編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人の対話は、「本居宣長」のフィナーレである第五十章が話題だ。加えて四人は、小林秀雄先生の「美を求める心」と「当麻」も読み込んできたようだ。すみれの花や、能のシテの動きについて小林先生は、何をどのように感じ取っていたのか? 今回の対話もまた、「モーレツ」で「ビューティフル」である。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、生亀充子さん、小島奈菜子さん、橋本明子さん、本多哲也さんが寄稿された。

生亀さんは、『本居宣長』の精読を始めて約三年が経った頃、「ふと何かに掬い上げられるような不思議な感覚を覚えた」と言う。私たちが使う日本語という言語に備わっている「さだまり」とは何か。そして、その「さだまり」から生まれる「言霊の働き」とは何か。塾としての十二年にわたる精読の旅は、ひとまずお開きを迎えたが、生亀さんの自問自答の旅は、終わらない。

小島さんは、こういう自問から始めている。「あまりにも身近で『本当は信じているのに、信じていることを知らない』もの、その最たるものは言葉ではないか」。「文字を持たなかった我々の祖先が漢字に出会い、自国語を書き記せるようになるまでには、何とかして当時の知恵を後世に遺そうとした人々の切なる希いがあった」。その希いのたすきを、さらに後世につないでいこうとしたのが、本居宣長をはじめとする江戸時代の国学者たちだ。その苦闘のあとを記した小林先生に真摯に向き合う小島さんの言葉に、静かに耳を傾けてみよう。

橋本さんが立てた自問は、詠歌という行為の意味についてである。熟視したのは、「ことばは、『あはれにたへぬところより、ほころび出』る」ものであり、受け止めようとしても受け止め切れない程のあはれに出遭った際、私達は「めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為のうちに、進んで這入はいっていく」という小林先生の言葉である。そこから橋本さんには、どういう光景が、どういう深淵が、見えてきたのだろうか……

本多さんは、「熟視と自問自答による学びをひたむきに行ってきた塾生であれば誰しも共感してくれると思う」と前置きして、こう述べている。「熟視対象とした小林先生の文章の一節を何度も繰り返し読んでいき、ほとんど暗誦すらできるほどその熟視対象と触れ合い続けるうちに、活字だったはずの文章はもはや声に近いものになる」。そんな体感は、「宣長の声に、あるいは宣長を通して我が国の古代人たちの声に耳を澄ませた、小林先生の営みの一端に触れるようなものだったのではないか」という感慨と共鳴していく。

 

 

「考えるヒント」のコーナーには、本田悦朗さんが寄稿された。本田さんは、とある自問を抱いて、ベルグソンの「宗教と道徳の二つの源泉」と小林先生の「本居宣長」について、池田雅延塾頭と対話された。そこから、本田さんによる「ベルクソンと小林秀雄、『二源泉』と『本居宣長』への旅」が始まる。読者諸姉諸兄も、両書を鞄に入れて、本田さんの旅に同行されてみてはいかがだろうか。

 

 

この小林秀雄に学ぶ塾、通称山の上の家の塾における「本居宣長」精読十二年計画は、令和七年(二〇二五)三月をもってお開きを迎えた。終業を祝し、互いの健闘をたたえ合うべく、六月末に開かれた打上げ会(終業慶賀の会)の場で、池田雅延塾頭から、「本居宣長」における、次のような小林先生の言葉が紹介された。――学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的につかまれていたのである。

その言葉を噛み締めながら、今号の「『本居宣長』自問自答」に寄せられたエッセイを読み直してみた。小林先生が三十七歳のとき、昭和十四年(一九三九)に書いた作品「疑惑Ⅰ」のなかにある言葉を思い出した。

「独創的に書こう、個性的に考えよう、などといくら努力しても、独創的な文学や個性的な思想が出来上がるものではない。あらゆる場合に自己に忠実だった人が、独創的な仕事をしたまでである。そういう意味での自己というものは、心理学が説明出来る様なものでもなし、倫理学が教えられるようなものでもあるまい。ましてや自己反省というような空想的な仕事で達せられる様なものではない。それは実際の物事にぶつかり、物事の微妙さに驚き、複雑さに困却し、習い覚えた知識の如きは、肝心要の役には立たぬと痛感し、独力の工夫によって自分の力を試す、そういう経験を重ねて着々と得られるものに他ならない。このような経験は、人間に、結果として、それぞれ独特な表現の方法を与えざるを得ない」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第11集所収)

ここにある「物事」という言葉を、「『本居宣長』」という言葉に置き換えて、今一度読んでみよう。山の上の家の塾において、緊張しながらも池田塾頭の隣に座り(もしくはオンライン上で向き合い)、多数の塾生を眼の前に、必死に考え準備してきた「自問自答」を披露するという経験を、何度も重ねてきた塾生諸氏であれば、そうだそうだと、深い実感をもってうなずいてくれるはずである。

 

手前味噌ではあるが、今回のそれぞれのエッセイもまた、塾生の皆さん一人ひとりが、たっぷりと時間をかけて進めてきた、そういう「学問」の成果そのものなのである。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅷ

十六、契沖の弟

 

ここで、契沖まわりのことに話を戻したい。契沖には快旭かいきょくという弟がいて、家系図に「肥後熊本不動院五世住」とあるように、熊本で僧侶として終生を送ったことは、第一章で述べたとおりである。不動院は、私の生家からほど近い、現在の熊本市中央区なか唐人とうじんまちにあった。二〇一八年の六月、その場所を初めて訪れてみたところ、堂宇のたぐいはもはやなく、駐車場の一角に、朽ちて散乱した墓石群が埋もれていた。先年の大地震の影響もあったのか、無惨な光景が広がっていた。生い茂った草木で墓石の文字もほとんど読めない有様だった。

ところが、二〇二一年二月に再訪したところ、草木が刈り掃われ、墓石に刻まれた文字が読める状態になっていた。それと思しき墓石には、このように刻まれていた。

   享保二十乙卯天

 大阿闍梨法印快旭之寿蔵

   閏三月初八日

これは、彌富破魔雄氏論文や久松潜一氏の「契沖伝」(至文堂)に記載のものと同一だ。確かに快旭は、この場所に住んでいた。「寿蔵」とは、生前に自ら作り置く墓のことをいう。両氏によれば、その墓石に向かって右側面には、

 法華経一千部讀誦

        八十五歳

 題百萬遍念誦

とあり、没年月日と年齢は、亡くなったときに追刻したものと推定されている。

なお、彌富氏によれば、一時期この墓石は「既に廃滅した」ものと思われていたところ、昭和三年(一九二八)七月に発見され、彌富氏らが当時の熊本市長辛島知己氏に相談のうえ、「有志諸賢の同感共鳴により」資金を得て「保存の設備を施行し、簡単なる墓前祭を執行」するに至った。しかしながら、そういう有志諸賢の思いも空しく、戦争や大地震も含めて一世紀近くが経とうとするなかで、再び雑草雑木の中に埋もれる悲境に陥っているのである。

ちなみに、彌富破魔雄氏は熊本出身の国学者で、皇室の傳育ふいく官として明治四十五年(一九一二)から、のちの昭和天皇、秩父宮殿下、そして高松宮殿下の教育にあたった人物である。(*1)

さて、快旭は、十一歳頃に熊本の地に来たものと考えられている。「不動院松林寺は、もと熊本宮寺村(*2)にあった古刹であるが、これを天正十六年に、加藤清正が府内唐人町に移したもので」、何らかの縁故があって来熊したのであろう。延宝七年(一六七九)、二十九歳という若さで師快祐の後を継ぎ不動院の住持となり、法印の最上僧位まで得た。三十一歳の時には大阿闍梨となった。このような外形的な行跡もさることながら、国学や漢学においても造詣の深さがあったと、彌富氏は貴重な二つの具体例を挙げて評価している。

まずは、木山直元(*3)に贈った手紙と歌である。

「津々良何某は、上代の風を仰で、臨池りんちの妙あり。世の人かの筆の跡を得たるもの、秘蔵せずといふことなし。ひととせ歌を写して、予が家兄契沖へおくられしを、水戸の源黄門へ献じ高覧に備へられしかば、はなはだ珍重したまひて、文庫におさめさせたまふとうけ給る。今又本妙寺の日實師ののぞみによりて、日本紀竟宴歌にほんぎきょうえんか二まきを写されしを見侍り。目をおどろかし、感心のあまり、知らざる道の腰折こしおれをつらぬるものならし。

桑門快旭

 うつ(写)しおく もじの関守せきもり 末の世に かきながしたる 水ぐき(茎)のあと」

 

これは直元の歌集「微塵みじん集」のなかにあるもので、津々良何某とは直元のことである。快旭が、直元の「臨池の妙」すなわち達筆であることを褒めた文章であり、その筆跡のあまりの秀逸さに、自分は「知らざる道の腰折」すなわち不勉強でたいしたことのない歌を詠んだ、という謙遜の趣旨だ。「日本紀竟宴歌」については後に詳述するとして、彌富氏はその文章表現の妙に注目し、このように述べている。

「一篇の用語よく洗練され、語法もまたよく整ひ、したがつて文意の徹底して居る点は、(中略)出色あるものとするをはばからぬ」。また歌については「二句に体言を据ゑて居る手法や縁語の用ひざまなど、当時の歌としては、さる方にめでたい歌で、決して『知らざる道』といふ詞を、そのままに信用してはならない程である」。

もう一つは漢文で、熊本不動院の「霹靂へきれき記」にある一文である。但し、漢文で長いため、ここでは彌富氏による要旨を紹介したい。その姿は感じ取っていただけると思う。

「寛文十一年三月八日の夜、暴風雨にはかに起こりて、霹靂一閃いっせん、護摩堂の上に落雷す。時に先師、堂中に持呪誦経じじゆしやうきやうす。徒弟房に居り、恐懼きやうくして地に伏す。師は晏然自若あんぜんじじやくとして、神色平時の如し。而して本尊並に脇士等、いささかの損傷もなく、只、雷の穿うがつ所のあなのみ存せり。翌日隣人とぶらひ来り、これを見て感嘆敬礼して去る。本尊は釈迦院の弉善大師の彫造せし像なり。先師、法諱はうきは快祐、俗姓は眞嶋氏、隈本の人。この落雷に堂像、行者些かの損傷もなかりしかは、是に明王の加持力であると同時に、亦師の専精の力なり

  弟子快旭、紀其顛末、以繋之不朽者也。

    時天和年歳次辛酉菊秋吉旦

          当寺中興第五世天台沙門大阿闍梨法印快旭誌焉」

これが記されたのが天和元年(一六八一)、快旭三十一歳のときである。落雷があった寛文十一年(一六七一)は二十一歳(*4)、徒弟の一人として凄まじい雷鳴に恐れおののいていたのであろう。これについて彌富氏は、「一読するに行文流暢りゅうちょう、措辞よく体をなし、意またこれにしたがつて簡潔、要を尽くして居る。凡手でない事が十分に察せられる」と評している。

 さらに、快旭に関する資料が極めて少ないなか、彌富氏論文「契沖と熊本」を納めた「契沖と熊本」(快旭阿闍梨墓碑保存会)という書籍中に、石原後凋氏の「紫のゆかり」というエッセイがあり、「肥後国誌」の中に快旭についての記述があるという。調べてみると、確かに「肥後国誌略」(元之巻、肥後国府部下巻)に、次のように記してあった。

  天満宮 祭九月二十五日 新三丁目内塩屋町侍小路

   細川若州候御会所近辺、船場せんば町川筋土手際ニアリ。勧請年代不分明。天台宗不動院住持支配之。延宝七年正月三日ノ夜、不動院住持快旭法印夢想ヲ感ジ、神体ヲ夜半ニ不動院ヘ移シケルニ、同十五日近隣ニ火失アリテ社壇類焼ス。ソノ後ヤシロヲ建テ遷座ス。

加えて石原氏は「今の文林堂主人丹邊氏は曰く」と、次のような話を紹介されていた。

「ある時藤公(坂口注;加藤清正)の重臣貴田孫兵衛、洗馬川に網を投げられると、木の塊がかかって来た。ひき上げて見られると天神の御像である。が御祭しようナドといふ考は勿論なかつたのでそのまま水に投込んでしまはれた。後日再びその辺をあさられると、又しも右の御像が網にひつかかつた。スルト孫兵衛もこれキツと『あるやうあらう』と信念し、叢祠さうしを川の西岸なる藪中に建立して崇敬をいたされた。よつて里人は藪天神と称へたさうであつた。後年道の西側に移し奉つて、久しくこの地の守護神として祝祭してゐたが、近年米穀取引所改築の際また今の所におうつし申し上げた」。

ちなみに、文林堂は、豊富な画材の品揃えのある文房具の老舗で、創業は明治十年。創業前には、細川家御用染物師として細川家の転封と共に小倉へ移住、寛永九年(一六三二)、細川忠利公の熊本転封とともに来住している。熊本出身の小説家、徳富蘆花ろかも「少年時代熊本目貫めぬきの洗馬橋を渡つて向かふ角の文林堂といふ大きな文房具店で熊次は時折筆を買った」と記している(「富士」第三巻)

私は、新たに快旭の足跡を直に確認できそうな直観を得て、現在では熊本市中央区新町二丁目となっている現地に足を運んだ。足跡はあった。「藪天神」は、船場菅原神社として、コンパクトな敷地に美しく整然と整備されていた。

そんな境内に、古びた石碑があった。昭和十五年(一九四〇)に建てられた「場社碑」で、次のように刻まれていた(判読不明箇所は□)

  加藤清正之臣貴田孫兵衛 坪井川に投網の際 不□天神の尊像懸りしが 之を元の川中に投せしに 翌年再び其尊像を網中に得て□以て遂に奇瑞を感じ 之を拾揚し其洲辺に小祠を建て 之を祭祝奉るに至れりと伝ふ 里俗之を呼て藪天神と称す 天台宗不動院之を支配せしが 延寶七年正月三日夜時に 不動院住持快旭法印霊夢を感じ神躰を夜半に不動院へ移しける同十五日近隣に火失ありて其社壇類焼す 其後社を建て遷座すと云ふ 爾後明治の末 町□代富重利平翁之時亦今の地に三遷せられし者にして□けるに 数々の霊験に徴を里民の崇敬篤き亦故あり□□□志□に 富重徳次渡邊小次郎両氏其由来煙滅せむ事を□し 碑を後世に貽さん事を計られ 余に文を□せらる余生□此地に享けし者仍不文志顧みず概□を誌す事爾□焉

 皇紀二千六百年祝典日

 昭和十五年十一月十日

      丹邉楽山撰並書

 

加藤清正の家来であった貴田孫兵衛が坪井川から引き上げた天神像が、藪天神のご神体として祀られていた。延宝七年(一六七九)正月三日夜、同社を管理していた不動院の住持快旭が夢に感じて、ご神体を不動院に移したところ、十五日に発生した近隣火災によって同社が消失、後日再建のうえ遷座した、という概要である。

なお当神社は、今ではむしろ、肥後てまり唄「せんば山の狸」(*5)のゆかりの神社として有名になっていて、境内には寄進されたタヌキの像が多数置かれている。行き届いた整備をされている管理者の方には頭が下がる思いでいっぱいである。ただ、契沖の弟である快旭という僧が、この近くにあった寺院の住持として亡くなるまで住んでいたこと、ご神体を火災から守った人物でもあったことは、今では地元の方でさえ、ご存じの方はほとんどいらっしゃらないのではなかろうか。

私は、快旭が、この地で生きていた足跡をまた一つ確認できた喜びを噛み締めながらも、駐車場の片隅で、なかば土に埋もれた墓石(寿蔵)のことを思い浮かべると、いたたまれなくなってしまった。この小論も、そんな両方の心持ちが強い動機の一つとなってしたため始めたものであることを、改めて記しておきたい。

 

十七、僧快旭におくること葉

 

