編集後記

弥生朔日、さる3月1日は、小林秀雄先生のご命日であった。

今年も、梅香るなか、ご息女の白洲明子はるこさんの墓参に塾生有志がお供をし、その後、山の上の家にてゆっくりと歓談させて頂いた。

今号では、その貴重な一日について特集を組み、橋本明子さんと松本潔さんに寄稿頂いた。

橋本さんは、「ごく普通の父娘の暮らし」の中にあった、数々の活き活きとしたエピソードを伺いながら、父親としての小林先生が、「生涯、家族を守った」姿を思い浮かべる。そこに、先生の文章の中でもひしひしと感じられる「人として大切にすべきこと」を感得された。

松本さんは、ご自身の実生活や実業家としての実体験も踏まえ、「小林先生の『実行家の精神』と、家族に対する深い責任感と愛情」を体感された。「人形」や「徳利と盃」という先生の作品は、今回、直に触れられた「家庭人としての小林先生」と響き合い、「ご家庭の空気が見えてくる気さえ」したという。

 

 

巻頭随筆には、森康充さんが、医者としての立場で、医者としての宣長さんについて、寄稿された。一見カルテのごとき関連情報の羅列に見える宣長さんの「済世録」について、「単なる帳簿」ではなく、「宣長の生きた証の一つである」という。小林先生の文章を長年愛読されてきた医師としての直観と洞察を味読頂きたい。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、溝口朋芽さんと山内隆治さんに寄稿頂いた。

溝口さんは、「本居宣長」の冒頭にある、謎多き「遺言書」をテーマに選んだ。「源氏物語」の「雲隠の巻」で宣長が出会った「死の観念」は、「古事記」の「神世七代」へと発展し、上古の人が千引岩ちびきいわを置くなかに、「生死を観ずる道」として完了した。その完了する、という行為を言葉にしたものが、くだんの「遺言書」ではないかと思いを馳せる。

 

山内さんの、山の上の家の自問自答は、上田秋成による本居宣長への難詰を、小林先生が「架空の問題」と呼んだことについてであった。その後も思索は続き、「本居宣長」の脱稿後、先生が「変な気持ち」と呼んだ内容に及び、さらに、清々しい「好、信、楽」の道へと続いていく。

 

 

「美を求める心」の飯塚陽子さんは、パリ在住である。カルチェラタンを、「群衆の動いてゆく浪の中に沈み込みつつ」あるように歩き続けながら、詩人ボードレールが、うごめく都市まちについて感じた「感覚的実体」、そして「整調された運動」を直覚する。その横を早足で通り過ぎ去ったのは、小林秀雄先生ではなかったか。

 

風薫る皐月がやってくる。

(了)

 

編集後記

編集担当としては、嬉しくもまた、奇遇に驚くばかりなのであるが、その嬉しい驚きを繋ぐテーマは、私たちの学び舎、山の上の家の「椅子」である。

光嶋裕介さんは、「巻頭随筆」において、その「肘掛のついた上品なアンティーク調の椅子」に注目された。ただし、その視線が注がれた対象は、坐っているべき人の「不在による強い存在感」である。建築家ならではともいえる、その「空席」への視線は、「師への眼差し」へと昇華する。

奇しくも、「人生素読」で、冨部久さんの眼が向かった先もまた、その「二脚の木製椅子」である。素材や製作の起源を求めて、関連書籍の著者まで辿って行かれた熱意は、木材の専門家としてのそれだけではない。日々の生活のなかでも、美を求める心を持ち続けておられた小林先生に対する「深い愛情」でもある。

お二人の視線は、私たち塾生の、その「椅子」を見る眼もまた変えさせてくれる明眼である。

 

 

「美を求める心」に寄稿された、橋岡千代さんは、地元京都で求道を続けている「茶の湯」の世界における美について、からだ全体で味わうという実体験をもって綴られている。読み進めるにつれて、あたかも自分自身が静謐の茶室に坐し、一期の喫茶に臨んでいるように感じてくる。

 

 

「本居宣長『自問自答』」は、櫛渕万里さんと村上哲さんに寄稿頂いた。

櫛渕さんは、小林先生が「うひ山ぶみ」から引く、「此身の固め」、「甲冑をも着ず素膚にして戦ひて」という言葉に注目された。あきらめることなく追い求めた結果、その正体が「やまとたましひを堅固くする」ことにあったことを突き止める。それは「生きた心が生きた心に触れる」体験でもあったという。

村上哲さんは、「古事記伝」の「伝」たる名付けの由縁について、思いを馳せておられる。宣長さんにとっては、外からの註釈で「古事記」を説きなすのではなく、「古言のふり」に従って「ただ『伝へ』る事こそが重要であったに違いない」という。このこともまた、宣長さんが言うところの「やまとだましひ」「やまとごころ」の現れと言えよう。

思えば、光嶋さんが「巻頭随筆」で、「知識としての情報を手に入れるといった類の『交換原理』」ではなく、「模範解答のない『切実な問い』を発見し、その答えらしきものを『考え続ける』深度」こそが肝心と感得されていることも、くわえて橋岡さんが実践されている、五感を十全に発揮し、茶の湯と一体化する態度もまた、「やまとごころ」と言えるのではなかろうか。

 

 

謝羽さんの小説「春、帰りなむ」は、後編に入り、いよいよ話もクライマックスを迎えた。小説という、私たちの実生活に、より近い形の描写として読み直すことで、参考附記の小林先生の文章にある「大和心、大和魂」について書かれた内容を、より親身に、さらに深く味わえることと思う。夫婦による、歌の贈答の織りなす綾とともに、じっくりとお愉しみ頂きたい。

 

 

私たちの塾も、新しい仲間を迎え、新しい年度を迎えようとしている。本号の原稿を読み直してみて、こういう思いを新たにした。

2018年度もまた塾生の皆さんとともに、「やまとだましひ」を知るという直き態度で「本居宣長」にむかい、その「椅子」に坐っておられるべき小林先生との対話を深めながら、百尺竿頭に一歩を進めていきたい。

(了)

 

編集後記

2018年も、早や3月号の発刊を迎えた。

先日、富士山麓にあるクレマチスの丘を訪れた。冷たい風が吹きつけるなか、いまだ冬枯れしている芝生のなかに見つけたクロッカスは、黄色のつぼみを大きく膨らませ、春を今かと待ちながら、優しく微笑んでいるように見えた。私たちの塾でも、この時季恒例の入塾募集を終え、4月からの新しい仲間との出会いを、首を長くして待っているところである。

まさに今回の巻頭随筆には、入塾を希望されている方や、入塾後間もない方のことも念頭に置きながら、塾生最若手の一人である原弘樹さんが、この塾で自問自答を行う、ということについて、自身の実体験を通じて体感・体得したことを、率直に記された。

 

 

今号の「本居宣長『自問自答』」には、金田卓士さんと小島奈菜子さんが、山の上の家での質問内容をもとに、さらに一歩思索を深めた成果を寄稿された。

小島さんは、小林先生が使っている「しるし」という言葉の意味について、以前より自問自答を続けている。自ら声を発し、自らその声を聞く。発声したものを心にぴたりと合致させる努力が結実した時に、言葉という「徴」が生まれるのではないかと、そんな思索を重ねる小島さんのすがたを見ていると、「之ヲ思ヒ之ヲ思ヒ、之ヲ思ツテ通ゼズンバ、鬼神将ニ之ヲ通ゼントス」という荻生徂徠の言葉が聞こえてきた。

金田さんは、今回の自問自答を通して、大学時代に荻生徂徠の『論語徴』について教えを受けていた恩師が、化するがごとく、音楽や絵画などの「物」に直に触れるという体験の大事を、身をもって教えてくれていたことを思い出し、恩師への感謝の念を、そして、もの学びへの思いを新たにされている。

 

 

今月は、教鞭をとっておられるお二方にも寄稿頂いた。

大島一彦さんは、大学で英文学を研究されている。親しく教えを受けたという松原正氏は、小林秀雄先生とも交流があった。今回は、松原氏から聞いたその交流の具体的な様子について、以前発表されていたエッセイを、本誌に転載頂いた。思えば、3月1日は、小林先生のご命日である。塾生にとって、先生のありし日の姿は、今となっては想像するしかないのだが、大島さんの文を読んでいると、小林先生の姿がまざまざと映じ、あの甲高い肉声も、直に聞こえてくるようである。

「人生素読」の長谷川雅美さんは、大学院のゼミで学びつつ、高校で国語を教えておられる。池田塾頭による新潮講座にも長く通っており、小林先生の文章の素読を通じて自得したことも踏まえて、授業に工夫を凝らしておられる。長谷川さんと生徒達との教室での生き生きとしたやりとりが鮮明に活写されており、その場にいるかのような心持ちになる。

 

ちなみに、新潮講座は、現在「小林秀雄の辞書」というテーマで、毎月第一木曜日に開講中である。小林先生の文章中にある言葉を、毎回2語ずつ取り上げ、それがどのような意味合いで使われているか、池田塾頭が厳選された、その語が使われている文章を素読し、参加者どうしの対話も含め、味読を深めつつ体得していく場となっている。塾生及び本誌読者の皆さんのご参加をお待ちしている。詳しくは、以下のURLをご参照ください。

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01k3a4zccv2i.html

 

 

謝羽さんは、本誌初となる小説を寄せられた。謝さん自身としても初めて書いた小説になる。大江匡衡おおえのまさひら赤染衛門あかぞめえもん、とくれば、舞台は平安中期であろうか、もはや塾生には馴染みの人物であろう。次号との2回分載であり、早くも次号の展開が気になるところではあるが、まずは今号をじっくりとお愉しみ頂きたい。

 

 

以上のように、今月は、塾生最若手の一人である原さんに始まり、新潮講座に参加されている長谷川さん、そして、謝さんの小説、というように、全体として新しい動きも感じられる誌面になったように思う。

まだまだ寒い日もあるが、ひと作品ずつ味読頂くとともに、誌面からわき上がる、あの、浮き浮きするような春の香を、その萌しのようなものを感じ取って頂ければ幸いである。

(了)

 

