゆる蕉風しょうふうを確立する前までには、貞門風の句や談林風の句を詠んでいたのである。

ここでは、麻生磯次氏による「若き芭蕉」(新潮社)という伝記的物語(*9)を参照しながら、芭蕉の成長の軌跡を、彼が詠んだ句を通じて直かに体感しておきたい。

彼が、若い頃、宗房と号していた時代に詠んだ句がある。

萩の声 こや秋風の 口うつし
宗房

萩が風に吹かれて音を立てている。これこそ秋風が、口移しに伝えた声だろう、という意である。ところで、季吟が季語を集録しつつ付句の心得や発句の作例を示した、俳諧を嗜む者には必携の書「山の井」によれば、「萩は風にこたへて声のあなれば、秋風の口まね、定宿ぢやうやどなどともいひ……」とあり、「あき風の 口まねするや 萩の声」という例句が挙げられている。まさに芭蕉は、師事した季吟の教えを忠実に実践することで、貞門の俳風に追随していたのである。

次に、こんな句を詠んでいた。

見るにも をれるばかりぞ 女郎花をみなえし
宗房

楚々とした女郎花の風情に、その美しさに、ただただ心動かされるばかり…… という意である。「我折る」とは、我執を去るという意味の俗語である。僧正遍照へんじょうの「名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花 われ落ちにきと 人にかたるな」(巻第四、秋歌上)を踏まえたうえで、「我折る」という言葉を使い卑俗的なおかしみを醸し出している。ここには、芭蕉の句が貞門風から談林風に一歩進み出した感がある。

宗因と初対面した翌年、延宝四年(一六七六)には、親友山口信章(素堂)と両吟で天満宮奉納百韻を二つ興行した。

此梅に 牛も初音はつねと なきつべし
桃青
ましてやかはず 人間の作
信章

「梅」という言葉には、「梅翁」と号した宗因が暗示されている。宗因は言うまでもなく大坂天満宮連歌所の元宗匠であった。見事な梅花に、鶯はもちろん、天満宮となじみ深い牛までも初音の心持ちで鳴くだろう、という意である。梅なら鶯と来るべきところに、牛をもってきた点が談林風を感じさせる。次の信章の句は、紀貫之「古今和歌集」仮名序の冒頭にある「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を踏まえたものである。

芭蕉と信章による両吟の、もう一つの百韻は、こんな発句と脇で始まっている。

梅の風 俳諧国はいかいこくに さかむなり
信章
此方人こちとうづれも 此時このときの春
桃青

信章は、端的に宗因の俳風が俳壇を風靡していると詠んだ。続けて芭蕉も、その俳風に接し、おかげで我々のような者でも、この時を謳歌しているという。麻生氏の言っているように「談林の俳風に対する傾倒ぶりが露骨に示されている」とともに、「宗因の俳風が芭蕉や信章にとって大きな魅力であったことが思いやられる」。

このように、貞門風を脱し、宗因風に寄っていた芭蕉であったが、延宝年代の終わりごろから、そこから離れようとする傾向が見てとれるようになる。

延宝八年(一六八〇)に、次のような句を詠んでいる。

くも何と をなにと鳴く 秋の風
桃青

蜘蛛よ、どうだい、この秋風が吹くなかで、お前はなんと鳴くのかい? という句意である。「枕草子」にある、蓑虫みのむしが逃げ去った親を慕い、秋風が吹くと「ちちよ、ちちよ」と鳴く、というくだりを踏まえている。麻生氏によれば「黙りこくっているのは蜘蛛だけではなく、芭蕉自身の孤独の姿でもあった。芭蕉は次第に談林の浮華を離れて、真実なものを求めようとしていたのである」。

同じ時期に詠まれた、虫にまつわる句が、もう一つある。

よるべをいつ 一葉に虫の 旅ねして
桃青

水に落ちた桐の葉に、虫がすがりついていた。ここでも、寄る辺のない虫に自らの姿を重ねたのであろうか。その虫のさまを「旅寝と言ったところに、談林らしい誇張が見られるが、その虫をあわれに思う心が寓せられているのであって、談林特有のふざけたものではない」。

同年の冬に、芭蕉は、江戸市中から深川に住まいを移した。その草庵は、徳川家康が江戸の城下町整備のなかで開削した水路、小名木おなぎ川が隅田川と合流する辺りにあった。現在は、地下鉄の森下駅もしくは清澄白河きよすみしらかわ駅から十分ほど歩いた住宅地のなか、芭蕉庵史跡展望庭園として整備されている。夜には、ライトアップされた萬年橋と清州橋をともに見ることができる夜景スポットにもなっている。しかしながら当時は、葦などの生えた水辺で、人家もまばらな、わびしい場所だったようである。

その芭蕉庵での隠棲生活について、彼はこんな句を詠んでいた。

月をわび、身をわび、つたなきをわびて、わぶと答へむとすれど、

問ふ人もなし、なほわびわびて

わびテすめ 月侘斎つきわびさいが なら茶哥ちゃうた
芭蕉

「月侘斎」とは、茶人めかした架空の人物であろうが、芭蕉自身を思わせる。また、「奈良茶歌」とは、にぎやかな酒席の歌ではなく、奈良茶漬を食べながら、わびしく口ずさむ歌をいう。「侘テすめ」の「すめ」に、「澄め」と「住め」を掛け、奈良茶歌の歌声が侘しく澄むように、侘に徹して今の境遇に安住せよ、と自らに言い聞かせる句意である。

また、大風がひどく吹く夜があった。海抜が低い土地柄、浸水も気掛かりだった。そこで、こんな句を詠んだ。

芭蕉野分のわきして たらひに雨を 聞夜哉きくよかな
芭蕉

外では嵐のなか、門人の李下が植えてくれた芭蕉の葉が、ばたばたと音を立てている。庵のなかでは雨漏りの水が、用意した盥に、ぽたりぽたりとしたたる。「芭蕉は草庵の夜の底にじっと身を沈めて、自分の姿をみつめ、自分をとりかこむ自然の動きに耳を傾けていた」。

このように三十代半ばを過ぎた頃の芭蕉の句に垣間見ることのできる、世俗を離れ孤独に徹しようとする心境、そして、自然の動きにひたすら耳を傾ける態度は、そのまま後年の俳風にも通じているようには感じられないだろうか。

(憂)き我を さびしがらせよ 閑古鳥かんこどり

しづかさや 岩にしみ入る 蝉の声

 

さて、ここまで、芭蕉が松永貞徳や北村季吟ら貞門に学び、西山宗因に学び、いよいよ自身の本領を発揮せんとする入口に立つまでの軌跡を振り返ってきた。ここで、保田與重郎氏が紹介している「往時の俳諧師の考へた、俳諧変遷史についての思想を云うに適した文章」(*10)があるので、引いておきたい。

(松永)貞徳亡後(松永)維舟(北村)季吟両氏、先師の風体をいよいよほどこす(中略)(安原)貞室松賢両士洛に居て貞徳伝来の誹諧より他事なく専ら行ひければ、此門に遊ぶ誹士あまたなりしに、(中略)摂州大坂に西山宗因といへる豪傑の士出て、連歌を里村家に学び、誹諧は(山崎)宗鑑が遺風をしたひ、自分の風流を潤色して専ら行ふ、その後武州に下向し、談林軒(田代)松意といへる誹士の方に寄宿して大に行ふ、松意が軒号より思ひ付、仏家の檀林に附会して、これを世俗談林誹諧といふ、武江此一風に流行す。亦摂州に戻り大にふるふ。既に後水尾院にも、貞徳流を遊されしかども、談林風のさかんなりしを、ゑいりよにかけさせられ、いでや談林の誹諧を遊しける。(中略)ここにおいて貞徳流の古風を荒廃して、誹諧宗因に一変す。宗因門人に井原西鶴といへる英雄有りて、一日に二万三千句独吟す。談林かく盛んに成し時、桃青といへる誹士(中略)宗因が行ふ所の談林の当風になびき居て、ほどなく工夫をこらし、悟道して、当流をうとみ、季吟門人なれども、古風にもよらず、発明して一派を行ふ。都会の人々次第にここに集り門人市をなす。芭蕉洞の庵なるを、世人終に芭蕉庵と号し、亦芭蕉翁と称し、東府に盛なりし宗因の弘めし談林誹諧大におとろ(衰)ふ」(八文字屋瑞笑「俳論. 卷之1-3 / 秋月下白露 編輯」早稲田大学図書館蔵)

 

天和二年(一六八二)、芭蕉が三十九歳、西鶴が四十一歳の春、宗因は逝った。しかし、どこでどう逝ったのか、くわしいところは不明なようだ。今も、大阪市の天満からほど近い兎我野とがの町の西福寺にお墓はある。ただし墓石には、息子の宗春らの名前と合わせるかたちで「実省院円斎宗因居士」という法名が表に刻まれており、宗因が実際に大阪で亡くなりこの地で眠っているのかどうか、定かではない。私はその墓前に立ち、居所を定めず「一生旅程雲水」のごとき七十八年の生涯を貫いた、「肥後牢人」西山宗因らしいお墓だと感じ入った。

 

 

(*1)宗因は、前章で紹介した「肥後道記」のなかで、有間皇子が紀伊への護送中に詠んだ歌を踏まえた歌を詠んでいる。

(*2)明暦三年(一六五七)、徳川光圀が「大日本史」編纂のために設立した施設。

(*3)江戸前期の儒学者、国学者。万治二年(一六五九)~享保元年(一七一六)。

(*4)野間光辰「宗因と正方」、「談林叢談」岩波書店

(*5)平安末期の武将で保元・平治の乱で活躍、源平合戦のはじめ木曽義仲と戦い壮絶な死を遂げた。

(*6)第一章で便宜的に「談林派」と記載しているが、事情の詳細は本文に記した通りである。

(*7)芭蕉の東下の時期については、諸説ある。

(*8)江戸前期の歌人・俳人・和学者。寛永元年(一六二四)~宝永二年(一七〇五)。

(*9)麻生氏には、「既に研究ずみの材料を土台にして、生き生きとした芭蕉の姿を刻み上げようとした」「物語ではあるが虚構の物語ではなく、従来の芭蕉の研究を吟味した上で、自由に構想をめぐらした」「芭蕉物語」という著作がある。「若き芭蕉」は、同様の手法によって「芭蕉が真に芭蕉らしくなり、蕉風を樹立するまでの苦悩を描こうとした」作品である。

(*10)保田與重郎「芭蕉」、講談社学術文庫

 

 

【参考文献】

・小林秀雄「本居宣長」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集所収

・久松潛一「契沖」、「人物叢書」吉川弘文館

・北川央「大阪城をめぐる人々」創元社

 

(つづく)

 

 

編集後記

猛暑きびしい中、読者の皆さんに心よりお見舞い申し上げます。

 

さて今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。山の上の家の塾の塾生の間でもよく見かける光景だが、いつも四人は、「『本居宣長』のなかで、どの部分が一番好きか?」という話題で盛り上がっている。江戸紫の女によれば、その場面になると思わず原始人を想像してしまうそうだ。なぜ原始人なのか? 四人の話は、言語以前の身体的な意思疎通のありようにまで話が及ぶ。それは、私たち一人ひとりが出生時から経験してきたことでもある……

 

 

本塾における、『本居宣長』精読十二年計画も、いよいよ最終年度に入っている。「『本居宣長』自問自答」には、泉誠一さん、森本ゆかりさん、そして小島奈菜子さんが寄稿された。

泉さんは、小林秀雄先生が語っている「一人の宣長さんが現れて来るまで一生懸命に宣長さんの文章を読めば、きっと一人になって現れて来るに違いない……、そのいきさつが僕の本に書いてある」という言葉に注目した。小林先生が批評の極意と考えていた「述べて作らず」の心構えで組み立てられた泉さんの文章は、本塾で長きにわたり「自問自答」を続けて来たがゆえの、大いなる成果の一つであろう。

森本さんは、「池田塾頭を通して聴く、小林秀雄氏の言葉が、これまでに経験したことのないほど、心に強く響き、ここでの学びは私の人生の軸となると直観しました」と述懐している。入塾以前には、小林先生の作品は一度も読んだことがなく、文学とは縁のない人生を送ってきた。今や、塾での質問にも連続して取り組んでいる森本さんが目下挑んでいるのは、自らの価値観は捨てて無私に著者と向き合う態度をいかにして自得するかという道である。

小島奈菜子さんは、「物質である体に、なぜ心があるのか」という物と心との関係は、言語における「音声(形)になぜ意味が宿るのか」という形と意味との関係と同じ構造にあると言う。後者の関係について小島さんは、「本居宣長」で触れられている古人らの命名行為に着目した。それは「自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働き」である。そこで、「言葉の力の源泉」と言われている「興」の功と「観」の功はどのように発動するのか。小島さんが紡ぐ言葉に、じっくりと耳を傾けたい。

 

 

さる六月末、郷里の熊本市の旧城下町、新町にある書店が閉店した。創業は明治七年(一八七四)、熊本で最古級の書店であった。建物は、東京丸の内の赤煉瓦れんがオフィス街で有名な保岡勝也氏の設計による二階建てで、国の登録有形文化財にも指定されている。当時、旧陸軍第十二師団軍医部長として小倉に赴任していた森鴎外も常連で、「書肆しょしの主人長崎次郎を訪ふ」(「小倉日記」)と綴っていた。私の実家からも近く、子どもの頃からなじみのある本屋でもあったため、閉店と聞いて大きなショックを受けた。いや、単なるなじみだからではない。それは、私が今や片時も本が手放せない、大の本好きになった出来事と大きく関わっている。

中学時代に通っていた塾があった。熱血講師のM先生から、夏季の課題として吉川英治「三国志」の文庫全八巻を完読するよう課された。今なら「大人買い」と称して八巻まとめて買うところだが、そこは中学生だった。一巻読み上げる毎に、新町の市電の電停前の書店に自転車を走らせた。一冊ごとに覚えた達成感に加え、風格ある書店で文庫本を買うこと自体が、当時の中学生の私には、大人びた「むしゃ(武者)んよか」(熊本弁で「格好いい」)ことだったのだろう。内容が身についたかは別にして、見る見るうちに読み上げていった。だからどうだ、という程のことでもないが、大部の本を読み進めることが、その後の人生で大きな苦痛にならなかったのは、M先生と長崎次郎書店さんのおかげだと、今になって痛感している。

ちなみに私は、山の上の家の塾に入るにあたり、「小林秀雄全作品」全二十八巻、別冊も含めて三十二巻の完読を、自らに課した。そのときも、けっして「大人買い」することなく、一巻読み上げるたびに書店に走るスタイルを貫いたことも、中学時代の経験が底の底にあったような気がしてならない。

ただ、本当の大人となってしまったからには、読むスピードだけで満足していてはいけない。今年こそ、精読、熟読の一年なのである。

 

 

杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに著者とともに心からお詫びを申し上げ、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

(了)

 

契沖と熊本Ⅴ

九、西山宗因「肥後道記」を振り返る

 

前章では、二十九歳で歩むべき道を断たれた「肥後牢人」西山宗因が、強い決意をもって故郷の熊本を出立し、京都に到着するまでの旅路について記した「肥後道記」(以下、「道記」)を詳しく見た。ここで章を改め、この旅が、そしてその経験を紀行文として仕上げたことが、彼に何をもたらしたのかについて振り返ってみたい。

