歌劇「フィガロの結婚」を聴いて

「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打」

(「明頭に来れば、明頭に打し、暗頭に来れば、暗頭に打し」)

「臨済録」(勘弁七)に記されている、普化ふけという唐代の奇僧が、街中で鈴を振りながら唱えていた、という禅語がある。私は、十年程前、大阪勤務をしていた頃、京都の南禅僧堂へ定期的に、坐りに行っていた。これは、その時、僧堂の老師から教えられた言葉である。ただし、知識としてではなく、あくまで身体で悟得せよ、との親心であろう。その含意については、「明るい頭が来たら、叩く。暗い頭が来ても、叩く」という、読んで字の如く、という以上のことは、説かれないままとなっていた。

 

それと同じ頃から、毎夏、佐渡裕指揮、兵庫芸術文化センター管弦楽団によるオペラを聴きに行くようになった。最初の演目は、モーツァルトの「魔笛」。そのフィナーレでは、大祭司ザラストロに与えられた試練に耐えた、王子タミーノと夜の女王の娘タミーナ、さらには、鳥刺しパパゲーノとパパゲーナ、という二組が、波乱の末、めでたく結ばれる。それを祝福し、全員で声高らかに歌い上げる場面がある。そこで私は、不覚にも、涙が止まらなくなってしまった。楽器や歌手の口から発した音が、天上から、きらきらと降り注ぐ。私の全身が、その無数の音で、完全に包み込まれてしまったかのような感覚を、今でも鮮やかに覚えている。この世に生かされていることがありがたい、と心の底から感じた。モーツァルトから渡された、目に見えない強い力が、体中に湧いてきた。なぜ、彼の音楽には、ここまで人を虜にする力があるのだろうか、そんな自問も、以来、腹の中で持ち続けてきている。

そして、今夏も同様に、会場のある西宮へ向かった。演目は、あの夏と同じ作曲家、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」。それだけに、期待感も大きく高まっていた。

 

ところで、小林秀雄先生が、オペラも含め、観劇をあまり好まれなかったことは、広く知られている。盟友、河上徹太郎氏との対談でも、氏に「君はオペラ嫌いだね。救えないよ」と言われ、「ほんとうに嫌いなんだよ。僕は大体芝居というものは嫌いだ」と率直に答えている(「美の行脚」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)。音楽は、声楽も含めて、全身で聴き入ることを第一義とされた先生は、「わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕はそれで間違いないと思っている」(「モオツァルト」、同第15集所収)とまで明言されている。

そのことが念頭にあった私は、今回敢えて、普段の演奏会では、音響の観点からむしろ敬遠する、最前列中央の席に着いた。イタリア語上演のため、舞台上の両脇に日本語の字幕が出るが、それも視野に入らないで済む。目線を上にしなければ、オーケストラピットの指揮者や演奏家は目にしても、歌手の歌声も、音声として聴くことに専念できる。オペラは、視覚的にも愉しめるだけに、少し残念ではあったものの、歌手の動きや舞台装置は、努めて見ないようにした。このように、小林先生の教えに従い、すべての音を、純粋に音として、全身で聴くことに徹したのである。

 

Prestoという、速いテンポの指示記号が付いた、有名な序曲の演奏が、軽やかに、先を急ぐかのように始まった。そこから先は、まるでジェットコースターに乗ったように、あっという間の3時間半が過ぎて行った。今回の公演は、事前に丁寧な準備が行われていたことが察せられる、あらゆる点で見事な内容であった。そこであえて、私が最も感じ入ったことを、一語で言うならば、アンサンブルの美しさ、である。共鳴の美、と言い換えてもよい。オーケストラ内での演奏家同士の共鳴は言うまでもなく、歌声とオーケストラ演奏の共鳴。歌手による二重唱、三重唱、そして多重唱。レチタティーヴォ(歌うような会話)とチェンバロ(クラヴサン)の共鳴。このように、ありとあらゆる共鳴が、まさに「一幅の絵を見る様に完成した姿で」(同)次々に現れ、私の体の隅々に、沁み渡っていった。

なかでも、アルマヴィーア伯爵夫人役の並河寿美さんと、スザンナ役の中村恵理さんによるソプラノの二重唱は、声質が似ていることもあり、その共鳴の美しさに、大きく揺り動かされた(それぞれのアリア(独唱)の素晴らしさは、言うまでもない)。さらに、CDで聴いていたら、殆ど聴き逃してしまいそうな、チェンバロの通奏低音の演奏(ケヴィン・マーフィーさん)には、大きく目を見張るものがあった。指揮者、演奏家はもちろん、すべての関係者の方に、「ブラヴィシーモ!」と、改めて敬意を表したい。

 