彌富氏論文のなかで、契沖が弟快旭に送った詞が紹介されている。その経緯は以下の通りである。「木山直平の筆に係る『契沖家集』といふ書が、近時我が友平野君(*6)の手によつて発見せられた。編者直平の自筆である所が、すこぶる貴いのである。此の巻尾に『僧快旭におくること葉』といふ一篇の文詞がある」。以下、その内容を見ていくことにしよう。なお、契沖が自身の出自を語っているくだりは、第一章他で既出の内容であるため割愛する。参考まで、全文を末尾に付しておく。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

「肥後の國くまもとの城わた(渡)りに、快旭といふ此おい(老)法師が弟なるが、い(往)にし月おこせたるふみ(文)にいへるやうぞまづ悲しき」(( )内は筆者、以下同様)。熊本の快旭から届いた手紙には悲しいことが書いてあった。

「此の國の守の太郎がねの君は、ふん(文)月二十日あまり一日、江戸にしてわづかにひと日ふつかなやみ給ひて、う(失)せ給ひしかば、申すべきかぎりは中々いふにやはおよぶ。(中略)すなはち水戸の源参議の御むすめ、まことには、今出川殿のなるを、將軍の御はか(計)らひにて御むすめ(娘)とし給ひて、おんむこ(御婿)君と定まり、來むずる年ばかりや、こなたには渡したまはむ、など聞えつるを、あへなくてうたてき世の中のこと、などあり。かねてより此御なか(仲)らひあらんことは、こゝにもう(受)けたまりつるを、げに白河なみ(波)のなるせ(鳴る瀬)あは(泡)とこそたと(譬)ふべかりけりな」。「此の國の守の太郎がねの君」とは、熊本藩の三代藩主細川綱利の第九子で長男の與一郎のことである。五代将軍家綱の計らいで、この君と、公家の今出川家の姫君を徳川光圀の養女として、妻合めあわせることになっていたところ、君が元禄十三年(一七〇〇)七月二十一日に、わずか十四歳で、江戸で早世してしまい、縁談が水泡に帰してしまったことを快旭が嘆いていたのである。後述することになるが、光圀と綱利の親交は浅からぬものがあった。「かねてより此御なからひあらんことは、こゝにもうけたまりつる」とは、そのことを、契沖も承知していたと言っているように思われる。もちろん契沖と光圀との間にも、それに勝るとも劣らぬ深い親交があっただけに、人ごとではなかったものと思われる。

「をとこ君、まだことし十四にならせたまへば、女君は只ひいな(雛)やなにやにうづも(埋)るばかりにて、おは(御座)せけんなれば、をし(鴛鴦)鳥のはね、かたみ(互)に霜はら(払)ふならひも、し(知)ろしめ(召)さじや」。姫君は、ひな人形などに囲まれているような年齢でおいでなので、おしどりの夫婦が交互に場所を入れ替って霜を払い合うようなこともご存じではなかろう。「をし鳥のはね……」の表現は、枕草子「水鳥、鴛鴦をしいとあはれなり。かたみに居かはりて、『羽の上の霜払ふ』らむほどなど」(第三十八段)(*7)を踏まえたものだろうか。

「宰相の君は、わがつくば山とよそ(余所)ながら、みかげたのむ身なれば、そのゆゑよりかゝり、かの太郎がねの御事も、又はなれぬ故ありて、よそには聞きすぐされず」。光圀さまは、遠く筑波山のある常陸ひたちの地から、このたびの婚姻について今出川家のご威光に託しておいでなので、與一郎君の件も、聞き流されるということはない、という意か。(*8)

契沖は、父元全が、祖父を継いで熊本藩の家老を務めた兄元真(二代目としての下川又左衛門)に「子のつらにて」養育され、加藤家の改易とその後の断絶ののちは、尼崎城主の青山氏に「わづかなる仕へ」をして零落していったことに触れたあと、このように記している。「今は其の末なるものとては、いかなるえ(縁)にかありけむ、快旭ひとりはかなくてす(住)めるを、僧ながらかへりわぶめる」。すっかり落ちぶれてしまった一家の子として、どういう機縁か熊本の地に独り離れて住むことになってしまった、弟快旭のことを思うと不憫でならない、そんな心境であろうか。

「かゝれば野邊は(這)ふくず(葛)の、こなたかなたにつきて、こしはな(腰離)るばかりの歌ながら、五をよみいだ(詠出)してなん、はるかにかしこながら、姫君の御心をいたはしみ奉るになんありける」。「野邊はふくずの、こなたかなたにつきて」とは、当時大阪の円珠庵(*9)に住んでいた契沖にとってみれば、「快旭ひとりはかなくてすめる」西の熊本と、お世話になっている光圀の住む東の常陸(*10)の双方に心を配って思い煩っているという心情を表しているのだろう。

そこで、姫君の心をいたみ、腰折れ歌を五首捧げることにした。

 あ(逢)ふにこそ 別れはを(惜)しめ 浮世とて

 見ぬなき人に こひ(恋)やわた(渡)らん

 

 阿蘇山の 神もたぐ(偶)ひて 守りぬらし

 など筑波根つくはねの かげ(影)なかりけむ

阿蘇の神は一緒になって幼い二人を守ってくれたのであろうか、筑波山の威光も届かなかったのか……

 

 いまよりは 鼓の瀧よ 音なせそ 

 たちま(立舞)ふ人は あは(泡)と消えにき

熊本にあるという鼓の瀧よ、もう音は出さなくていい。立ち舞う君は泡と消えてしまったのだから…… ちなみに鼓の瀧は、現在の熊本市西区河内町野出に位置し、歌枕(*11)として知られている。(*12)

 

 白河は くろ(黒)きすぢ(筋)だに なしと聞くを

 などわが袖は すみ(墨)にやつせる

熊本を流れる清らかな白川には、黒い筋など見えないと聞いている。それに比べて、なぜわが袖は、こんなに黒く汚れてしまったのか……(契沖は泣き濡れてしまったのだ)ちなみに、阿蘇カルデラを源流とする白川は、快旭が住持を務めた不動院からすぐのところを流れている、現在の一級河川である。契沖は快旭から白川のことを聞かされていたのであろう。

 

 名も聞かじ なにそは今は たはれ(多波連)

 波のぬれぎぬ(濡衣) ほ(干)さじわが身に

すっかり私は泣き濡れてしまった、そんな身で濡れ衣を干すことなどできようか…… 多波連島は、宇土市住吉町の有明海に浮かぶ島。平安時代からの歌枕で、濡れ衣の象徴とされた。「伊勢物語」(六十一)にある歌が念頭にあったのか。「名にしおはば あだにぞあるべき たはれ島 波のぬれぎぬ 着るといふなり」

 

この「こと葉」が記された時期については、平野氏らにより元禄十三年と推定されている。契沖は翌年に六十二歳で亡くなっているので、その前年に記されたものとなる。契沖が詠んだ五首には、阿蘇山、鼓の瀧、白河(川)、たはれ島、というように熊本の地理が織り込まれている。かつては家族が暮らし、今や散り散りになった兄弟のなかで、弟快旭が独り住まう熊本の地は、契沖にとって、いつまで経っても想像以上に大きな存在だったのではあるまいか、そんな思いが強くなるばかりである。

 

 

(*1)ちなみに、彌富氏の祖父千左衛門氏は、熊本出身の政治家横井小楠が、熊本の沼山津に閑居隠棲していた頃のよき理解者であり、パトロンでもあったそうである(山崎貞士「新熊本文学散歩」)。

(*2)現在の熊本県熊本市西区二本木の一部。

(*3)熊本在住で、契沖門下で歌を学んだ人物(第一章参照)。

(*4)漢文本文に記載のある干支「壬子」を正とすれば、二十二歳となる。

(*5)「あんたがたどこさ 肥後さ……」で知られるわらべ歌。

(*6)熊本出身の郷土史家の平野流香氏のこと。

(*7)「10」巻三に「羽の上の 霜うち払ふ 人もなし 鴛鴦の独り寝 今朝ぞ悲しき」とある。

(*8)ちなみに「古今和歌集」に、「常陸歌」として「筑波嶺の このもかのもに 影はあれど 君がみかげに ますかげはなし」(一〇九五)という歌がある。

(*9)現在の大阪市天王寺区空清町にある。

(*10)当時光圀は、現在の茨城県常陸太田市にある西山荘で隠棲していた。

(*11)和歌に多く詠みこまれる名所・旧跡。

(*12)平安時代の女流歌人、檜垣が詠んだとされる歌がある。音にきく つゝみが瀧を うちみれば たゝ山川の なるにそ有ける 但し、「拾遺集」には読み人知らずとして収録(巻九、雑下)。

 

【参考資料】

僧快旭におくること葉

肥後の國くまもとの城わたりに、快旭といふ此おい法師が弟なるが、いにし月おこせたるふみにいへるやうぞまづ悲しき。此の國の守の太郎がねの君は、ふん月二十日あまり一日、江戸にしてわづかにひと日ふつかなやみ給ひて、うせ給ひしかば、申すべきかぎりは中々いふにやはおよぶ。國こぞりてわかきものは親を失ひ、老いたるものはおのがわが子を、まどはしたらんやうになげくなる。すなはち水戸の源参議の御むすめ、まことには、今出川殿のなるを、將軍の御はからひにて御むすめとし給ひて、おんむこ君と定まり、來むずる年ばかりや、こなたには渡したまはむ、など聞えつるを、あへなくてうたてき世の中のこと、などあり。かねてより此御なからひあらんことは、こゝにもうけたまりつるを、げに白河なみのなるせあはとこそたとふべかりけりな。をとこ君、まだことし十四にならせたまへば、女君は只ひいなやなにやにうづもるばかりにて、おはせけんなれば、をし鳥のはね、かたみに霜はらふならひも、しろしめさじや。されど人々のとかくいふにつけてわれもさはをとこもたりとおぼしけむや。このほどいかにと、思ふばかりの御よはひに、いまよりゆゝしき色に、やつれたまひつゝ、ありて後は、枕をだにならべたまへることなきものしが、さらにひとりねかなしびたまはんを、思ひやりたてまつれば、法師の心だにぞいとをしく、たゞならぬや。宰相の君は、わがつくば山とよそながら、みかげたのむ身なれば、そのゆゑよりかゝり、かの太郎がねの御事も、又はなれぬ故ありて、よそには聞きすぐされず。おのがおほぢは、かの國のむかしの守、清正と聞こえたまへるに仕へて、下川のなにがしと、時にかずまへられしものなり。又は母方につけるおほぢは、はざま氏にて今の國の守にはおゝぢにておはせるが、小倉といふ所知りておはせし時に、弓射るつはものゝあづかりにて仕へしを、つかひにさゝれて、何とかいふ所渡るほど、ゆくりなきあらしま風にあひて、おぼれてうせぬ。そのしるしをさめる石、ちいさき島中に、今もありとなん。もと勝部氏なるを、又何とかやもいへば、われはそれがあひだならんとて、みづからおへりとか。そのめなるはすなはち、われらがおほばよ。片倉右馬允、主君の氏たまひて後は、加藤といひけるそれがめひにて、父は片岡、又は青木ともいひけるが手よりはなれて、小倉に行きてければ、こはちこふばかりなるひとりにて、あまたのむすめぐして、おやのもとにかゝりてやしなひし。かたくな法師が父は、兄がおやのあとをつぎて忠廣と聞こえ給へる世に、父が知れりしに、ひとへまして一萬石をはみしがもとにありて、人もえあなどらねば、時々の遊びに心をのみ入れて、兄がこのつらにてこそありけむを、かの國ほどなくほろびてのち、猶さすらへながら、兄がもとに年へてよそに、わづかなる仕へせしより、世はうきものとや知りそめたりけむ。今は其の末なるものとては、いかなるえにかありけむ、快旭ひとりはかなくてすめるを、僧ながらかへりわぶめる。本妙寺といふ寺は、清正のみがきたてたまへるが、今も國の光といふばかりにてのこれるに、おほぢ、をぢなどが名かきつけたるもの、又春の草、秋の木の葉にも、うづもれてなんある。かゝれば野邊はふくずの、こなたかなたにつきて、こしはなるばかりの歌ながら、五をよみいだしてなん、はるかにかしこながら、姫君の御心をいたはしみ奉るになんありける。

 あふにこそ 別れはをしめ 浮世とて 見ぬなき人に こひやわたらん

 阿蘇山の 神もたぐひて 守りぬらし など筑波根の かげなかりけむ

 いまよりは 鼓の瀧よ 音なせそ たちまふ人は あはと消えにき

 白河は くろきすぢだに なしと聞くを などわが袖は すみにやつせる

 名も聞かじ なにそは今は たはれ島 波のぬれぎぬ ほさじわが身に

 

【参考文献】

・「枕草子」(「新潮日本古典集成」、萩谷朴校注)

 

(つづく)

 

物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅳ
    ―いともあやしき言霊のさだまり

「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部」と題し、これまで三回にわたって筆を進めてきた。ここで改めて、振り返っておきたい。

(「好*信*楽」2023年冬号所収)では、紫式部が、他人の心ばえに対する感情移入や共感の強さにおいて、際立つ気質を持っていたこと、式部自身が「古歌」や「物語」に人一倍親しみ「さをも慰め、心をも晴らす」という、その功徳をよく体感していたこと。加えてその功徳が、古人たちから平安の世に至るまで、連綿と受け継がれてきたものであることを、彼女が鋭く直観していたことについて述べた。

(「好*信*楽」2024年冬号所収)では、紀貫之が「土佐日記」の執筆を通じて行った「和文制作の実験」、すなわち「最初の国字と呼んでいい平仮名」を用いて、「平凡な経験の奥行の深さを、しっかりと捕え」た日記を書き上げたことを、彼が土佐から帰京する船旅のなかで感じた喜怒哀楽のさまを通じて示した。

そして前稿のⅢ(「好*信*楽」2024年春号所収)においては、式部が、曽祖父や祖父と昵懇じっこんであった紀貫之と、「古今和歌集」や「土佐日記」を通じてどのように向き合ってきたのか、さらには貫之の作品を介し、または直かに、「万葉集」や記紀の時代を生きた古人たちと、いかに向き合ってきたのかを、彼女の作品に示されているところを見た。

そこで本稿では、小林秀雄先生が言うところの、彼女が飲んだ「生命」や「源泉」に向けて、さらに深く掘り進めてみることにしたい。

 

 

本稿では、「本居宣長」のなかで頻出している「言霊」という言葉に注目する。小林先生は、十九章から四十九章に至る、多くの場面で「言霊」という言葉を使っている。ただし、その意味合いについては、本居宣長と長年にわたり向き合ってきた、先生ならではの意味合いが込められており、留意が必要だ。「言霊」とは一般的に、例えば「広辞苑」(岩波書店)によると「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」というように説明されている。

そこでまず、この言葉が、実際にどのように使われていたのか、もっとも古い例として「万葉集」を紐解いてみることにしよう。使用例は三首ある。まずは、長歌から。

 

 好去かうきよ好来かうらいの歌一首

  神代かみよより 言ひらく そらみつ 大和の国は 皇神すめかみの いつくしき国

  言霊の さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと

  目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光たかひか

  日の大朝廷おほみかど 神ながら での盛りに あめの下 まをしたまひし 家の子と

  えらひたまひて 勅旨おほみこと 戴き持ちて 唐国からくにの とほさかひに つかはされ

  まかりいませ 海原うなはらの にも沖にも かむづまり うしはきいます

  もろもろの 大御神たち 船袖ふなのへに 導きまをし 天地あめつちの 大御神たち

  大和の 大国御魂おほくにみたま ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔あまがけり 見渡したまひ

  事終り 帰らむ日には またさらに 大御神たち 船袖に

  御手みてうち懸けて 墨縄を へたるごとく あぢかおし 値嘉ちかの崎より

  大伴の 御津みつの浜びに 直泊ただはてに 御船みふねてむ つつみなく

  幸くいまして 早帰はやかへりませ

(巻第五、八九四)

 

反歌(略)

  天平五年の三月一日、が宅にして対面す。たてまつるは三日なり。山上憶良 謹上大唐大使だいたうたいしのまへつきみ 記室

 