第一は、旅が進むにつれて、宗因の心境の変化、心の成長のありようが見て取れることである。当初は、彼を急襲した主家改易という事態への恨みや、残して来た家族や故郷への断ち切れない思いが前面に出ていたが、旅も半ばを過ぎた頃から、穏やかな心持ち、ユーモアを表現できる心の余裕が顔を出してくる。例えば十月七日のこと、釣人のお爺さんに声をかけて釣果ちょうかを見せてもらい、どの魚を売ってもらおうかとしばし迷っていると、お爺さんは決めるのが遅いと怒り出してしまった。そこで「釣人よ ま(待)て事問わん みなか(皆買)はば いかばかりせん 魚のあたひ(値)ぞ」と詠んだ。これは、「古今和歌集」(巻第九、羇旅歌、四)や「伊勢物語」(第九段)にある、「名にしおはば いざ言問はむ みやこ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」という有名な歌をもじったようだ。釣り人を「水のうへに遊びつついをを食ふ」都鳥に見立て、「そんなに怒らなくても……」と、ほくそ笑みながら詠んだのであろう。

その後、三原から尾道を通るときにも、当時から酒蔵が多い場所だったのか、「をの道や 三原の酒旗の 風吹けば 口によだり(涎)を ながす舟人」と詠んでおり、宗因の少し緩んだような心持ちが感じられる。

ちなみに、この「道記」を「飛鳥川」という名で世に紹介された小宮豊隆氏が次のように述べていることにも、留意しておきたい。「最も悲痛な運命に置かれ、また最も悲痛な情感を基調とする旅の記述の中に、折折滑稽な、俳諧歌が出て来るといふ事実、然もその事実は、宗因に悲痛な運命を十分悲痛に受けとるだけの、人生に対する誠実な純粋な感情があつたといふ事を説明するとともに、一方では宗因に、苛烈な運命を最後には押し返して、それを超越しようとする意志があつたといふ事を証明するものであるといふ事は、後年の宗因の、談林の俳諧の本質を理解する上に、貴重な鍵を提供する」(*1)

 

旅先ならではの、人との交流もあった。周防灘すおうなだ上関かみのせきを過ぎたところで、荒天による待機となった折、松かげの小庵に住む老師がいた。所望されて、まがきに品よく植えられていた菊を念頭に一句捧げた。宗因は、「道記」のなかでこう独白している―う(憂)き中にも、旅こそは又心なぐさむ事はおほかれ。

第二は、宗因の心を慰めたものは、旅先で日々経験したことだけではなく、それを紀行文という散文のかたちに仕上げて行ったことのなかにもあったのではなかろうか、ということである。それまで和歌や連歌の修行に明け暮れていたなかで、われ知らず散文をしたためることになり、その過程そのものが、自らの心を和らげてくれた。これは、同様に和歌や漢文に専念してきた紀貫之が「土佐日記」で試した、小林秀雄先生が言うところの「自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみるという」「和文制作の実験」(「本居宣長」)を通じて体感した功徳くどくと同種のものであったに違いない(*2)

さらに、彼は後年、大名諸侯の求めに応じて日本各地を旅し、津山、奥州、筑紫太宰府などで多くの紀行文を記すことになるが、この「道記」を通じて得られた功徳がそれらの原体験になった面もあったのではあるまいか。

第三は、宗因は、単に全国を旅して紀行文を残したというだけではなく、人生いかに生きるべきかという処世上の態度として、居所を定めない生き方を貫き、最期の死所も不明というように「『一生旅程雲水』のごとき」(*3)生涯を閉じた、ということである。かれは「道記」の最後に、この我が身は、「古今和歌集」所収の「世の中は いづれかさして わがならむ 行き止まるをぞ 宿と定むる」(よみ人知らず、巻第十八、雑歌下、九八七)という歌そのままだ、と述懐しつつ一首詠んでいた。

くり返し おもへば世やは う(憂)かるべき 身はもとよりの しづのをだ巻(倭文の苧環)

「しづのをだ巻」の「しづ」は麻などで織った古代の布、「をだ巻」は織物を織るために麻などを球状に巻いたものを言い、そこから「しづのをだ巻」は「くり返し」や「賤しい」という言葉の序詞として使われることが多いが、ここでは自分はもともと賤しい身だ、その自分が「くり返しおもって(思って)みれば」と言っていて、歌意は、賤しい身の上だが、いや、だからこそ、気が滅入ることばかりの世の中でも、何度でも出直してやろう、である。私は前章で、「弱気に傾きがちな自らを奮起させるような、秘めた強い思いを感得せざるをなかった」と書いたが、まさにこの上洛の旅と執筆の経験こそが、その後の彼の生き方を決定付けた力強い原動力の一つとなったのではないだろうか。

最後に、宗因は、紀貫之はもちろん、柿本人麻呂ら「万葉集」の歌人、壬生忠岑みぶのただみねら「古今集」の歌人、そして菅原道真や紫式部などの歌や物語を踏まえて「道記」を書き上げている。それは、先達が味わってきた哀しみを、わが哀しみとして深く体感し追体験することである。宗因のその後の連歌修行と大阪天満宮連歌所の宗匠就任、さらには一世を風靡した俳諧活動の展開のなかにおいて、この「道記」を書いた経験が、古人との繋がりをまざまざと実感させ、彼が「人生いかに生きるべきか」と新たな道を切り拓いて行くうえで、豊かな糧とならなかったわけはないように思う。

 

 

十、連歌所宗匠 西山宗因

 

さて、寛永十年(一六三三)十月半ば、上洛した西山宗因は、旧主風庵(正方)が隠棲している京都堀河六条、本圀寺ほんこくじ塔頭たっちゅう近くの「夕顔の小家」に住んだ。しかし、京都の地は宗因にとって馴染みがない場所ではなかった。元和五年(一六一九)、十五歳で正方に仕え始めた彼は、元和八年(一六二二)に初上洛し、伏見肥後殿橋にあった加藤家伏見屋敷で公務に就く傍ら、里村南家に出入りし師昌琢しょうたく(*4)から連歌の指導を受けていたのである。里村家は、毎年正月の幕府御連歌始に宗匠として第一の連衆を務め、徳川三百年にわたり連歌界の頂点に君臨していた家柄であった。それから約八年間、宗因は京都で昌琢出座の連歌の席に連なるなど研鑽を積んでいたのである。

そして再上洛し連歌の席に交わることになったが、その約半分は、風庵の相手を勤めたりするなど、風庵に随って出座している(*3)。若い頃から何かと目をかけてきてくれた風庵への思慕の念は強かった。また、寛永十七年(一六四〇)から十八年頃には伏見に転居し、妻帯して長子伊之助(後の宗春)も生まれている。

ところが、正保元年(一六四四)八月、正方に対し、京都から追放し広島の松平(浅野)安芸守光晟みつあきら預りとする幕命が下った。再就職のつてを求めていた風庵の動きを、幕府が嫌ったものと思われる。それでも宗因は、しばしば広島を訪れて、風庵の消沈した気持ちを慰めた。その後、正保四年(一六四七)九月、宗因は里村家の推挙を得て、摂津南中島天満宮(大阪天満宮)連歌所宗匠に就任した。そこでまず宗因に与えられた使命は、長年にわたり中断していた月次つきなみ連歌の再興であった。しかしその翌年(慶安元年)、広島の風庵が発病し、九月にはこの世を去ってしまう。宗因は、度重なる広島往復などで慌ただしかったようで、月次連歌の再開は、翌慶安二年(一六五三)の正月にずれ込んだ。気付けば宗因も、四十五歳を迎えていた。

同年九月には、風庵の一周忌が営まれ、宗因は追善の千句を捧げた(「風庵懐旧千句」)。その冒頭でこのように述べている。

「……ことわり(理)のよわひ(齢)なれど、我身にとりては、たの(頼)む木陰の枯れは(果)つる心ち(地)ぞし侍る。志学のころ(頃)ほひより、ことに情をかけてめぐ(恵)みたて給し心ざしの程、いへばおろか也。されば、世俗のつたな(拙)きことの葉をひるがへして、ねがはくは其恩をむく(報)ふるはしにもなれ、……」

そして、自らを守り育ててくれた大木のような存在であった師の仏前に、こんな句を供えた。

つゐにゆく 月日は今日や 去年こぞの秋
きけば時雨に 露もろき袖……

 

明暦二年(一六五八)九月には、天満宮内の仮寓有芳庵から向栄庵に移居した。ちなみに現在は、大阪天満宮の大門の向かって右手に「西山宗因向栄庵跡」という石碑が立てられていて、天満宮の社殿などの風情とともに、当時の様子を偲ぶことができる。

さて、宗因の大阪やその周辺での活躍が進むにつれて、その舞台はさらに大きく広がって行く。大名諸侯の要請に応じて、全国各地を訪れる機会が増えた。前章でも触れたように「津山紀行」「奥州紀行」「筑紫太宰府記」「明石山庄記」などの紀行文は、その賜物である。わけても深い交流が続いたのは、岩城平の内藤左京亮義概よしむね風虎ふうこ、豊前小倉の小笠原右近将監忠真ただざね、播州明石の松平日向守信之という面々であった。

例えば、寛文五年(一六六五)二月、小笠原忠真公の七十賀を祝して、小倉城で興行された「小倉千句」(*5)がある。

寛文五年二月吉祥日

第一

花之何 十七日

とし毎の 若葉ぞためし 千世の春
忠真
子日ねのひの松を ことの葉の種
長真
うぐいすの 野べのあけぼのつけぞめて
光真
雪はちりつつ 霞たつ空
御内上
打出る 氷のひまの 滝つ浪
惣御代
さほの音する 末の川船
宗因
月はまだ 竹のしげみに へだたりて
 
軒の雫に のこるゆふ霧
 

 

連歌の第一句目である発句ほっくは忠真が詠み、その発句に連ねる脇(句)に嫡男長真、以下小笠原一門が続き、六句目からを宗因が詠んでいる。ただ実際には、下書きの存在から、宗因がすべてを代作したものと見られている。このように「今や宗因は、大阪天満宮の連歌所宗匠たるにとどまらない。天下諸侯の崇敬をあつめ、その扶持を受ける身」(*6)となっていたのである。

 

一方、実生活においては、必ずしも順風満帆というわけには行かなかった。寛文二年(一六六二)には、奥州行の間に長女を亡くした。旅先での又聞きであった。彼は、その時の状況をこう記していた。

「やつがれ(吾)がむすめ、文月のころ(失)せにけるとぶら(訪)ひをきくに、ともかくもおもひわかず、今までつげざりし故郷人もおぼつかなく、夢にやあらん、いつは(偽)りにもやと、よろづにおもひうるかたなし。

声をだに きかぬを聞きし 人づ(伝)ては さながら夢の わかれなりけり

いに(去)し春、老のわかれこそ心ぼぞ(細)うおもひしに、かくさかさま(逆様)なる愁にしづむは、返す返すつれなき命にこそ。……」(「奥州紀行 陸奥行脚記」)

さらに、「つれなき命」は長女だけではなかった。寛文六年(一六六六)には、次男も亡くした。翌同七年十月十八日には、親交の深かった小倉の小笠原忠真公が亡くなり、その二日後には妻(狩野探幽の女(むすめ)と言われている)までも喪ってしまった。このように、立て続く不幸に遭遇した彼の心境は、察するに余りあるものがある。

そんな宗因は、寛文十年(一六七〇)二月十五日、仏涅槃会ねはんえの日を選び、小倉の福聚寺二世法雲禅師のもと、従来から持ち続けていた出家遁世のねがいを遂げる。さらにその翌年には、連歌所宗匠職を長男の宗春に譲った。六十七歳になっていた。「家を出て世を捨て、一切を放下ほうげした宗因は、今や全く身も心も軽くなった。後年、談林一流の俳諧にまで発展した宗因の俳諧活動が、この出家遁世を境として俄然活気を呈してきた」(*6)のである。

 

十一、俳諧師 西山宗因

 

宗因による俳諧は、彼が五十歳になろうとする頃、すなわち承応二年(一六四九)頃から始まっている。例えば次の一句は、万治元年(一六五八)刊の「牛飼」に初めて出したものである。

ながむとて 花にもいたし 首の骨   梅翁(宗因)

上・中二句は「眺むとて 花にも いたく馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ」という西行の歌(「新古今和歌集」巻二春下)が念頭にあり、下句の日常語と組み合わせて、花を眺めすぎて首がいたくなってしまったよ、というおかしみも込めて表現した句である。

もう一つ、延宝二年(一六七四)刊の「宗因蚊柱かばしら百句」には、こういう箇所がある。

月もしれ 源氏のながれの 女なり

青暖簾あおのうれんの きりつぼのうち

一葉ちる宿は 餅ありだんご有

 

しかしこれが、当時広く受け入れられていた、松永貞徳ていとく(*7)を中心とする貞門俳諧の人々から強い非難を受けた。なかでも匿名のさる法師という人物は、目の前に現れた蚊柱を追い払うべく「渋団しぶうちわ」を出版して宗因を非難した。いったい何が非難されたのか? ここで「源氏のながれの女」とは、源氏の血を継いでいる女という意だが、次の「青暖簾」という言葉が、遊里の部屋にかかる暖簾を意味するため、その女が遊女を連想させ、それと光源氏の亡母桐壺更衣とを一緒にされたことに、去法師は「下劣の沙汰」「放埓ほうらつ至極也」と噛み付いた。貞徳は、俳諧を連歌の余興とはいえ、なるべく連歌や和歌の方に引き上げようと連歌の式目に準じた規則の整備などを行ってきていたため、門人にとっても、宗因が見せた自由奔放と破格は断じて許せないものだったのだ。

一方宗因にとってみれば、そもそも第一線を退いた後の七十歳の年寄りの余技に過ぎぬじゃないか、という気持ちもあったし、だからこそ余生は、それまで従ってきた連歌の諸制約や社会的な立場から解き放たれて、俳諧特有の滑稽こっけい諧謔かいぎゃくを自由に発揮、謳歌したいと思っていたのであろう。そんな心持ちで、非難の応酬に時間を費やすのは無益と感じたのか、彼自身が「渋団」に対してすぐに反論した様子は見られない。実は、それから六年後に刊行された俳諧集で次のように本音を漏らしている。「古風・当風・中昔、上手は上手、下手は下手、いづれをわきまへず、すいた事してあそぶにはしかじ。夢幻ゆめまぼろし戯言げげん也。谷三つとんで火をまねく、皆是あだしのの草の上の露」(「阿蘭陀丸二番船」)

ところが、むしろ宗因の支持者が黙ってはいなかった。その一人である岡西惟中いちゅう(*8)は、さっそく「渋団返答」を書いて師の擁護の先頭に立った。

さらに、その支持者の一人として、突如表舞台に現われた人物がいた。井原鶴永、のちの西鶴(*9)である。寛文十三年(一六七三)春、大阪生玉いくたま神社で万句俳諧が興行され、同六月末には、鶴永の処女撰書「生玉万句」として刊行された。江本裕氏によれば、宗因はもちろん、宗因との関係の深い人物も出句している(*10)。最後の三句を紹介しよう。

さく花や 懐紙かいしあはせて 四百本
井原鶴永
水引壱青柳の糸
南方由
春風を おさむるへぎ(片木)に 熨斗のし添へて
西山西翁

宗因も、鶴永による興行の成就を祝しているようである。

なお、同年(延宝元年に改元)冬、鶴永は、宗因の姓から一字いただき西鶴と改号した。彼の喜ぶ「鶴の一声」が聞こえてきそうだ。ともあれ、このとき彼は三十二歳、宗因に学んだ誹諧も存分に糧としたうえで、「豊富な古典的知識と艶麗の天稟てんぴんと雄偉の文章をもって」(*11)浮世草子として著名な処女作「好色一代男」を書き上げ、時代の寵児ちょうじとなるのは、この九年後のことである(*12)