さて、今回「フィガロの結婚」に推参するにあたっては、作曲家の、当時の心境に少しでも肉薄したいと思い、「モーツァルトの手紙」(岩波文庫、柴田治三郎編訳)を読み込んだ。まずは、モーツァルトのオペラ熱が、十一歳で劇音楽を書いて以降、終始冷めることのなかった点に、興味を惹かれた。手紙には、こういう言葉が踊る。

「ぼくはもう一度オペラを書きたいという何とも言いようのない欲望をもっています」

(1777年)

「オペラを書きたいというぼくの願いをお忘れなく、オペラを書く人はだれでも羨しく思います」(1778年)

そして、彼は、イタリア出身のロレンツォ・ダ・ポンテという作家に出会う。

「私はイタリア・オペラの畑でも、自分の腕前を見せてやりたいものです」(1783年)

「フィガロの結婚」の原作が身分制度への攻撃と見做されたことから、皇帝からの上演許可を得るのに時間を要したものの、二人はめげることなく策を講じ、なんとか許可を得ることができた。

1786年5月、ウィーンの宮廷劇場で無事に初演。以降、好評を重ね、翌年には、妻のコンスタンツェとともに、プラハでの上演に訪れる。

「じっさいここでは『フィーガロ』の話でもちきりで、弾くのも、吹くのも、歌や口笛も、『フィーガロ』ばっかり、『フィーガロ』の他はだれもオペラを観に行かず、明けても暮れても『フィーガロ』『フィーガロ』だ。たしかに、ぼくにとっては大いに名誉だ」

 

一方、本作が大好評を得るに至る、モーツァルトの実生活は必ずしも一筋縄では行かなかった。1778年の母の死以降、失恋、地元ザルツブルク司教との不和と決裂、最愛の父レオポルドとの不和、父の承認を得られない、コンスタンツェとの結婚の強行、長男ライムラントの早世、という出来事が、立て続けに起きる。気持ちの入った本作初演に向けては、作曲に集中したため、生活費が欠乏。知人への度重なる金策依頼の手紙が、驚くほど増えて行った。そういう疾風怒涛の中での、本作初演だったのである。

しかし、本作の成功で、必ずしも生活が楽になったわけではない。上記プラハ上演の年に父が死去。仲良しであった、実姉ナンナルとの不和も始まる。妻は病気がちになり、バーデンで療養。三男、長女、二女も早世。自身の健康も万全ではない。そんな状況で、金策の手紙は、終わる所を知らない。もちろん、自転車操業のような、膨大な量の作曲活動は、死の直前まで同時並行で続いた。

このようにモーツァルトは、実生活もまた、真面目に生きてきた。次々に襲いかかる試練から、決して逃れることなく、むしろ置かれた状況をそのまま受け入れて、不平も言わず、常に前向きに生きてきた。

ここで、小林先生の言葉を引いておきたい。

「不平家とは、自分自身と決して折り合わぬ人種を言うのである。不平家は、折り合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが。(中略)強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るが儘の環境であって、そこに何一つ欠けている処も、不足しているものもありはしない。(中略)命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ」(「モオツァルト」)

 

さて、小林先生が、二十代の頃、大事にしていたモーツァルトの肖像画の写真がある(ヨーゼフ・ランゲ、「クラヴィーアに向かうモーツァルト」国際モーツァルテウム財団所蔵)。私は、演奏会から自宅に戻ると、その肖像画と、久しぶりに、ゆっくりと向き合ってみた。人生経験の豊富に見える老練な男が、チェンバロと覚しきものの前に坐って、一心に何かを見つめている。いや、何か得体の知れぬものに出合い、驚愕に目を見張りつつも、やむをえない、と前向きに受け入れようとする気持ちも、僅かにあるようにも見える。ちなみに小林先生は、この画について、こんな感慨を記されている。

「名付け難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現す事が出来るのだろうか」(同)

 

さらにその画を、無心に眺めていると、こんなことを思った。

人は、年を経るほど、公私を問わない外的環境の変化に、その人生が大きく左右されるものである。「こんなことが起きていいのか……」という、嘆息を漏らさざるをえないような出来事が、一度のみならず、立て続けに起こることすら稀ではない。小林先生も言う。

「人生の浮沈は、まさしく人生の浮沈であって、劇ではない、恐らくモオツァルトにはそう見えた」(同)

それは、この我が身とて、例外ではない。

 

今回私は、オペラ「フィガロの結婚」を、室内楽を集中して聴くかのように、全身を耳と化して聴き入った。そうしてみたことで、モーツァルトの音楽の完成された姿を、美しいと観ずるだけではなく、何か不思議な力で体内が満たされた感じを覚える理由が、少しだけ腑に落ちた気がした。それは、モーツァルトの生身に、直に触れた、とでも形容できるような感覚である。