ゴッホ、日本にまねぶ

2017年の後半は、日本画、特に浮世絵師による肉筆画を、積極的に観て廻った。

8月、箱根の岡田美術館では、喜多川歌麿の大作「雪月花」三部作を観た。「深川の雪」(同館)、「品川の月」(フリーア美術館)、そして「吉原の春」(ワズワース・アセーニアム美術館、今回は複製画展示)という、いずれも横幅が約3m、縦が約1.5mという、大型の肉筆画を、三作同時に観ることができる貴重な機会であった。なかでも、最晩年に描かれた「深川の雪」の美しさは、忘れることができない。

料亭の中庭には、真白な雪がうっすら積もっている。屋内には、芸者衆と女中、計26人の女性が連なる。芸者衆は、辰巳芸者と呼ばれた粋筋で、着物も落ち着いた深い色合いなだけに、真白な顔の連なりが、新雪のように鮮やかで美しい。外に手を出して沫雪を摑もうとする女、旨そうな平目の煮付を運ぶ女、寒い寒いと火鉢から離れない女、というように、一人ひとりの動きが生き生きと描き出されている。眺めていると、彼女たちの喧しい声と、三味の音が、心地よく聴こえてくる。そんな風景を、歌麿自身が愉しんでいたに違いあるまい。

ちなみに本作は、フランスの小説家エドモン・ド・ゴンクールも、パリの東洋美術商ジークフリート・ピングの店で見せられた、と書き残している(「歌麿」平凡社東洋文庫)。

 

10月、大阪、天王寺の、あべのハルカス美術館で観た、葛飾北斎の「なみ図」(小布施町上町自治会)もまた、忘れられない。本作は、同町にある祭屋台の天井画であり、「男浪」と「女浪」と言われる二枚からなる。彼の代表作の一つである「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」(大英博物館)でも見られる、今まさに獲物を捕らえんとする、猛禽類の爪のような形をした波頭も、もちろん恐ろしい。が、より不気味に引き込まれるのは、らせん状に奥深く続く波の深淵である。手前の波の薄緑は、奥になるほど青く変わり、濃紺の闇へと移りゆく。見入っていると、自分の身体は、その深淵の中に閉じ込められてしまうかのようである。

会場隣のモニターで流れていたNHKのドキュメンタリー「北斎“宇宙”を描く」によれば、彼の画が、観る者に、そういう身体感覚を覚えさせるのには、理由があるという。

色彩の違いは、波長の違いでもある。可視光は、波長の長い順に、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫となる。私達は、その波長差により、藍よりも青、青よりも緑が、より近くにあると感じる。北斎は、色彩をそういう順に描き分けることで、立体感や深淵性を表現していたのだ。彼は、生涯を通じて水、特に波の動きに大きな興味を持っていた。現代科学の知見に引けを取らない描写力は、長い時間をかけて波を凝視し、我が物となしえた成果なのであろう。

 

11月、東京、原宿の太田記念美術館で、北川英山えいざんの特別展を観た。知名度は高くないが、歌麿と、渓斎けいさい英泉えいせんや月岡芳年らの幕末の絵師達をつないだのが、英山である。「懐中鏡を見る美人」という画があった。町娘なのか、落ち着いた赤茶色の着物を粋に着こなした若き女性が、左手を頬に当てながら、右手に持つ小さな鏡に一心に見入っている。着物の裾から僅かに見える両足の指先の様子から、緊張の色がうかがえる。これから大切な人と会うのかもしれない。その姿は、鏡をスマホに変えれば、現在、私たちが電車の中や街角でよく見かける女性の姿に重なる。彼が、文政年間のモデルに観て取ったのは、そういう女性の変わらぬ心のあり様だったのではなかろうか。

 

さて、本稿では、前稿(本誌2017年12月号「ゴッホ、ミレーにまねぶ」)に続き、ゴッホのまねびについて取り上げる。日本画の模写を繰返し、また自室の壁を、日本画で一杯にして愉しんでいたゴッホが、日本画の、そして日本人の何をまねび、まなんだのかについて、小林秀雄先生の言葉にも寄り添いつつ思いを馳せてみたい。

 

そもそも小林先生は、「ゴッホについて」という講演のなかで、ゴッホが弟テオを中心に宛てた書簡集の内容を踏まえずに、彼の絵を見ることは不可能であって、絵では現しきれない不思議な精神は手紙の方に現れている、手紙の方にも現しきれなかったものが、絵に現れている、ということを言っている(「小林秀雄講演」第七巻 新潮社)。

まずは、先生が「比類のない告白文学」と呼ぶ、その書簡集の言葉から始めよう。

1886年3月、ゴッホはパリに居を移し、前述の画商ピングの店で大量の浮世絵に接し、多数の模写を残している。現在、京都で開催中の「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(以下、本展)でも観られる「花魁(渓斎英泉による)」(ファン・ゴッホ美術館)もその一つである。歌麿や北斎等、日本画への傾倒はやまず、1888年2月には、彼のなかで憧れの日本そのものでもあった南仏、アルルへ移った。

「この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のために僕には日本のように美しく見える……(中略)水が風景のなかで美しいエメラルド色と豊かな青の色斑をなして、まるで日本版画のなかで見るのと同じような感じだ」(B2、友人のE.ベルナール宛)

そこでは、「『色彩のオーケストレーション』に心労するゴッホに、日本の版画の色彩の単純率直なハーモニーが、いつも聞こえてい」た(「ゴッホの手紙」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集所収)。

小林先生は、ベルナール宛ての手紙にある「日本人は、反射を考えず、平板な色を次々に並べ、動きと形とを捕える独特の線を出しているのだ」(B6)というゴッホの言葉を紹介した上で、ゴッホが日本の絵から直覚したところ、として次の手紙を引いている。

「日本の芸術を研究していると、賢者でもあり哲学者でもあり、而も才気煥発かんぱつの一人の人間が見えて来る。(中略)彼は、ただ草の葉の形をしらべているのだよ。併しこの一枚の草の葉から、やがて凡ての植物を描く道が開かれる、それから季節を、田園の広い風景を、動物を、人間を。彼の生活は、こうして過ぎて行く。(中略)自ら花となって、自然の裡に生きている単純な日本人達が、僕等に教えるものは、実際、宗教と言ってもいいではないか。(中略)僕等は、この紋切型の世間の仕事や教育を棄てて、自然に還らなければ駄目だ。……僕は日本人がその凡ての制作のうちに持っている極度の清潔を羨望する。決して冗漫なところもないし、性急なところもない。彼等の制作は呼吸の様に単純だ」(No.542)

確かに、本展でも観たアルル時代の作品「タラスコンの乗合馬車」(ヘンリー&ローズ・パールマン財団)と「寝室」(ファン・ゴッホ美術館)には、平板な色遣いや構図に、浮世絵の跡を追うこともできるし、「糸杉の見える花咲く果樹園」(クレラー=ミュラー美術館)に見られる、鮮烈な花の白さに、私は完全に心を摑まれてしまった。

 

続いて、「放談八題」という、小林先生と井伏鱒二氏、そして洋画家でゴッホ書簡集の翻訳もあるはざま伊之助氏との座談(同、第18集所収)にある先生の発言にも注目したい。

「これは僕の想像だけど、彼(坂口注:ゴッホ)が日本の版画なんかに影響を受けたのはわかりきっているし、自分でも書いていますが、たとえば水墨なんかも見ているんじゃないかな。雪舟と同じような巌を描いている」

本展においても、その指摘に該当するとおぼしき「渓谷」という作品があった(クレラー=ミュラー美術館)。渓谷を歩く二人の女性は、もはや岩の中に溶け込み、画面中央には、雪舟の「慧可えかだん図」の岩にある、髑髏しゃれこうべの眼窩のような黒い穴が口を開けている。

先生が雪舟の画に見たものは、「恐らく作者の精神と事物の間には、曖昧なものが何もないという事だろう。分析すればするほど限りなく細くなって行く様なもの、考えれば考えるほどどんな風にも思われて来るもの、要するに見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神」であった(「雪舟」、同第18集所収)。

加えて、この文章とほぼ同時期に書かれた「私の人生観」(同第17集所収)のなかで、釈迦に始まる仏教者の観法が、わが国の、雪舟をはじめとする水墨画家の画法に通じており、そこには、芭蕉の言う、其貫道する物は一なり、ということ、換言すれば「何々思想とかイデオロギイとかいう通貨形態をとらぬ以前の、言わば思想の源泉ともいうべきもの」が、雪舟ら達人の手によって捕まえられていた、と言う。先生の言葉を借りて敷衍しよう。

「(近代科学の言う)因果律は真理であろう、併し真如しんにょではない、truthであろうが、realityではない。大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない。在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない、見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである」

すなわち、室町時代のわが国の水墨画家にとっては、「画筆をとって写す事の出来る自然というモデルが眼前にチラチラしているなどという事は何事でもない」のであって、彼らはあくまで宋代・元代の舶来画を観て、精神の烈しい工夫を重ね、在るがままの、真如としての自然に迫ったのである。

 

さらに先生は、其貫道するところの一つとして、正岡子規が好んで使った「写生」という言葉も取り上げ、斎藤茂吉の「短歌写生の説」(鐵塔書院)を参考に、こう書いている。

「写生とはsketchという意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統を段々辿って行くと、宋の画論につき当たる。つまり禅の観法につき当たるのであります。だから、斎藤氏は写生を説いて実相観入という様な言葉を使っている。(中略)空海なら、目撃と言うところかも知れない、空海は詩を論じ、『すべからく心を凝らして其物を目撃すべし、便すなわち心を以て之を撃ち、深く其境を穿れ』と教えている。そういう意味合いと思われるので、これは、近代の西洋の科学思想がもたらしたrealismとは、まるで違った心掛けなのであります」

なるほど、私達が、例えば小中学校の写生大会、と言う時には、子規や茂吉が言う意味の「写生」として使っていることは、ほとんどないのではなかろうか。これに関しては、前述の「放談八題」の中で小林先生は、「ゴッホとセザンヌには、日本人の感覚で、非常によくわかるはずのものがある」という、ドイツの建築家ブルーノ・タウトによる見解を披露しているが、そのタウトが、著書「日本文化私観」(講談社学術文庫)の中で、日本の小学校の、あるクラス全員の絵を見せてもらった時のことを、次のように指摘しているのが興味深く、読者の皆さんにも思い当たる節があるのではなかろうか。