冒頭十四句「……見たり知りたり」までの歌意はこうである。――神代の昔から言い伝えて来たことがある、この大和の国は、皇祖の神の御霊の尊厳極まりない国、言霊が幸をもたらす国と、語り継ぎ言い継いで来た。このことは今の世の人もことごとく目のあたりに見、かつ知っている。

七十代前半の山上憶良やまのうえのおくらが、天平四年(七三二)八月に遣唐大使に任命された丹治比真人広成たじひのまひとひろなり(*1)に対して、翌年四月の出航に際して贈ったはなむけの歌である。題詞にある「好去好来の歌」とは、まさに無事に行き無事に帰ることを祈る歌という意味だ。しかし、ただの贈る言葉ではなかった。そこには、憶良の特別な思いが込められていた。

そこから遡ることおよそ三十年、文武天皇朝の大宝元年(七〇一)正月二十三日、三十年ぶりに遣唐使が任命された。執節使は粟田朝臣真人で、憶良はこのときに、遣唐少録しょうろくとして渡唐していたのである。伊藤博氏の想定によれば、一行が難波津を旅立ったのは、大宝元年五月半ばのこと。出航にあたり憶良も、柿本人麻呂から餞の歌を贈られていた。

 

柿本朝臣人麻呂が歌集の歌に曰はく

 葦原あしはらの 瑞穂の国は 神ながら 言挙ことあげせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする

 言幸ことさきく ま幸くいませと つつみなく 幸くいまさば 荒磯波ありそなみ ありても見むと

 百重ももえ波 千重ちえ波にしき 事挙げす我れは 事挙げす我れは

(巻第十三、三二五三)

反歌

磯城島しきしまの 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ

(巻第十三、三二五四)

 

それぞれの歌意はこうである。

――神の国葦原の瑞穂の国、この国は天つ神の神意のままに、人は言挙げなど必要としない国です。しかし、私はあえて言挙げをするのです。この言のとおりにご無事でいらっしゃい、障ることなくご無事で行って来られるならば、荒磯に寄せ続ける波のように、変わらぬ姿でまたお目にかかることができるのだ、と、百重に寄せる波、千重に寄せる波、その波のように繰り返し繰り返しして、言挙げをするのです、私は。言挙げをするのです、私は。(三二五三)

――我が磯城島の大和の国は、言霊が幸いをもたらしてくれる国なのです。どうかご無事で行って来て下さい。(三二五四)

丹治比真人広成に餞別の歌を贈った憶良自身が、以前、人麻呂から同じように歌を贈られていたのだ。そしてこの歌にも「言霊」という言葉が使われていた。伊藤氏は、人麻呂による餞別歌と憶良の好去好来歌には、「意識や歌句の上で共通する点が目立つ。好去好来歌の『神代より 言ひ伝て来らく そらみつ大和の国は 皇神の厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ言ひ継がひけり云々』は、人麻呂集歌の『葦原の瑞穂の国は 神ながら言挙げせぬ国」や「磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞ』に相通じ、それを深化徹底させる面がいちじるしい」と述べたうえで、晩年の憶良が詠んだ好去好来歌について、このように言っている。

「憶良はこのみずからが送られた大宝元年の歌の記憶を底に置きながら、天平五年三月三日献上の好去好来歌を詠んだということも考えられる。みずからが無事帰着するに至った根源の言葉となったその歌を下地に歌うことは、それだけで、多治比真人広成の好去好来を実現させる効能があると考えられたのではなかろうか」。憶良は、人麻呂から贈られた歌の「言霊」という言葉を改めて詠むだけではなく、その言霊が秘めている力が発動されることを信じて、冒頭十四句を詠んだのである。

さらに、「ことだま」という言葉は「万葉集」において、このようにも使われている。作者は人麻呂である。

言霊の 八十やそちまたに 夕占ゆふけ問ふ うらまさにる いもは相寄らむ

(巻第十一、二五〇六)

玉鉾たまほこの 道行きうらに うらなへば 妹は逢はむと 我れにりつる

(同、二五〇七)

それぞれ、このような歌意だ。 

――言霊の振る立つ、八十の道辻で夕占を問うた。すると、占のお告げにはっきりと出た。「お前の思う子はお前にきっとなびき寄るだろう」。(二五〇六)

――玉鉾の立つ道、その道を行く人の言葉の辻占で占ったところ、「お前の思う子はお前にきっと逢うだろう」と、この私にちゃんとお告げしてくれた。(二五〇七)

ともに、素人が行う夕占に寄せる恋がテーマだ。夕占とは、言霊が活動する夕方、辻に立って、行き交う人の言葉の端から吉凶を占うことをいう。伊藤氏は「たとえば、ア音で始まる何らかの音声(言葉)が耳に入れば「妹は逢ふ」と決めておいて、その言葉を聞こうと辻占に立つのであろう」と推定している。

以上から、「万葉集」で使われている「ことだま」という言葉に込められた上代の人たちの心持ちも体感できたように思う。そこで、小林秀雄先生は、このように言っている。「『言霊のさきはう国』『たすくる国』を深く信じて、万葉歌人が言語表現につき、どう歌ったかは周知の事だ。これを、そのまま素直に受取らぬ理由はあるまい」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第28集所収、p53)

そこで言われる「素直に受取」るとはどういうことなのか、引き続き先生が語るところに耳を傾けてみよう。「上代の人々は、言葉には、人を動かす不思議な霊が宿っている事を信じていたが、今日になっても、言葉の力を、どんな物的な力からも導き出す事が出来ずにいる以上、これを過去の迷信として笑い去る事は出来ない。『言霊』という古語は、生活の中に織り込まれた言葉だったが、『言霊信仰』という現代語は、机上のものだ。古代の人々が、言葉に固有な働きをそのまま認めて、これを言霊と呼んだのは、尋常な生活の智慧だったので、特に信仰と呼ぶようなものではなかった。言ってみれば、それは、物を動かすのに道具が有効であるのを知っていたように、人の心を動かすのには、驚くほどの効果を現す言葉という道具の力を知っていたという事であった」(同,p45)

 

一方、本居宣長は、「言霊」について、どのように考えていたのだろうか。

彼が「言霊」について記している箇所は、確認できた範囲では「くづ花」と「ことば玉緒たまのお」の二作である。

まず、神代の伝説ツタエゴトについての宣長の考えに対して、市川ただす(*2)が行った論駁ろんばくの書「末賀能比礼まがのひれ」の中で難者の匡が文字の徳を言うのに対し、宣長が「くず花」のなかで言伝ことづたえの徳を説くくだりである。

「文字は不朽の物なれば、一たび記し置きつる事は、いく千年を経ても、そのままに遺るは文字の徳也、然れ共文字なき世は、文字無き世の心なる故に、言伝へとは大に異にして、うきたることさらになし。今の世とても、文字知れる人は、万の事を文字に預くる故に、空にはえ覚え居らぬ事をも、文字知らぬ人は、返りてよく覚え居るにてさとるべし、殊に皇国みくには、言霊の助くる国、言霊の幸はふ国と古語にもいひて、実に言語の妙なること、万国にすぐれたるをや」。これを読むと、宣長は言霊について語るにあたり、音声言語が念頭にあったことがよくわかる。

もう一つは、「『万葉』の古言から『新古今』の雅言にわたり、広く詠歌の作例が検討されて、『てにをは』には、係り結びに関する法則的な『とゝのへ』、或は『サダマリ』と言うべきものがある事が、説かれ」ている「詞の玉緒」である。宣長の肉声を直に聴いてみよう。

 ・てにをはは、神代よりおのづから萬のことばにそなはりて、その本末をかなへあはするさだまりなん有て

 ・そもそも切るる所とつづく所とかはれる詞は、てにをはのととのへも又同じきは、いともあやしき言霊のさだまりにして、さらにあらそひがたきわざなりかし(以上、詞瓊綸一之巻)(傍点筆者)

 ・そもそも此ととのひは、さらに後の世に定めたる物にはあらず、神代の始より人の言の葉にしたがひて、おのづから定まれる物にし有ければ、ことさらに心せざれども、おのづからよくととのへりければ

 ・いで上ツ代よりてにをはの定まりの、正しかりけることを、くはしくいはむ、まづ古事記と日本紀とにのれる歌、長き短き合せて百八十余首ある。皆いと神さびて、今の世に耳遠き詞共おほかれども、てにをはにいたりては、古今集よりこなたのととのへと、もはら同じくて、ことなることなし(以上、詞瓊綸七之巻 古風の部)

 ・まづふるき文には、延喜式の八の巻に集め載せられたるもろもろの祝詞、また続日本紀などの御代御代の宣命の詞などのこれり、これらも事にしたがひ時代にしたがひて、詞のふりこそとりどりにふるめかしけれ、てにをはのととのひは、もはらことなることしなければ(同 文章の部)

 

ここで宣長は、「てにをはの定まり」における、いわゆる文法上の係り結びの法則について述べているだけのように見える。ところが小林先生は、「しかし」とつないで、このように続ける。「彼は、単なる文法学者として、そう言ったのではない。そういう彼の考えの中心は、これらの歌人たちは歌を詠むのに文法など少しも必要とはしていなかった、言霊の力を信じていれば、それで足りていた、そういう処にあったと言った方がよい」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集所収、p273)

加えて宣長が、先に引いた「くず花」の一節に続けて「中古迄、中々に文字といふ物のさかしらなくして、妙なる言霊の伝へなりし徳ともいひつべし」と語っていることに続けて、先生はこう述べるのである。

「宣長は、言霊という言葉を持ち出したとき、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生まれた、という事、言葉の意味が、これを発音する人々の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたという、全く簡明な事実に、改めて注意を促したのだ。ココロの動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微妙なもので話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思い通りにはならぬものであり、それが語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような『たましひ』を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである」(同 第28集所収、p171-172)(傍点筆者)

ここで、「言葉の意味が、これを発音する人々の、肉声のニュアンスと合体して働いている」という一文を熟視したい。それは、こんな場面を想起させないだろうか。――人がある事物に接した。例えば、野原を歩いていて一輪の美しい花が咲いているのを見た。それにココロを動かされ、ある音声(言葉)を思わず発した、例えば「うつくしい」と……

宣長は、「古事記伝」一之巻「古記典等総論」でこう述べていた。

そもそもココロコトコトとは、みな相称アイカナへるものにして、上ツ代は、意も事も言も上ツ代、後ノ代は、意も事も言も後ノ代、漢国カラクニは、意も事も言も漢国なるを、書紀は、後ノ代の意をもて、上ツ代の事を記し、漢国の言を以テ、皇国ミクニの意を記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此記は、いさゝかもさかしらを加へずて、古ヘより云ヒ伝ヘたるまゝに記されたれば、その意も事も言も相称アイカナヒて、皆上ツ代のマコトなり、是レもはら古ヘの語言コトバムネとしたるが故ぞかし、すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、フミはその記せる言辞コトバムネには有ける」。

この一節を本文に引用した小林先生は、このように話を続けている。

「『古事記』の、古えよりの云い伝えに忠実な言語表現では、言わば、『意も事も言も相称』っていると言う。宣長がよく使う言葉で言えば、其処には、そういう『形』が見えるのであって、その『形』こそ、取りも直さず『上ツ代のマコト』と呼ぶものだ、と彼は言いたい。これは誰が工夫し、誰が作り上げた『形』でもない。人々に語り継がれて生きていくうちに、国語は、自らの力で、そういう『形』を整えたのである。何も、わが国の上ツ代の語言コトバに限らない。何処どこの国の、何時の時代の語言コトバでも、そういう『形』を取る力は自らのうちに蔵している」(同 p154)(傍点筆者)

今一度、文中にある「自らの力で、そういう『形』を整えた」という言葉をよくよく眺めてみよう、宣長の「詞の玉緒」における語り口、例えば「おのづから……そなはりて」「此ととのひ」「おのづから定まれる物にし有ければ」という口調と共鳴しているように聴こえないだろうか。このくだりで、「言霊」という言葉は使われていないものの、小林先生には、その言葉が念頭にあったし、宣長の身になって、意を汲んでみればそうならざるを得ない、そんな強い確信があったように思われる。その確信は、このような言葉となって現れた。

「『古事記』註釈という廻り道」を歩くなかで、宣長が「非常な忍耐で、ひたすら接触をつづけた『皇国みくにの古言』とは、註解の初めにあるように、『ただに其ノ物其ノ事のあるかたち(坂口注;性質情状)のままに、やすく云初イヒソメ名づけソメたることにして、さらに深き理などを思ひてイヘる物には非ざれば』、――という、そういう言葉であった。未だ文字がなく、ただ発音に頼っていた世の言語の機能が、今日考えられぬほど優勢だった傾向を、ここで、彼は言っているのである。宣長は、言霊という言葉を持ち出したとき、それは、人々の肉声に乗って幸わったという事を、誰よりも、深く見ていた。言語には、言語に固有な霊があって、それが、言語に不思議な働きをさせる、という発想は、言伝えを事とした、上古の人々の間に生まれた、という事、言葉の意味が、これを発音する人々の、肉声のニュアンスと合体して働いている、という事、そのあるがままの姿を、そのまま素直に受け納れて、何ら支障もなく暮らしていたという、全く簡明な事実に、改めて注意を促したのだ。ココロの動きに直結する肉声の持つニュアンスは、極めて微妙なもので話す当人の手にも負えぬ、少なくとも思い通りにはならぬものであり、それが語られる言葉の意味に他ならないなら、言葉という物を、そのような『たましひ』を持って生きている生き物と観ずるのは、まことに自然な事だったのである」。

以上のことを踏まえて、私は、このような自問自答を行った。――小林秀雄先生は、古人が事物の「性質情状アルカタチ」を素直に感受し、その困難な表現に心躍らすには、言霊の働きが必要だった、そのように各自が人生の「マコト」と信じたところが、物語として人伝えされ、育てられてきたと言っている。そこで言う「言霊の働き」とは、具体的にどういうものだったのか。例えば、古人が、ある事物に接してココロを動かされ、ある音声を発した。そんな個々の経験が肉声によって語り合われ、語り継がれ、自ずと「カミ」という言葉が、宣長の言う「『シルシ』としての生きた言葉」として、「ととのひ」「定まる」。彼によれば、「古事記」の、いにしえよりの云い伝えに忠実な言語表現では、事物から感受したココロ(心ばへ)と、実際になしたコト(しわざ)と、表現するコトバが、相称アイカナった「形」をしている。このように、国語は、語り継がれて生きていくうちに自ずからそういう「形」を整えてきた。そのような力が、そこで言われる「言霊の働き」ではあるまいか。

 

 

さて本稿の冒頭、「万葉集」のなかで「ことだま」という言葉が使われている三首を見たところで、柿本人麻呂と山上憶良の歌があった。このことについて、小林先生が触れているくだりがある。

(「万葉集」の編者の一人である大伴)「家持は、当然、(漢詩集である)懐風かいふうそう』を意識したであろうが、それは、特に対抗意識を働かすというよりも、おおらかな自信を持っていたという事だっただろう。人麿ひとまろと憶良を尊敬していたこの歌人の心持には、「言霊のたすくる国」「言霊のさきはふ国」という発想を生んだ自信と、同質のものがあったであろう」(同 第27集所収、p301)

それが、「古今和歌集」の編纂者であり、「土佐日記」の作者でもあった紀貫之となると、大変相違して来る。「和歌は、彼の言うように、『色好みの家に、む(埋)もれ木の人知れぬ事となりて、まめなる処には、花薄はなすすきほにいだすべき事にもあらずなりにたり』(仮名序)という次第となって、宮廷に於ける文章道の権威は、もう決定的なものとなっていた」。極端な唐風模倣という、平安遷都とともに始まった朝廷の積極的な政策により、和歌は、公認の教養資格の埒外らちがいに弾き出されてしまっていたのである。