 

さて、この延宝元年から延宝二年(一六七四)にかけて、「西山宗因千句」「西山宗因後五百韻」「西山宗因蚊柱百句」「宗因五百句」「西山宗因釈教誹諧」というように、宗因の名を冠した俳書が立て続けに刊行されている。これは、宗因の個人的人気に便乗した当時の書肆(書店)が積極的に出版したものである。しかしながら、これらの出版に関し、どこまで宗因の息がかかっていたかは、先に見た「渋団」に沈黙を通した彼の態度などを勘案すれば、はなはだ疑問である。しかしながら、乾裕幸氏の指摘の通り「『西山宗因』の四字は、いまやすこぶる効率の高い引札として世間に通用した」のであり、商業出版界の興隆と時を同じくするかたちで、本人の意思とは別にして、宗因の人気はうなぎ登りとなっていった(*13)

 

(*1)小宮豊隆「宗因の『飛鳥川』に就いて」、「芭蕉の研究」岩波書店

(*2)「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ―紀貫之の「実験」、「好*信*楽」2024年冬号、

(*3)野間光辰「連歌師宗因」、「談林叢談」岩波書店

(*4)天正二年(一五七四)~寛永十三年(一六三六)。昌叱の子。

(*5)千句とは、発句から脇(句)、第三と続け、最後の挙句までの百句を百韻とし、それを十巻千句にまとめたもの。

(*6)野間光辰「西山宗因」、同上書

(*7)元亀二年(一五七一)~承応二年(一六五三)。里村北家の紹巴(じょうは)から連歌を、九条稙通(たねみち)・細川幽斎に和歌・歌学を学ぶ。

(*8)寛永十六年(一六三九)~正徳元年(一七一一)。

(*9)寛永十九年(一六四二)~元禄六年(一六九三)。

(*10)江本裕「俳諧師 西鶴」、「西鶴への招待」岩波セミナーブックス49

(*11)保田與重郎「芭蕉」講談社学術文庫

(*12)例えば、熊本生まれの言論人、徳富蘇峰は、西鶴を次のように評している―彼が宗因門下の俳諧師としての生立ちは、浮世草子の作者としての彼に、多大の感化を与えた。その句法においては、発句(ほっく)式に、なるべく少なき文字にて、多くの意味を言い現さんとし、その章法においては、連歌式に、聯想(れんそう)によりて一話頭から、他の話題に飛び越す慣用手段を取らしめた。而(しこう)して両者は、時としては彼が文章の長技となり、時としては短所となったが、しかも彼の特色は、全くこれによりて発揮せられた。(「近世日本国民史 元禄時代世相篇」講談社学術文庫)

(*13)乾裕幸「俳諧師西鶴 考証と論」、「前田国文選書1」

 

【参考文献】

・柿衛文庫、八代市立博物館未来の森ミュージアム、日本書道美術館編「宗因から芭蕉へ ―西山宗因生誕四百年記念」八木書店

 

(つづく)

 

編集後記

春号の幕開けは、荻野徹さんの「巻頭劇場」からである。いつもの四人が話題にしているのは、本居宣長が「徂徠学の急所があると認め」て印写している孔子の言葉である。三百篇もの詩を、たんに暗誦することは「詩」を学ぶことではない、『詩』は言語の教えである、という考えが、(坂口注;荻生)徂徠の言葉を引きながらくわしく述べられているくだりだ。たとえ難解ではあっても、ここに「本居宣長」の急所あり、と直観したかのように、四人の対話は急速に深まっていく。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、本多哲也さんと橋本明子さんが寄稿された。

本多さんが熟視したのは、宣長の文章から感じられる「うまく表現できないもどかしさ」についてである。いや、より正確に言えば、その「もどかしさ」に小林先生がいかに向き合ったのか、についてだ。先生が記している本文を丁寧に追っていくと、そこに「先生にとっての訓詁の根幹」が見えてきた。「もどかしさ」に向き合う先生の姿が見えてきた。

橋本さんは、第四十三章にある、宣長にとって「古事記」という「御典ミフミを読むとは、わが心を読むという事であった」という小林先生の言葉を熟視している。宣長は、三十五年間、その「御典」と毎日向き合った。彼は晩年、その心構えについて「うひ山ぶみ」に詳しく記している。しかしその言葉は、宣長の「感想」として片づけてしまえるほど、軽い言葉ではないことに、橋本さんは気付かされた。さらには、人口に膾炙している、あの、宣長が詠んだ歌の深意にも触れることができた。

 

 

今号から、本多哲也さんによる「先人の懐に入り込む——小林秀雄と丸山眞男をめぐって」と題した新連載が始まった。連載寄稿のきっかけとなった小林先生の言葉がある―「私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている」(「哲学」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)。この言葉を胸中に抱きつつ、本多さんはこれから、徂徠や宣長は言うまでもなく、丸山眞男氏や小林先生の懐にどのように入り込んでいくのか、興味が尽きない。乞うご期待の新連載である。

 

 

私たち「小林秀雄に学ぶ塾」では、小林先生が「本居宣長」の執筆に少なくとも十二年六ヶ月をかけたことにならい、一年に全五十章の通読を十二回繰り返すという、螺旋らせん的な学びの階段を少しずつ登ってきた。毎年、「本居宣長」のなかの熟視対象箇所を定めると、そこに何度も向き合い、所定の字数を前提に、池田雅延塾頭を介した小林先生への質問と自答を考え、整え、担当月に発表に立つ。さらには、池田塾頭からの助言を踏まえて、本誌への寄稿のための文章として磨き上げる、そんなサイクルを何度も繰り返してきたのだ。本年度は、いよいよその最後の一段を登る。

質問の事前検討や本誌寄稿のための磨き上げには相応の時間もかかるし、簡単には行かない。初学者であればなおさらだ。そんななか、本塾に途中参加した私自身にとって、力強い支えとなってきた、宣長が晩年に残した言葉がある。

センずるところ学問は、ただ年月長くウマずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし。又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし。されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也。又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、またイトマのなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶことのオソきや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、ヤムることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」(「うひ山ぶみ」)

 

晩学で、実生活上の時間的余裕もそう多くは持てない身として、どれだけ助けられたことか知れない。もちろん、この文章の深意については、小林先生が「本居宣長補記Ⅰ」で詳しく記されている通りである。とにかくこの一年も、「倦ずおこたらずして、はげみつとむる」ことを肝に銘じ、いよいよ胸突き八丁となる最後の一段を登ることとしたい。

はたしてその先には、どのような光景が眼前に広がっているのであろうか。

 

 

杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅳ

八、肥後牢人の「肥後道記」

 

西山宗因とは、第二章でも触れた通り、ともに元禄の文豪とも呼ばれた松尾芭蕉や井原西鶴が敬愛した、肥後生まれの連歌師であり俳諧師である。宗因いみなは豊一)は、加藤清正の家臣、西山次郎左衛門の子として、慶長十年(一六〇五)に熊本で生まれた。慶長十年と言えば、関ヶ原の戦いも終結して五年、清正も、天草など一部を除く肥後全土を領有し、「肥後守」の官途も得て順風満帆、熊本にも平穏が訪れていた頃である。

その後、慶長十六年(一六一一)に清正が没し、翌年には息子の虎藤が加藤忠広として正式な相続を許された。ほぼ時を同じくして、契沖の祖父下川又左衛門とともに、清正と忠広を支えてきた加藤右馬允うまのじょう正方が、阿蘇内牧うちのまき城代から八代城代に異動した。その約七年後の元和五年(一六一九)、十五歳の宗因は正方の側近として仕えることになる。

肥後の国難の極みともいえる、加藤家の改易の処分が下されたのが、それから十三年後の寛永九年(一六三二)である。同年五月には、忠広と正方は江戸に召喚された。宗因は、熊本に引き返して城を受け取る幕府上使を迎える準備を担当した正方に同行し、慌ただしい時間を過ごしたものと思われる。城の明け渡し後も、ただちに正方に従って上洛、さらに江戸に下ったあと、翌十年(一六三三)の七月頃に京都へ戻った。

しかし、「猶、住みな(慣)れし国の事はわすれ(忘)れがたく、親はらから(同胞)恋しき人おほ(多)くて」(以下()は坂口注)、城主も替わってしまった熊本に帰郷する。しかし、家族と再会を果たしても、前年からの一連の出来事について、交わす言葉も見つからなかった…… 老親や旧友には慰留されたものの、「行末とてもさだ(定)めたる事もなけれど」、京都では人目をはばかることもなかろうと、ついに宗因は、故郷を出て再上京することを決意、九月下旬に出発した。

 

その道中を記した紀行文が遺されている。「肥後道記」(*1、以下「道記」)である。「道記」については、専門書や論文のなかでは一部を抜粋するかたちで紹介されているものの、一般書でその内容や注釈を概括的に目にする機会はほとんどないため、ここでは少し詳しく本文を見て行きたい。少々長くなるが、読者の皆さんには、ぜひ当時の宗因の心持ちになって、もしくは宗因の旅に同行する立場で、ともに読み進めていただければと思う。

 

まず、冒頭は「飛鳥川の渕瀬常ならぬ世は、今更おどろくべきにしもあらねど」という前置きから始まる。この文章は、「古今和歌集」(以下、「古今集」)の以下の歌が背景にあるようだ。

世の中は なにか常なる あすか川 昨日の淵ぞ 今日は瀬となる

(よみ人しらず 巻第十八、雑歌下 九三三)

飛鳥川は河道が不安定なため、常ならぬことを現すものとして歌われてきたように、宗因にとっても、今般の改易の事態はあまりにも急襲であった。それは、寛永九年五月二十九日に改易決定、六月四日には配流の地、庄内に向けて出立した主君の忠広にとっては、なおさらのことであり、他の事案と比べても「かかるとみ(頓)の事はな(無)くやありけむ」(こんなに急なことは例がないだろう)と宗因は嘆いている。

そして前述の通り、苦渋の決断の末、家族や友人からの慰留を断ち京都へ向かった。彼はその時の心持ちを、このように記している。

「道すがらも涙にくれまど(暗れ惑)ひて、かへり(顧)みる宿の梢もいとどしく、朝霧ひまなく立ち渡りて……」

ここにある「宿の梢」という表現は、太宰府への左遷が決定した菅原道真みちざねが、道中、山崎という場所で出家した後、都に残してきた妻に向けて詠んだ歌にも使われていた言葉である。

君が住む 宿の梢を ゆくゆくと 隠るるまでも 返り見しはや

(「大鏡」)

道真は、出立後の道すがら、妻が住む家の梢が隠れて見えなくなるまで、何度も振り返り見た。それでは宗因は、何を返り見たのか? 熊本の城である。

「此城郭をきづ(築)きて、玉の台にみが(磨)きしつらひ給ひし時は、いつの世までも我御すゑのみとこそおぼし置けめど、わづか二代にしてかく引かへうつろひ行さま、夢とやいはむ、うつつとやいはむ」。

「古今集」にある、壬生みぶの忠岑ただみねの歌が思い出される。

あひ知れりける人の見罷りにける時によめる

るがうちに 見るをのみやは 夢と言はむ はかなき世をも 現とは見ず

(巻第十六、哀傷歌、八三五)

正方の側近として見聞きしてきた、華やか行事の数々も脳裏をよぎる。

「そのかみ、栄花のさか(盛)りにいまして、春秋の時につけたる遊興ゆぎゃうなどまのあたり見聞きし事どもなれば、なみだもをさへがたし」。

続けて、こういう歌を詠んだ。

思出おもひいづる 見し世の花は 目の前の 木の葉ともろき なみだなりけり

古人が詠んだ、こういう歌もあった。

木の葉散る しぐれ(時雨)やまが(紛)ふ わが袖に もろき涙の 色とみるまで

(右衛門督通具「新古今和歌集」、五六〇)

あの栄花は、今や紅涙となって、わが袖を濡らしている……

思いがけず自身を急襲した境遇の辛さに耐えられず、もう一首詠んだ。

(掛)けざりし 今のつらさに さだめなき 世は又たの(恃)む 行末のそら

懐かしい八代城も最後に一目ひとめと思ったが、精進してきた歌の道も、まだ一人前ではない身で、うろうろしている様を人に見られるのも憚られ、引き返した。

「八代の城は、としごろ(年頃)たの(恃)みしかげにてすみなれたる所なれば、名残りに見にまかりたくは侍れど、さすがに時にあひはな(華)やかなるふるま(振舞)ひこそせざりしかど、あたりちかくつか(仕)へ、こと更つらね歌の道にまつ(纏)はされたる身の、おとろへものげな(物気無)きあしもとにて、さまよひみ(見)られんよりもとおもひ返す。ことにおもひ出るは、ゆふば川、悟真寺、白木社の御前の山也。

春の山 秋のもみぢに しめゆひ(染木綿)し かげしも今は たれならすらん」。

鳥津亮二氏によれば、ここで「八代の城」とは正方が築城した八代城(松江城)、「ゆうは(夕葉)川」は球磨川、「悟真寺」は征西将軍懐良かねよし親王(後醍醐天皇の皇子)を供養する曹洞宗の名刹、「白木社」は妙見信仰と華やかな祭礼で有名な妙見社(現八代神社)、その「御前の山」とはかつて相良氏時代の八代城(古麓城)が築かれた山々を指しており、いずれも八代の自然と歴史を象徴する景観である(「西山宗因と肥後八代・加藤家」、「宗因から芭蕉へ」所収、八木書店)

 

九月二十五日の夜には、肥後の最北、筑後との国境くにざかいに位置する南関に着いた。以前訪れた、水都、筑後柳川の町のことが思い出された。

「柳川と云所に、さることありて二度三たびまかりかよひし時は、里のおさなどこよろぎの(小余綾の、「いそぎ」にかかる枕詞)いそ(急)ぎありきて、あるじまうけ(饗設)などとりまかなひ、さまざま興有しことども、今のやうにおぼえて、

いで我を 関の関守 とがむなよ むかしをしのぶ 袖の涙ぞ」

野間光辰氏によれば、文中にある「さること」とは、容易ならざる「こと」であった。元和六年(一六二〇)八月、筑後の領主田中忠政が逝去、後嗣がないため領地没収となった。この時、隣境する佐賀・熊本両藩は番勢を差し遣わすよう命ぜられ、加藤家からは正方が、相当の人数を具して出張したのである(「宗因と正方」、「談林叢談」所収、岩波書店)。宗因もその一員となったようだが、正方の側近となって二年目の出来事であり、記憶も鮮明だったのだろう。

 

二十七日の夜には、筑前の飯塚の宿で粗食をとり、歌を詠んだ。

ふるさとを こふるなみだに ほとび(潤)けり しひの葉にもる いゐづか(飯塚)の宿

飯塚という地名に掛詞の着想を得たのだろう。「伊勢物語」の九段、有名な三河八橋やつはしくだりにある、「みな人かれいひ(乾飯)の上に涙落してほとびにけり」という表現を使っている。ちなみに、「椎の葉にもる」という表現は、皇太子中大兄皇子らにより謀反の濡れ衣を着せられた有間皇子ありまのみこが、囚われ紀伊に護送される途中に詠んだ歌にある。

家なれば に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

(「万葉集」巻二、挽歌、一四二)