「皆景色を描いたものであって、どれもこれも退屈な、外国風な描き方のものばかりで、それだけに上手に描けていればいる程、ますます面白みがなくなっているという始末であった。このように、小学校時代に子供達から内的な絵、つまり子供達のあの純真な、自然な感覚を刈り取ってしまえば、換言すれば子どものように純真であり、自然でもある、偉大な日本文化をおさない人達の前で否定してしまえば、その結果は彼等を、ただに自然の奴隷にしてしまうばかりでなく、全く行き当りばったりなお手本の奴隷にしてしまう他はないのである」

 

さて、ゴッホ自身も、書簡集のなかに以下のような言葉を残しており、「雪舟と同じような巌を描いている」という小林先生の「想像」の跡を追って、おぼろげながら見えてきたものと重なり合うところもある。

「画家は自然の色から出発するのではなく、自分のパレットの色から出発するのがよい(中略)色が自然のなかでよく映えているのと同様、それらが僕のカンヴァスの上でよく映えているなら、僕の色が文字通り正確に忠実であるかどうかはそれほど気にしない」(No.429)

「正確な素描、正確な色彩、これは多分追及すべき本質的なものではない。なぜなら鏡のなかの現実の反映は、たとえ色彩その他すべてによってそれを定着することが可能だとしても、それはけっして絵ではないし、写真以上のものでもない」(No.500)

「北斎は、君(坂口注:テオ)に同じ叫びをあげさせる――だが、この場合、君が手紙で『これらの波は鉤爪だ。船がそのなかに摑まえられた感じだ』と言うとき、それは彼の線、彼の素描によってなのだ。そこで、たとえ、全く正確な色彩とか全く正確なデッサンで描いたとしても、こうした感動を与えることはあるまい」(No.533)

 

しかしながら、前稿に続き、ゴッホのまねびについて筆を進めてきて、私の中では、こんな思いが強くなるばかりである。ゴッホが、日本の何をまねびまなんだのか、という問いを分析的に深め、切り分けて見せるようなことは、これ以上意味をなさないのではあるまいか。それは、汲んでも汲んでも、汲みつくせないのではなかろうか……

「ゴッホの手紙」の終盤において、小林先生の言葉は消え、ほぼ書簡からの引用に終始している。ただ、本文の最後に「論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた」と記された。

ゴッホは、私が箱根で観た歌麿の「深川の雪」をパリで観たのかもしれない。北斎による、波の繊細な画法も、渓斎英泉の美人画も、まねびまなんだのだろう。しかし、彼の作品が、日本画や日本人からまなんだものだけで出来上がっているわけではない。彼の画と手紙を丹念に眺めてみると、ミレーにも、ドラクロアにも、レンブラントにもまなんでいる。ボリナージュ地方(ベルギー)の炭坑での伝道活動と伝道師資格の剥奪。ハーグ(オランダ)での身重の娼婦との生活と別れ。夢にまで見たゴーギャンとの共同生活と訣別。とにかく優しく接してくれる、アルルの郵便配達夫ルーラン。まるで贈答歌のような、弟テオとの頻繁な手紙のやり取りは、最期まで途切れることがなかった。そして、そういう過去の記憶ではち切れんばかりになった、いつ発作に襲われるかわからぬ、自らの肉体との対峙。

そんな彼の人生の一切合切が、画にもなり、手紙にもなった。それらのすべてに、彼の精神が、生ま生ましい味わいを湛えている。私は今、小林先生が、画と手紙の両方に当たらなければその精神は理解できないと言った真意を、自身の言葉を抑えざるをえなかった先生の心の動きを、加えてそれらの重量を、全身で感じている。

 

【参考文献】

 *「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房)

【参考情報】

 *「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」

  京都展:京都国立近代美術館、2018年1月20日~3月4日

 

「興」のはたらき・「観」のちから

小林秀雄先生による「本居宣長」では、三十二章と三十三章の二章にわたり、荻生徂徠が本居宣長に与えた影響が、詳しく記されている。

その冒頭、小林先生は、こう書いている。

「この徂徠の著作の中で、詩について語ろうとして、孔子の意見を援用している箇所は、稿本に、重複を厭わず、すべて引写されている。私はこれを確かめながら、宣長がそこに、徂徠学の急所があると認め、これを是とし、これに動かされたと推定して、先ず間違いはないと思ったのである」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集、p.10)

力強い言葉だと感じた。ここに何かがあると直覚した。

一昨年、2016年の11月、塾の質問に立った私は、孔子が詩の特色としてあげている「興」と「観」を踏まえて、徂徠が「論語徴」の中で、「詩之用」として強調する「興之功」と「観之功」に関わる質問を行った。但し、その質問は、残念ながら、論点は絞り切れず、本文からも離れてしまうというように、全く要領を得ずに終わってしまった。池田塾頭からは、小林先生が注意を促している「天下ノ事、皆ナ我ニアツマル」という「観之功」に関する徂徠の言葉に集中して考えるように、という助言を頂いた。

 

そもそも、小林先生は、「詩」が教えるのは凡そ言語表現の基本であるという孔子の考えを前提に、徂徠が言うところの「興之功」を「言語は物の意味を伝える単なる道具ではない、新しい意味を生み出して行く働きである」とし、「観之功」を「物の名も、物に付した単なる記号ではない、物の姿を、心に映し出す力である」と表現されて、「そういう働きとしての言語を理解するのには、働きのうちに、入込んでみる他はあるまい」と言う。

加えて、徂徠がいう「天下」については、「人々が皆合意の下に、協力して蓄積して来た、この言語によって組織された、意味の世界の事」であり、「此の共通の基盤に、保証されているという安心がなくて、自分流に物を言って、新しい意味を打出す自由など、誰にも持てる筈はない」と言う。したがって、「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」とは、そういう世界において、例えば、盛代にあっては衰世を、男性は女性のことを、平常時には乱世を知ることができるというように、言語の「観之功」という働きのおかげで、人は、自ら直面していないことであっても、我が事のように、まざまざと味識・体験できることだと言えよう。

 

私は、それから約1年間、このような意味合いでの「興・観の功」を念頭において、「本居宣長」の全文を、何度となく読み返し続けてみた。そうすると、「ながむる」という言葉を例に、その「転義」について書かれている箇所がよく目に入った。「転義」とは、言葉が新しい意味を帯びて変化していくことであり、まさに「興之功」である。早速、以下に引用してみたい。

「『三代集』(坂口注:勅撰和歌集のうちはじめの三集、『古今』『後撰』『拾遺』の各和歌集のこと)の頃まで、『ながむる』は声を長くする事、転じて、物思う事、の両様の意に使われていたが、『千載』『新古今』の頃から、意が又転じて、物を見る事だけに言われるようになった。『視』『望』と同義の『眺』の字をあてて、使っている内に、この言葉の伝統的な含みが、忘れられて了った」(同第28集、p.73)

「読者の中には、くだくだしい引用と思われる人もあるかも知れないが、それは、『ながむる』の転義につき、ここで示されている、宣長の強い興味を想像してみないからである。それは、事物につき、『物の心、事の心をしる』と言われた親身な経験をする際の、身心の動きの、まことに鮮やかな『シルシ』なのである」(同第28集、p.74)

さらに、「長息するという意味の『ながむる』が、つくづくと見る意味の『ながむる』に成長する、それがそのまま歌人が実情を知る、その知り方を現わす、と宣長は見るのである」(同第27集、p.262)

「歌人が非常な興味を以て行っているところは、いずれは、辞書の裡に閉じ込められて了う語義を、生活に向かって解放する事だ。語は、歌われ、語られる事により、歌人の心に染められ、そのココロを新たにして、生き還り、生き続ける事が出来るのである」(同第28集、p.81)

そして、小林先生は、「宣長が着目したのは、古言の本義よりもむしろその転義だったと言ってよいのである。古言は、どんな対象を新たに見附けて、どのように転義し、立直るか、その現在の生きた働きの中に、言葉の過去を映し出して見る人が、言語の伝統を、みずから味わえる人だ。そういう考えなのだ」と言うのである(同第27集、p.271)。

 

まさに宣長は、このような態度で、「興・観の功」を意識しながら「万葉」に向かい、「古今」に向かい、そして「源氏物語」へと向かって行ったのではあるまいか。さらに言えば、同様の向かい方で、「古事記」という前人未踏の山に独り分け入ったのではあるまいか。私は、そんな思いを強くしていった。

例えば、宣長は、「古事記伝」のネノカミの註釈の中で「可畏カシコき」という言葉について、「訶志古カシコは古書に、畏、可畏、恐惶、懼などの字を書て、(中略)おそるゝ意なり、(又賢をも、智あるをも云は、然る人は畏るべき故に、ウツりていふなり)」とし(同第28集、p.87)、「シコしと云ときは、猶ゆるやかなるを、阿夜可畏アヤカシコと云は、其ノ可畏きに触て、直ちに歎く言なれば、いよいよセチなり、は、男をも女をも尊む称なり」と言う(同p.88)。

このように「阿夜訶志古泥神」という神の名もまた、歎く、という古人の身心の動きを伴う言葉から産まれていたのである。

小林先生は、宣長について「丁度、『源氏』が語られるそのサマを『あはれ』という長息ナゲキの声に発する、断絶を知らぬ発展と受取ったように、神の物語に関しては、その成長の源泉に、『あやし』という、絶対的な『なげき』を得た」(同、p.174)とも書いている。

 

以上のような直覚と思考を重ね、昨年、2017年11月の、私の「自問自答」はこうなった。

「小林先生は、詩や言語に関して孔子が挙げる『観之功』、即ち『人の心中に、形象を喚起する言語の根源的な機能』について、徂徠が『天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル』という言い方に注意を促している。それは『外からは、決して摑む事の出来ない言語生活の生命が、捕えられているという、その捕え方』そのものだからである。そこに先生は、宣長が『古事記』を読みコナし果せた急所があると、直覚されたのではあるまいか。例えば宣長は『ながむる』という言葉の、声を長くする事、物思う事、物を見る事、という転義に強い興味を示す。そこに、物との親身な経験をする歌人の身心の動きのシルシを見たように『古事記』をわが物にしたのではないか」(299字)

 