延喜五年(九〇五)四月十八日、醍醐天皇の英断によって歌集撰進の命が下ったものの、貫之ら編者にとって「それは、もはや尋常な仕事ではなく、言わば、すっかり日蔭者になって了っていた和歌を、改まった場所に引出すという事であった。『万葉集』は序文を必要としなかったが、『続万葉集』(*3)は、撰者の好むと好まざるに係わらず、『やまと歌』の本質や価値や歴史を改めて説く序文を必要としていたのである。説き終り、勅撰を祝い、貫之は言う、『人麿なくなりにたれど、歌の事とどまれるかな』。貫之の感慨は、言霊の不思議な営みを思っての事と解していい」。

その感慨に続けて、貫之はこのように和文をしたためている。――たとひ、時移り、事去り、たのしび、かなしび、ゆきかふとも、この歌の文字あるをや、青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、正木のかづら長く伝はり、鳥の跡久しくとどまれらば、歌のさまをも知り、ことの心を得たらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎていまを恋ひざらめやも。

貫之は、この歌集が後の世にも久しく残り、伝えられていくならば、歌の情趣や物事の本質を心得ているような人は、大空に浮かぶ月を見るように、歌の興った昔を仰ぎ見て、延喜の世を恋しく思うに違いない、と言っている。

ここでは、「ことの心」という言葉を熟視したい。貫之のほぼ一世代後を生きた、とある人物が、自らが創作した物語のなかで、自身のこんな物語論を主人公に語らせていた。

(物語というものは)「その人の上とて、ありのままに言ひづることこそなけれ、よきもあしきも、世にる人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、のちの世にも言ひ伝へさせまほしき節々を、心に籠めがたくて、言ひおきはじめたるなり。……深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに嘘言そらごとと言ひ果てむも、ことの心たがひてなむありける」。

後半は、意味深い国史(異国の書物や「日本書記」の類)と浅はかな物語という差は、確かにありますが、物語を一途に作りごとと言い切ってしまうのも、物語の本質にそぐわない話なのです、という文意である。

その人物は、「古今和歌集」から百九十首あまりの歌を引用するとともに、「万葉集」の歌も直接間接に享受し、古人がココロコトコトバが相称うかたちで伝えてきたマコトを、物語の中に血肉化させていた紫式部である。それぞれの「ことの心」については、ひとまず「物事の本質」、「物語の本質」と訳したが、そんな一言で割り切れるようなものではあるまい。その真意については、前後の文脈を無視した短絡や深読みは避けなければならないが、貫之のそれと式部のそれには、重なり合う深意があるように思えてならないのである(*4)

 

紫式部もまた貫之と同じように、蛍の巻において「ことの心」という言葉をしたためたとき、言霊の不思議な営み、「いともあやしき言霊のさだまり」というものを直覚していたのではあるまいか。彼女はそこに、国語伝統が音を立てて流れるさまを、まざまざと感受し、奥深くにある物語の生命、物語の魂を、その源泉で飲んだのではあるまいか。

いや、だからこそ宣長は、式部が全身全霊を注いだ「源氏物語」の熟読によって開眼し、それと本質的には違いのない読み方で、それまで誰も読むことができなかった「古事記」を読み上げることができたのだ。「紫文要領」で語られている、彼の言葉で筆を置きたい。

 

「目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触るるにつけて、そのよろづの事を心にあぢはへて、その万の事の心をわが心にわきまへ知る、これ、事の心を知るなり、物の心を知るなり、物のあはれを知るなり。その中にもなほくはしく分けていはば、わきまへ知るところは物の心・事の心を知るといふものなり。わきまへ知りて、そのしなにしたがひて感ずるところが、物のあはれなり」。

 

 

(*1)多治比(丹比)家は、しばしば遣唐大使を出した家柄。ちなみに「万葉集」には、天平勝宝三年(七五一)、多治比真人土作(はにし)が客人を代表して入唐使に贈った餞別の歌が集録されている。――住吉(すみのえ)に 斎(いつ)く祝(はふり)が 神言(かむごと)と 行(ゆ)くとも来(く)とも 船は早けむ――船が出発する住吉の社(やしろ)の神主によれば、往復ともに船はすいすい進むはずだ、という意の予祝の歌である。ここにも、当時の人々が信じていた言霊の力が感じられる。

(*2)江戸中期の儒学者。元文五年(一七四〇)~寛政七年(一七九五)。

(*3)「古今和歌集」「真名序」によれば、「古今集」は最初「続萬葉集」と命名されていた。

(*4)竹西寛子氏が、両方の「ことの心」について考察されている(「古語に聞く」ちくま文庫、「古典日記」中央公論社)。

 

【参考文献】

・伊藤博「萬葉集釋注」集英社

・「本居宣長全集」第八巻、筑摩書房

・「古今和歌集」新潮日本古典集成、奥村恆哉校注

・「本居宣長集」同、日野龍男校注

 

 

(了)

 

編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの四人の対話は、「政治家がつく嘘」の話題から始まる。昨今のSNSの猛威とも関連して対話も急に熱を帯びる。今回は、はたしてどこから、「本居宣長」を精読中の、この四人ならではの話題に転じるのか…… そういう会話の流れや展開の妙もまた、読者諸賢に愉しみ、味わっていただきたい、荻野さんの対話劇の醍醐味である。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、鈴木順子さん、森本ゆかりさん、本多哲也さんが寄稿された。

鈴木さんは、小林秀雄先生が「宣長の学びの成長と精神を、躍動感のある言葉で説明している」と言う。「躍動感のある言葉」とは、具体的に「彼(宣長)の学問の内的必然の律動」そして「書物という対象のうちに、己れを捨ててのめり込む精神の弾力性」という言葉である。これらの言葉と向き合うなかで、鈴木さんの眼には「宣長の言葉を、全身全霊で受け止めている」小林先生の姿が映じているようだ。

森本さんは、このように述懐している。「自分の生き方と向き合い、私の身の回りで起こる出来事や人間関係の問題など、これは私の人生にとって、どのような意味があるのかを見つめるためには、小林氏の言われている歴史を見る眼が必要なのではないかと感じました」。質問にいたる池田雅延塾頭との対話を通じて、「『人間によって生きられた歴史を見る』という言葉の深さ」を体感されたようである。

本多さんの自問は、宣長が「古言のふり」を直知したことについて小林先生が書いている、「実証の終るところに、内証が熟した」とはどういうことか? である。本多さんは、そこで小林先生が言っている「実証」とは、私たちが現代的な通念で受け取りがちな「科学的とか客観的といった語」とは意味合いが異なることに注意を促したうえで論を進める。それでは一体どうすれば、内証は熟すのか?

 

 

今号では、石川則夫さんが、2023年夏号以来となる特別連載を寄稿された。副題は「徂徠の面影」である。もちろん「本居宣長」においても、荻生徂徠に関する話題の登場頻度は高く、いわゆる急所の一つだと思われる。本塾生の「自問自答」においても熟視対象として頻繁に取り上げられている。塾生はもちろん、徂徠への関心が高い読者諸賢にも、一読をお勧めしたい。

 

 

先だって開かれた、池田雅延塾頭が講師を務める「新潮日本古典集成で読む 『萬葉』秀歌百首」の新年一回目の講義では、「萬葉集」巻第一にある次の二首を味わった。

 

熟田津にきたつに 船乗ふなのりせむと 月待つきまてば 潮もかなひぬ いまでな

(八、額田王)

海神わたつみの 豊旗雲とよはたくもに 入日いりひさし 今夜こよひ月夜つくよ さやけくありこそ

(一五、中大兄)

古代朝廷が朝鮮対策の拠点としていた百済くだらが、唐の力を借りた新羅しらぎに攻められ、援軍を求めてきたことを受け、斉明七年(六六一)正月六日、六十八歳の女帝を総帥そうすいに仰ぐ大和朝廷の軍団は、難波津を出航した。この二首はその航路上で詠まれたものと言われている。

「萬葉集釈注」(集英社)の著者である伊藤博氏は、後者の十五番歌は「萬葉集」中の「傑作中の傑作」と明言している。さらに「その味わいを現代語訳に置きかえるのは容易ではない」と前置きしたうえで、歌意は「おお、海神のたなびかしたまう豊旗雲に、今しも入日がさしている、今宵の月世界は、まさしくさややかであるぞ」と記されている。一つ前の十四番歌が、航路上から眼前に広がる「印南国原いなみくにはら」、すなわち明石から加古川にかけての平原について詠まれた歌であることから、その付近で遭遇したのだろうか、西の空に赤くたなびく夕雲の姿に、向後の航路の無事を予祝よしゅくする心持ちを託したのであろう。

前者の八番歌は、老女帝斉明さいめいの疲労を癒しつつ船団装備の充実の時間として、伊予の熟田津(松山市道後温泉あたり)に七十日ほど停泊し、三月末に出帆する際に詠まれた歌である。伊藤氏によれば「船出の刹那を待ち続け、ついにその時を得た宮廷集団のこころのはずみの上に発せられたこの歌には、息をのんで勢ぞろいする宮廷集団を、一声のもとに動かす王者の貫禄がみなぎっている」。まさしく額田王ぬかたのおほきみは、天皇になり代わって歌を詠む「御言みこと持ち歌人」として、この重大な場面で歌を詠み上げ、「月も出た、潮の流れも最高だ。さあ、今こそ漕ぎ出そうぞ」と口火を切ったのである。

 

さて、わが塾の使命である「『本居宣長』精読十二年計画」も、いよいよ仕上げの時期を迎えている。しかしながら、私たちの学びは、これで歩みを止めるわけではない。小林秀雄先生に人生の生き方を学ぶ塾「私塾レコダ l’ecoda」での学びや各自の独習に、終わりはない。

「今は漕ぎ出でな!」という額田王の第一声の叫びをわが胸中におさめ、本年もまた学び続けて行こうぞ、そんな思いで、年のはじめのこの編集後記を書いている。

 

(了)

 

 

(追記)諸般の事情により、2025年春号は休刊します。2025年夏号より再開する予定です。

 

契沖と熊本Ⅶ

十四、「上に宗因なくんば……」

 

「上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳ていとくよだれをねぶるべし。宗因は此道このみちの中興開山也といへり」。芭蕉に師事した去来(*1)が記した「去来抄」(修行教)にある先師芭蕉の言葉である。芭蕉は俳論書の類いを一切残さなかったので、彼が西山宗因について語っている、この唯一の言葉は、よく味わっておきたいと思う。まずは当該箇所の全文を引用する。

魯町ろちやう曰、不易流行の句は古説にや、先師の発明にや。去来曰、不易流行は万事にわたる也。しかれども俳諧の先達是をいふ人なし。長頭丸ちやうづまる已来いらい手をこ(込)むる一体久しく流行し、角樽つのだるや かたぶけのまふ 丑の年、花に水 あけてさかせよ 天龍寺、と云まで吟じたり。世の人俳諧は如此かくのごときものとのみ心得つめぬれば、其風を変ずる事をしらず。宗因師一度そのこ(凝)りかたまりたるを打破り給ひ、新風を天下に流行し侍れど、いまだ此教なし。しか(然)りしより此かた、都鄙とひの宗匠たち古風を不用もちひず、一旦流々りうりうを起せりといへども、又其風を長く己が物として、時々変ずべき道を知らず。先師はじめて俳諧の本体を見付、不易の句を立、又風は時々へんある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。しかれども先師常にいはく、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳のよだれをねぶるべし。宗因は此道の中興開山也といへり」(*2)

魯町は去来の弟である。芭蕉に関してよく言われる「不易流行」論については、前述の通り本人が文字として遺した言葉はない。その論について、魯町が「古くからの説なのか、それとも先師が初めて説いたものなのか?」と尋ねた。去来が答える。「不易流行」は俳諧のみならず、あらゆる分野に通じるもの。しかし、俳諧の諸先輩で、このことを説いた人は見当たらない。長頭丸(松永貞徳)以降、例示した二句のように、言葉に技巧を凝らす句風が流行はやった。世人は、俳諧とはそんなものだと思い込み、新風を吹かせることなど思いもよらなかった。西山宗因師が出て、貞門の硬化を打破し新風を吹き込んだが、宗因が不易流行について説くことはなかった。それ以来、各地の宗匠たちは思い思いの流儀をおこしたが、各自の句風に停滞するだけで、変化も必要であることには気付かなかった。そこに先師芭蕉が現れた。師は俳諧の本質を発明し不易の句を樹立、一方句風には変化が必要なことを悟り、流行の句には変化が必要なことを教えられた。しかしながら、先師は日頃からこのように言っていた。「宗因が世に出ていなければ、我々は今もって、貞徳の亜流にとどまっていただろう。宗因は俳諧の中興開山と言うべきである」。

この芭蕉の言葉については、保田與重郎氏が次のように述べていることに、よく留意しておきたい。

「宗因を押しつめるなら、貞徳によつて結果的に殺されてしまつた俳諧を甦らせ、貞門法式にしばられた俳人を開放すると共に、俳諧と共に彼らを無限の頽廃へ導くにすぎない。つまりその滑稽には、精神上の自信と安心はなく、ただ世俗一般の生活といふものが、滑稽を支へてゐるにすぎぬといふ、文芸の上から考えへると、はかない大衆文学的根拠しかもたなかつた。(中略)そこに止まる限りでは、何らいのちの秩序をもたない淵だといふことが、宗因の貞門に対する挑戦によつて芭蕉に知られた。芭蕉はこの時、宗因の形や跡を見たのではなく、己の心と俳諧の道を見たのである。即ち貞門と談林とを対決させて、終に真の道を知つたのであらう。流俗的な観念に挑戦する詩人の頽廃の諸相を、己の掌にひろげてゐた時、その間に一本の貫くみちを見る機縁を与へたことが、宗因は中興開山だと感謝した真意と思ふ」(「芭蕉」)

去来は、いわゆる「不易流行」論の枠組みのなかで芭蕉の言葉を捉え、「去来抄」に記した。保田氏は、芭蕉が、貞門の俳諧にまねび宗因の俳諧にまねび、宗因の挑戦を目の当たりにするなかで「己の心と俳諧の道を見た」と言っている。そのうえで私は、芭蕉がよく言っていたというこの言葉の底の底には、芭蕉が宗因に直かに接したうえで感得していた宗因の人生の歩み方や、西山宗因という人物の人格的な気質への共感があったような気がしてならないのである。

宗因は、人生これからという二十九歳のとき主家改易という緊急事態に直面、先に「肥後道記」でくわしく見たように、故郷の熊本を離れて単身上京、連歌一筋に精進し一流の連歌師として活躍した。晩年には、俳諧の道でも新たな挑戦を行った。貞門俳諧からの大反撥にも動じることはなかった。加えて、大名諸侯の求めに応じ全国各地を旅し、居所を定めない生き方を貫いた。最期の状況もよく分かっていない。

一方、芭蕉は、二十三歳のときに仕え、ともに俳諧に親しんでいた藤堂良忠(号は、蟬吟)を亡くし俳諧修行に専心した。二十九歳で東下し宗匠となった。三十七歳のときに「市中に住侘すみわびて、きょを深川のほとりに移」(俳文「芝の戸」)した。その後は、故郷の伊勢はもちろん、関西、鹿島、奥州など全国各地への旅を続け、「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」という句を遺し大阪の南御堂みなみみどうで、ついに逝った。宗因同様、俳論書の類いは一切残していない。

約四十歳の年齢差がある二人の間に、頻繁な交流があったわけではないようだ。しかし、去来が書いている「常にいはく」という言葉をよくよくながめていると、芭蕉にとって宗因の存在はけっして小さくなかったように思われる。私には、芭蕉が人生いかに生きるべきかと、日々切実な自問自答を続けて行くうえで、宗因は偉大な人生の先達だったような気がしてならないのである。

 

十五、泉州万町の好会再考

 