有間皇子ではないが、道中の宗因は眠れぬ夜を過ごした。

「夜更けぬれば、時雨しぐれあらあら(荒々)しうして、いとどしくね(寝)られぬままに、き(来)し方行さきおもひつづくる中にも、とし老たる親のことを思ひて、さらぬわかれはなくもがなと、諸天にあふぎて、

人の子の いのるよはひ(齢)や 霜の松

住みなれし 草のいほりを 思出おもひいづる おりあはれなる 小夜時雨かな

 

親の次に思い出したのは、幼児の頃から和歌の手ほどきを受けた、熊本釈将寺の豪信僧都の面影だった。

「釈将寺豪信僧都は、吾あげまき(総角)のころよりなにはづ(難波津、幼児が手習の初めに学んだ歌、*2)のことの葉をもをしへ給ひて、師弟のむつ(睦)び年久しく侍れば、別の時も、後会こうかひ頼りがたしとおもへるけしき(気色)のわす(忘)れがたくて、

老いぬれば 是やかぎりと なげきける 人の別れぞ ことにかなしき」。

野間氏によれば、慶長十七年(一六一二)、宗因は、八歳入学の古例に従って、釈将寺に寺入りして、僧都から和歌を学んだものと思われる。岩立山一乗院釈将寺は、天台宗比叡山正覚院の末寺、法印権大阿闍梨豪信大和尚(寛永十二年寂)が開山、その後明治にいたって廃寺となった。現在の、熊本市西区京町台地にある九州森林管理局(旧、熊本営林局)の辺りと推定される。近くには、幼い宗因が息を切らしつつ登ったであろう細い坂道があって、今や、釈将寺坂という名称だけが当時の名残を感じさせる(*3)

 

二十九日には、関門海峡を渡り、赤間関あかまがせきに着いた。これからは海路となるため、順風を待つこと二、三日。その時間を使って、源氏と平家の壇ノ浦の戦いに敗れ、平清盛の妻、二位殿とともに入水した幼帝安徳天皇が祀られた阿弥陀寺(現、赤間神宮)を参拝した。「雲上の龍、下って海底のうをとならせ給ふ」という「平家物語」(巻第十一、早鞆)の一節を思い出し、「感涙肝に銘じ、つたなき詞をつづりて、いともかしこき御前に廻向ゑかうし奉る。

あら(荒)かりし 波のさはぎや 聞人きくひとの 代々のなみだの 海となるらん

散失ちりうせぬ 名をきくあとの もみぢかな」。

 

なんとか順風到来、十月三日に船出ができた。

「神無月三日、船人、はや舟にのれ、順風なりといへば、のりて行に、こなたの山のふもとに社頭あり。……四日、にはか(俄)に風おこり、波あれたり。五日、六日、同じ風なれば、おなじみなと(湊)にあり」。

陸に降りてみると、松の木陰にこじんまりとした小庵がある。菊やりんどうが植えてあり、趣きがある。年老いた法師が住んでいて、案内されるがまま中にお邪魔した。「五柳先生(陶淵明)の閑居のようですね」と申し上げると、「そうではありません。花々を仏さまに差し上げたいだけで……」というふうに語り合った。「和歌や連歌を嗜まれるなら、忘れ形見にひとつ」と所望されたので、こう詠んだ。

よりてこそ それとしら菊 磯の波

翌日は天候もよく出帆となった。老僧は、おぼつかない足どりで海辺まで出てきてくれて、船が遠ざかるまで、しっかりと見送ってくれた。その時の心持ちを、宗因はこのように述懐している。かの老人はどんな経緯があって、このような場所で世捨て人として暮らしているのだろうか……立ち寄ってみたからこそ、思いもかけず、渚に近い小庵で美しい白菊を眼にすることができた。もちろん、その花を丹精込めて育てている老法師にも。

 

七日の昼頃、釣り船があったので、釣り人の爺さんに声をかけ、釣果ちょうかを見せてもらった。見たことのない魚ばかりで、あれやこれや言っていると、爺さんは代金を支払うのが遅いことに腹を立て、「もう買ってもらわなくてもいい!」などと怒っている。そこでこう詠んだ。

釣人よ ま(待)て事問わん みなか(皆買)はば いかばかりせん 魚のあたひ(値)

その後、三原から尾道を通る。当時も酒蔵が多い場所だったようだ。波穏やかな海域でもあり、宗因の気持ちも少しは緩んだのだろうか。

をの道や 三原の酒旗の 風吹けば 口によだり(涎)を ながす舟人

 

同夜には、当時から「潮待ちのみなと」として栄えていたともの浦に着き、順風を待つ。

「観音堂の鐘のこゑ、泉水島の松風、心すごくきこえて、ねられぬままにおきゐつつみれば、あま(海人)のいさ(漁)り火しろ(白)う霜は天に満て、楓橋の夜泊おもひやらるる夜のさま也。

波をやく 漁火いさりび寒き 入江かな」

 

夜更けに微睡まどろんでいると、夢中なのか、故郷ふるさとのことを見ているような心持になった。

時雨しぐれ苫打音とまうつおとにおどろかされて名残かなしく、ものをつくづくとおもふに、故郷に母あり、秋風涙といふ旧詩をふと思出て、なみだも時雨とともにふりまさりて、

故郷に とま打つ雨は ならひ(冬季に吹く寒風)にき いたくなか(掛)けそ あら磯のなみ

さらぬだに 旅はねぬ夜の 時雨哉」

ここで「秋風涙といふ旧詩」とは、我が国に漂着した迂陵島(鬱陵島)の異国人に代わり、源為憲(*4)が作ったという漢詩で、故鄕有母秋風涙(故郷に母有り秋風(しうふう)の涙)という文言がある。

夜中に船出し、朝になると、あちこちの岩に松が生えていて、絵師に見せたいほどの光景が広がった。

「浦の苫屋より、煙のほそ(細)う立のぼりたるもおかし。釣の翁、あまの子どもの何事にかあらん、聞もしらぬことさへづりて、かいつもの(貝つ物)ひろ(拾)ひて行帰るさまも、所に(似)つけたる見もの也。う(憂)き中にも、旅こそは又心なぐさ(慰)む事はおほかれ」。

欲を言えば、こんなときこそ同行の友がいてくれたら、とも思う。

松を見ば 霜のしら洲の 渚哉

そういう人たちがいてくれたら、この発句ほっくに脇句を考えてくれ、とか、第三句もぜひ……などと言い合うところなのだが、仕方がないので、自ら脇句と第三を付けた。

なみの立居に 千鳥なく声

あま衣 うら風さむみ 舟よせて

ちなみに、連歌や俳諧では、連句の場合、発端の句を五・七・五で詠み「発句」と呼ぶ。その発句に連ねて七・七で詠むのが「脇句」であり、体言の漢字留めとすることが多い。さらに発句と脇句に連ねるのが「第三」であり、第四句以降の「平句」につながるよう助詞留めがよいとされている(ここでは「て留め」)。なお、俳諧では、その後の発展に伴い、この三句の付け方の違いが変化していったり、発句だけが独立して詠まれることも多くなる。

 

九日には、室の津の湊に着いた。美しい月に促されるように、明神(賀茂神社)に参詣すると、拝殿のそばに旅人らしい法師がいた。

「いづくよりいづくへ行人ぞとと(問)はれしかば、

人とはば そもそも是は 九州の 肥後牢人の わぶ(侘)と答えん

とおもへど、はじめたる人に歌よみかけんもいかがにて、ただにし(西)国より京へのぼる也とこたふ」。

今度は、こちらから「あなた様はどちらへ」と聞いてみると、自分は山法師で因幡いなばに下ったのち、都に戻るところだと答えた。仮に自分(宗因)が歌で答えていたとしたら、このような返歌が欲しかったところだと、心のうちで詠んだ。

立別たちわかれ いなば(因幡・去なばを掛ける)の山の 畑におふる ひえ(稗・日枝を掛ける)坂もとと きかばたづねん

 

十日は、播磨灘を東へ進む。高砂を過ぎると、明石の浦が見えてきた。さすがに名の通った磯の風情の見事さは、言語に絶する。柿本人麻呂が詠んだ光景そのものだった。

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れゆく 船をしぞ思う

(巻第九、羇旅歌、四〇九)

ここまで来ると、「源氏物語」に描かれた情景も眼に浮かぶ。明石の入道が、高潮を恐れて、娘を住まわせていた「岡部の宿」もあの辺りにあったのかと想像をふくらませてみた。

「かの入道のおこなひつとめたるすみかも、かの見ゆる岡べにやと、さまざま心とまる浦のけしき也。若紫の巻に、はりま(播磨)のあかしのうら(明石の浦)こそ猶ことに侍れ、なにのいたりふかきくま(至り深き隈)はなけれども、ただ海のおもて(面)を見わたしたるほど、こと(異)所にに(似)ずゆほびかなる所に侍るとかける紫式部が筆の海に、あまの小舟うかびたるをみて、

目にさはる 物こそなけれ あかし潟 あまの釣する 小舟ならでは

月の時に みぬをあかしの うらみ哉」。

 

続いて、須磨を通過する。この場所で、都から遠ざかっていた在原業平や、十五夜の宵に都を思う源氏の君によって詠われた歌を思い出し、袖を濡らしてしまった。

田村の御時に、事にあたりて、摂津国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮の内につかわしける

わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ

(在原業平朝臣、巻第十八、雑歌下、九六二)

見るほどぞ しばしなぐさむ めぐりあはむ 月の都は 遥かなれども

(「須磨」、「源氏物語」)

 

敦盛塚が近づいてきた。ここは、十七歳の平敦盛あつもりが、熊谷次郎直実なおざねによって御首かれた場所である(「平家物語」巻第九「一の谷」)。直実はこれに発心し、出家したと言われている。わずかに卒塔婆だけが見える。

「さしも優なる若武者の、此渚に身をを(終)はりけるよと、哀もすくなからず。まことや、直実がたけきもののふごころ(猛き武士心)に、たちまち悪念をひるがへして讃仏乗さんぶつじようの因となせる、有がたき道心かなと、結縁けちえんもせまほしくて、

苔の下の 霜にうづまぬ なぎさ哉」。

 

十二日には、ようやく難波なにはに着いた。

「入江に舟よせておりぬ。江村夕照を打ながめて、心ある人に見せまほしく、沢のほとりをうそぶきありくに、西行法しの夢なれやといひし、あしのかれ葉のなみよるを見て、

ながめすてて 夢と成りにし ことのはを なにはのあしに 残すうら風」。

西行は、こう詠んでいた。

津の国の 難波の春は 夢なれや あしの枯れ葉に 風渡るなり

(「新古今和歌集」冬)

 

十四日、夜が明けてから、川船で江口、鳥飼という付近を遡行する。

「紀貫之、土左の任のは(果)ててのぼる道の日記に、よこ(横)ほれる山の見ゆるとかけるもあの山にや、とながめやりて行に、ほどなく男山のふもとを過る」。

ここで宗因は、貫之と同じように淀川を遡行しており、「土佐日記」の記述を思い出している。いや、私には、この「道記」そのものが、「土佐日記」をまざまざと想起させる。まず「土佐日記」は、五十五日分の記事が日付順に収められており、「形態的には日次ひなみ記である漢文日記を踏まえたもの」(*5)と言われているが、「道記」も同様である。第二に、日記文学と歌が一体化している「旅日記風の歌語り」(*6)という点でも共通している。第三に、十月三日の段に「船人、はや舟にのれ、順風なりといへば、のりて行に、……」という記述があるが、「土佐日記」にある「楫取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやくいなむとて、『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」という語勢と共鳴する。第四に、これが最も重要なことであるが、作品の背景にある作者の心持ちに思いを致してみたい。

貫之は、任地の土佐で、連れて行った女児を亡くした。さらにはその任期中、最大の庇護者であった藤原兼輔(紫式部の曽祖父)、「古今集」の編纂を命じられた醍醐天皇、兼輔の母、歌合せで世話になった宇多天皇、そして、もう一人の庇護者であった藤原定方を立て続けに亡くしていた。さらには、帰京後の官途も定まっていないという、大きな人生の不如意に直面する中で「土佐日記」を書き上げたのである(*7)。一方、宗因については、言わずもがなであろう。

 

少々脇道にそれたので、終幕に近づいてきた宗因の旅に戻って先に進めよう。

十四日には、京都に入った。

「かくてとしごろたのみたる人、今は世の望もなし、年の残りもいくばくならじとて、かざりをもおろし、しもつかたの堀河法花三昧おこなふ寺あり。その寺の林下にやぶれたる風の庵りをむすばれしに、予も又かたはらちかき夕顔の小家をしつらひて、ゑみの眉ひらけぬ有さまにてぞ侍る也」。

「としごろたのみたる人」とは、長年仕えた加藤正方、改め加藤風庵のことである。風庵は、一足はやく京都堀河六条の本圀寺の塔頭たっちゅう了覚院に隠棲していた。ちなみに「ゑみの眉ひらけぬ」というのは、「源氏物語」の「夕顔」の中で、源氏の君が訪問先の隣家の夕顔の花に見とれている場面で、「白き花ぞ、おのれひとり笑の眉ひらけたる」(真白い花がわれひとり快(こころよ)げに咲き匂っている)(*8)と言う言葉を逆手に取ったものだ。心配事ばかりで心休まらぬと言いたいのである。

 

続けて、宗因はこのように言う。

「世中はいづくかさしてといへる古歌に、よくもかな(適)へる身かな。

くり返し おもへば世やは う(憂)かるべき 身はもとよりの しづのをだ巻(倭文の苧環)

ここで「世中はいづくかさしてといへる古歌」とは、「古今集」にある次の歌である。

世の中は いづれかさして わがならむ 行き止まるをぞ 宿と定むる

(よみ人知らず、巻第十八、雑歌下、九八七)

たとえ野であれ山であれ、行きどまった所をわが住処と定めよう、という心境を、宗因も自らのものとしていたのであろう。

一方「倭文しづ苧環をだまき」とは、古代の質素な倭文織りの糸巻のことを言い、繰り返し糸を巻き付けることから、「繰返し」「いやし」などと縁の深い言葉である。あの忌まわしい事件が起きてからというもの、非情な世の中を何度憂いてみたことか、いや、所詮賤しい身であればこそ、何度でも立ち上がってみせよう。

私は、彼が道記の最後に詠んだ歌に、弱気に傾きがちな自らを奮起させるような、秘めた強い思いを感得せざるをえなかった。

 

 

(*1)「西山宗因全集」第四巻所収、八木書店。小宮豊隆氏は「道記」を「飛鳥川」と呼んでいる(「宗因の『飛鳥川』に就いて」、「芭蕉の研究」(岩波書店)所収)

(*2)王仁(わに)が仁徳天皇に奉ったと伝わる、「古今集」仮名序にある「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」という歌。

(*3)昭和三十四年に発表された野間氏の論文(「西山宗因」、「談林叢談」所収、岩波書店)によれば、郷土史家の豊田幸吉氏の調査によって判明したこととして、営林局の敷地の南北済に歴代住持の墓碑が残存するとのことだが、現時点では確認できていない。

(*4)?~寛弘八年(一〇一一)

(*5)西山秀人「土佐日記」解説、角川ソフィア文庫

(*6)木村正中「土佐日記 貫之集」解説、新潮日本古典集成

(*7)坂口慶樹「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ―紀貫之の『実験』」、本誌2024年冬号所収

(*8)円地文子訳「源氏物語」巻一、新潮文庫

 

 

【参考文献】

・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)

・柿衛文庫、八代市立博物館未来の森ミュージアム、日本書道美術館編「宗因から芭蕉へ ―西山宗因生誕四百年記念」八木書店

・野間光辰「談林叢談」岩波書店

・伊藤博「萬葉集注釈」集英社

 