しかしながら、山の上の家での質問に立った当日、池田塾頭との対話を通じて、以下のことが判然とした。上記の自問自答において、前半部分はよいとしても、後半の例示部分が不十分、というよりもむしろ、言語が「新しい意味を生み出して行く働き」という意味での「興之功」、すなわち、言葉の「転義」という点で、小林先生がより重きを置かれていたことに、全く言及できていなかったのである。

本来、言葉は、その言い方、身振り等によって、瞬間瞬間に、その意味が転じて行くものである。そのことを宣長は、こう表現している。

「すべて人の語は、同じくいふことも、いひざま、いきほひにしたがひて、深くも、浅くも、をかしくも、うれたくも(坂口注:いまいましくも)聞こゆるわざにて、歌は、ことに、心のあるやうを、たゞに、うち出たる趣なる物なるに、その詞の、口のいひざま、いきほひはしも、たゞに耳にきゝとらでは、わきがたければ、詞のやうを、よくあぢはひて、よみ人の心を、おしはかりえて、そのいきほひをウツすべき也」(「古今集遠鏡」、同第27集、p.267)

小林先生も、こう言っている。

「何も音声のアヤだけに限らない、眼の表情であれ、身振りであれ、態度であれ、内の心の動きを外に現わそうとする身体のワザの、多かれ少かれ意識的に制御された文は、すべて広い意味での言語と呼べる……」(同第28集、p.48)

加えて先生は、具体例を挙げている。例えば、「お早う」とか「今日は」という挨拶の言葉を、子どもの頃、その意味を知ってから使い始めたという人はいない。また、阿呆という言葉と、馬鹿という言葉は、その意味は同じだとしても、私たちは実生活において、それぞれの言葉を、状況に応じ微妙に使い分けている。このように、私たちは、日常的に、簡単な挨拶や微妙な言葉の使い分けを実践することによって、日々の生活を、より生き生きと、彩り豊かなものにしていると言えよう。

以上のように、「転義」には二つの態様があることを踏まえれば、「天下ノ事、皆ナ我ニ萃ル」という言葉の意味合いも、さらに立体的、動態的に感得できる。

 

私は改めて、寛政十年、「古事記伝」が完成した時に、宣長が詠んだ歌を口にしてみた。

 

古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりこととひ 聞見るごとし

 

ここに、小林先生が、その「歌のココロを、有りのままに述べているまでだ」として、宣長の仕事について、彼を画家にたとえて書いている文章がある。

「『古事記』を注釈するとは、(『古典フルキフミ』に現れた神々の『御所為ミシワザ』という)モデルを熟視する事に他ならず、熟視されたモデルの生き生きとした動きを画家の眼は追い、これを鉛筆の握られたその手が追うという事になる。言わば、『歌の事』が担った色彩が昇華して、軽やかに走る描線となって、私達の知覚に直かに訴える」(「本居宣長補記Ⅱ」、同第28集、p.352)

 

画家が描こうとしたのは、その歌にある「古事」すなわち、古人によって生きられ、演じられた出来事と言い換えてもよい。古人は、小林先生が言う「広い意味での言語」を使ってどのように歌い、語り、生きてきたのか。画家、本居宣長は、そんなふうに、古人が生きてきた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、自身がこれを生きてみた。そういう味識・体験による再生の行為を通じて、自らの心眼にまざまざと映し出されてきた手ぶりを、耳に聞こえてきた口ぶりを、「古事記伝」という作品として、見事に描き切ったのである。

さりながら、絵画作品は、画家の力だけで完成するものではない。それを観る者による、全身で感受するための努力や態度もまた欠かせない。小林先生は、十二年六ヶ月という歳月をかけて、宣長の作品を眺めた。私達、塾生も、そういう小林先生の姿を、同じ時間をかけて眺めようとしている。

巌から湧き出た大河の源流の一筋のように、孔子の言葉に始まる、徂徠が「興・観の功」と呼んだ言語表現の働きは、脈々と、今日もその流れを止めない。

(了)

 

編集後記

今号もまた、多才な塾生の皆さんによる多様な作品の一つひとつが、輝いている。山の上の家での「自問自答」、素読会、歌会、自身の仕事を含めた実生活、そして美を求める道、それらを通じて生まれた、各稿が放つ光は多彩である。

 

「巻頭随筆」の有馬雄祐さんは、素読会の事務局を担当されている。今回は、素読対象の「物質と記憶」の著者、ベルグソンによる「時間」についての思考実験を例に挙げて、小林秀雄先生の批評の態度、人生の態度に迫る上で重要となる「主観と客観」について思索された。

 

「『本居宣長』自問自答」には、今年度、新たに入塾されたお二方、橋本明子さんと羽深成樹さんが寄稿された。

橋本さんは、「自問自答」に加えて、塾でも紹介のあった「没後10年 編集者・谷田昌平と第三の新人たち展」(於:町田市民文学館ことばらんど)で感じられたことも披露され、「よく考え、よく生きること」についての思いを新たにされた。

羽深さんは、「自問自答」の経験を通じて感得された、小林先生が言う意味での「合理的に考える事」について、普段の穏やかな語り口のままに綴られている。「論語と『やせ我慢』」(PHP研究所)という著書もおありで、今回の「自問自答」も、「論語」の中にある言葉が発端となっている。入塾後、宣長さんの人生態度に本格的に触れて「その思考の独創性、エッジの立ち具合に眼を開かされた」と、山の上の家で語っておられる姿が印象的であった。

 

今号の「もののあはれを知る」は、荻野徹さんによる「ボクもやってみた、本歌取り」。まずはその場面設定に驚かされる。一方で、本塾の歌会でも行っている本歌取りの本質が、「本居宣長」からの引用文とともに手際よく示されている。歌会常連の荻野さんらしい作品をお愉しみ頂きたい。

 

また、「美を求める心」は、三浦武さんの「野心家のヴァイオリン」。本誌2017年11月号の「女とヴァイオリン」の続編と位置づけられる。前稿が、ストラディヴァリウスという女の話だとすれば、本作は、グァルネリウスという男の話である。小林先生が、グァルネリを一番巧く使ったと言っているフーベルマンについて、その語り口の背景にあった仔細に迫る。

 

桑原ゆうさんは、「『本居宣長』自問自答」で、小林先生の「心」と「ココロ」の使い分けに注目された。作曲家としての経験も踏まえ、「事物の心の振動」という観点から、小林先生の「物事をよく感ずる心」に近づこうとしている。

先日(2017年11月4日)、桑原さん作曲による声明しょうみょう「月の光言こうごん」が、神奈川県立音楽堂で初演された。テーマは、小林先生も「私の人生観」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)のなかで触れている明恵上人で、京都栂尾とがのおの自坊、高山寺の裏山において、深夜の坐禅を終えて戻る折に、明るく輝く月を見たという場面設定である。

 

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月

 

明恵上人のこの歌は、一人の僧侶の「あー」という声から始まり、次第に合唱の輪が広がって、最後は約三十人の大合唱が堂内に響き渡るなか、大団円を迎える。小林先生は、前掲文のなかで、「私の非常に好きな物」として明恵上人の坐禅像図を挙げ、一面に松林が描かれ、坊様が木の股の恰好なところへチョコンと乗って坐禅を組んでいる、珠数じゅずも香炉も木の枝にぶら下っていて、小鳥が飛びかい、木鼠きねずみが遊んでいる、まことに穏やかな美しい、又異様な精神力が奥の方に隠れている様な絵である、と言われている。桑原さんも、この明恵上人の「樹上坐禅像」からインスピレーションを得たと「作曲ノート」で言っていた。

 

さて、この冬は、周期的に月が地球に最接近している時期に当たり、空気も澄んでいるため、ことさら十五夜が大きく見える。私は、桑原さんの声明を聴いた日の深夜、寝所で急に目が覚めた。朝かと思いきや、東京の自室の窓を開けると、あかあかと大きく輝く満月があった。もはや私の身体は、高山寺の鬱蒼とした木立のなかにあった。

ありがたいことに、データによれば、本誌の読者数は、刊行以来右肩上がりで増えているという。今号はもちろん、これまでの寄稿作品のすべてが、この世を明るく照らし始めているようだ。

思えば、本誌の発行人、茂木健一郎さんは、創刊号の「発刊の言葉」で、こう書かれていた。

「困難な時代の一隅を照らし出す一灯となれば幸いである」

 

小生、このたび、微力ですが、一隅を照らすお手伝いをさせて頂くことになりました。一意専心務めますので、どうぞよろしくお願いいたします。

(了)

 

ゴッホ、ミレーにまねぶ

雨混じりの、蒸し暑い日であった。

今年の8月初旬、七夕祭りで賑わいを見せている仙台に、私はいた。夕刻、授業を終えた予備校生達が、三々五々集まり、気付けば、大きな教室は一杯になっていた。河合塾仙台校が、放課後に開催している「知の広場」で、現代文講師の三浦武さんの進行により、池田雅延塾頭と杉本圭司さんによる講演「小林秀雄にまねび、まなぶ」が始まった(*)。

 

そこで、池田塾頭は、「学問」と「学習」の違いについて、概ね次のように説かれた。

「予備校生の皆さんが今やっているのは、『学習』であって、『学問』ではない。『学習』とは、人間社会で生きていく上でのルール、換言すれば、既に誰かが発見したもの、産み出したものを習うこと。一方、『学問』とは、人類の未だ知らないことを明らかにし、人類のために貢献することである。それでは、『学問』をしていく上で、一体どういう心掛けが必要になるのか。小林秀雄先生は、『本居宣長』第十一章(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)の中でこう仰っている。

「宣長が、その学問論『うひ山ぶみ』で言っているように、『学問』とは、『物まなび』である。『まなび』は、勿論、『まねび』であって、学問の根本は模倣にあるとは、学問という言葉が語っている」

小林先生は、模倣の達人として、モーツァルトとゴッホを挙げておられる。モーツァルトは、あらゆる音楽的手法を、知識として知るだけではなく、真似して再現して見せた。ゴッホは、ミレーや、日本の浮世絵を、何枚となく模写した。