「契沖と熊本」と題する論考であるにも拘わらず、ここまで西山宗因と松尾芭蕉らに紙幅を割いてきたのには、理由わけがある。第十二章「泉州万町まんちょうでの好会」において、和泉の国にあった伏屋重左衛門重賢邸の敷地内に、若き契沖と老境の宗因が宿泊し、場合によっては二人が対面していた可能性もあることに触れた。そこで引用した、契沖研究の泰斗、久松潜一氏の述懐、わけても氏が「無限の感慨」というまでの言葉を使った深意を、より深く噛みしめたかったからなのである。その内容を今一度引いておこう。

「宗因の宿った夜は契沖も宗因と会し、秋の一夜を重賢と三人で語り合ったと想像することも出来る。七十歳の宗因を中心として契沖と重賢とが語り合ったとすればそれは和歌や連歌・俳諧のことであったかも知れず、またあるいは没落した豊臣氏や加藤家に対する追憶であったかも知れぬ。とにかく和泉の山村の静かな秋の一夜のこの好会を想像して、私は無限の感慨を禁じ得ないのである」。

重賢の祖父、一安飛騨守は、太閤秀吉に仕えていた。宗因の父は加藤清正の家臣であり、祖父は大坂夏の陣の豊臣方の勇士、御宿みしゅく勘兵衛正友と見られている。そして契沖の祖父、元宜もとよし(下川又佐衛門)は、清正に仕え熊本城留守居役であり、伯父の元真がその後を継いだ。

さらには、第一章でも触れたように、彌富氏論文(「契沖と熊本」快旭阿闍梨墓碑保存会)によれば、契沖の母方の祖母は、宗因が「たの(頼)む木陰」のような存在として仕えていた加藤右馬允正方(風庵)の姪にあたるという奇縁もあった。しかし久松氏は、このように豊臣氏や加藤家に縁のあった三人が敷地内に同宿したことや、連歌や俳諧について会話をしたことだけをもって「無限の感慨」と言われているわけではないように思うのだ。

言うまでもなく、西山宗因は、これまでくわしく見てきた通り、のちに「元禄の三大作家」と呼ばれることになる松尾芭蕉と井原西鶴が仰ぎ見た大先達であった。そして契沖は、このあと、親友の下河辺長流しもこうべちょうりゅう(*3)亡き後を継いで「万葉代匠記」を著し、徳川光圀(*4)に献じることになる。契沖より前の「万葉集」の注釈が古注、以後の注釈が新注と呼ばれることからもわかるように、和泉の久井や万町で読み込んだ和漢書の知見も十二分に発揮して、現在にも通じる多くの新たなみを示すという画期的な成果を挙げた。さらには、その注釈の過程で得られた知見は、「和字正濫抄しょうらんしょう」に示された通り歴史的仮名遣いの原型の確立につながった。

しかしながら、契沖の功績は、そのような学問的知見に留まらなかった。わけても、その著作などを通じて大きな薫陶を受けた、若き日の本居宣長(*5)にとって契沖は、その後の学問に向き合う態度という意味で、かげがえのない存在であった。ここでは、第一章で引いた、宣長が若かりし頃の京都への遊学時代を思い出しているくだりについて、小林秀雄先生が語っているところに、今一度耳を傾けてみたい。

「たまたま契沖という人に出会った事は、想えば、自分の学問にとって、大事件であった、と宣長は言うので、契沖は、宣長の自己発見の機縁として、語られている。これが機縁となって、自分は、何を新しく産み出すことが出来るか、彼の思い出に、甦っているのは、言わばその強い予感である。彼は、これを秘めた。その育つのを、どうしても待つ必要があったからだ。従って、彼の孤独を、誰一人とがめる者はなかった。真の影響とは、そのようなものである」(「本居宣長」第四章、「小林秀雄全作品」第27集所収)

宣長は、契沖について、このように述べていた。

「ココニ、難波ノ契沖師ハ、ハジメテ一大明眼メイガンヲ開キテ、此道の陰晦インクワイヲナゲキ、古書ニヨツテ、近世の妄説ヲヤブリ、ハジメテ本来の面目メンボクヲミツエケタリ。大凡オオヨソ近来此人ノイ(出)ヅル迄ハ、上下ノ人々、ミナ酒ニエヒ、夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ、此人イデテ、オドロ(驚)カシタルユヘニ、ヤウヤウ目をサ(覚)マシタル人々モアリ、サレドマダ目ノサメヌ人々ガ多キ也、予サヒハイニ、此人ノ書ヲミテ、サツソク(早速)ニ目ガサメタルユヘニ、此道ノ味、ヲノヅカラ心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロ(悪)キ事ヲサト(悟)レリ、コレヒト(偏)ヘニ、沖師ノタマモノ(賜物)也」(「あしわけをぶね」)

ここで宣長が言っている、契沖の「大明眼」とはなにか? 「本居宣長」第六章などで詳述されているところだが、小林先生は「先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何をいても、古典に関する後世の註であり、解釈である」と述べたあと、宣長の次のような言葉を引いている。「やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人は、げにもと思ふべけれど、返て、それはおろかなる註也」(「紫文要領」)。これは、「源氏物語」の従来の注釈書が、例えば「蛍の巻」の中で紫式部が使っている「仏のうるはしき心」という言葉について、仏教の教説にこじつけた解釈を施すことで、「式部のたとへの本意と大きに相違して」結果的に読者を道に迷わせてしまっているような事例が数多あまたあることに、注意を促しているくだりである。先に引いた「酒ニエヒ、夢ヲミテヰル如クニテ」というのは、注釈者たちがそれぞれ我田引水な解釈を施し、作者の意とするところが置いてけぼりにされてしまっているという、嘆かわしい状況を例えていたのだ。

そして小林先生は、同章を次のように述べて締めくくっている。

「考える道が、『他のうへにて思ふ』ことから、『みづからの事にて思ふ』ことに深まるのは、人々の任意には属さない、学問の力に属する、宣長は、そう確信していた、と私は思う。彼は、『契沖ノ歌学ニオケル、神代ヨリタダ一人也』とまで言っている。宣長の感動を思っていると、これは、契沖の訓詁註解の、いわば外証的な正確に由来するのではない。契沖という人につながる、その内証の深さから来る、と思わざるを得ない。宣長は、契沖から歌学に関するもうを開かれたのではない。およそ学問とは何か、学者として生きる道とは何か、という問いが歌学になった契沖という人に、出会ったというところが根本なのである」。

その後宣長は、契沖から学んだ学問に向き合う態度で、かつ学者として生きる道とは何かという自問を抱きながら、「源氏物語」の本質に触れた。「ふる物語をみて、今にむかしをなぞらへ、むかしを今になぞらへて、よみならへば、世の有さま、人の心ばへをしりて、物のあはれをしる」(「紫文要領」)。そういう基本的な態度そのままに、すべて漢字で記され長年にわたり読解困難となっていた「古事記」に向かい、前人未到の本格的な訓読を完遂し「古事記伝」として上梓したのである。

ここでまた宣長の声を聴いておこう。彼は「古事記伝」の冒頭でこのように言っている。「大御国にもと文字はなかりしかば、上ツ代の古事フルコトどもも何も、タダに人の口に言ヒ伝へ、耳に聴き伝はり来ぬるを……」文体カキザマの事)。大陸から漢字という文字が入ってくる以前のわが国では、言伝え、すなわち口頭言語のみでつつがなく生活が続けられていた。「古事記」には、天武天皇の強い志をもとにして、古人の「言語モノイヒのさま」が遺されていたのである。今では、そんな「古事記」も、子ども向けも含めて誰もが読めるかたちで普及しているが、その原点には契沖がいた、と言っても過言ではないのである。

そうすると、延宝二年(一六七四)八月の西山宗因と契沖との好会は、松尾芭蕉と井原西鶴という元禄の二大巨星と、「源氏物語」で開眼し「古事記」を「やすらかに見」つめみ上げることで、文字なき時代の日本人の発声のすがたを再現しえた本居宣長という巨星につながる人物たちの邂逅と見ることもできるだろう。

いや、このような簡単な言葉だけでは、とても言い尽くすことなどできない。久松氏が覚えた「無限の感慨」の深淵は、途方もなく深いのである。

 

 

(*1)慶安四年(一六五一)~宝永元年(一七〇四)。向井去来。長崎生れ。聖堂祭酒・儒医向井元升の次男。貞享元年(一六八四)、其角を通して芭蕉に入門。

(*2)「去来抄・三冊子・旅寝論」穎原退蔵校訂、岩波文庫

(*3)寛永元年(一六二四)~貞享三年(一六八六)。江戸前期の国学者。著作に「万葉集管見」など。

(*4)寛永五年(一六二八)~元禄十三(一七〇〇)。水戸義公とも。「万葉代匠記」は光圀の依頼により執筆された。

(*5)享保十五年(一七三〇)~享和一年(一八〇一)。江戸中期の国学者。

 

【参考文献】

・岡本明「去来抄評釋」名著刊行会

・阿部喜三男「松尾芭蕉」吉川弘文館

 

(つづく)

 

編集後記

今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。いつもの男女四人の対話は、元禄期の三代文豪の一人である近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」を観てきた、江戸紫の似合う女が口火を切る。彼女によれば、太夫たゆうと三味線と人形遣いが一体となって魅せる浄瑠璃の演目もさることながら、近松が遺した辞世がまた面白いのだという。はたして、何がいいのか? そこに、「本居宣長」を熟読中の四人は何を思ったのか?

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、松広一良さん、越尾淳さん、森本ゆかりさん、そして入田丈司さんが寄稿された。

松広さんは、中江藤樹の学問に向かう態度に関する熊沢蕃山の言葉を受けて、小林秀雄先生が書いている「書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である」という言葉を熟視した。そのうえで、「心法」、「読む」という言葉について、それぞれ、小林先生の他の作品とも向き合い、先生がその一文に込めている深意をくみ取ることに努めた。その成果がここにある、じっくりと味読いただきたい。

越尾さんは、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長といった学問上の「豪傑」たちのことを思い続けるにつけて、彼らが世界を席巻しているK-POP(韓国のポピュラー音楽)グループのような「かっこいい」存在に感じられてきた、と言う。彼らは、なぜかっこいいのか。その理由は、「豪傑」たちの、当時の「常識」をはるかに超越した学問上の態度にあった。はたして、その態度とは? 越尾さんの語るところに耳を傾けてみよう。

前号に続き寄稿された森本さんの自問自答は、宣長が「模俲もこうされる手本と模俲する自己との対立」をどのように受け入れ、自分のものにしたのだろうか、という疑問から始まった。事前に相談をした池田雅延塾頭からは、「対立とは何か」をしっかり押さえること、本文中の抽象的な言葉も、具体的な言葉に落とし込み、著者のいいたいことの肝心要を自得すること、というアドバイスを得た。それは、自身の読書も含め、日常生活上のヒントにもなったようだ。

入田さんが熟視しているのは、「誠に『物のあはれ』を知っていた式部は、決してその『本意』を押し通そうとはしなかった。通そうとするさかしらな『我執』が、無心無垢むくにも通ずる『本意』を台なしにしてしまうからである」という小林先生の言葉である。さらに先生は、宣長が言うところの「よろずの事にふれて、おのずから心がウゴ」いた経験を「高次な経験に豊かに育成する道はある」と言っている。新たな自問が生まれた、「高次な経験」とは何か?

 

 

ここで、今号の「『本居宣長』自問自答」に寄稿された皆さんが、主として熟視された言葉を、今一度振り返ってみたい。松広さんは「心法」と「読む」、越尾さんは「豪傑」、森本さんは「対立」、そして入田さんは「高次の経験」という言葉である。それぞれの言葉に向き合った皆さんの文章を読んでいると、その一言一言に、小林先生がどれだけ心血を注ぎ、深意を込めたのかが、肌感覚として伝わってくるようだ。もちろん、そこに到るまでに、寄稿者の皆さんがじっくりと向き合った、長い時間があったことは、言うまでもない。

そんなことを思っていると、小林先生が、読書について、このように述べているくだりを思い出した。

「読書百遍という言葉は、科学上の書物に関して言われたのではない。正確に表現する事が全く不可能な、又それ故に価値ある人間的な真実が、工夫をこらした言葉で書かれている書物に関する言葉です。そういう場合、一遍の読書とはほとんど意味をなさぬ事でしょう。そういう種類の書物がある。文学上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐ある協力をねがっているのです。作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希うはずがあろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力のない愛などというものを私は考える事が出来ませぬ」(「読書週間」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第21集所収)

 

私たち「小林秀雄に学ぶ塾」の塾生による、「本居宣長」精読十二年計画も最終年度に入り、いよいよ年度としての第二コーナーを回ったところまで来た。残すところ、あと六か月である。ここで改めて、小林先生が言うところの忍耐力のある愛読者として、「本居宣長」という作品に、そこに登場する「豪傑」たちに、そして小林秀雄という大先達に向き合い、最終ゴールのテープを切るまで、集中力を保ち力強く走り続けることを、ここで改めて誓い合いたい。

 

(了)

 

契沖と熊本Ⅵ

十二、泉州万町での好会

 

連歌師としてのみならず自由と破格の俳諧師として、西山宗因の人気が急騰する一方、古格を破られた側になる、松永貞徳ていとくを祖とする貞門俳諧からの手厳しい反発が起きていた延宝二年(一六七四)の八月、宗因は、高野山への参詣を行った。

八月三日、大阪天満を出発、和泉国万町まんちょうという山里に宿泊した。伏屋ふせや重左衛門重賢邸である。さっそく重賢に所望され、こう詠んだ。

いなばもる 里や泉州 万町楽

その重賢とともに高野山へ出立。途中で吉田清章と合流、五日には高野山に入り、弘法大師が入定にゅうじょうしている奥之院の「御廟ごびょうをおがみ奉りて、亡親ならびに六親万霊ろくしんばんれいに水を手向たむけ、香をひねりて、西方浄土の願後仏出世の暁をいのりて」(「高野山詣記」)、同行三人で俳諧に興じた。

露の世や 万事の分別 奥の院
宗因
露間をや のぞき入道 奥の院
清章
句づくりや 月をこころの 奥の院
重賢

大徳院に二泊し、七日に下山。その後、七世紀半ばに有間皇子ありまのみこが、中大兄皇子なかのおおえのみこ蘇我赤兄そがのあかえに仕組まれ絞殺された藤代御坂ふじしろみさかをはじめ(*1)、紀三井寺、玉津島神社などを経て、九日には泉州尾崎村の清章邸に到着。二日ほどゆっくりして、俳諧に興じつつ帰阪した。

高野那智の 中にふらりや としの秋
宗因

 

その高野参詣への往路、老境七十歳の宗因が万町重賢邸に宿泊したとき、同じ敷地の離れに、一人の青年が滞在していた。

その青年は、十一歳で尼崎にあった父母の家を離れた。当時、父は尼崎城主青山大蔵少輔ゆきなりに仕えていた。けっして晴れやかではなかった家庭の事情によったのか、兄弟は散り散りになった。彼は大阪の寺での修行後、十三歳で剃髪ていはつ、高野山に入り本格的な修行を積んだ。二十三歳の年に山を下り、若くして大阪の別寺で住持となる。翌年には阿闍梨位も得た。しかし数年後、何らかの理由で寺から姿を消した。その後は、奈良の長谷寺や室生むろう山の辺りを彷徨さまよっていたようだ。弟子筋の僧が残した文章によれば、「室生山南ニ、一厳窟有リ。師ソノ幽絶ヲ愛シ、以為オモヘラク、形骸を棄ツルニ堪ヘタリト、スナハチ首ヲ以テ、石ニ触レ、脳血地ニマミル、命終ルニヨシナク、ヤムヲ得ズシテ去ル」(「録契沖遺事」)

青年は死にきれず、その場を去った。彼の名は、契沖である。

ここで、第二章でも触れた彼の家族について、振り返っておこう。父元全は、熊本城主加藤清正の片腕であった下川又左衛門元宣もとよしの末子であり、二代目又左衛門となった元真の弟である。契沖は、加藤家改易後、元全が青山幸成公に仕えていた頃に尼崎で生まれたのである。