(つづく)

 

物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅲ
 
  ―古代人の心ばえへ

「枕草子」のなかに、一条天皇(*1)の中宮定子ていしが、天皇の祖父、村上天皇(*2)時代の逸話を披露する場面がある。左大臣、藤原師尹もろただが娘の芳子ほうしへの教育の一環として、第一に習字の稽古、第二に琴など絃楽器の演奏、第三に「古今和歌集」(以下、「古今集」)二十巻の暗誦あんしょうを推奨していた。さらには、ある時「古今集」の歌に関する村上天皇からの質問に対して、芳子は全巻にわたり一句も誤ることなく答えられたそうで、その話を聞いた一条天皇も感心しきりであったという(「枕草子」第二十段)

このような「古今集」の暗誦や筆写は、当時の宮廷や貴族の娘にとっては、必須の教養であった。それは「源氏物語」の作者、紫式部にとっても同様であったことは言うまでもない。

ちなみに、「源氏物語事典」(池田亀鑑篇、東京堂出版)によれば、式部が引用している「古今集」の歌は、百九十二首ある。次いで、「拾遺和歌集」七十八首、「後撰ごせん和歌集」七十四首であることからすれば、「古今集」からの引用が群を抜いている。具体例を見てみよう。

「若菜下」の巻に、源氏の君が柏木衛門ゑもんかみの方を凝視しながら、このように言う場面がある。

「『過ぐるよはひに添へては、ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門ゑもんかみ心とどめてほほゑまるる、いと心はづかしや。さりとも今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。おいはえのが(逃)れぬわざなり』とて、うち見やりたまふに……」

これは、源氏の不在に乗じて、彼のもとに輿こし入れしていた女三の宮に通じた、若き柏木に対して、それを察知した初老の源氏が、朱雀院の五十賀の試楽(リハーサル)の場で、見えぬ矢を射通いとおすように発した科白せりふである。ちなみに、このあと柏木は、恐怖と絶望から病臥の身に陥ってしまう。これは、本巻の核心中の核心と言ってもいい科白なのである。

一方、「古今集」には、こういう歌が収められている。

さかさまに 年も行かなむ 取りもあへず 過ぐるよはひや ともにかへると

(巻第十七、雑歌上、八九六、よみ人知らず)

詠われているのは、「年月よ、逆行してくれないだろうか、過ぎ去ってしまった私の年齢が戻ってくるように」という切実な気持ちだ。先ほどの源氏による「さかさまに行かぬ年月よ」という言葉は、まさにこの歌の心が汲み取られていたのである。

 

もう一つ紹介したい。「若菜上」の巻で、女三の宮との新婚四日目、源氏は、それにより正妻の立場をなくした紫の上を慮って、ひとまず紫の上の住まいに戻った。翌朝、源氏は三の宮へふみを出し、紫の上への配慮か、その返事を屋外で待つ、という場面である。

(源氏は)「白き御衣おんぞどもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、友待つ雪のほのかに残れる上にうち散り添う空をながめたまへり。鶯の若やかに、近き紅梅の末にうち鳴きたるを、『袖こそ匂へ』と花を引き隠して、御簾みすおしあげてながめたまへるさま、夢にも、かかる人の親にて、重き位と見えたまはず、若うなまめかしき御さまなり」。

ここで、「友待つ雪」とは、あとから降る雪を待ちうける雪、の意であり、例えば、紀貫之は「降りそめて 友待つ雪は ぬば玉の わが黒髪の かはるなりけり」(「貫之集」八一七)という歌を詠んでいた。さらに、源氏が言った「袖こそ匂へ」という言葉は、「古今集」の、次の歌をもとにしたものである。

折りつれば 袖こそ匂へ むめの花 ありとやここに 鶯の鳴く

(巻第一、春歌上、三二、よみ人知らず)

源氏は、この歌を踏まえて、鶯が近くまで来ていたので、女三の宮への文に添えるために先ほど手折った梅の枝を隠したのである。

以上見てきたように、「散文の中によく知られた歌の一節を引用し、その歌全体の表現を想起させることによって文章に奥行を与える技法、あるいは引用された歌自体のこと」(*3)引歌ひきうたというが、式部のその技の秀抜さについては、竹西寛子氏が書いている次の文章こそ正鵠を得ていると思うので、そのまま引いておきたい。

「この物語の作者に養分を吸い上げられた『さかさまに……』の一首は、物語の中では、具体的な、多くの現象を収斂しゅうれんする、いきいきした言葉として生まれ変わっているのであり、古今集の中で読むこの歌の、理につき過ぎたという印象さえほとんど疑わせるほどの新たな活用ぶりに、源氏の物語の作者の、物語作家としての古今集享受の一様相を知らされるのである」(*4)

 

このように、式部の作品には、貫之が編纂した「古今集」や貫之の歌が、多数血肉化されたかたちで息づいている。それでは、貫之自身は、そのような先達の作品を、自らの養分としてどのように吸い上げていたのか、具体的に見ていこう。

そこでまずは、貫之にとって先達とは、どういう存在だったのだろうか。その一つが「万葉集」の歌人や編纂者たちであったと思われる。ヒントは「古今集」の二つの序文にある。

一つは、貫之が記した「仮名序」である。終盤に、集の編纂を命じた醍醐天皇(*5)について触れている件がある。

「よろづのまつりごとをきこしめすいとま(暇)、もろもろのことを捨てたまはぬあまりに、いにしへのことをも忘れじ、りにしことをも興したまふとて、今もみそなはし、後の世にも伝はれとて、延喜五年四月十八日に、大内記だいないき紀友則きのとものり御書所預ごしよのところのあづかり紀貫之きのつらゆきさきの甲斐少官かひのさうくわん凡河内躬恒おほしかふちのみつね右衛門府生うゑもんのふしやう壬生忠岑みぶのただみねらにおほせられて、萬葉集にらぬ古き歌、みづからのをも奉らしめたまひてなむ……」

天皇は、政務の合間をぬって、古い出来事や今や古びてしまった歌を後世に伝えようと、貫之をはじめとする四人の撰者に対し、「万葉集」に選定されていない古歌や、撰者と同時代の歌について編纂を命じたのである。

もう一つは、紀淑望よしもちが記した「真名序」である。

「ここに、大内記だいないき紀友則きのとものり御書所預ごしよのところのあづかり紀貫之きのつらゆきさきの甲斐少官かひのさうくわん凡河内躬恒おほしかふちのみつね右衛門府生うゑもんのふしやう壬生忠岑みぶのただみね等に詔して、おのおの、家集ならびに古来の旧歌を献ぜしめ、しよく萬葉集と曰ふ」。

つまり、「古今集」は編集の初期段階において「続万葉集」と名付けられていた(*6)

これら二つの「序」に記されたことからも、貫之ら撰者にとっては、「万葉集」が特別な存在であったことが推測される。

さらに、「古今集」には「よみ人知らず」の歌も多いが、これらのなかには「万葉集」にも収められている重出じゅうしゅつ歌が、十二首ほどあると言われている(*7)。以下に一例を示す。

さ夜中と 夜は更けぬらし 雁が音の 聞こゆる空に 月渡る見ゆ

(「古今集」巻第四、秋歌上、一九二、よみ人知らず)

佐宵中等 夜者深去良斯雁音 所聞空 月渡見

(「万葉集」巻第九、一七〇一、柿本人麻呂歌集)

鈴木宏子氏によれば、「一般的には、貫之たちの生きた時代には『万葉集』は稀覯本きこうぼんと化しており、容易に手にすることはできず、そもそも万葉仮名を読み解くことも難しくなっていたと考えられている」(*3)。しかしながら、先に見たように、「仮名序」では、「万葉集」に選定されていない古歌を選んだという。そこで鈴木氏は、撰者は収集した歌々について「万葉集」との照合作業を行ったのではないか、貫之らは、宮廷の書庫深く蔵されていた「万葉集」の閲覧を許され、和歌の素養も生かして、ある程度まで読み解くことができたのではないかそうした照合と点検の努力にも拘わらず、結果的に若干の重出歌が残ってしまったのではなかったか、と見ている。そのうえで、こう述べている。

「重出歌の残存は、貫之たちの弁別作業が困難であったこと、つまり『万葉集』からの流伝歌が、撰者たちの近くに、さほど大きな違和感のないものとして生きつづけていたことを意味しているであろう。こうした歌の存在は、万葉と古今のあいだに―古代和歌史にと言ってもよい―ゆるやかな連続性があったことを示している。『よみ人知らず』の歌の中には、万葉歌の水脈が流れ込んでいるのである」。

しかし、「古今集」には、よみ人知らずの歌にのみ「万葉集」の水脈が流れ込んでいるわけではない。「古今集」所収の貫之の歌には、「万葉集」の言葉を明らかに利用した歌が見られる。そのような事例を紹介したい。

「万葉集」に、額田王ぬかたのおおきみが次のように詠んだ歌がある。

三輪山 乎然毛隠賀 雲谷裳 情有南畝 可苦佐布倍思哉

(三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも隠さふべしや)

(「万葉集」巻第一、一八)

これは、天智六年(六六七)、近江の大津の宮への遷都に伴い、住み馴れた大和(飛鳥)を去るにあたって惜別の情が述べられた歌で、三輪山を覆う雲に恨みを投げかけて、いつまでもこの山を見ながら行きたい、というねがいを、額田王が天智天皇の御言みこと持ち歌人として代詠したものである。

そこで貫之は、その歌の趣旨をよく踏まえて、こう詠んだ。

春の歌とてよめる

三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ

(「古今集」巻第二、春下、九四)

すなわち、山を隠してしまっている霞の奥には、きっとまだ人目に触れぬ花が咲いていることでしょう、という意である。

小川靖彦氏によれば、「額田王の歌の第二句『然毛隠賀』は、動詞『隠す』の活用語尾『す』を表記していません。貫之はこれを補って適切に読み下しています。しかも、読み下すばかりでなく、一八番の歌の心も十分に読みとった上で、初句・第二句を利用しています。……額田王の歌の心に寄り添い、貫之なりに三輪山の神聖さを賛美して、<古代>の世界に参入してゆこうとする姿が見えます。……貫之は『万葉集』の歌句をそのまま使うことによって、『万葉集』の『古代』にダイレクトに関わろうとしたのです。貫之にとって『万葉集』の歌句の利用は、理想的な<古代>への通路であったのです」(*8)

 

さて、貫之の没後六年が経った天暦五年(九五一)、村上天皇は、「古今集」の編纂を命じた醍醐天皇の意思を引き継ぎ、第二の勅撰和歌集「後撰和歌集」(以下、「後撰集」)の編纂に加えて、「万葉集」二十巻本の「訓読」を進めた(古点)。命じられたのは、清少納言の父である清原元輔きよはらのもとすけ紀時文きのときぶみ大中臣能宣おおなかとみのよしのぶ源順みなもとのしたごう坂上茂樹さかのうえのもちきの五名であり、編纂所の名称をとって「梨壺なしつぼの五人」と呼ばれている。

この訓読事業のおかげで、「万葉集」は、漢字本文の次に「かな」による読み下し文が加わる新しい書物に生まれ変わった。その後、「後撰集」や私撰集「古今和歌六帖」(撰者未詳)には、かなで書かれた万葉歌が収録され、広く読まれるようになる(*9)。したがって、紫式部も、「後撰集」や自身が生きていた時代に編纂された「古今和歌六帖」、さらには当時普及の始まった「人麿集」や「家持集」などを通じて、かな文字による万葉歌に触れていたことになる。

ちなみに、式部の時代の貴族社会では、女性の裳着もぎ(*10)・婚儀・出産や宮廷行事などに際して、美しい料紙や能書による揮毫、装丁に贅をつくした調度本の歌集が贈り物とされていた。そういうなかで、式部は、母方の曽祖父である藤原文範ふみのりから、書写された、漢字とかなによる「万葉集」二十巻本を贈られていた可能性もあるという(*8)

それでは、紫式部は「万葉集」の時代の歌々から、何をどのように汲み取っていたのだろうか。ここでは、「源氏物語」において、独自な万葉歌の享受が見られると言われている場面に向き合ってみよう。

一つは、「末摘花すえつむはな」の巻で、源氏の君が、ひどく荒れ果てて寂しげなやしきに住む故常陸宮ひたちのみやの姫君、末摘花を訪れる場面である。雪の降る寒い夜だった。格子の間から中を覗くと、几帳きちょう(*11)などはひどい傷み様である。食器も古びて見苦しい。女房達は、そんな場所で粗末な食事を取っている。隅の方で、とても寒そうにしている女房は、白い衣装が煤けているようだ。すると、こんな会話が聞こえて来た。

「『あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にも逢ふものなりけり』とて、うち泣くもあり。『故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけり』とて、飛び立ちぬべくふるふもあり……」。

「ああ、なんて寒い年でしょう。長生きすると、みじめな目も見なければなりません」と、泣いている。「常陸宮さまがお亡くなりになって、これほど心細い有様になっても、どうやら死にもせずにいられるものですね」と、まるで飛び立ちそうに身慄みぶるいしている者もいる。

ここで、「飛び立ちぬべく」という表現は、「万葉集」に収められた山上憶良やまのうえのおくらの長歌「貧窮問答歌」(巻第五、八九二)の反歌(同、八九三)を踏まえたものと言われている(*12)。長歌は「風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ かすざけうちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ……」というように、「窮乏を極限までせり上げていく描写」が続く(*13)。そこで憶良は、こういう反歌を詠んで、自身の感想を披歴した。

世の中を しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

世の中は、いやな所、身も細るような所と思うが、捨ててどこかへ飛び去るわけにもいかない。人間は、しょせん鳥ではないので……という歌意である。

どうであろうか。この「貧窮問答歌」の長歌と反歌を踏まえることによって、源氏が垣間見た、女房たちのみじめな暮らしが、現実逃避できない境遇が、よりまざまざと、読者の身にも沁み入るように伝わってはこないだろうか。

なお、先に、「万葉集」の訓読事業の進展により、「かな」によって広く読まれるようになったことに触れたが、小川氏によれば、「貧窮問答歌」は、式部の生きた時代には「かな」による読み下し文がなかったという。そうだとすると、式部は「貧窮問答歌」を漢字本文で読み解き、憶良が遺した歌のこころまで汲み取っていたことになる。

 

式部による万葉歌享受のもう一つの事例は、「宇治十帖」の「蜻蛉かげろう」の巻にある。薫と匂宮におうのみやという二人の男性の間に立って苦悩する浮舟は、宇治川への入水を決意し失踪する。激しい雨の降るなか、浮舟の母君は宇治に到着するや、一方ひとかたならず泣き惑う。亡骸なきがらだけでもちゃんと葬ってやりたい、という母の思いをよそに、周囲の人々は、入水の噂が拡がることを恐れ、亡骸なきまま簡略に葬送を済ませてしまった。その後に浮舟入水のことを聞いた薫は、宇治を訪れ、阿闍梨あじゃり(*14)に対して手厚い法要を依頼すると帰京の途につき、宇治川のそばを行く場面である。

「道すがら、とく迎へ取りたまはずなりにけることくやしく、水のおと聞こゆる限りは、心のみ騒ぎたまひて、からをだに尋ねず、あさましくてもやみぬるかな、いかなるさまにて、いづれの底のうつせにまじりにけむ、など、やるかたなくおぼす」。