そういう、模倣に模倣を重ねた、その先においてこそ、自分の真の個性に出会うことができるのである」

塾頭は、真剣な眼差しで聴き入る予備校生達に対して、噛んで含めるように説き、こういう趣旨の言葉で、話を結ばれた。

「皆さんは、来春の目標を目指して、まずは『学習』に邁進してください。晴れて大学生になった暁には、思う存分『まねび』、『学問』を実践してください。健闘を祈ります」

その言葉を聞き、力強く頷いた予備校生達の姿を目の当たりにして、30年前、京都の予備校に通っていた私は、当時の心境を思い出し、胸がはち切れそうになっていた。

 

私は、東京に戻ると、早速ゴッホの書簡集を読み直してみた。

彼は、とても率直な人らしく、気になっていることが、そのまま文面に頻出する。例えば、「ゴーギャン」「芸術家組合」「ルーラン」「ミレー」「日本画」という言葉を何度も目にする。

ゴーギャンとは、アルルの黄色い家で共に暮らし、「芸術家組合」を作ることが、ゴッホの永年の夢であった。しかし、切なる夢は、切なすぎる思い出として霧消した。

ソクラテスによく似た、アルルの郵便配達夫「ルーラン」は、数少ない友人の一人であった。あの災厄のような発作が起き、ゴーギャンが去った後の、汚れてしまった部屋を掃除してくれたのも、また「まるで老兵が初年兵をいたわるような寡言な厳しさと思いやりをもって」親身に接し続けてくれたのも、ルーランであった。

そして、「ミレー」と「日本画」は、まさに先の塾頭のお話の通り、ゴッホの「まねび」の対象そのものであった。小林先生も、「ミレー」について、こう書かれている。

「僕は、彼の手紙に現れるミレーという字を、幾つも幾つも追い乍ら、ここには、何かしら運命的とも呼ぶべき、深い出会いがある事を感じた。絵も見ない前に、ミレーという画家が、ゴッホに、少なくとも絵に没頭して以来最初の、そして恐らくは最大の影響を与えて了った、そんな風に感じた」(「ゴッホの手紙」、同第27集所収)

 

ミレーは、日本での人気も高く、さる2014年には、生誕二百年を迎えたこともあり、多数の解説書が出版されている。しかし私は、敢えてそれらに目を通したい気持ちを抑え、山梨県の甲府に向かった。ともあれ、小林先生がそこまで明言するミレーの原作と一対一で向き合い、単純率直に、その場で直覚するものを大切にしたかったのだ。山梨県立美術館への道すがら、海原のように広がる葡萄畑では、翡翠のように綺羅めく果粒の一つひとつが、初秋の太陽の光を浴びて、うんうんと、収穫直前の最後の成長のひと踏ん張りをしているように見えた。

この美術館は、自然に恵まれた「農業県山梨」に相応しいと、農民を多く描いたミレーの代表作を収集してきており、今や知る人ぞ知る「ミレーの美術館」となっている。

ミレー館に入る。山梨らしい赤ワイン色の壁紙が、諸作と溶け合って心地よい。

しかし、最初の作品「ポーリーヌ・V・オノの肖像」(1841-42年頃)を観た途端、私は、彼女の瞳に、雷に打たれたように釘付けにされてしまった。彼女は、ミレーの最初の妻であったが、病弱のため、結婚の三年後に他界した。まるで瞳そのものが、生きている。涙を溜めているようでもある。見つめていると、画中の彼女は、必死に私に話しかけようとする。が、思い余りて言葉にならぬ。気付けば私は、不首尾を承知の上で、彼女との対話を幾度となく試みていた。

続いて「落穂拾い、夏」(1853年)を観る。思っていたよりも小品である。刈り取った穀物の穂が、高く高く積み上げられていく作業を遠景にして、前景の三人の女性が、地面に残してもらった落穂を無心に拾っている。三人とも、真下の大地を凝視する。うち二人の腰は、痛いほどに曲げられている。そして、そこに会話は、ない。

このように、ミレーの作品には、重力を感じさせるものが多い。彼ほど、画中の人物が、鉛直方向、つまり真下にある大地を向いている作品、また、そうではなくても、目には見えぬ、力強い垂直の軸を感じさせる作品が多い画家は、いないのではないかと思う。この感覚は、実際に農作業に従事しなければ出せない、作家の野性に由来するものであろう。このことは、有名な「晩鐘」でも同様であるし、その他「種をまく人」「くわを持つ男」「葡萄畑にて」等、枚挙に暇がない。加えて、画中の人物の多くは、仕事中の農民であり、作業に一心に集中し、無言を貫いている。辛かろうが、苦しかろうが、そこに誇張や感傷性の表現はない。あるのは、ただ静謐のみ、である。

その他の作品も丹念に観て回り、こう思った。「私は農夫中の農夫です」と語っていたミレーにとって、闘うべき、かつ、祈るべき対象は、彼の伝記を書いたロマン・ロランが言うところの「万物が生まれでて万物がふたたび帰ってゆく、原初的な『無窮の』存在物である」大地という自然であったのではあるまいか。

 

一方、ゴッホにも、農民の家族を描いた、有名な作品「馬鈴薯を食う人々」(1885年、同第20集口絵参照)がある。一日の労働を終えた一家五人が、暗く煤けたように見える部屋の中で、馬鈴薯を食べている。五人の視線は、交わらぬ。料理の品数のみならず、団欒にあるべき会話も、ひたすら乏しい。

私が、この作品を持ち出してきたのは、農民画家と世間に呼ばれてきたミレーを、単に画題としてゴッホが模倣した、という趣旨ではない。本作を描いた二年半前に、ゴッホが書いたとして、小林先生が引用されている手紙に注目したかったのである。

「どんなに文明人になってもいいが、都会人になってはならぬ、田舎者でなければならぬ。どうも正確な表現が出来ないが、口を開かせずに働かせる何かしらが、人間の裡になければならない。喋っている事を超えた或るもの、繰返して言うが、行為に導く内的沈黙というものがなければならぬ。立派なことを仕遂げるには、そういう道しかない。何故か。何が起ころうと驚かぬ或る感情を人間は持つからだ。働く―次は? 僕は知らない―」(No.333)

 

私は、ゴッホの画を観ていると、静物画や風景画であっても、独特の緊張感を覚えることがある。ましてや、自画像であれば、なおさらである。それは、小林先生が「ゴッホの手紙」の冒頭で触れている、上野の東京都美術館で、「烏のいる麦畑」の複製画を観て、その前にしゃがみ込んでしまった時に覚えられた感じに近いのかもしれない。

「僕が一枚の絵を鑑賞していたという事は、余り確かではない。寧ろ、僕は、或る一つのおおきな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる」(「ゴッホの手紙」)

 

併せて、ゴッホの手紙を読み進めて行くと、こんなことを思う。彼にとって、闘うべき、かつ祈るべき対象は、風景や生物や人物というものに始まって、大地から生れ出た、自分の肉体という自然に行き着いたのではあるまいか、と。

少し長くなるが、ゴッホが、サン・レミイの、鉄格子の嵌まった窓のある療養院にいた1889年9月、大地に帰る、十ヵ月前に書いた手紙を引いておく。

「治療法などないのである。もし一つでもあるなら、それは仕事に熱中するだけだ。この事を、僕は以前にも増してつくづく考え込んでいる。そして、病気が醸成されていたパリ時代の僕より、はっきりと病気になって了った現在の僕の方が増しであろうと思う様になった。今仕上げた背景に火の燃えている肖像を、パリ時代の僕の肖像と並べて掛けて見れば、その事が君にも解るだろう。現在の僕はあの時よりは健康に、ずっとずっと健康に見えるだろう。この自画像は、手紙より現在の僕を、恐らく君によく語っているだろう、君を安心させるだろう、とさえ僕は考えているのだ。描き上げるには、かなり苦しかったがね」(No.604)

 

ところで、そもそもヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、ジャン・フランソワ・ミレーの何をまねび、まなんだのだろうか。もちろん、ゴッホは、「驚くべきミレーの描線」の模写を繰返した。確かに、素描の勉強を本格的に始めた当初は、画中の人物が真下を向く、ミレーらしき画を多数描いている。しかし、その答えは、後のゴッホの作品を観て一目瞭然、というように、俄かに了解できる類のものではあるまい。

 

小林先生が、「ミレーに関する限り、僕の判断は、すべてこの書に負うのである」と仰るように、先生をして、ミレーがゴッホに最大の影響を与えたと確信させた、ロマン・ロランによる書物がある(『ミレー』、蛯原徳夫訳、岩波文庫)。

その中にあるミレーの言葉を、心静かに、噛みしめたい。

 

「美をつくりだすものは、描かれた物そのものよりも、それを描かずにはいられなかったという気持ちの方が大切です」

「(私は、)何も口に出してはいないが、人生の過重を自覚し、苦しみながらも叫び声や不平などもらさず、人間の運命の法則を忍びつつ、しかもその償いなどを誰にも要求していない、あの画中の人物などを、愛した」

「私は苦しみをのがれようとは思わないし、私を禁欲的にしたり無関心にしたりする信条を見つけ出そうとも思いません。苦しみは芸術家にもっとも強い表現力を与えるものかもしれません」

 

分かりきったことを言うようであるが、これはゴッホの言葉ではない。ミレーの言葉である。

 

気付けば私の身体の中で、新たな欲求が、ふつふつと湧いてきた。

ゴッホは、一体、もう一つの模倣の対象であった、日本画の何をまねび、まなんだのか。無私なる精神とともに、ミレーや日本画等の模倣を繰返してきた末に、ゴッホの作品に立ち現れた、彼にしか表現し得なかったもの、そういう画家の魂に、直に触れてみたい。その魂とは、小林先生の言う、例えば、各人の鼻の形状が千差万別である、というような「単なる個人々々の相違という意味」での個性ではない。「個人として生まれたが故に、背負わねばならなかった制約が征服された結果」(「ゴッホの病気」、同第22集所収)として作品に立ち現れて来た、画家の真の個性そのものである。

 

今まさに、小林先生が衝撃を受けたという、上野の山の美術館では、「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」展が開催中である。

 

(*)当日の講演の詳細は、「Webでも考える人」(新潮社)で、池田塾頭が連載中の「随筆 小林秀雄」二十二「模倣について」を参照ください。     http://kangaeruhito.jp/articles/-/2183

 