さて、室生の地を去った契沖が、そこで詠んだ歌をながめて、彼の心持ちを体感しておきたい。

旅にして 今日も暮れぬと 聞くもう(憂)し 室生の寺の 入相いりあひの鐘

たれかまた 後も籠りて 独り見む 室生の山の 有明の月

夕闇迫るなか、晩鐘が響きわたる、胸に沁み入る……

夜明けて残る月、自分のような若僧が、同じように一人きりで見入ることになるのだろうか……

彼は、その後再び高野に上ったが、今度はすぐに下山し、山中で出会った、和泉の久井ひさい村の辻森吉行邸に滞留した。水戸彰考館(*2)の安藤為章ためあきら(*3)が記した伝記によれば、「しゃくを泉州久井里に掛く。山水幽奇を愛し、居ること数歳なり。三蔵を護り悉曇しったんに通ず、かたはら諸宗章疏しょうしょうかがひ、十三経に至る。史・漢・文選・白氏文集、跋渉ばっしょうせざる無し」とある。辻森家の書庫には、漢籍や仏典が豊富にあり独習には困らなかったようだ。加えて、悉曇、いわゆるサンスクリット語を表記する梵字ぼんじにも、高野山におけるのと同様に精励する時間を得たのであろう。

ちなみに、辻森家は、のちに辻井家と改名して今もある。久松潛一氏によれば、井水は清く香気あり、契沖が深く愛したことが改名の理由だという。現在でも、その井戸は「僧契沖遺愛の井戸」(和泉市文化財保護委員会指定)として、丁寧に保存、整備されており、直かに見ることができる。

契沖は、久井の地で五年ほど過ごしたあと、延宝二年、三十五歳の年に万町まんちょう伏屋ふせや重左衛門重賢邸に転居した。より詳しく言えば、重賢邸内にある養寿庵という離れに住んだ。久松氏によれば、伏屋家を訪れた際に見せてもらった摺物すりものがあり(「和泉国池田郡万町伏屋氏圍内契沖法師寓庵幣垣舎(しでがきのや)図」)、このように書かれていた。「(坂口注;契沖)師の祖父元宜下川又佐衛門、加藤家に仕ふ。父元全下川善兵衛、青山家に仕ふ。重賢の祖父一安飛騨守、豊太閤君に仕ふ。父竹麿泉州池田家をつぎ伏屋氏と改む。其祖よりのしたしみのちなみにより、師も亦ここに来る」。

重賢の祖父も太閤秀吉に仕えていたのであり、その縁があってこそ契沖は、当地に住むことになったのだ。その摺物には、西山宗因のことも記されている。契沖がいた養寿庵のすぐそばに「梅の屋跡」という庵があり、「梅の屋に西山梅翁遊宿す」と書かれていた。

その宗因は、第八章で触れたように、加藤清正の家臣であった西山次郎左衛門の子であるが、祖父は、大阪夏の陣の豊臣方の勇士、御宿みしゅく勘兵衛正友と見られている(*4)。野間光辰氏によれば、勘兵衛は、北条氏の重臣に仕えて数々の戦功をあげたあと、いったんは徳川家康の旗下に入ったものの、家康に恨むところあり、一時高野山に身を隠した。その後、越前黄門結城秀康の執りなしにより越前家に召し抱えられ、勘兵衛改め御宿越前と称した。秀康の没後は不遇をかこっていたようだが、東西での風雲急を告げるなかで豊臣方に招かれ大阪に入城、大野主馬治房はるふさ隊に属した。

慶長二十年(元和元年、一六一五)四月六日、家康は諸大名に出陣を命じ、大阪夏の陣が始まった。大阪城の南側に広がる上町かみまち台地一帯で、徳川軍十五万五千、豊臣方五万五千の兵が激突した。岡山口では、大野治房隊が将軍徳川秀忠の本陣近くまで迫る一方、天王寺口では、真田幸村隊が、大御所徳川家康の本陣に突入し、家康をあと一歩のところまで追い詰めた。

しかしながら、御宿越前は、大阪城本丸に乱入した越前勢の旧友、野木右近の手にかかって討死。一方、「日の本一のつはもの」「日本ニハタメシ(例)ナキ勇士」と絶賛された真田幸村も、力尽き田んぼのあぜに腰を下ろしているところを、越前勢の西野久作(仁左衛門)に首を取られた(「慶長見聞書」)。野間氏によれば、「茶臼山の本陣に、真田幸村と御宿越前の首級を実検した家康が、『さてさて御宿めは年の寄たる事かな』といい、また後に『御宿が若き折ならば、あの者などに首をとらるる事にてはなき』と側近に洩らしたそうである。恐らく当時すでに、鬢髭びんひげを黒く染めて出陣した斎藤別当実盛(*5)を思わせるような老武者であったことだろう」。

さて、ともかくも当夜は、それぞれの祖が豊臣家と縁の深かった三名が、泉州の一つの敷地に滞在していたことになる。この奇遇については、契沖研究の泰斗たいとである久松氏が、このように述懐している。

「宗因の宿った夜は契沖も宗因と会し、秋の一夜を重賢と三人で語り合ったと想像することも出来る。七十歳の宗因を中心として契沖と重賢とが語り合ったとすればそれは和歌や連歌・俳諧のことであったかも知れず、またあるいは没落した豊臣氏や加藤家に対する追憶であったかも知れぬ。とにかく和泉の山村の静かな秋の一夜のこの好会を想像して、私は無限の感慨を禁じ得ないのである」。

その和泉の山村も、今では開発が進み、養寿庵跡は、泉北高速鉄道の一大ターミナル駅である和泉中央駅から歩いて約十分のところにある。土壁が残り「史跡 契沖養寿庵跡」という石碑が立てられていて、往時を偲ぶことができる。

ちなみに契沖は、その好会の場所で、こんな歌を詠んでいた。

和泉の国いつみのこほり、池田河といふ河の流れ来る岸に、ある人のつくり

おける庵をかりて住みけるころ、その河のいとおもしろく流るる、嶋めいたる

処に梅ありて、月夜ににほひ来けるを読る

月夜つくよ 梅が香おくる 河風に 岸根の草の 身をぞ忘るる

若くして阿闍梨位も得、住持となった身であったにも拘わらず、三十代半ばの彼にとって、いまだ我が身は岸根の草、すなわち川岸近くに生えてすぐ水に浸かってしまう草のような存在だった。これはけっして謙遜ではなかろう。

 

十三、松尾桃青

 

西山宗因は、契沖が滞在していた和泉の山村を経て、高野山への参詣を行った翌年の延宝三年(一六七五)四月下旬、親交が続いていた岩城平いわきたいら藩主、内藤風虎の江戸屋敷に招かれ、約二ケ月間にわたり江戸に滞在し、俳席に招かれた。宗因の東下とうかを心待ちにしていた俳人の田代松意しょういらは、宗因からの発句を掲げて「江戸誹諧 談林十百韻とつぴやくいん」を制作出版、全国的に大きな反響を巻き起こした。

さればここに 談林の木あり 梅の花
梅翁
世俗 眠をさます うぐひす
雪柴
朝露 たばこの煙 よこをれて
在色
駕籠かごかきすぐる あとの山嵐
一鐵

当時の江戸において、松意一派は「(江戸)談林」と呼ばれており、宗因は発句に敬意を込めたのだろう。ところが、この句をもって「宗因派」による江戸での旗揚げ宣言とみなす誤用が広がり、宗因風がすべて「談林」と呼ばれるようになったことには留意が必要である(*6)。第十一章でも見たように、宗因には、一派を立ち上げようなどというつもりはなく、これは、当時の商業出版の隆盛に周囲の取り巻きが乗じて起きた、意図せざる事象の一つであった。

同年五月には、本所猿江の大徳院で、宗因歓迎の百韻の俳席が催された。発句は主賓しゅひんの宗因である。

いと涼しき 大徳だいとこ也けり のりの水
宗因

これは「源氏物語」の「若紫」にある「いとたふとき大徳なりけり」(「大徳」は高徳の僧の意)を踏まえた句であり、当院の住職、しょうかくへの表敬の念が込められている。脇(句)は住職が付け、第三以降が続いた。脇は、「宗」と「因」という字づらの通り、宗因への尊崇と感謝の気持ちの表明でもあろう。

のきばむねと 因む蓮池
蹤画
反橋の けしきに扇 ひらき来て
幽山
石壇よりも 夕日こぼるる
桃青
領境 松に残して 一時雨
信章

さてここで、第四を詠んだ桃青という人物に注目しよう。彼こそ、郷里の伊賀から江戸に移住して二、三年目(*7)、三十二歳の松尾桃青、のちの松尾芭蕉である。芭蕉は十代の末頃から、藤堂藩伊賀付の侍大将五千石の藤堂新七郎家の嫡子ちゃくし主計かずえ良忠よしただに出仕していた。この良忠が俳諧をたしなみ、北村季吟きぎん(*8)に師事し蟬吟せんぎんと号していたことから、芭蕉も俳諧に親しむようになった。ところが、寛文六年(一六六六)、二十三歳のとき、二歳年上の蟬吟が病死してしまう。それがための没頭なのか、翌寛文七年(一六六七)から、季吟編「続山の井」など句集への入集が活発になっていく。季吟は、松永貞徳の直門じきもんとして「貞門の新鋭」と言われていたほどだから、芭蕉も当初は、貞門風の歌を詠んでいたのである。しかし、そこに変化が現れる。大徳院での宗因歓迎の俳席の連衆として加わったころから、いわゆる談林風の俳諧の傾向が見えるようになる。すなわち芭蕉は、後年、いわゆる蕉風しょうふうを確立する前までには、貞門風の句や談林風の句を詠んでいたのである。

ここでは、麻生磯次氏による「若き芭蕉」(新潮社)という伝記的物語(*9)を参照しながら、芭蕉の成長の軌跡を、彼が詠んだ句を通じて直かに体感しておきたい。

彼が、若い頃、宗房と号していた時代に詠んだ句がある。

萩の声 こや秋風の 口うつし
宗房

萩が風に吹かれて音を立てている。これこそ秋風が、口移しに伝えた声だろう、という意である。ところで、季吟が季語を集録しつつ付句の心得や発句の作例を示した、俳諧を嗜む者には必携の書「山の井」によれば、「萩は風にこたへて声のあなれば、秋風の口まね、定宿ぢやうやどなどともいひ……」とあり、「あき風の 口まねするや 萩の声」という例句が挙げられている。まさに芭蕉は、師事した季吟の教えを忠実に実践することで、貞門の俳風に追随していたのである。

次に、こんな句を詠んでいた。

見るにも をれるばかりぞ 女郎花をみなえし
宗房

楚々とした女郎花の風情に、その美しさに、ただただ心動かされるばかり…… という意である。「我折る」とは、我執を去るという意味の俗語である。僧正遍照へんじょうの「名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花 われ落ちにきと 人にかたるな」(巻第四、秋歌上)を踏まえたうえで、「我折る」という言葉を使い卑俗的なおかしみを醸し出している。ここには、芭蕉の句が貞門風から談林風に一歩進み出した感がある。

宗因と初対面した翌年、延宝四年(一六七六)には、親友山口信章(素堂)と両吟で天満宮奉納百韻を二つ興行した。

此梅に 牛も初音はつねと なきつべし
桃青
ましてやかはず 人間の作
信章

「梅」という言葉には、「梅翁」と号した宗因が暗示されている。宗因は言うまでもなく大坂天満宮連歌所の元宗匠であった。見事な梅花に、鶯はもちろん、天満宮となじみ深い牛までも初音の心持ちで鳴くだろう、という意である。梅なら鶯と来るべきところに、牛をもってきた点が談林風を感じさせる。次の信章の句は、紀貫之「古今和歌集」仮名序の冒頭にある「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」を踏まえたものである。

芭蕉と信章による両吟の、もう一つの百韻は、こんな発句と脇で始まっている。

梅の風 俳諧国はいかいこくに さかむなり
信章
此方人こちとうづれも 此時このときの春
桃青

信章は、端的に宗因の俳風が俳壇を風靡していると詠んだ。続けて芭蕉も、その俳風に接し、おかげで我々のような者でも、この時を謳歌しているという。麻生氏の言っているように「談林の俳風に対する傾倒ぶりが露骨に示されている」とともに、「宗因の俳風が芭蕉や信章にとって大きな魅力であったことが思いやられる」。

このように、貞門風を脱し、宗因風に寄っていた芭蕉であったが、延宝年代の終わりごろから、そこから離れようとする傾向が見てとれるようになる。

延宝八年(一六八〇)に、次のような句を詠んでいる。

くも何と をなにと鳴く 秋の風
桃青

蜘蛛よ、どうだい、この秋風が吹くなかで、お前はなんと鳴くのかい? という句意である。「枕草子」にある、蓑虫みのむしが逃げ去った親を慕い、秋風が吹くと「ちちよ、ちちよ」と鳴く、というくだりを踏まえている。麻生氏によれば「黙りこくっているのは蜘蛛だけではなく、芭蕉自身の孤独の姿でもあった。芭蕉は次第に談林の浮華を離れて、真実なものを求めようとしていたのである」。

同じ時期に詠まれた、虫にまつわる句が、もう一つある。

よるべをいつ 一葉に虫の 旅ねして
桃青

水に落ちた桐の葉に、虫がすがりついていた。ここでも、寄る辺のない虫に自らの姿を重ねたのであろうか。その虫のさまを「旅寝と言ったところに、談林らしい誇張が見られるが、その虫をあわれに思う心が寓せられているのであって、談林特有のふざけたものではない」。

同年の冬に、芭蕉は、江戸市中から深川に住まいを移した。その草庵は、徳川家康が江戸の城下町整備のなかで開削した水路、小名木おなぎ川が隅田川と合流する辺りにあった。現在は、地下鉄の森下駅もしくは清澄白河きよすみしらかわ駅から十分ほど歩いた住宅地のなか、芭蕉庵史跡展望庭園として整備されている。夜には、ライトアップされた萬年橋と清州橋をともに見ることができる夜景スポットにもなっている。しかしながら当時は、葦などの生えた水辺で、人家もまばらな、わびしい場所だったようである。

その芭蕉庵での隠棲生活について、彼はこんな句を詠んでいた。

月をわび、身をわび、つたなきをわびて、わぶと答へむとすれど、

問ふ人もなし、なほわびわびて

わびテすめ 月侘斎つきわびさいが なら茶哥ちゃうた
芭蕉

「月侘斎」とは、茶人めかした架空の人物であろうが、芭蕉自身を思わせる。また、「奈良茶歌」とは、にぎやかな酒席の歌ではなく、奈良茶漬を食べながら、わびしく口ずさむ歌をいう。「侘テすめ」の「すめ」に、「澄め」と「住め」を掛け、奈良茶歌の歌声が侘しく澄むように、侘に徹して今の境遇に安住せよ、と自らに言い聞かせる句意である。

また、大風がひどく吹く夜があった。海抜が低い土地柄、浸水も気掛かりだった。そこで、こんな句を詠んだ。

芭蕉野分のわきして たらひに雨を 聞夜哉きくよかな
芭蕉

外では嵐のなか、門人の李下が植えてくれた芭蕉の葉が、ばたばたと音を立てている。庵のなかでは雨漏りの水が、用意した盥に、ぽたりぽたりとしたたる。「芭蕉は草庵の夜の底にじっと身を沈めて、自分の姿をみつめ、自分をとりかこむ自然の動きに耳を傾けていた」。

このように三十代半ばを過ぎた頃の芭蕉の句に垣間見ることのできる、世俗を離れ孤独に徹しようとする心境、そして、自然の動きにひたすら耳を傾ける態度は、そのまま後年の俳風にも通じているようには感じられないだろうか。

(憂)き我を さびしがらせよ 閑古鳥かんこどり

しづかさや 岩にしみ入る 蝉の声

 

さて、ここまで、芭蕉が松永貞徳や北村季吟ら貞門に学び、西山宗因に学び、いよいよ自身の本領を発揮せんとする入口に立つまでの軌跡を振り返ってきた。ここで、保田與重郎氏が紹介している「往時の俳諧師の考へた、俳諧変遷史についての思想を云うに適した文章」(*10)があるので、引いておきたい。