帰りの道中も、浮舟を早く京へお引取りにならなかったことが残念で、川の水音の聞こえてくる間は、思い乱れ、亡骸さえも捜し出せないとは何と情けない始末か、一体どこの水底の貝殻に交じっているのか、などと、どうしようもない思いでいらっしゃる、という薫の内言が述べられているくだりである。

から」、「うつせ」という言葉に注目したい。小川氏は、この式部の文章を、主に大伴家持おおとものやかもちの歌が収められた「家持集」にある次の歌を踏まえたものだと見ている。

今日けふ今日と 我が待つ君は 岩水の から・・に交じりぬ ありと言はめや

(西本願寺本三十六人集、三〇九)(*15)

ここで「我が待つ君」は、亡くなっていた(岩間から流れる水の貝殻に交じっていた)のである。

式部の文中にある「うつせ」とは「うつせ(虚)貝」、中身が抜けて空になった貝殻のことを言っている。それは、次の歌にもあるように「から(殻・骸)」と連想関係にある言葉であった。

波の立つ 三島の浦の うつせ 空しきから・・と 我やなりなむ

(「好忠集」四六四)

「紫式部の感性は『家持集』にかろうじて残った、『万葉集』に独特な死の表現に、時代の常識を超えて激しく反応した」のであり、それを「深化させて、水底で亡骸が貝殻と交じっているという、命というものを全く感じさせない死の光景を創り上げ」たのである(*8)。ちなみに、式部は、「蜻蛉」の巻において「から」という言葉を、例えば「むなしき骸をだに見たてまつらぬが」「骸もなくせたまへり」など、上記も含めて六ケ所ほど用いている。

ここで「『万葉集』に独特な死の表現」とは、古代人が抱いていた死生観がおのずと表出したものと言うことができるように思う。というのも、「古代を八世紀ころまでと規定して言うならば、古代日本人は、『ひと』(生)とは、『からだ』(体)に『たましひ』(魂)の封じこめられた存在だという考えを持っていた。人としての実体は「」とも呼ばれ、「身」には「寿いのち」の文字を宛てることもあった。だから、古代日本人にとって、「死ぬ」ということは、「身」の中にある「魂」がしなびて、やがて抜け出てしまうことであった」(*16)(*17)からである。

その事例は、小林秀雄先生が「本居宣長」において、契沖の「大明眼」の例(「萬葉代匠記」巻第二)として紹介している、「天智天皇の不予ふよ(*18)に際して奉献した大后おおきさきの御歌」にも見ることができる(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収、p105)

青旗の 木幡こはたうへを 通ふとは 目には見れども ただに逢はぬかも

(巻第二、一四八)

木幡の山の上を御魂みたまが行き来しておられるのが目には見えるが、わが君に、じかにはお逢いすることができない、という歌意である。この歌は、実際には、木幡から北に八キロメートルほどのところにある山科やましなにおいて、崩御後の天皇を葬った際に詠まれた歌と見られている。小林先生が書いているように「皇后にとっては、目に見える天皇の御魂丶丶も、直かに逢う天皇の聖体丶丶も、現実に、直接に、わが心にふれて来る確かな『事』」だったのである。ちなみに、のちに持統天皇がその遺詔によって仏式の火葬に付されるまでは(七〇三年)、尊卑を問わず、亡骸をある期間、土葬せずに一定の場所で大切に保管し、そばに仕えて「身」から抜け出た「魂」が舞い戻るように祈る「新城あらき」の礼殯宮ひんきゅう儀礼)が行われてきており(*19)、六七一年に崩御した天智天皇も同様であった。

ちなみにここで、前稿(「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅲ」「好*信*楽」2024年冬号所収)にて紹介したように、貫之による「土佐日記」にも、「貝」という言葉が使われている次のようなくだりがあったことを思い起こしてみてもよいだろう。

任地の土佐で幼い女児を亡くした「船の人」(貫之自身でもある)は、このような歌を詠んでいた。おそらく式部も、眼にした歌であろう。

寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ

そこでたまらず、「ある人」(これも貫之である)もこう詠んだ。

忘れ貝 拾ひしもせず 白玉しらたまを 恋ふるをだにも かたみと思はむ

 

「宇治十帖」に話を戻そう。「源氏物語」最後の巻でもある「夢浮橋」には、こんなくだりもある。横川よかはの僧都が、薫に対して、亡骸もなく逝ってしまったと思われていた浮舟を発見し、介抱のうえ意識を戻らせた経緯について話をしている場面である。

「『……この人も、亡くなりたまへるさまながら、さすがに息は通ひておはしければ、昔物語に、魂殿たまどのに置きたりけむ人のたとひを思ひ出でて、さやうなることにや、とめづらしがりはべりて、弟子ばらのなかにげんある者どもを呼び寄せつつ、かはりがはりに加持かぢせさせなとなむしはべりける。……』」

この方(浮舟)は、亡くなられたも同然の様子ながら、どうやら息は通っておいでなので、昔物語に、魂殿においてあった人が生き返ったという話のあるのを思い出し、万一そのようなこともあろうかと、法力のある弟子を呼び寄せて、交代で加持させました、と僧都が語るシーンである。

この「魂殿」こそ、前述した「新城」の礼において亡骸を安置する場所そのものを指している。ちなみに、漢文に深い知識があった式部が読みこなしていた「日本書紀」には、自死した莵道稚郎子うじのわかいらつこが、宇治の地において、大鷦鷯尊おほさざきのみこと(仁徳天皇)による「新城」の礼とおぼしき行為によって蘇生させられる場面もある。「日本書紀」に限らず、幼少の頃から昔物語によく親しんでいた式部ならではの表現なのかも知れない(*20)

 

以上見てきたように、紫式部は、みずからの曽祖父や祖父と昵懇じっこんであった、先達の紀貫之と「古今和歌集」や「土佐日記」を通じて向き合ってきた。のみならず、貫之の作品を介し、または直かに、さらなる先達である「万葉集」や記紀の時代を生きた古代の人たちとも向き合ってきた。前稿にも書いた通り「他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていた」式部、古歌や物語に人一倍親しんできた式部であればなおさらのこと、古代人の心を我が心のようにしていたのであろう。

 

さて、本稿の主題は、小林先生が言っている「紫式部が飲んだ物語の生命の源泉」についてである。彼女が、貫之や古代の人たちによる、歌や物語における言語表現を通じて汲み取ってきたものについては、おぼろげながら見えてきたところもある。しかしながら、その「生命」や「源泉」そのものに至るには、さらに深く降りて行く必要があるようだ。

そこで改めて、式部自身が語るところに耳を傾けてみたい。さらには宣長や小林先生は、その語りに、いかに聴き入ったのだろうか。

 

 

(*1)天元三年(九八〇)頃~寛弘八年(一〇一一)

(*2)延長四年(九二六)~康保四(九六七)

(*3)鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス

(*4)竹西寛子「古典日記」中央公論社

(*5)仁和元年(八八五)~延長八年(九三〇)

(*6)詳細の経緯については、小川靖彦「万葉集と日本人」角川選書(第二章)などを参照

(*7)鈴木宏子氏、小川靖彦氏の前掲書など

(*8)小川靖彦氏、前掲書

(*9)「古今和歌六帖」には、約一二六〇首の、かなによる「万葉歌」が収められている。これらの歌については、口頭伝承という説も有力とのことであるが、小川氏は訓読されたものと考えている。

(*10)女子が成人して初めて裳をつける儀式。徳望のある人を選んで裳の腰ひもを結わせ、髪上げをする。

(*11)他から見えないように、室内に立てる障屏具しょうへいぐ

(*12)鈴木日出夫「源氏物語と万葉集」『国文学 解釈と鑑賞』第51巻第2号

(*13)伊藤博「萬葉集釋注」集英社

(*14)修法や儀式の導師。

(*15)ちなみに「万葉集」には、柿本人麻呂の死を知って悲しむ妻依羅娘子よさみのおとめの歌「今日今日と 我が待つ君は 石川の かひに交りて ありといはずやも」(巻二、二二四)もあるが、この「かひ」は山峡の意が通説となっている。

(*16)伊藤博「萬葉のいのち」「はなわ新書」塙書房。伊藤氏によれば、日本語で身体の各部分を示すことばには、植物と対応するものが多く、「身」には「実」が、からだ・なきがら(亡骸)の「から」には、草木の葉や花の落ちた「幹(から)」が対応している(本田義憲「日本人の無常観」も参照)。実際に「万葉集」には、「我がやど(宿)の 穂蓼古幹(ほたでふるから) 摘みおほし 実になるまでに 君をし待たむ」(巻第十一、二七五九)という歌がある。

(*17)柳田国男氏によれば、死体は「ナキガラであって霊魂ではな」く、「一般に霊のみは自由に清い地に昇って安住し、または余執よしゅうがあればさまよいあるき、或いは愛する者の間に生まれ替ってこようとしてもいた」(「根の国の話」、「海上の道」岩波文庫)。

(*18)天皇や上皇が病気になること。但し、歌詞の内容が、危篤になったという題詞(歌を作った日時・場所・背景などを述べた前書き)の内容と合わないことから、崩後、天皇を山科に葬った折の歌と見るべきとの指摘がある(伊藤氏(*13)書)。

(*19)「新城」の期間は、七世紀以降の貴人の場合には半年から一年が普通で、天武天皇の場合のように二年強に及んだ例もある((*16)書)。

(*20)「手習」の巻には、「もし死にたる人を捨てたりけるが、よみがへりたるか」、「さやうの人の魂を、鬼の取りもて来たるにや」という表現もある。一方、当時は、陰陽師が活躍していた時代であり、古代からの信仰と大陸由来の陰陽道が結びつけられ、そのような「魂」にまつわる観念が習俗化していた面もあったことは留意しておきたい。

 

 

【参考文献】

・「源氏物語」(「新潮日本古典集成」、石田穣二、清水好子校注)

・円地文子訳「源氏物語」新潮文庫

・「21世紀のための源氏物語」「芸術新潮」2023年12月号

・鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス

・「土佐日記 貫之集」(「新潮日本古典集成」、木村正中校注)

・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)

・村松剛「死の日本文学史」角川文庫

 

(つづく)

 

編集後記

まずは、令和六年能登半島地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災されたすべての方に、心からお見舞い申し上げます。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、溝口朋芽さん、本多哲也さん、小島奈菜子さん、入田丈司さん、磯田祐一さん、荻野徹さんが寄稿された。

溝口さんが「本居宣長」を幾度も読み返すたびに着目してきたのは、「物」という言葉である。今回は、小林秀雄先生が、宣長の「源氏物語」に向かう態度について、「物語という客観的秩序が規定した即物的な方法」と書いている中でも「即物的」という言葉を、「読み過ごしてはいけない」ものと直観した。その言葉の深意を解く鍵は、契沖が遺した「定家卿云、可翫詞花言葉しかことばをもてあそぶべし」という言葉にあった。

本多さんが熟視を重ねたのは、小林先生が、紫式部について書いている「平凡な生活感情の、生き生きとした具体化」という言葉である。そこで「平凡な生活感情」とは? 「具体化」とは? 小林先生の文章を、「本居宣長」はもちろん、「近代絵画」や「文学者の思想と実生活」なども含めて丹念に読み込んでいくと、その本質が見えてきた。真に偉大な作家たちが表現してきたものの真髄が見えてきた。

小島さんが挑んだのは、荻生徂徠も、宣長も、そして小林先生も、そこに「急所があると認め」た、孔子が詩の特色として挙げている「きょう」の功と「観」の功についてである。小島さんの文章をながめていると、徂徠の著作と直かに向き合ってみて、大きくこころを動かされた小島さんの姿が目に浮かぶようだ。わけても「興」については、小林先生が書いている「普通の意味での比喩ではない」という言葉の深意を、小島さんが直知、体翫たいがんされたように感じる。

入田さんは、「本居宣長」を繰り返し読んでいくなかで、「和歌ハ言辞ノ道也」という宣長の言葉に注目している。自らの実体験も踏まえながら、古代を生きた人たちにとって、言葉がどのように使われ、機能していたのかに思いを馳せる。そして、歌というものが、どうして現代に至るまで、かたちを変えながらも詠まれ続けてきているのか? 入田さんが、実例として挙げている和歌と短歌も、心を落ち着けて、ゆっくりと味わってみたい。

磯田さんによる、今回の自問自答は、池田雅延塾頭の講義のなかで、中江藤樹や荻生徂徠らを「読書の達人」と呼ぶ小林先生の意図について質問したことに原点がある。池田塾頭からは「語意を追わずに、行間を読むということです。小林秀雄先生の読書も同じです」というアドバイスがあった。その真意を呑み込めないまま、改めて「本居宣長」を読みこなしていくと、日常のふとした出来事から、直知するところがあった。

荻野さんは、おなじみの対話仕立てである。小林先生が書いている「歴史を限る枠は動かせないが、枠の中での人間の行動は自由でなければ、歴史はその中心点を失う」という文章において、女は小林先生の「自由」という言葉に、男は「歴史を限る枠」という言葉に眼を付けた。本文を丁寧にたどりながら、対話を紡いでいくと、過去を生きた人たちの「行動の自由」に思いを致すことで、今を生きる私たちの「自由」についての視界も、大きく開かれた。

 

 

「考えるヒント」に寄稿された村上哲さんには、「本居宣長」を読み進める上で強く感じている二つのことがある。それは、著者である小林先生の「直観の強さとしか言いようのないもの」と「ゆるむことのない分析の力」である。一見相反するように見える「直観」と「分析」をどのように受け止めればよいのか…… ヒントは、小林先生が本文で紹介している、宣長と上田秋成という、対照的な二人が繰り広げた論戦のなかの「すれ違い」のさまにあった。

 

 

昨年も、小林先生の「美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」(「美を求める心」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十一集所収)という教えを守り、なまの音を求めて演奏会場へ頻繁に足を運んだ。

わけても年末に聴いた、小林秀雄に学ぶ塾の塾生でもある桑原ゆうさんが作曲した「死神」(世界初演)から受けた、いわく言いがたい強い印象が、いまだに身体から離れないでいる。これは、初代三遊亭圓朝えんちょうが西欧の話を翻案したと言われている落語と、三味線、ヴァイオリン、チェロが四位よんみ一体となった作品である。落語は古今亭志ん輔師匠が、楽器はそれぞれ、桑原さんも参加している「淡座あわいざ」のメンバー、三瀬俊吾さん、竹本聖子さん、本條秀慈郎さんが担当された。

先に「いわく言いがたい」と書いたのにはわけがある。まさに「何も考えずに」臨んだ演奏会のあとに、楽器の旋律の明確な印象がほとんど残っていないのである。だからと言って、落語のはなしだけに心動かされたわけでもない。私は、四位が一体となって紡ぎ出されたものに、おのずと没入し、あたかも自らの身体も含めた五位ごみが一体となったような感覚を覚えたのである。

桑原さんは、今回の公演にあたり、このように語っていた。

―落語はそれ自体で完成しています。物語、登場人物や情景の描写など、聴衆に与えるべきすべての要素が、完璧にバランスのとれた状態で、すでにそのなかにあります。その完成された「落語」に、あえて音楽を加えるのですから、それによって情報過多になり、聴くひとの想像力を抑制してしまうようでは意味がありません。音によってその演目から新しい一面を引き出し、通常とはひと味ちがう体験を共有することを目指さなくてはなりません。(中略)淡座では、落語もアンサンブルの一員として、言葉と音楽ができるだけ対等に関わり合いながら、全体が「成っていく」ような作品をつくることに挑戦しています。

まさに桑原さんたちの挑戦は奏功し、私はその次元を超えた四重奏に没入してしまったのであろう。思えばそこには、言葉と歌が生れいづる源泉、その母体に触れたかのような感触があった。