【参考文献】
*「ゴッホの手紙(上、中、下)」(硲伊之助訳、岩波文庫)
*「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳、圀府寺司訳、みすず書房)
【参考情報】
山梨県立美術館
「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」
 東京展:東京都美術館、2017年10月24日~2018年1月8日
 京都展:京都国立近代美術館、2018年1月20日~3月4日

(了)

 

歌劇「フィガロの結婚」を聴いて

「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打」

(「明頭に来れば、明頭に打し、暗頭に来れば、暗頭に打し」)

「臨済録」(勘弁七)に記されている、普化ふけという唐代の奇僧が、街中で鈴を振りながら唱えていた、という禅語がある。私は、十年程前、大阪勤務をしていた頃、京都の南禅僧堂へ定期的に、坐りに行っていた。これは、その時、僧堂の老師から教えられた言葉である。ただし、知識としてではなく、あくまで身体で悟得せよ、との親心であろう。その含意については、「明るい頭が来たら、叩く。暗い頭が来ても、叩く」という、読んで字の如く、という以上のことは、説かれないままとなっていた。

 

それと同じ頃から、毎夏、佐渡裕指揮、兵庫芸術文化センター管弦楽団によるオペラを聴きに行くようになった。最初の演目は、モーツァルトの「魔笛」。そのフィナーレでは、大祭司ザラストロに与えられた試練に耐えた、王子タミーノと夜の女王の娘タミーナ、さらには、鳥刺しパパゲーノとパパゲーナ、という二組が、波乱の末、めでたく結ばれる。それを祝福し、全員で声高らかに歌い上げる場面がある。そこで私は、不覚にも、涙が止まらなくなってしまった。楽器や歌手の口から発した音が、天上から、きらきらと降り注ぐ。私の全身が、その無数の音で、完全に包み込まれてしまったかのような感覚を、今でも鮮やかに覚えている。この世に生かされていることがありがたい、と心の底から感じた。モーツァルトから渡された、目に見えない強い力が、体中に湧いてきた。なぜ、彼の音楽には、ここまで人を虜にする力があるのだろうか、そんな自問も、以来、腹の中で持ち続けてきている。

そして、今夏も同様に、会場のある西宮へ向かった。演目は、あの夏と同じ作曲家、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」。それだけに、期待感も大きく高まっていた。

 

ところで、小林秀雄先生が、オペラも含め、観劇をあまり好まれなかったことは、広く知られている。盟友、河上徹太郎氏との対談でも、氏に「君はオペラ嫌いだね。救えないよ」と言われ、「ほんとうに嫌いなんだよ。僕は大体芝居というものは嫌いだ」と率直に答えている(「美の行脚」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)。音楽は、声楽も含めて、全身で聴き入ることを第一義とされた先生は、「わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕はそれで間違いないと思っている」(「モオツァルト」、同第15集所収)とまで明言されている。

そのことが念頭にあった私は、今回敢えて、普段の演奏会では、音響の観点からむしろ敬遠する、最前列中央の席に着いた。イタリア語上演のため、舞台上の両脇に日本語の字幕が出るが、それも視野に入らないで済む。目線を上にしなければ、オーケストラピットの指揮者や演奏家は目にしても、歌手の歌声も、音声として聴くことに専念できる。オペラは、視覚的にも愉しめるだけに、少し残念ではあったものの、歌手の動きや舞台装置は、努めて見ないようにした。このように、小林先生の教えに従い、すべての音を、純粋に音として、全身で聴くことに徹したのである。

 

Prestoという、速いテンポの指示記号が付いた、有名な序曲の演奏が、軽やかに、先を急ぐかのように始まった。そこから先は、まるでジェットコースターに乗ったように、あっという間の3時間半が過ぎて行った。今回の公演は、事前に丁寧な準備が行われていたことが察せられる、あらゆる点で見事な内容であった。そこであえて、私が最も感じ入ったことを、一語で言うならば、アンサンブルの美しさ、である。共鳴の美、と言い換えてもよい。オーケストラ内での演奏家同士の共鳴は言うまでもなく、歌声とオーケストラ演奏の共鳴。歌手による二重唱、三重唱、そして多重唱。レチタティーヴォ(歌うような会話)とチェンバロ(クラヴサン)の共鳴。このように、ありとあらゆる共鳴が、まさに「一幅の絵を見る様に完成した姿で」(同)次々に現れ、私の体の隅々に、沁み渡っていった。

なかでも、アルマヴィーア伯爵夫人役の並河寿美さんと、スザンナ役の中村恵理さんによるソプラノの二重唱は、声質が似ていることもあり、その共鳴の美しさに、大きく揺り動かされた(それぞれのアリア(独唱)の素晴らしさは、言うまでもない)。さらに、CDで聴いていたら、殆ど聴き逃してしまいそうな、チェンバロの通奏低音の演奏(ケヴィン・マーフィーさん)には、大きく目を見張るものがあった。指揮者、演奏家はもちろん、すべての関係者の方に、「ブラヴィシーモ!」と、改めて敬意を表したい。

 

さて、今回「フィガロの結婚」に推参するにあたっては、作曲家の、当時の心境に少しでも肉薄したいと思い、「モーツァルトの手紙」(岩波文庫、柴田治三郎編訳)を読み込んだ。まずは、モーツァルトのオペラ熱が、十一歳で劇音楽を書いて以降、終始冷めることのなかった点に、興味を惹かれた。手紙には、こういう言葉が踊る。

「ぼくはもう一度オペラを書きたいという何とも言いようのない欲望をもっています」

(1777年)

「オペラを書きたいというぼくの願いをお忘れなく、オペラを書く人はだれでも羨しく思います」(1778年)

そして、彼は、イタリア出身のロレンツォ・ダ・ポンテという作家に出会う。

「私はイタリア・オペラの畑でも、自分の腕前を見せてやりたいものです」(1783年)

「フィガロの結婚」の原作が身分制度への攻撃と見做されたことから、皇帝からの上演許可を得るのに時間を要したものの、二人はめげることなく策を講じ、なんとか許可を得ることができた。

1786年5月、ウィーンの宮廷劇場で無事に初演。以降、好評を重ね、翌年には、妻のコンスタンツェとともに、プラハでの上演に訪れる。

「じっさいここでは『フィーガロ』の話でもちきりで、弾くのも、吹くのも、歌や口笛も、『フィーガロ』ばっかり、『フィーガロ』の他はだれもオペラを観に行かず、明けても暮れても『フィーガロ』『フィーガロ』だ。たしかに、ぼくにとっては大いに名誉だ」

 

一方、本作が大好評を得るに至る、モーツァルトの実生活は必ずしも一筋縄では行かなかった。1778年の母の死以降、失恋、地元ザルツブルク司教との不和と決裂、最愛の父レオポルドとの不和、父の承認を得られない、コンスタンツェとの結婚の強行、長男ライムラントの早世、という出来事が、立て続けに起きる。気持ちの入った本作初演に向けては、作曲に集中したため、生活費が欠乏。知人への度重なる金策依頼の手紙が、驚くほど増えて行った。そういう疾風怒涛の中での、本作初演だったのである。

しかし、本作の成功で、必ずしも生活が楽になったわけではない。上記プラハ上演の年に父が死去。仲良しであった、実姉ナンナルとの不和も始まる。妻は病気がちになり、バーデンで療養。三男、長女、二女も早世。自身の健康も万全ではない。そんな状況で、金策の手紙は、終わる所を知らない。もちろん、自転車操業のような、膨大な量の作曲活動は、死の直前まで同時並行で続いた。

このようにモーツァルトは、実生活もまた、真面目に生きてきた。次々に襲いかかる試練から、決して逃れることなく、むしろ置かれた状況をそのまま受け入れて、不平も言わず、常に前向きに生きてきた。

ここで、小林先生の言葉を引いておきたい。

「不平家とは、自分自身と決して折り合わぬ人種を言うのである。不平家は、折り合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが。(中略)強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るが儘の環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。(中略)命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ」(「モオツァルト」)

 

さて、小林先生が、二十代の頃、大事にしていたモーツァルトの肖像画の写真がある(ヨーゼフ・ランゲ、「クラヴィーアに向かうモーツァルト」国際モーツァルテウム財団所蔵)。私は、演奏会から自宅に戻ると、その肖像画と、久しぶりに、ゆっくりと向き合ってみた。人生経験の豊富に見える老練な男が、チェンバロと覚しきものの前に坐って、一心に何かを見つめている。いや、何か得体の知れぬものに出合い、驚愕に目を見張りつつも、やむをえない、と前向きに受け入れようとする気持ちも、僅かにあるようにも見える。ちなみに小林先生は、この画について、こんな感慨を記されている。

「名付け難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現す事が出来るのだろうか」(同)

 

さらにその画を、無心に眺めていると、こんなことを思った。

人は、年を経るほど、公私を問わない外的環境の変化に、その人生が大きく左右されるものである。「こんなことが起きていいのか……」という、嘆息を漏らさざるをえないような出来事が、一度のみならず、立て続けに起こることすら稀ではない。小林先生も言う。

「人生の浮沈は、まさしく人生の浮沈であって、劇ではない、恐らくモオツァルトにはそう見えた」(同)

それは、この我が身とて、例外ではない。

 

今回私は、オペラ「フィガロの結婚」を、室内楽を集中して聴くかのように、全身を耳と化して聴き入った。そうしてみたことで、モーツァルトの音楽の完成された姿を、美しいと観ずるだけではなく、何か不思議な力で体内が満たされた感じを覚える理由が、少しだけ腑に落ちた気がした。それは、モーツァルトの生身に、直に触れた、とでも形容できるような感覚である。

続けて、思う。演奏会場で次々と繰り出される、美しい「あらゆる共鳴」に、終始耳を奪われていた私は、もしかすると、あの肖像画中のモーツァルトと同じような表情と眼差しをしていたのかもしれない。

 

その瞬間、冒頭の禅語が、私の身体の中で、小林先生の言葉と共鳴した。

 

「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打」

チリン、と鈴を振りながら、裸形の禅僧が、歩いている。

 

赤いフロックコートを脱ぎ捨てた、裸形の作曲家が、歩いている。

「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」(同)

 

 

*参考文献

 「臨済録」(岩波文庫、入矢義高 訳注)