(松永)貞徳亡後(松永)維舟(北村)季吟両氏、先師の風体をいよいよほどこす(中略)(安原)貞室松賢両士洛に居て貞徳伝来の誹諧より他事なく専ら行ひければ、此門に遊ぶ誹士あまたなりしに、(中略)摂州大坂に西山宗因といへる豪傑の士出て、連歌を里村家に学び、誹諧は(山崎)宗鑑が遺風をしたひ、自分の風流を潤色して専ら行ふ、その後武州に下向し、談林軒(田代)松意といへる誹士の方に寄宿して大に行ふ、松意が軒号より思ひ付、仏家の檀林に附会して、これを世俗談林誹諧といふ、武江此一風に流行す。亦摂州に戻り大にふるふ。既に後水尾院にも、貞徳流を遊されしかども、談林風のさかんなりしを、ゑいりよにかけさせられ、いでや談林の誹諧を遊しける。(中略)ここにおいて貞徳流の古風を荒廃して、誹諧宗因に一変す。宗因門人に井原西鶴といへる英雄有りて、一日に二万三千句独吟す。談林かく盛んに成し時、桃青といへる誹士(中略)宗因が行ふ所の談林の当風になびき居て、ほどなく工夫をこらし、悟道して、当流をうとみ、季吟門人なれども、古風にもよらず、発明して一派を行ふ。都会の人々次第にここに集り門人市をなす。芭蕉洞の庵なるを、世人終に芭蕉庵と号し、亦芭蕉翁と称し、東府に盛なりし宗因の弘めし談林誹諧大におとろ(衰)ふ」(八文字屋瑞笑「俳論. 卷之1-3 / 秋月下白露 編輯」早稲田大学図書館蔵)

 

天和二年(一六八二)、芭蕉が三十九歳、西鶴が四十一歳の春、宗因は逝った。しかし、どこでどう逝ったのか、くわしいところは不明なようだ。今も、大阪市の天満からほど近い兎我野とがの町の西福寺にお墓はある。ただし墓石には、息子の宗春らの名前と合わせるかたちで「実省院円斎宗因居士」という法名が表に刻まれており、宗因が実際に大阪で亡くなりこの地で眠っているのかどうか、定かではない。私はその墓前に立ち、居所を定めず「一生旅程雲水」のごとき七十八年の生涯を貫いた、「肥後牢人」西山宗因らしいお墓だと感じ入った。

 

 

(*1)宗因は、前章で紹介した「肥後道記」のなかで、有間皇子が紀伊への護送中に詠んだ歌を踏まえた歌を詠んでいる。

(*2)明暦三年(一六五七)、徳川光圀が「大日本史」編纂のために設立した施設。

(*3)江戸前期の儒学者、国学者。万治二年(一六五九)~享保元年(一七一六)。

(*4)野間光辰「宗因と正方」、「談林叢談」岩波書店

(*5)平安末期の武将で保元・平治の乱で活躍、源平合戦のはじめ木曽義仲と戦い壮絶な死を遂げた。

(*6)第一章で便宜的に「談林派」と記載しているが、事情の詳細は本文に記した通りである。

(*7)芭蕉の東下の時期については、諸説ある。

(*8)江戸前期の歌人・俳人・和学者。寛永元年(一六二四)~宝永二年(一七〇五)。

(*9)麻生氏には、「既に研究ずみの材料を土台にして、生き生きとした芭蕉の姿を刻み上げようとした」「物語ではあるが虚構の物語ではなく、従来の芭蕉の研究を吟味した上で、自由に構想をめぐらした」「芭蕉物語」という著作がある。「若き芭蕉」は、同様の手法によって「芭蕉が真に芭蕉らしくなり、蕉風を樹立するまでの苦悩を描こうとした」作品である。

(*10)保田與重郎「芭蕉」、講談社学術文庫

 

 

【参考文献】

・小林秀雄「本居宣長」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第二十七集所収

・久松潛一「契沖」、「人物叢書」吉川弘文館

・北川央「大阪城をめぐる人々」創元社

 

(つづく)

 

 

編集後記

猛暑きびしい中、読者の皆さんに心よりお見舞い申し上げます。

 

さて今号も、荻野徹さんによる「巻頭劇場」から幕を開ける。山の上の家の塾の塾生の間でもよく見かける光景だが、いつも四人は、「『本居宣長』のなかで、どの部分が一番好きか?」という話題で盛り上がっている。江戸紫の女によれば、その場面になると思わず原始人を想像してしまうそうだ。なぜ原始人なのか? 四人の話は、言語以前の身体的な意思疎通のありようにまで話が及ぶ。それは、私たち一人ひとりが出生時から経験してきたことでもある……

 

 

本塾における、『本居宣長』精読十二年計画も、いよいよ最終年度に入っている。「『本居宣長』自問自答」には、泉誠一さん、森本ゆかりさん、そして小島奈菜子さんが寄稿された。

泉さんは、小林秀雄先生が語っている「一人の宣長さんが現れて来るまで一生懸命に宣長さんの文章を読めば、きっと一人になって現れて来るに違いない……、そのいきさつが僕の本に書いてある」という言葉に注目した。小林先生が批評の極意と考えていた「述べて作らず」の心構えで組み立てられた泉さんの文章は、本塾で長きにわたり「自問自答」を続けて来たがゆえの、大いなる成果の一つであろう。

森本さんは、「池田塾頭を通して聴く、小林秀雄氏の言葉が、これまでに経験したことのないほど、心に強く響き、ここでの学びは私の人生の軸となると直観しました」と述懐している。入塾以前には、小林先生の作品は一度も読んだことがなく、文学とは縁のない人生を送ってきた。今や、塾での質問にも連続して取り組んでいる森本さんが目下挑んでいるのは、自らの価値観は捨てて無私に著者と向き合う態度をいかにして自得するかという道である。

小島奈菜子さんは、「物質である体に、なぜ心があるのか」という物と心との関係は、言語における「音声(形)になぜ意味が宿るのか」という形と意味との関係と同じ構造にあると言う。後者の関係について小島さんは、「本居宣長」で触れられている古人らの命名行為に着目した。それは「自己認識と言語表現とが一体を成した、精神の働き」である。そこで、「言葉の力の源泉」と言われている「興」の功と「観」の功はどのように発動するのか。小島さんが紡ぐ言葉に、じっくりと耳を傾けたい。

 

 

さる六月末、郷里の熊本市の旧城下町、新町にある書店が閉店した。創業は明治七年(一八七四)、熊本で最古級の書店であった。建物は、東京丸の内の赤煉瓦れんがオフィス街で有名な保岡勝也氏の設計による二階建てで、国の登録有形文化財にも指定されている。当時、旧陸軍第十二師団軍医部長として小倉に赴任していた森鴎外も常連で、「書肆しょしの主人長崎次郎を訪ふ」(「小倉日記」)と綴っていた。私の実家からも近く、子どもの頃からなじみのある本屋でもあったため、閉店と聞いて大きなショックを受けた。いや、単なるなじみだからではない。それは、私が今や片時も本が手放せない、大の本好きになった出来事と大きく関わっている。

中学時代に通っていた塾があった。熱血講師のM先生から、夏季の課題として吉川英治「三国志」の文庫全八巻を完読するよう課された。今なら「大人買い」と称して八巻まとめて買うところだが、そこは中学生だった。一巻読み上げる毎に、新町の市電の電停前の書店に自転車を走らせた。一冊ごとに覚えた達成感に加え、風格ある書店で文庫本を買うこと自体が、当時の中学生の私には、大人びた「むしゃ(武者)んよか」(熊本弁で「格好いい」)ことだったのだろう。内容が身についたかは別にして、見る見るうちに読み上げていった。だからどうだ、という程のことでもないが、大部の本を読み進めることが、その後の人生で大きな苦痛にならなかったのは、M先生と長崎次郎書店さんのおかげだと、今になって痛感している。

ちなみに私は、山の上の家の塾に入るにあたり、「小林秀雄全作品」全二十八巻、別冊も含めて三十二巻の完読を、自らに課した。そのときも、けっして「大人買い」することなく、一巻読み上げるたびに書店に走るスタイルを貫いたことも、中学時代の経験が底の底にあったような気がしてならない。

ただ、本当の大人となってしまったからには、読むスピードだけで満足していてはいけない。今年こそ、精読、熟読の一年なのである。

 

 

杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに著者とともに心からお詫びを申し上げ、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

(了)

 

契沖と熊本Ⅴ

九、西山宗因「肥後道記」を振り返る

 

前章では、二十九歳で歩むべき道を断たれた「肥後牢人」西山宗因が、強い決意をもって故郷の熊本を出立し、京都に到着するまでの旅路について記した「肥後道記」(以下、「道記」)を詳しく見た。ここで章を改め、この旅が、そしてその経験を紀行文として仕上げたことが、彼に何をもたらしたのかについて振り返ってみたい。

第一は、旅が進むにつれて、宗因の心境の変化、心の成長のありようが見て取れることである。当初は、彼を急襲した主家改易という事態への恨みや、残して来た家族や故郷への断ち切れない思いが前面に出ていたが、旅も半ばを過ぎた頃から、穏やかな心持ち、ユーモアを表現できる心の余裕が顔を出してくる。例えば十月七日のこと、釣人のお爺さんに声をかけて釣果ちょうかを見せてもらい、どの魚を売ってもらおうかとしばし迷っていると、お爺さんは決めるのが遅いと怒り出してしまった。そこで「釣人よ ま(待)て事問わん みなか(皆買)はば いかばかりせん 魚のあたひ(値)ぞ」と詠んだ。これは、「古今和歌集」(巻第九、羇旅歌、四)や「伊勢物語」(第九段)にある、「名にしおはば いざ言問はむ みやこ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」という有名な歌をもじったようだ。釣り人を「水のうへに遊びつついをを食ふ」都鳥に見立て、「そんなに怒らなくても……」と、ほくそ笑みながら詠んだのであろう。

その後、三原から尾道を通るときにも、当時から酒蔵が多い場所だったのか、「をの道や 三原の酒旗の 風吹けば 口によだり(涎)を ながす舟人」と詠んでおり、宗因の少し緩んだような心持ちが感じられる。

ちなみに、この「道記」を「飛鳥川」という名で世に紹介された小宮豊隆氏が次のように述べていることにも、留意しておきたい。「最も悲痛な運命に置かれ、また最も悲痛な情感を基調とする旅の記述の中に、折折滑稽な、俳諧歌が出て来るといふ事実、然もその事実は、宗因に悲痛な運命を十分悲痛に受けとるだけの、人生に対する誠実な純粋な感情があつたといふ事を説明するとともに、一方では宗因に、苛烈な運命を最後には押し返して、それを超越しようとする意志があつたといふ事を証明するものであるといふ事は、後年の宗因の、談林の俳諧の本質を理解する上に、貴重な鍵を提供する」(*1)

 

旅先ならではの、人との交流もあった。周防灘すおうなだ上関かみのせきを過ぎたところで、荒天による待機となった折、松かげの小庵に住む老師がいた。所望されて、まがきに品よく植えられていた菊を念頭に一句捧げた。宗因は、「道記」のなかでこう独白している―う(憂)き中にも、旅こそは又心なぐさむ事はおほかれ。

第二は、宗因の心を慰めたものは、旅先で日々経験したことだけではなく、それを紀行文という散文のかたちに仕上げて行ったことのなかにもあったのではなかろうか、ということである。それまで和歌や連歌の修行に明け暮れていたなかで、われ知らず散文をしたためることになり、その過程そのものが、自らの心を和らげてくれた。これは、同様に和歌や漢文に専念してきた紀貫之が「土佐日記」で試した、小林秀雄先生が言うところの「自分には大変親しい日常の経験を、ただ伝えるのではなく、統一ある文章に仕立て上げてみるという」「和文制作の実験」(「本居宣長」)を通じて体感した功徳くどくと同種のものであったに違いない(*2)

さらに、彼は後年、大名諸侯の求めに応じて日本各地を旅し、津山、奥州、筑紫太宰府などで多くの紀行文を記すことになるが、この「道記」を通じて得られた功徳がそれらの原体験になった面もあったのではあるまいか。

第三は、宗因は、単に全国を旅して紀行文を残したというだけではなく、人生いかに生きるべきかという処世上の態度として、居所を定めない生き方を貫き、最期の死所も不明というように「『一生旅程雲水』のごとき」(*3)生涯を閉じた、ということである。かれは「道記」の最後に、この我が身は、「古今和歌集」所収の「世の中は いづれかさして わがならむ 行き止まるをぞ 宿と定むる」(よみ人知らず、巻第十八、雑歌下、九八七)という歌そのままだ、と述懐しつつ一首詠んでいた。

くり返し おもへば世やは う(憂)かるべき 身はもとよりの しづのをだ巻(倭文の苧環)

「しづのをだ巻」の「しづ」は麻などで織った古代の布、「をだ巻」は織物を織るために麻などを球状に巻いたものを言い、そこから「しづのをだ巻」は「くり返し」や「賤しい」という言葉の序詞として使われることが多いが、ここでは自分はもともと賤しい身だ、その自分が「くり返しおもって(思って)みれば」と言っていて、歌意は、賤しい身の上だが、いや、だからこそ、気が滅入ることばかりの世の中でも、何度でも出直してやろう、である。私は前章で、「弱気に傾きがちな自らを奮起させるような、秘めた強い思いを感得せざるをなかった」と書いたが、まさにこの上洛の旅と執筆の経験こそが、その後の彼の生き方を決定付けた力強い原動力の一つとなったのではないだろうか。

最後に、宗因は、紀貫之はもちろん、柿本人麻呂ら「万葉集」の歌人、壬生忠岑みぶのただみねら「古今集」の歌人、そして菅原道真や紫式部などの歌や物語を踏まえて「道記」を書き上げている。それは、先達が味わってきた哀しみを、わが哀しみとして深く体感し追体験することである。宗因のその後の連歌修行と大阪天満宮連歌所の宗匠就任、さらには一世を風靡した俳諧活動の展開のなかにおいて、この「道記」を書いた経験が、古人との繋がりをまざまざと実感させ、彼が「人生いかに生きるべきか」と新たな道を切り拓いて行くうえで、豊かな糧とならなかったわけはないように思う。

 

 

十、連歌所宗匠 西山宗因

 

さて、寛永十年(一六三三)十月半ば、上洛した西山宗因は、旧主風庵(正方)が隠棲している京都堀河六条、本圀寺ほんこくじ塔頭たっちゅう近くの「夕顔の小家」に住んだ。しかし、京都の地は宗因にとって馴染みがない場所ではなかった。元和五年(一六一九)、十五歳で正方に仕え始めた彼は、元和八年(一六二二)に初上洛し、伏見肥後殿橋にあった加藤家伏見屋敷で公務に就く傍ら、里村南家に出入りし師昌琢しょうたく(*4)から連歌の指導を受けていたのである。里村家は、毎年正月の幕府御連歌始に宗匠として第一の連衆を務め、徳川三百年にわたり連歌界の頂点に君臨していた家柄であった。それから約八年間、宗因は京都で昌琢出座の連歌の席に連なるなど研鑽を積んでいたのである。

そして再上洛し連歌の席に交わることになったが、その約半分は、風庵の相手を勤めたりするなど、風庵に随って出座している(*3)。若い頃から何かと目をかけてきてくれた風庵への思慕の念は強かった。また、寛永十七年(一六四〇)から十八年頃には伏見に転居し、妻帯して長子伊之助(後の宗春)も生まれている。