 

 

荻野徹さんの「巻頭劇場」と杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅲ

六、牛方うしかた馬方うまかた騒動

 

慶長十七年(一六一二)六月十四日、徳川幕府から加藤忠広に無事朱印状が下され、忠広は父清正の跡を継ぎ、肥後五十四万石を正式に襲封しゅうほうすることになった。

ところが、それを待つことなく、契沖の祖父下川又左衛門元宣が逝ってしまう。清正の肥後入国以来、長きにわたり「るすのかみ」として、堅牢な銃後の守りを果たしてきた人物であっただけに、十一歳の忠広も藩も大きな支柱を失ってしまった。

この事態を受け幕府は、加藤丹波守(丹後、南関城代、加藤美作の息)、加藤右馬允うまのじょう(正方、八代城代)、加藤大和守(与左衛門、佐敷城代)、並川但馬守(志摩守、一番備頭)、下川又左衛門(熊本城留守居役)という五家老による合議制を指示した。ここで下川又左衛門とは、元宜の嫡男、契沖の伯父元真のことである。

翌慶長十八年(一六一三)、徳川家と加藤家との血縁をさらに深めるべく、家康の三女振姫と会津藩主蒲生がもう秀行(*1)との間に生まれた琴姫を、将軍秀忠の養女として忠広の正室に迎えることが決まった。ちなみに、第五章でも述べたように、忠広の相続と引換えに幕府が破却を命じた宇土城の天守は、熊本城に移築された。琴姫を迎えるという趣旨もあったのだろう。現在私たちが目にする熊本城の天守閣は大天守と小天守の二つからなっているが、当時の小天守は、宇土から移築されたものだったのである(*2)。なお、従来から、熊本城の宇土櫓(国指定重要文化財)は宇土城から移築されたものと言われてきたが、現在では俗説として否定されている。

一方、慶長十九年(一六一四)の大阪冬の陣、慶長二十年(元和元年、一六一五)の夏の陣を経て、豊臣家を滅亡させた徳川幕府は、矢継ぎ早に天下統制策を打ち出していった。まずは同年六月に「一国一城令」を発令。熊本では、すでに清正から忠広への相続時に、熊本城以外の七支城のうち、水俣、宇土、矢部の三城が破却されていたため、残る南関なんかん内牧うちのまき佐敷さじき八代やつしろのうち八代城以外が破却され、例外的に一国二城となった。

同年七月には、「武家諸法度はっと」も発布された。同時に、天皇や公家に向けては「禁中並公家諸法度」が、寺社には「五山十さつ法度」が発布され、すべての武家・公家・寺社に対する統制が強まったのである。

元和げんな二年(一六一六)には、ついに徳川家康が逝去した。二代将軍秀忠は、弟でもある高田藩の松平忠輝(*3)の改易など、諸大名への統制の手綱をさらに引き締めていく。

 

そのような、江戸幕府からの引き締めが一層強くなりつつある状況のなか、熊本の加藤家内では不穏な空気が流れ始めていた。若い藩主忠広の家臣団が、家老の加藤右馬允派(通称、馬方)と加藤美作みまさか(同、牛方)の二つに分かれ、例えば、大阪の陣の際の対応のあら・・捜しをするなど、いがみ合っていたのである。福田正秀氏によれば、この通称「牛方馬方騒動」のことは、当時、小倉藩主であった細川忠興ただおき(*4)の耳にも届いており、熊本のなかだけでは収まらない状況に至っていたようである。

この騒動も、ついに元和四年(一六一八)には、幕府の知る所となる。加藤家の政治顧問であり、幕府から国政監察の役目も与えられていたと思われる棒庵が、幕府に目安(訴状)を上げたのである。この訴状に対しては、牛方の美作・丹後親子から反論があり、その中で、契沖の伯父下川又左衛門元真も、馬方派の一人としてやり玉に挙がっている。幕府は、忠広と、牛方・馬方の主要人物を江戸城に集め、将軍秀忠が双方の言い分を聞いた。結論としては、牛方の負けと裁断され、結果として、家老で牛方派の頭目である加藤美作親子、藩主忠広の伯父玉目丹波など二十六人が他家へ配流御預けとなるなどの処分が下った。十七歳の忠広はまだ若く藩政を執っていなかったとして、無罪、お構いなし。他藩では、似たような状況下で改易となった事案があっただけに、下川又左衛門も大いに肝を冷やしたに違いない。

幕府は、向後、馬方家老の加藤右馬允(正方)を中心に執政に当るよう命じた。それを受けて加藤家内では、家臣団の新体制への刷新が行われた。騒動の論功も行われ、下川又左衛門は、二千九百石あまり加増され一万石の三番家老となった(「加藤家御侍帳」(永青文庫蔵・時習館本))

 

騒動の翌年、元和五年(一六一九)三月には、八代地方に大地震が起きた。当時の記録によれば、「山鳴り、谷こたえ潮ひるがえり水湧き城郭崩壊し……」とあり(「浄信寺興起録」)、平成二十八年(二〇一六)に起きた熊本地震のような感じではなかっただろうか…… 「城郭崩壊」とある通り、熊本の支城で筆頭家老が居城する八代城(当時は、麦島城)が完全崩壊してしまった。右馬允は忠広を通じて再建に動いた。幕府としては「一国一城令」を発していたところに加え、先だっての騒動があったばかり、という状況にも拘わらず、南隣する薩摩島津藩の動向も見据えつつ、対外的な防衛上の要所としても認識していたため、再建を認めることとなった。

一方忠広は、徳川幕府に対してもしっかり汗をかいた。新八代城を着工したばかりの元和六年(一六二〇)、幕府から北国・西国の大名に対して、大阪城の再建につき「天下普請てんかぶしん」の要請が下りた。この工事は、秀吉の築いた旧大阪城の石垣を地中深く埋め、その上に旧城を遥かに上回る規模で新しく石垣を築き、まったく新たな徳川大阪城を完成させるという一大プロジェクトであった(*5)。加藤家は、城の表口となる大手口を担当した。現在のNHK大阪放送局や大阪歴史博物館付近から大阪城公園に入り、大手門より城内に入った正面に、忠広が築いた「大手口升形ますかたの巨石」群を目の当たりにすることができる。なかでも真正面にある「大手見附石」は、表面が約二十九畳敷(約四十八平方メートル)で城内第四位の大きさを誇る(*6)。今やほとんどの観光客は素通りするのみだが、読者の皆さんには、ぜひ近くに寄ってその大きさと重量を体感するとともに、当時の忠広の心持ちにも思いを馳せてみていただきたい。さらに忠広は、その新天守閣の建設も命じられた。竣工は寛永三年(一六二六)、彼にとっては外聞をはばかるような騒動もあったなかで、清正来の「土木の神様」の家系を継ぐ者として、大いに面目躍如するところがあっただろう。

 

七、肥後の国難、極まる

 

寛永九年(一六三二)は、「肥後の国難」が極まる一年となった。

一月、三代将軍徳川家光(*7)を差しおいて幕府の実権を掌握していた「大御所」秀忠が亡くなった。忠広にとって秀忠は、正室の琴姫の父に当る。しかし、その秀忠の大喪により許された熊本への帰国に際し、忠広は、こともあろうに側室の法乗院(玉目丹波の長女)と、その間に生まれていた子ども、藤松と亀姫との三人を江戸藩邸から熊本へ連れ帰ってしまった。「武家諸法度」で大名妻子の江戸居住が規定されるのは、三年後の寛永十二年(一六三五)からとはいえ、すでに広く慣習化している決まりごとであり、幕府からすれば大いなる暴挙と映っても仕方がない行動であった。

さらに四月には、忠広の嫡男の豊後守光正(正室、将軍秀忠の養女琴姫との子)が事件を起こした。ちょうど三代将軍家光が、秀忠の喪中にも拘わらず家康の十七回忌にあたり日光東照宮へ参詣を決めたばかり、という時節であった。

「幕府年寄の土井利勝と加賀藩主の前田利常が結託して謀反を起こすことを将軍家光が知り、誅伐されることになった。先手をとって家光を討たれよ、お見方申し上げる」という趣旨の文書が、旗本の井上新左衛門の屋敷に届けられたのだ。幕府が捜索したところ、届けた者は加藤光正の家来で、主人の指示によると白状した。井上新左衛門は光正の知人であり、光正にしてみれば、ほんの悪戯いたずらのつもりだったようだ。しかしながら、家光にしてみれば、父秀忠の死去を受け、幕藩体制のさらなる強化に向けて将軍としての力を発揮しようとしていた矢先であったし、わけても幕府と肥後藩の間には、忠広への相続時に確約した「この度の将軍家の厚恩を忘れないこと、絶対に将軍家に背くことをしないこと」などを含む「五ケ条の起請文」もあった。

光正は、当時外桜田にあった泉岳寺で謹慎蟄居ちっきょ、熊本にいて幕府からの召喚を受けた忠広は急遽上京、池上本門寺で謹慎し沙汰を待つことになった。福田氏によれば、「幕府は慎重に関係者を取り調べて捜査を進め、諸大名に事件の経緯を事前に知らせ、複数の老中を派遣して忠広父子の言い分も聞き、徳川御三家の意見も聞いた上で処分を決定し」た。

五月二十九日、忠広父子に幕府の沙汰が下りた。光正の罪状は、謀書の件で「御つめのはしを汚し」(「綿孝輯録」巻三十二加藤家旧臣・田中左兵衛差出)たこと。「御つめのはし」とは、光正が母を通じて将軍家の血筋にあることを言っている。処分は、本来「切腹をも仰付られるべき儀」ではあるが「命の儀赦免なされ」飛騨高山の金森重頼(*8)預りとなった。一方、忠広の罪状は、「近年諸事無作法」(*9)に加え、江戸で生まれた子どもとその母を幕府に無断で熊本へかえしたたことが「公儀を軽ろしめ曲事くせごと」と判断された。処分は改易、肥後五十四万石を収公のうえ、出羽庄内の酒井忠勝(*10)預かりとなった。加藤家は、首の皮一枚、というかたちで残されたのである。

ちなみに周囲の諸藩や世評の大方の予想は、父子の切腹断絶であり、幕府にとっては寛大な、加藤家にとっては最悪の事態だけは避けられた処分となったわけである。とはいえ、肥後五十四万石(*11)の領地と清正渾身の名城熊本城が召し上げとなる。加えて、加藤家家臣団は、少なくとも一万人以上が一挙に家禄を奪われ、野に放たれることになった。

 

そのような江戸での処分を受けて、熊本の家臣団はどう動いたのか。幕府からの上使への城明け渡しか? 籠城か? 彼らは、現代の私たちもよく知る、それから約七十年後に播磨赤穂藩で起きた有名な事件と同じような決断を迫られたのである。

幕府の上使は、既に稲葉丹後守など四人が決まっていたところ、備後福山藩主の水野勝成(*12)が追加された。勝成は、当時七十歳手前の、百戦錬磨の戦国武将であり、忠広の公母清浄院(家康の養女として清正と結婚)の実兄でもあった。人脈と、豊富な戦闘経験を踏まえた有事の指揮官として期待された追加措置だったのだろう。

実はこの十三年前、幕府は、安芸広島の福島家改易時の開城に手こずった経験を踏まえ、主君忠広直々の、城を明け渡すようにとの指示を家老の加藤右馬允と下川又左衛門に持たせ、国許へ走らせていた。二人の家老らは、六月二十日過ぎに熊本に到着。まもなく熊本城の明け渡しが決まった。籠城と戦闘は回避された。

一方、上使を含め、関係諸藩の軍勢一万強が、細川藩の小倉港に到着したのは、七月十二日のことであった。さっそく細川忠利から熊本の加藤右馬允と下川又左衛門に対して、「(筆者注;七月)十四・五日の頃、(同;上使と一万強の軍勢は)此の方を御立ち有るべく候間、肥後の内、兵糧・馬のやしないくつ・わらぢ・まき・ぬかくさ、切れ申さずように御申し付け有るべく候」という懇切丁寧な連絡が届いた。契沖の伯父下川又左衛門も、城明け渡し後まで、膨大な残務処理に多忙を極めていたに違いない。

 

さて、他所への配流となった忠広と光正は、その後どうなったのか。

まず、忠広は庄内藩の酒井忠勝預かりとなった。同年六月三日の出立である。同行した者は約五十名、忠広生母の正応院(玉目氏)と側室(「しげ」と推定)の他、二十名の若き士分の者が入っている。その頃に詠まれた忠広自筆の歌日記「塵躰じんたい和歌集」のなかに、こういう歌が遺されている。父清正が愛用していた長い片鎌槍を形見に持参していたのだろう(*13)

たらちねの 父の片鎌 身に添へて ふたたび名をも 覚えける武者

 

そしてこの日記は、寛永十年(一六三三)九月八日の歌で終わっている。

ひとり寝の 寝られぬ秋の 枕には 虫のなく音も なを色々に聴く(*14)

「なを色々に聴く」という結句の言葉をながめていると、庄内から山側に入った丸岡の地で聴いた虫の音は、長く暮らした江戸や熊本で聴いたものとは、随分違っていたようである。

慶安四年(一六五一)、同行していた生母の正応院が亡くなった。

その死から二年後の承応二年(一六五三)、忠広も急逝する。加藤家の断絶であった。

 

一方、光正の一行は、十五人という少人数で、父忠広より一日早い六月二日に江戸を出立し同月中旬頃には高山へ入った。光正は、平安時代創建の古刹天性寺で過ごした。真っ先に行ったのは、祖父清正の位牌作りだった。しかし、彼の高山生活は短く、翌寛永十年(一六三三)七月に同寺で病死したと伝えられている。なお、高山藩主金森重頼が光正の一周忌供養に併せて建立した日蓮宗の菩提寺が、法華寺として今も残っている。そこには光正の位牌が、自作の清正の位牌と並んで祀られている。

 

さて、その光正が亡くなった約二か月後、故郷の肥後を京の都に向けて出立する、旧加藤家家臣の一人の若者がいた。西山宗因である。

 

 

(*1)天正十一年(一五八三)~慶長十七年(一六一二)

(*2)福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション、北野隆「加藤時代の熊本城について」谷川健一編『加藤清正 築城と治水』。

(*3)天正二十年(一五九二)~天和三年(一六八三)

(*4)永禄六年(一五六三)~正保二年(一六四五)。三男の忠利に家督を譲った。

(*5)北川央「怨霊と化した豊臣秀吉・秀頼」『大阪城をめぐる人々』創元社

(*6)現在の大阪城の京橋口から城内に入ったところに、「肥後石」と呼ばれている城内第二位の「京橋口枡形の巨石」があり、従来、加藤清正が運んできたとの伝承があったが、現在では備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれたことが判明している。

(*7)慶長九年(一六〇四)~慶安四年(一六五一)

(*8)慶長元年(一五九六)~慶安三年(一六五〇)

(*9)細川家史料における忠興と忠利の書簡を見ても、忠広について、気が触れたという意味合いの表現が頻出している。忠広の乱行について他藩にまで漏れ聞こえる状況にあったらしい。

(*10)文禄三年(一五九四)~正保四年(一六四七)

(*11)清正代から検地実高は七十三万石、忠広代には拡張が進み九十六万石あったと言われている。

(*12)永禄七年(一五六四)~慶安四年(一六五一)