  唐代末期(?-867)の禅師、臨済義玄の言行を弟子の慧然が記したもの。

*参考CD

 MOZART, Le nozze di Figaro

 Erich Kleiber, Winer Philharmoniker,1955

小林秀雄先生に「微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いているから」と評されたという新潮社の元編集者、齋藤十一氏の「愛聴レコード盤100」の一枚。齋藤氏は「エーリヒ・クライバーの演奏は、一つの理想を達成している」とコメントしている。最近、SACD版も発売された(タワーレコード限定)。

(了)

 

ネヴァ河の流れ
―「大エルミタージュ美術館展」を観て

1936年(昭和11年)の後半、正宗白鳥氏(当時57歳)は、ソビエト連邦(現ロシア)のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を旅していた。この街について正宗氏は、素っ気なく、相手を少し突き放したかのような、氏らしい文体で、こう綴っている。

「レニングラードは、西欧諸国の首都に比して、雄大であり古雅である。モスコーほど現代化されていないで何となく陰気らしいうちにも、前代帝王の貴族的意図が追想され、それを嘲笑し得るほどのプロレタリア文化が、さんぜんたる光を放つのは、遠い将来のように思われる」(「隣邦ロシア」、講談社文芸文庫『世界漫遊随筆抄』)

 

それから約30年、1963年(昭和38年)6月、小林秀雄先生(当時61歳)は、ソ連作家同盟の招きにより、安岡章太郎氏、佐々木基一氏とともに、ソビエト旅行に出発した。汽船、鉄道と乗り継ぎを重ね、極東のナホトカを経てハバロフスクへ。そこからさらに、疲労困憊の状態でモスクワへ向かう機中、先生は、前年に亡くなった正宗氏が、その数か月前に独語するように漏らした「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」という言葉を思い出していた(「ネヴァ河」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)。

その後、一行は、レニングラードに到着、「ホテル・ヨーロッパ」に宿泊した。そのときの様子を、安岡氏はこう記している。

「エルミタージュ美術館に出掛ける前夜、通訳のリヴォーヴァさんが、『いよいよエルミタージュですよ、ようく休んで疲れを取って置いてね』という。『わかりました』と佐々木さんが謹厳にこたえる。そんなヤリトリを奥の部屋で聞いていた小林さんは、『なに、エルミタージュ? どうせペテルブルグあたりに来ているのは、大したものじゃなかろうよ』と、甚だ素気ない様子であった」(「悠然として渾然たるネヴァ河」、第5次『小林秀雄全集』内容見本)

しかしその翌朝。安岡氏と佐々木氏の顔は、一気に青ざめることになる。

小林先生が起きて来ないのだ。部屋に様子を見にいくと、そこはモヌケの殻。便所や風呂場にも影は一切ない。宿の鍵小母さんに聞いてみると、「今朝早い時刻に一人で出て行った」という。国家が招いた「招待客」(デリガーツィア)と称される特権的な旅行者であったにも拘わらず、それまでにも予約されていたホテルが勝手にキャンセルされていたり、突然部屋が変更になったりしていたことから、二人は最悪の事態すら想像せざるをえなかった。一体、小林先生に何が起きたのか……。

 

さらにそれから50年、2017年6月の金曜夜、私は、東京の六本木ヒルズにいた。目当ての「大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち」を観る前の心持ちは、前述の小林先生のそれと少し似ていたように思う。

「ロシアの画家による作品は全くなく、女帝エカテリーナ二世が、財力にものを言わせて欧州から買い集めた絵画ばかりでは……」

会場である52階の森アーツギャラリーに入ると、すぐに、派手ではないが優美な衣装を身に纏う、上品で少し誇らしげなエカテリーナ二世が、私を見下ろすように迎えてくれた(ウィギリウス・エクリセン「戴冠式のローブを着たエカテリーナ二世の肖像」)。「やはり……」

しかし、その後に観た多くの作品群を総括するには、この一言で十分であった、「駄作はなかった」。特に古い時代の作品が多い中、良好な保存状態にあることが印象的だった。

 

結果的に、作者の出身国別に分けられた展示室で、最も長居することになったのは、スペインの部屋である。中でも私は、フランシスコ・デ・スルバランの「聖母マリアの少女時代」(1660年頃)の前から離れることができなかった。

ほの暗い中、赤い服を着た少女が、針仕事の手を休めると、天を見つめながら、一心に祈り始めた瞬間。胸の下で丁寧に合された左右の手は、その思いの深さを感じさせる。私はそこに、画家の、その少女に対する汲み尽くし難い深い愛情を感じた。スペイン人のようにも見えるマリアのモデルは、画家の愛娘であったのだろうか。

気づけば、20時の閉館時間が迫っていた。残念ながら、階下へ降りざるを得なかった。私は、正直、もの足りなさを覚えた。もっとエルミタージュを体感したい。駅に向かう道すがら、ドキュメンタリー映画「エルミタージュ美術館 美を守る美術館」(マージー・キンモンス監督、2014年)が上映中であることを思い出した。上映開始は21時。ちょうどいい。そのまま有楽町へ向かうことにした。

 

私は、地下鉄に揺られながら、数年前、ボリショイ劇場芸術総監督を務めたアレクサンドル・ラザレフ指揮、日本フィルハーモニー交響楽団による、ショスタコーヴィチの交響曲第七番「レニングラード」の演奏を聴いて、その生々しく不気味な迫力に、終演後しばらく立ち上がれなかったことを思い出していた。この曲は、作曲家自身が、1941年のナチス・ドイツによる突如の侵攻で始まった「九百日封鎖」に直面し、「ファシズムに対する我々の闘争と、来るべき勝利と、そして私の故郷レニングラードに捧げます」という強い思いを込めて書いたものである。加えて、現地初演が、雨あられの砲撃、餓死、凍死、という極限状況の中、文字通り満身創痍の状態にある当地ラジオ・シンフォニーの演奏家らによって行われていたことも、当時の凄惨な映像や写真とともに、詳しく触れる機会があり、大きく心を動かされたことがあった。

 

映画館に到着し、本編の上映が始まった。私は、先ほど観てきたばかりの作品の多くが、そのように壮絶な戦火を避けるべく、学芸員の手により丁寧に木箱に梱包された上で、ウラル山脈へと送られていたことを、ここで初めて知った。さらには、第一次世界大戦時(1917年)にも、同様にモスクワへの疎開措置が取られており、その直後に、レーニンを指導者とするボルシェビキが、現在は同館の本館となっている「冬宮」を急襲し、あの革命が成し遂げられていたのであった。

この映画は、現館長であるミハイル・ピオトロスキー氏を追うドキュメンタリーでもある。氏は310万点にも及ぶ収蔵品の修復はもちろん、現代美術の展示や共存にも精力的である。私が最も驚いたのは、超現代的なビルにある最新の保管庫で、中央の通路を歩くと、透明の全面ガラスを通じて保管の状況がはっきりと見えるようになっている。館長も、学芸員も声高に語っていたのは、「美術品は、秘蔵するものではなく、公開し続けていかなければならない」ということであった。そこに、政府の管理下で公開が厳しく制限されてきた同館ならではの、強い意思を感じた。「私の使命は、エルミタージュ美術館を世界に開くことです」、そう語る館長によれば、今回の日本巡回展もその流れの一つだという。

私は、同館で大切に取り扱われてきた作品群を直に観て、また、そういう実践を、世代を超えて継続して来たロシアの人達の言葉を聴いて、戦争や革命、そしてイデオロギーというような、表を騒がせてきた事象からはなかなか見えてこない、長い時間をかけて黙々と築き上げられてきた、伝統や歴史に対する敬意や信愛の情のようなもの、そういう精神が、力強く底流してきている様を、強く感じた。

 

再び1963年のレニングラードの朝に戻ろう。ホテルで行方知れずとなった小林先生は、一体どこに行ってしまったのだろうか。

安岡氏によれば、「われわれが狼狽気味に部屋を探していると、『やあ失敬』と先生があらわれた。『朝起きぬけに一人でネヴァ河を見てきた』とおっしゃる。『ネヴァ河ですか』私たちは唖然とした。小林先生の地理勘は甚だ弱くて簡単な道にも直ぐ迷われるからだ」。

そういう安岡氏らの心配をよそに、小林先生はこう言ったという。

「しかしネヴァは、じつに好い河だ、悠然としていて、あれこそロシアそのものだ」

それから一行は、予定通り美術館へ出発した。前夜「大したものじゃなかろうよ」と言っていた小林先生は、実際に館内でどう過ごしたのか。

もう一度安岡氏の筆を借りると、先生は、館内「あちこちの膨大な絵画・彫刻のコレクションの山を駆け回って観た後など、芯から疲れきって、顔色がカチカチの鰹節のように、そそけだって見えたりもしていた」(「危うい記憶」、講談社刊『カーライルの家』)という。

 

それにしても、旅行中、朝は大抵一番遅くまで寝ていたという小林先生であったのに、あの日は敢えて早起きをし、「空は青く晴れ、おおきな濁流であった」ネヴァ河を独り眺めながら、いったい何を思っておられたのだろうか。

その水面に浮かんできたのは、先生が文学者となるにあたって、十九世紀のロシア文学に「大変世話になった」という意味での「ロシヤという恩人の顔」だったのだろうか。なかでも、その作品を読んで「文学に関して、開眼した」という、ドストエフスキーのことだろうか。

それとも、「永い間批評の仕事をして来た者として、本質的な意味合で教えを得た」(「正宗白鳥の作について」、『小林秀雄全作品』別巻2所収)という、敬愛してやまない大先輩、正宗白鳥氏のことだろうか。ちなみに、正宗氏がソビエト連邦を訪れてレニングラードの地に立ったのは1936年の後半であったが、小林先生と正宗氏は、その年の前半、1月から、トルストイの家出問題に端を発したいわゆる「思想と実生活論争」を戦わせていた。

 

いずれにしても、小林先生は、ただ感傷に浸っておられたのではないと思う。そこで、先生の心眼が捉えていたものは、十九世紀のロシアの大文学者達が、ロシアという独特な社会に生まれ落ち、人生如何に生くべきか、という中心動機を背負って黙々と歩いている姿だったのではあるまいか。さらに、その歩みに続くのは、正宗白鳥氏であり、また自分自身でもあると、そう直覚されていたのかもしれない。