ところが、正保元年(一六四四)八月、正方に対し、京都から追放し広島の松平(浅野)安芸守光晟みつあきら預りとする幕命が下った。再就職のつてを求めていた風庵の動きを、幕府が嫌ったものと思われる。それでも宗因は、しばしば広島を訪れて、風庵の消沈した気持ちを慰めた。その後、正保四年(一六四七)九月、宗因は里村家の推挙を得て、摂津南中島天満宮(大阪天満宮)連歌所宗匠に就任した。そこでまず宗因に与えられた使命は、長年にわたり中断していた月次つきなみ連歌の再興であった。しかしその翌年(慶安元年)、広島の風庵が発病し、九月にはこの世を去ってしまう。宗因は、度重なる広島往復などで慌ただしかったようで、月次連歌の再開は、翌慶安二年(一六五三)の正月にずれ込んだ。気付けば宗因も、四十五歳を迎えていた。

同年九月には、風庵の一周忌が営まれ、宗因は追善の千句を捧げた(「風庵懐旧千句」)。その冒頭でこのように述べている。

「……ことわり(理)のよわひ(齢)なれど、我身にとりては、たの(頼)む木陰の枯れは(果)つる心ち(地)ぞし侍る。志学のころ(頃)ほひより、ことに情をかけてめぐ(恵)みたて給し心ざしの程、いへばおろか也。されば、世俗のつたな(拙)きことの葉をひるがへして、ねがはくは其恩をむく(報)ふるはしにもなれ、……」

そして、自らを守り育ててくれた大木のような存在であった師の仏前に、こんな句を供えた。

つゐにゆく 月日は今日や 去年こぞの秋
きけば時雨に 露もろき袖……

 

明暦二年(一六五八)九月には、天満宮内の仮寓有芳庵から向栄庵に移居した。ちなみに現在は、大阪天満宮の大門の向かって右手に「西山宗因向栄庵跡」という石碑が立てられていて、天満宮の社殿などの風情とともに、当時の様子を偲ぶことができる。

さて、宗因の大阪やその周辺での活躍が進むにつれて、その舞台はさらに大きく広がって行く。大名諸侯の要請に応じて、全国各地を訪れる機会が増えた。前章でも触れたように「津山紀行」「奥州紀行」「筑紫太宰府記」「明石山庄記」などの紀行文は、その賜物である。わけても深い交流が続いたのは、岩城平の内藤左京亮義概よしむね風虎ふうこ、豊前小倉の小笠原右近将監忠真ただざね、播州明石の松平日向守信之という面々であった。

例えば、寛文五年(一六六五)二月、小笠原忠真公の七十賀を祝して、小倉城で興行された「小倉千句」(*5)がある。

寛文五年二月吉祥日

第一

花之何 十七日

とし毎の 若葉ぞためし 千世の春
忠真
子日ねのひの松を ことの葉の種
長真
うぐいすの 野べのあけぼのつけぞめて
光真
雪はちりつつ 霞たつ空
御内上
打出る 氷のひまの 滝つ浪
惣御代
さほの音する 末の川船
宗因
月はまだ 竹のしげみに へだたりて
 
軒の雫に のこるゆふ霧
 

 

連歌の第一句目である発句ほっくは忠真が詠み、その発句に連ねる脇(句)に嫡男長真、以下小笠原一門が続き、六句目からを宗因が詠んでいる。ただ実際には、下書きの存在から、宗因がすべてを代作したものと見られている。このように「今や宗因は、大阪天満宮の連歌所宗匠たるにとどまらない。天下諸侯の崇敬をあつめ、その扶持を受ける身」(*6)となっていたのである。

 

一方、実生活においては、必ずしも順風満帆というわけには行かなかった。寛文二年(一六六二)には、奥州行の間に長女を亡くした。旅先での又聞きであった。彼は、その時の状況をこう記していた。

「やつがれ(吾)がむすめ、文月のころ(失)せにけるとぶら(訪)ひをきくに、ともかくもおもひわかず、今までつげざりし故郷人もおぼつかなく、夢にやあらん、いつは(偽)りにもやと、よろづにおもひうるかたなし。

声をだに きかぬを聞きし 人づ(伝)ては さながら夢の わかれなりけり

いに(去)し春、老のわかれこそ心ぼぞ(細)うおもひしに、かくさかさま(逆様)なる愁にしづむは、返す返すつれなき命にこそ。……」(「奥州紀行 陸奥行脚記」)

さらに、「つれなき命」は長女だけではなかった。寛文六年(一六六六)には、次男も亡くした。翌同七年十月十八日には、親交の深かった小倉の小笠原忠真公が亡くなり、その二日後には妻(狩野探幽の女(むすめ)と言われている)までも喪ってしまった。このように、立て続く不幸に遭遇した彼の心境は、察するに余りあるものがある。

そんな宗因は、寛文十年(一六七〇)二月十五日、仏涅槃会ねはんえの日を選び、小倉の福聚寺二世法雲禅師のもと、従来から持ち続けていた出家遁世のねがいを遂げる。さらにその翌年には、連歌所宗匠職を長男の宗春に譲った。六十七歳になっていた。「家を出て世を捨て、一切を放下ほうげした宗因は、今や全く身も心も軽くなった。後年、談林一流の俳諧にまで発展した宗因の俳諧活動が、この出家遁世を境として俄然活気を呈してきた」(*6)のである。

 

十一、俳諧師 西山宗因

 

宗因による俳諧は、彼が五十歳になろうとする頃、すなわち承応二年(一六四九)頃から始まっている。例えば次の一句は、万治元年(一六五八)刊の「牛飼」に初めて出したものである。

ながむとて 花にもいたし 首の骨   梅翁(宗因)

上・中二句は「眺むとて 花にも いたく馴れぬれば 散る別れこそ 悲しかりけれ」という西行の歌(「新古今和歌集」巻二春下)が念頭にあり、下句の日常語と組み合わせて、花を眺めすぎて首がいたくなってしまったよ、というおかしみも込めて表現した句である。

もう一つ、延宝二年(一六七四)刊の「宗因蚊柱かばしら百句」には、こういう箇所がある。

月もしれ 源氏のながれの 女なり

青暖簾あおのうれんの きりつぼのうち

一葉ちる宿は 餅ありだんご有

 

しかしこれが、当時広く受け入れられていた、松永貞徳ていとく(*7)を中心とする貞門俳諧の人々から強い非難を受けた。なかでも匿名のさる法師という人物は、目の前に現れた蚊柱を追い払うべく「渋団しぶうちわ」を出版して宗因を非難した。いったい何が非難されたのか? ここで「源氏のながれの女」とは、源氏の血を継いでいる女という意だが、次の「青暖簾」という言葉が、遊里の部屋にかかる暖簾を意味するため、その女が遊女を連想させ、それと光源氏の亡母桐壺更衣とを一緒にされたことに、去法師は「下劣の沙汰」「放埓ほうらつ至極也」と噛み付いた。貞徳は、俳諧を連歌の余興とはいえ、なるべく連歌や和歌の方に引き上げようと連歌の式目に準じた規則の整備などを行ってきていたため、門人にとっても、宗因が見せた自由奔放と破格は断じて許せないものだったのだ。

一方宗因にとってみれば、そもそも第一線を退いた後の七十歳の年寄りの余技に過ぎぬじゃないか、という気持ちもあったし、だからこそ余生は、それまで従ってきた連歌の諸制約や社会的な立場から解き放たれて、俳諧特有の滑稽こっけい諧謔かいぎゃくを自由に発揮、謳歌したいと思っていたのであろう。そんな心持ちで、非難の応酬に時間を費やすのは無益と感じたのか、彼自身が「渋団」に対してすぐに反論した様子は見られない。実は、それから六年後に刊行された俳諧集で次のように本音を漏らしている。「古風・当風・中昔、上手は上手、下手は下手、いづれをわきまへず、すいた事してあそぶにはしかじ。夢幻ゆめまぼろし戯言げげん也。谷三つとんで火をまねく、皆是あだしのの草の上の露」(「阿蘭陀丸二番船」)

ところが、むしろ宗因の支持者が黙ってはいなかった。その一人である岡西惟中いちゅう(*8)は、さっそく「渋団返答」を書いて師の擁護の先頭に立った。

さらに、その支持者の一人として、突如表舞台に現われた人物がいた。井原鶴永、のちの西鶴(*9)である。寛文十三年(一六七三)春、大阪生玉いくたま神社で万句俳諧が興行され、同六月末には、鶴永の処女撰書「生玉万句」として刊行された。江本裕氏によれば、宗因はもちろん、宗因との関係の深い人物も出句している(*10)。最後の三句を紹介しよう。

さく花や 懐紙かいしあはせて 四百本
井原鶴永
水引壱青柳の糸
南方由
春風を おさむるへぎ(片木)に 熨斗のし添へて
西山西翁

宗因も、鶴永による興行の成就を祝しているようである。

なお、同年(延宝元年に改元)冬、鶴永は、宗因の姓から一字いただき西鶴と改号した。彼の喜ぶ「鶴の一声」が聞こえてきそうだ。ともあれ、このとき彼は三十二歳、宗因に学んだ誹諧も存分に糧としたうえで、「豊富な古典的知識と艶麗の天稟てんぴんと雄偉の文章をもって」(*11)浮世草子として著名な処女作「好色一代男」を書き上げ、時代の寵児ちょうじとなるのは、この九年後のことである(*12)

 

さて、この延宝元年から延宝二年(一六七四)にかけて、「西山宗因千句」「西山宗因後五百韻」「西山宗因蚊柱百句」「宗因五百句」「西山宗因釈教誹諧」というように、宗因の名を冠した俳書が立て続けに刊行されている。これは、宗因の個人的人気に便乗した当時の書肆(書店)が積極的に出版したものである。しかしながら、これらの出版に関し、どこまで宗因の息がかかっていたかは、先に見た「渋団」に沈黙を通した彼の態度などを勘案すれば、はなはだ疑問である。しかしながら、乾裕幸氏の指摘の通り「『西山宗因』の四字は、いまやすこぶる効率の高い引札として世間に通用した」のであり、商業出版界の興隆と時を同じくするかたちで、本人の意思とは別にして、宗因の人気はうなぎ登りとなっていった(*13)

 

(*1)小宮豊隆「宗因の『飛鳥川』に就いて」、「芭蕉の研究」岩波書店

(*2)「物語の生命を源泉で飲んだ紫式部Ⅱ―紀貫之の「実験」、「好*信*楽」2024年冬号、

(*3)野間光辰「連歌師宗因」、「談林叢談」岩波書店

(*4)天正二年(一五七四)~寛永十三年(一六三六)。昌叱の子。

(*5)千句とは、発句から脇(句)、第三と続け、最後の挙句までの百句を百韻とし、それを十巻千句にまとめたもの。

(*6)野間光辰「西山宗因」、同上書

(*7)元亀二年(一五七一)~承応二年(一六五三)。里村北家の紹巴(じょうは)から連歌を、九条稙通(たねみち)・細川幽斎に和歌・歌学を学ぶ。

(*8)寛永十六年(一六三九)~正徳元年(一七一一)。

(*9)寛永十九年(一六四二)~元禄六年(一六九三)。

(*10)江本裕「俳諧師 西鶴」、「西鶴への招待」岩波セミナーブックス49

(*11)保田與重郎「芭蕉」講談社学術文庫

(*12)例えば、熊本生まれの言論人、徳富蘇峰は、西鶴を次のように評している―彼が宗因門下の俳諧師としての生立ちは、浮世草子の作者としての彼に、多大の感化を与えた。その句法においては、発句(ほっく)式に、なるべく少なき文字にて、多くの意味を言い現さんとし、その章法においては、連歌式に、聯想(れんそう)によりて一話頭から、他の話題に飛び越す慣用手段を取らしめた。而(しこう)して両者は、時としては彼が文章の長技となり、時としては短所となったが、しかも彼の特色は、全くこれによりて発揮せられた。(「近世日本国民史 元禄時代世相篇」講談社学術文庫)

(*13)乾裕幸「俳諧師西鶴 考証と論」、「前田国文選書1」

 

【参考文献】

・柿衛文庫、八代市立博物館未来の森ミュージアム、日本書道美術館編「宗因から芭蕉へ ―西山宗因生誕四百年記念」八木書店

 

(つづく)

 

編集後記

春号の幕開けは、荻野徹さんの「巻頭劇場」からである。いつもの四人が話題にしているのは、本居宣長が「徂徠学の急所があると認め」て印写している孔子の言葉である。三百篇もの詩を、たんに暗誦することは「詩」を学ぶことではない、『詩』は言語の教えである、という考えが、(坂口注;荻生)徂徠の言葉を引きながらくわしく述べられているくだりだ。たとえ難解ではあっても、ここに「本居宣長」の急所あり、と直観したかのように、四人の対話は急速に深まっていく。

 

 

「『本居宣長』自問自答」には、本多哲也さんと橋本明子さんが寄稿された。

本多さんが熟視したのは、宣長の文章から感じられる「うまく表現できないもどかしさ」についてである。いや、より正確に言えば、その「もどかしさ」に小林先生がいかに向き合ったのか、についてだ。先生が記している本文を丁寧に追っていくと、そこに「先生にとっての訓詁の根幹」が見えてきた。「もどかしさ」に向き合う先生の姿が見えてきた。

橋本さんは、第四十三章にある、宣長にとって「古事記」という「御典ミフミを読むとは、わが心を読むという事であった」という小林先生の言葉を熟視している。宣長は、三十五年間、その「御典」と毎日向き合った。彼は晩年、その心構えについて「うひ山ぶみ」に詳しく記している。しかしその言葉は、宣長の「感想」として片づけてしまえるほど、軽い言葉ではないことに、橋本さんは気付かされた。さらには、人口に膾炙している、あの、宣長が詠んだ歌の深意にも触れることができた。

 

 

今号から、本多哲也さんによる「先人の懐に入り込む——小林秀雄と丸山眞男をめぐって」と題した新連載が始まった。連載寄稿のきっかけとなった小林先生の言葉がある―「私としては、ただ徂徠という人の懐にもっと入り込む道もあるかと考えている」(「哲学」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)。この言葉を胸中に抱きつつ、本多さんはこれから、徂徠や宣長は言うまでもなく、丸山眞男氏や小林先生の懐にどのように入り込んでいくのか、興味が尽きない。乞うご期待の新連載である。

 

 

私たち「小林秀雄に学ぶ塾」では、小林先生が「本居宣長」の執筆に少なくとも十二年六ヶ月をかけたことにならい、一年に全五十章の通読を十二回繰り返すという、螺旋らせん的な学びの階段を少しずつ登ってきた。毎年、「本居宣長」のなかの熟視対象箇所を定めると、そこに何度も向き合い、所定の字数を前提に、池田雅延塾頭を介した小林先生への質問と自答を考え、整え、担当月に発表に立つ。さらには、池田塾頭からの助言を踏まえて、本誌への寄稿のための文章として磨き上げる、そんなサイクルを何度も繰り返してきたのだ。本年度は、いよいよその最後の一段を登る。

質問の事前検討や本誌寄稿のための磨き上げには相応の時間もかかるし、簡単には行かない。初学者であればなおさらだ。そんななか、本塾に途中参加した私自身にとって、力強い支えとなってきた、宣長が晩年に残した言葉がある。

センずるところ学問は、ただ年月長くウマずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかかはるまじきこと也。いかほど学びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし。又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし。されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有ル物也。又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、またイトマのなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也。されば才のともしきや、学ぶことのオソきや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、ヤムることなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば、出来るものと心得べし」(「うひ山ぶみ」)

 

晩学で、実生活上の時間的余裕もそう多くは持てない身として、どれだけ助けられたことか知れない。もちろん、この文章の深意については、小林先生が「本居宣長補記Ⅰ」で詳しく記されている通りである。とにかくこの一年も、「倦ずおこたらずして、はげみつとむる」ことを肝に銘じ、いよいよ胸突き八丁となる最後の一段を登ることとしたい。

はたしてその先には、どのような光景が眼前に広がっているのであろうか。

 

 

杉本圭司さんの「小林秀雄の『ベエトオヴェン』」は、著者の都合により、やむをえず休載します。ご愛読下さっている皆さんに対し、著者とともに心からお詫びをし、改めて引き続きのご愛読をお願いします。

 

(了)