(*13)清正愛用の片鎌槍をもった銅像を、熊本市西区花園にある本妙寺公園で見ることができる。自動車で直接行くこともできるが、ぜひ、本妙寺の大本堂から清正公の墓所・浄池廟じょうちびょうへと続く「胸突雁木」百七十六段と、その先の三百段の石段を歩いて登っていただきたい。ちなみに、浄池廟は清正の遺言を踏まえて、熊本城に相対し天守閣と同じ高さの地に置かれている。

(*14)徳川黎明会刊「金鯱叢書 史学美術史論文集第二輯」によれば、忠広自筆稿では「ねらぬ秋の……」となっているが、「ねられぬ秋の……」(れ脱)との頭注があり、本稿でもそのように記載した。

 

 

【参考文献】

・福田正秀「加藤清正と忠廣 肥後加藤家改易の研究」ブイツーソリューション

・鳥津亮二「西山宗因と肥後八代・加藤家」、『宗因から芭蕉へ』八木書店

 

(つづく)

 

物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ―紀貫之の「実験」

「本居宣長」において、宣長の「物のあはれ」論は、第十二章から詳述される。但し同章は、序章のような位置付けであり、「宣長が、『ものゝあはれ』論という『あしわけ小舟』の楫を取った」という最後の決めの一言を受けて、第十三章から本論が始まる。小林秀雄先生は、その冒頭で「もののあはれ」という言葉の最初の用例として、紀貫之(*1)の「土佐日記」について、さらには、同じく貫之が綴った「古今和歌集」(以下、「古今集」)の「仮名序」について触れている。ちなみにこれは、前稿「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅰ」(「好*信*楽」2023(令和五)年冬号)で述べた、紫式部が「源氏物語」の「蛍の巻」で自身の物語論を、登場人物の口を借りて語っているくだりの前段にあたる。

その「仮名序」と「土佐日記」については、第二十七章において、改めて詳述され、「『源氏』が成ったのも、詰まるところは、この同じ方法の応用によったというところが、宣長を驚かしたのである」という決め台詞ぜりふで終わる。ここで小林先生が言っている「同じ方法」とは、一言で言えば、貫之が「土佐日記」の執筆を通じて行った「和文制作の実験」のことである。すなわち、「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて、「何の奇もないが、自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみる」ということだ。さらに先生は、それこそが「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕えるという、その事になる」と言っている。

それではまず、その「実験」の詳細を、「土佐日記」に向き合いながら体感してみよう。

 

「土佐日記」は、当時六十代後半の紀貫之が、国司、土佐守とさのかみとしての四年の任期満了後、任地の土佐(現、高知県)から京都まで帰る船旅、五十五日間の模様を、経日けいじつ的に綴った日記日次ひなみ記)である。もちろん貫之以前にも、入唐僧や太政官の役人による公的な日記(*2)は存在していたが、私的な日記が書かれるようになるのは、貫之が生れた九世紀後半からのことである。例えば、「宇多天皇日記(寛平御記)かんぴょう元年(八八九)十二月条には、天皇が愛猫の様子を生き生きと書いているくだりがあるが、漢文で書かれている。それを、「女手」とも言われた平仮名で、筆者は前土佐守に仕えた女房という体裁で書いたのが、貫之の「実験」だったのだ。

それでは、その「土佐日記」に書かれた内容を、喜・怒・哀・楽に分けるかたちで具体的に見てみよう。

まずは、喜と楽である。

「二十二日に、和泉いづみの国までと、平らかにくわん立つ。藤原のときざね、むま。上中下ひあきて、いとあやしく、潮海のほとりにて(傍点筆者、以下同様)

出発に際し、船旅なのに、馬のはなむけ(元来は旅の無事を祈り旅先の方角に馬の鼻を向けることであったが、その後、送別の宴や餞別の意味に用いられた)、という駄洒落である。また、「あざる」の二つの意味、「魚が腐る」と「ふざける」を利用し、塩海で腐るはずないのに、酔っ払いが「あざれ」合っているという諧謔かいぎゃくもある。これは、「古今集」など和歌で用いられた「掛詞」の応用である。

「六日、澪標みをつくしのもとより出でて、難波なにはに着きて、川尻かわじりに入る。みな人々、おむなおきな。かの船酔ふなゑひの淡路の島の大御おほいご、『都近くなりぬ』といふをよろこびて、船底よりかしらをもたげて、かくぞいへる。

いつしかと いぶせかりつる 難波潟 あしぎそけて 御船みふね来にけり」。

船は、ようやく京へ向かう川上りの体勢に入った、これで、ひどい風波に悩まされることもない。船酔いで寝ていたおばあさんの破顔も、眼に浮かぶ。

次は、怒である。

「かく別れがたくいひて、かの人々の、口網も諸持もろもちにて、この海辺にて担ひ出せる歌、

をしと思ふ 人やとまると 葦鴨の うち群れてこそ われは来にけれ

といひてありければ、いといたく賞でて、行く人のよめりける。

棹させど そこひも知らぬ わたつみの 深き心を 君に見るかな

といふ間に、、はやくいなむとて、『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」。

「本居宣長」第十三章の冒頭でも紹介されている、土佐出発のくだりである。見送りの人々は声を一つにして惜別の歌を詠み上げる。それに感動した前土佐守は、李白の詩を踏まえ心を込めて歌を返した。楫取りは、そういう微妙な機微も解することなく、しこたま酒を飲むと、「早く船を出そう」と騒ぐ。「いい気なもんだ!」というところだろうか……

最後は、哀である。

「二十七日。大津おほつより浦戸うらどをさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、女子をむなご、このごろの出立いでたちいそぎを見れど、なにごともいはず、京へ帰るに、。ある人々もえたへず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、

都へと 思ふをものの 悲しきは 帰らぬ人の あればなりけり

また、あるときには、

あるものと 忘れつつなほ なき人を いづらととふぞ 悲しかりける」。

貫之には、京で生まれ、若い妻とともに土佐に同行したものの、当地で亡くした女児があった。すでにこの世にいないことを忘れて、「あの子はどこに?」と自問してしまう悲しさよ……

「四日。……この泊りの浜には、くさぐさのうるわしき貝、石などおほかり。かかれば、、船なる人のよめる、

寄する波 うちも寄せなむ わが恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ

といへれば、ある人のたへずして、船の心やりによめる、

忘れ貝 拾ひしもせず 白玉しらたまを 恋ふるをだにも かたみと思はむ

となむいへる、女子をむなご」。

「むかしの人」とは、亡児のことである。悲歌を詠む「船なる人」も「ある人」も、作者の分身としての貫之自身なのであろうか。忘れ貝は拾わない、白玉のようなあの子を恋い慕うこの気持ちを持ち続けることだけが、あの子の形見なのだから……

なお、「女子のためには親幼くなりぬべし」という表現は、貫之の最大の庇護者であった藤原兼輔の歌「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな」(「後撰和歌集」十五)を念頭に置いたものと言われている。ちなみに、兼輔は紫式部の曽祖父であり、「源氏物語」の中にも、この歌の趣旨を踏まえた表現が二十六箇所にも及んでいることは、前稿で紹介した通りである。

「池めいてくぼまり、水つけるところあり。ほとりに松もありき。五年いつとせ六年むとせのうちに、千歳ちとせやすぎにけむ、かたへはなくなりにけり。いまおひたるぞまじれる。おほかたのみな荒れにたれば、『あはれ』とぞ人々いふ。思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、女子をむなご。船人も、みな子たかりてののしる。かかるうちに、なほ、ひそかに心知れる人といへりける歌、

生まれしも 帰らぬものを わか宿に 小松のあるを 見るが悲しき

とぞいへる。なほあかずやあらむ、またかくなむ。

見し人の 松の千歳に 見ましかば 遠く悲しき 別れせましや

忘れがたく口惜しきことおほかれど、え尽くさず。とまれかうまれ、とく破りてむ」。

前土佐守の一行は、なんとか京の家に到着した。しかし、しばらくぶりに眼にした、家屋や庭は見るも無残な廃屋のように荒れ果てていた。しかも、この家で生まれたあの子は帰ってこない。そこに、小さな小さな松が生えていた……

ちなみに、貫之が心底慕っていた藤原兼輔は、貫之の土佐在任中の承平三年(九三三)に亡くなっていた。貫之は、帰京後、兼輔のいない屋敷を訪れ、そこに松と竹があるのを見て、次の二首を詠んでいた。

松もみな 竹も別れを 思へばや 涙のしぐれ 降るここちする

(貫之集 第八 七六七)

陰にとて 立ちかくるれば 唐衣からころも ぬれぬ雨降る 松の声かな

(同、七六八)

前者の歌意は、松も竹もみな故人との別れを惜しんで泣いているのか、涙が時雨しぐれとなって降っているようだ、である。後者は、松の木陰に故人を偲ぼうと身をひそめると、松籟しょうらい(*3)が、その死をいたむ涙の声となって、衣を濡らさずに降りそそぐ雨音のようだ、という歌意である。

わけても、後者は、兼輔の生前、その屋敷で酒宴が開かれた時に詠んだ歌でもあった。その時の歌意は、松の木陰に隠れると、松籟が、まるで衣を濡らさずに降る雨音のように聞こえます。ご主君(兼輔のこと)のお蔭で、厳しい世の中に泣く思いをすることもなく、ありがたい限りです、である。このように、貫之はまったく同じ歌を、歌意を替えて人生で二度詠んだ。彼にとって、その松は、兼輔の面影をありありと思い出させるものだったのだ。

 

土佐への赴任中に、貫之が失ったかけがえのない人は、女児と兼輔だけではなかった。延長八年(九三〇)には醍醐天皇が崩御、その諒闇りょうあん(*4)のなかで、兼輔の母が亡くなった。さらには、承平元年(九三一)には宇多天皇が崩御。翌年には、もう一人の庇護者であった藤原定方が逝去していた。

なかでも醍醐天皇は、貫之にとって、距離的に必ずしも彼方かなたの人ではなかった。「古今集」編纂の発案者であり、歌人としての力量や編集実務能力に長けた撰者の一人として、三十代前半の貫之が選ばれていた。彼は、当時のエピソードを「貫之集」のなかの一首の詞書として遺している。

延喜えんぎ御時おほむとき大和歌やまとうた知れる人を召して、むかしいまの人の歌奉らせたまひしに、

承香殿しようきやうでんひんがしなるところにて歌らせたまふ。の更くるまでとかういうほどに、

仁寿殿じじゆうでんのもとの桜の木に時鳥ほととぎすの鳴くを聞こしめして、四月六日うづきむいかの夜なりければ、

めづらしがりをかしがらせたまひて、召し出でてよませたまふに、奉る

こと夏は いかが鳴きけん 時鳥 今宵こよひばかりは あらじとぞ聞く

(貫之集 第九 七九五)

友則とものり、紀貫之、凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねら四人の撰者は、延喜初年から四年(九〇一~九〇四)頃の初夏、内裏の奥深く、天皇の居所である清涼殿からほど遠くない承香殿のなかの東の一隅を供されて、編集作業に没頭した。気付けば深夜、仁寿殿の桜の木で、その年最初の時鳥が鳴いた。その声を聞いて心動かされた醍醐天皇から歌を所望され、貫之が詠んだのが、「こと夏は……」の歌である。

さらに、その醍醐天皇の父である宇多天皇も、和歌への関心は深かった。その治世では、「寛平御時后宮歌合かんぴょうのおおんときのきさいのみやのうたあわせ」「是貞親王家歌合これさだのみこのいえのうたあわせ」などの催しを行い、二十代前半の貫之も出詠していた。ちなみに、両歌合は、後に編纂された「古今集」の重要な撰集資料ともなった。

以上見てきたように、貫之は、土佐への赴任中に、文字通りかけがえのない人たちを失ってしまった。私には、「土佐日記」に記された、船旅のなかで実感した喜・怒・哀・楽、わけても女児をなくした哀しみには、貫之が日常生活のなかで体験してきた出来事や、親交を結んできた人たちのおもかげが、より奥行の深いところで凝縮、表出しているように思われてならない。

 

ところで、三十代前半の若き貫之は、「仮名序」にこのように記していた。

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神おにがみをもあはれと思はせ、男女をとこをむなの中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」。

和歌は、人間の心を種として生い茂った、とりどりの「言の葉」だと言えよう。この世に暮らしている人間は、様々な出来事に遭遇するものなので、その折々の心情を、見るもの聞くものに託して言い表す。……力をも入れないで天地を動かし、眼に見えない「おにかみ」の心をも感じ入らせ、男女のあいだをも和やかにして、勇敢な武人の心さえも和らげるのは、歌なのである。

ひと麿まろ亡くなりにたれど、歌の事とどまれるかな。たとひ、時移り、事去り、たのしび、かなしび、ゆきかふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散りせずして、正木のかづら長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまをも知り、ことの心を得たらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎていまを恋ひざらめかも」。

柿本人麻呂かきのもとのひとまろが亡くなってしまっては、歌の道も途絶えてしまうように思うが、今の世に留まって、この集を編んだ。たとえ時代が移り変わり、出来事も過ぎ去り、楽しいことや哀しいことが行き来しても、この歌という名は長く存在し続けるだろう。物事の深意を感得している将来の人は、大空の月を観るように、歌の興った昔を仰ぎ見て、「古今集」が成った今を恋しく思うに違いない。

 

それから約三十数年後、「土佐日記」を書き上げた六十代後半の貫之は、こんな心持ちではなっただろうか。「おにかみ」のこころを動かし、男女の仲を和やかにし、武人の心も和らげるという功徳は、和歌ならではのものだと思っていた。しかし、思い立って、漢文とは違う身軽な文字である仮名で和文を書いてみると、まったく同じ功徳を体感した。「仮名序」に記した和歌の本質は、和文においても見事に通貫するものだったのだ!

ところで、先に「土佐日記」における具体例を示した、喜・怒・哀・楽を感じる、ということは、自らの動くこころを知る、ということであろう。小林先生が本文で繰り返し述べているように、「すべて人の情の、事にふれてうごくは、みな阿波礼也」(「石上私淑言」)と述べた宣長は、「物のあはれを知る」ことを論じる起点として「仮名序」を選んだ。ここで私が感じた貫之の心持ちは、宣長も実感したところでもあったと想像してみることは、過ぎたことではないように思われる。

 

ともかくも、本稿では「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕え」た貫之による「和文制作の実験」の仔細を見てきた。冒頭で紹介したように、小林先生は、宣長を驚かしたのは「『源氏』が成ったのも、詰まるところは、この同じ方法の応用によったというところ」だと言っている。

それでは、のちに「源氏物語」を書いた紫式部は、その方法をどのように応用したのだろうか。いや、その前に、前稿で触れたように「他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいても、際立つ気質を持っていた」式部は、自身の曽祖父兼輔を心底から敬愛してやまなかった貫之、さらには兼輔の長男すなわち我が祖父雅正とも個人的な悩みを分かち合う友であった貫之と、「古今集」や「土佐日記」などを通じて、どのように向き合ったのであろうか。

 

 

(*1)貞観十年(八六八)頃~天慶八年(九四五)頃。平安前期の歌人、歌学者。歌集に「貫之集」など。

(*2)入唐僧によるものとしては、慈覚大師円仁「入唐求法巡礼行記」。太政官によるものとしては、「外記日記」「内記日記」など。

(*3)松の梢に吹く風、その音

(*4)天皇などの喪に服する期間

 

【参考文献】

・「土佐日記 貫之集」(「新潮日本古典集成」、木村正中校注)

・「古今和歌集」(「新潮日本古典集成」、奥村恆哉校注)

・鈴木宏子「『古今和歌集』の想像力」NHKブックス

 

(つづく)