 

 *参考文献
  小林秀雄「ソヴェトの旅」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)
  「戦火のシンフォニー」(ひのまどか著、新潮社刊、2014)
  安岡章太郎「邂逅」(『新潮』小林秀雄追悼号、新潮社、1983)
 *参考情報
  大エルミタージュ美術館展 今後の巡回展
   名古屋展:2017年7月1日(土)~9月18日(月・祝)、愛知県美術館
   神戸展:2017年10月3日(火)~2018年1月14日(日)、兵庫県立美術館

(了)

 

「キリストの姿はここにはない」とは?
―「マティスとルオー展」を観て

先のゴールデンウイークに、「マティスとルオー展」を大阪・天王寺のあべのハルカス美術館で観た。実は今年の2月、東京のパナソニック汐留ミュージアムでも観ていたのだが、今回、再びじっくりと相見えるべき作品があった。ジョルジュ・ルオーが、1937年に仕上げた「古びた町外れにて、又は台所」(Au vieux faubourg/La cuisine、以下、「本作」)である。

小林秀雄先生がルオーの画を愛しておられたことは周知の通りである。にも拘わらず、先生がルオーについて書かれた文章は極めて少ない。そんな先生が、「私はそれを忘れる事が出来なかった」として、具体的なエピソードとともに、比較的詳しく書かれているのが本作である(「ルオーのこと」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)。そこで、画中の椅子に腰かけた男を「キリストに違いない」と記されながらも、最後は「画面に向いた私の眼は、キリストの姿はここにはない事を確かめるようであった」と書き終えられていることを踏まえ、池田塾頭から「その言葉を貴方はどう感じるか」という問いを、4月初旬、ともに訪れた松阪の地で頂いた、というのが今回の天王寺訪問の機縁となっていた。

 

さて、会場に入ると、まず私は一つひとつのルオーの画と相向かい、「そこに、キリストはいるか?」と自問しながら、時間をかけて巡って行った。そこで、否、と自答したのが、本作以外では以下の3作品であった。

まずは、「一家の母」(1912年)。乳飲み子を抱いた母親の周りに3人の子どもが寄り添う、寒々しい青色を主調とする小品である。それぞれの表情は判然としない。事情はわからぬが、5人きりで生きていくしかない、という悲壮な覚悟さえ感じる。

次に「曲馬団の娘たち」(1924-25年)。サーカス団の一員である若い女が二人。一人は正面を向き、一人は横を向いている。楽屋裏の出番待ちなのだろうか。表題の言葉の響きとは裏腹に、目は黒く太く塗りつぶされ、娘たちの表情も暗いだけに、感じるのは、乾いた寂しさのみである。左の娘の赤い髪飾りは、むしろ見るに痛々しい。もはや娘たちは静物画の中の死物と化しているようだ。

最後に「眠れ、よい子よ 『流れる星のサーカス』より」(1935年)。これもサーカスの楽屋裏であろう。化粧をし、派手な色彩の衣装を身に付けた母親とおぼしき女性が、籠の中で穏やかに眠る赤ん坊を見つめている。その手はあやしているようにも見えるが、母は笑ってはいない。死んだ魚のような冷たい目をしているだけである。鮮やかな色彩もある。籠の中には、すやすやと寝入る赤ん坊もいる。がしかし、そこにキリストはいない。

もちろん、これらの3作品には、そもそもキリストの姿は描かれてはいない。小林先生の言葉を借りれば、「風景画と言っても、ルオーの場合、必ず人々の日常の暮し、それも貧しい辛い営みが、景色のうちに、しっくり組み込まれたものだが、画家の信仰の火が燃え上るにつれて、キリストも時には画面に登場して来るようになる。普通、ルオーの『聖書風景』と呼ばれている構図が、次第にはっきりして来る」(同)

パリ国立美術学校時代の恩師であるギュスターヴ・モローは、ルオーを実の息子の様に可愛がったようで、ルオーに「君は厳粛で簡素、そして本質的に宗教的な芸術が好きで、君のすること全てにその刻印が押されるだろう」と語ったという。その予言はまさに的中し、時間の経過とともにその刻印の跡は、濃くなって行ったのである。

 

そんな「聖書風景」の傑作の一つが、本作である。

表題にある、faubourg、すなわちfau(外の、偽りの)bourg(町)は、ルオーが生まれ育ったパリ近郊のベルヴィル地区が念頭にあったのだろうか。そこは、第二帝政下、人口の急増した都心の家賃高騰により締め出された労働者の町で、当時は「パリのシベリア」とも「黒い郊外」とも呼ばれ、人々から恐れられていたという。

この画は、小林先生の描写によれば、「太い煙突の立った竈に赤い火が静かに燃えて、何か粗末な食べ物が鍋で煮え、薬缶の湯が沸いている。壁には、フライパンが三本、まるで台所の魂が眼を見開いたような様子で懸っている。傍の椅子に、男が一人腰をかけ、横を向いて、考え事をしている」(同)

白い服を着たその男は、キリストのように見えるが、身も心も疲弊しきった徒刑囚のようでもある。もはや逃れられぬ定業、と観念してしまったのであろうか。ひっそりと静まりかえった台所にあるものは、ただ憔悴と絶望のみ。

ルオーの連作銅版画集に、小林先生もお持ちでよく眺めておられた「ミセレーレ」(Miserere(ラテン語で「憐れみたまえ」の意)/坂口注)がある。そこには、近代社会に生きる人々の苦悩、戦争への憤り等を主題とした、深いかなしみや怒りの感情が白と黒のコントラストだけで描かれており、58番目の最後の作品「われらが癒されるのは彼が受けた傷によりてなり」は、磔刑により傷ついたキリストの姿で終わっている。これに比して本作では、キリストの如き人物は確かにあるものの、画中で祈りを捧げる者もいなければ、その前に立つ私にも、彼のために「憐れみたまえ」と祈ることすらさせてはくれない。それ程にまで、ルオーがここに描いたかなしさは、観る者の身体の奥底に、末梢細胞の一つひとつにまで、ゆっくりとゆっくりと沁み入っていくのである。

加えてこの画は、構図としても、人物よりも台所の空間の方が、風景画のように、大きく広く、そして静かに描かれている。そのことによって、観る者が直覚するかなしさは、前述の3作品のように人物を大きく描くよりもむしろ、増幅されるようにも感じた。

今度は画面に、できうる限り近接してみる。ルオーの作品には、絵具が分厚く塗り重ねられ、削られた、あたかも浮彫彫刻のような独特のマティエール(画肌/坂口注)を持つものが多く、本作も概ねそのように描かれている。ただ、よく観ると、その男の顔の部分だけは厚塗りされておらず、ルオーが、細い筆を使って、本作の命となる、男のかなしい表情を濃やかに描き込んだことが見て取れる。その肌理は、前述の3作品に描かれた顔の表情と比べてみても、格段に異なっている。

どうも私は、本作の持つかなしさの上塗りを重ねてきたようだが、とはいえ、一縷の希みはあるように感じた。それは竈に小さく灯っている炎である。その台所には、目立つ食材はあまり見当たらないものの、火は燃え続けている。1871年5月、パリ・コミューン砲撃戦の真っ只中、砲火に包まれる地下倉庫で生まれたルオーにとって、火は業火であると同時に、心の灯明でもあったようだ。

 

ここで、小林先生の文章に戻ろう。先生は、忘れる事が出来ない、という本作との再会を求め、当時の持ち主となっていた小さな料亭を営む女将を尋ね当て、その二階にある座敷に上がり込むと、チャブ台に頬杖をつきながら、この画と再び対峙された。そこで女将が語った「一目見たら、もう駄目だった。どんな無理をしても、手に入れようと心が決まった。大事にしていた日本画もみんな処分して了った」という、小林先生の描写に注目したい。

その女将は、美しい日本画を所持していたのだろう。それらすべてを放下してでも、この画を手に入れたかったのは、一体なぜなのか。一見かなしさに満ちた本作の、どこにそんな究極的な魅力を覚えたのか。私は、会場で画面に向かいながら、そんなことを自分に問うてみた。きっと女将は座敷に上がる客筋に見せたくて他の日本画を手放したのではあるまい。彼女は、毎日この画と、静かに無心に向い合う、そんな時間を大切にしながら暮らしていたのではなかろうか。

ところでルオーは、敬愛する評論家、アンドレ・シュアレスと、37年という長きに渡り多数の文通を続け、それを滋養とし、また命綱として生きてきたと言っても過言ではないと思うが、その中の手紙から一文を引いてみたい。

「この十五年間、友人の多くは社会的地位を占め、よい職に腰を落ち着けましたが、私は一見迷いながらこの年月を過ごしたようです。議論や分析や饒舌によって自己を知るのではなく、苦悩により、苦悩のただ中で自己を知ること、技巧や気取りから遠く離れ、生活により、生活の中で、また自己の全存在をあげての努力と真実の中で自己を知ることです」(ルオーからシュアレスへ、1913年3月3日)

 

あの小料亭の女将は、キリストの姿のない、この台所が描かれた画を、そんな心持ちで毎日眺めていたのではあるまいか。この画こそ、彼女にとって、なくてはならない闇の中の灯台の灯りのようなものだったのではあるまいか。ゴールデンウイーク後半の東京に戻った私は、観光客で混み合う山手線に揺られながら、そんなふうに考えていた。

 

追記

前述の小料亭の女将を小林先生に紹介したのは、先生との親交が深い画廊主、吉井長三氏であった。その二階の座敷に立ち会った氏が、氏の眼を通して見た、その模様が詳しく記されている文章があるので、この機会にぜひお目通し頂きたい(「小林先生と絵」、「小林秀雄全作品」別巻3所収)。

 

その他参考文献

「ルオー=シュアレス往復書簡 ルオーの手紙」
富永惣一・安藤玲子共訳、河出書房新社、1971

「ルオーと風景 パリ、自然、詩情のヴィジョン」
求龍堂、2011
(パナソニック電工汐留ミュージアム主催、同展公式図録兼書籍)

「マティスとルオー 友情の手紙」
ジャクリーヌ・マンク編 後藤新治他訳、みすず書房、2017

(了)