続けて、思う。演奏会場で次々と繰り出される、美しい「あらゆる共鳴」に、終始耳を奪われていた私は、もしかすると、あの肖像画中のモーツァルトと同じような表情と眼差しをしていたのかもしれない。

 

その瞬間、冒頭の禅語が、私の身体の中で、小林先生の言葉と共鳴した。

 

「明頭来、明頭打、暗頭来、暗頭打」

チリン、と鈴を振りながら、裸形の禅僧が、歩いている。

 

赤いフロックコートを脱ぎ捨てた、裸形の作曲家が、歩いている。

「モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した」(同)

 

 

*参考文献

 「臨済録」(岩波文庫、入矢義高 訳注)

  唐代末期(?-867)の禅師、臨済義玄の言行を弟子の慧然が記したもの。

*参考CD

 MOZART, Le nozze di Figaro

 Erich Kleiber, Winer Philharmoniker,1955

小林秀雄先生に「微妙ということがわかっている。あいつは音楽を聴いているから」と評されたという新潮社の元編集者、齋藤十一氏の「愛聴レコード盤100」の一枚。齋藤氏は「エーリヒ・クライバーの演奏は、一つの理想を達成している」とコメントしている。最近、SACD版も発売された(タワーレコード限定)。

(了)

 

ネヴァ河の流れ
―「大エルミタージュ美術館展」を観て

1936年(昭和11年)の後半、正宗白鳥氏(当時57歳)は、ソビエト連邦(現ロシア)のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を旅していた。この街について正宗氏は、素っ気なく、相手を少し突き放したかのような、氏らしい文体で、こう綴っている。

「レニングラードは、西欧諸国の首都に比して、雄大であり古雅である。モスコーほど現代化されていないで何となく陰気らしいうちにも、前代帝王の貴族的意図が追想され、それを嘲笑し得るほどのプロレタリア文化が、さんぜんたる光を放つのは、遠い将来のように思われる」(「隣邦ロシア」、講談社文芸文庫『世界漫遊随筆抄』)

 

それから約30年、1963年(昭和38年)6月、小林秀雄先生(当時61歳)は、ソ連作家同盟の招きにより、安岡章太郎氏、佐々木基一氏とともに、ソビエト旅行に出発した。汽船、鉄道と乗り継ぎを重ね、極東のナホトカを経てハバロフスクへ。そこからさらに、疲労困憊の状態でモスクワへ向かう機中、先生は、前年に亡くなった正宗氏が、その数か月前に独語するように漏らした「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」という言葉を思い出していた(「ネヴァ河」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第24集所収)。

その後、一行は、レニングラードに到着、「ホテル・ヨーロッパ」に宿泊した。そのときの様子を、安岡氏はこう記している。

「エルミタージュ美術館に出掛ける前夜、通訳のリヴォーヴァさんが、『いよいよエルミタージュですよ、ようく休んで疲れを取って置いてね』という。『わかりました』と佐々木さんが謹厳にこたえる。そんなヤリトリを奥の部屋で聞いていた小林さんは、『なに、エルミタージュ? どうせペテルブルグあたりに来ているのは、大したものじゃなかろうよ』と、甚だ素気ない様子であった」(「悠然として渾然たるネヴァ河」、第5次『小林秀雄全集』内容見本)

しかしその翌朝。安岡氏と佐々木氏の顔は、一気に青ざめることになる。

小林先生が起きて来ないのだ。部屋に様子を見にいくと、そこはモヌケの殻。便所や風呂場にも影は一切ない。宿の鍵小母さんに聞いてみると、「今朝早い時刻に一人で出て行った」という。国家が招いた「招待客」(デリガーツィア)と称される特権的な旅行者であったにも拘わらず、それまでにも予約されていたホテルが勝手にキャンセルされていたり、突然部屋が変更になったりしていたことから、二人は最悪の事態すら想像せざるをえなかった。一体、小林先生に何が起きたのか……。

 

さらにそれから50年、2017年6月の金曜夜、私は、東京の六本木ヒルズにいた。目当ての「大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち」を観る前の心持ちは、前述の小林先生のそれと少し似ていたように思う。

「ロシアの画家による作品は全くなく、女帝エカテリーナ二世が、財力にものを言わせて欧州から買い集めた絵画ばかりでは……」

会場である52階の森アーツギャラリーに入ると、すぐに、派手ではないが優美な衣装を身に纏う、上品で少し誇らしげなエカテリーナ二世が、私を見下ろすように迎えてくれた(ウィギリウス・エクリセン「戴冠式のローブを着たエカテリーナ二世の肖像」)。「やはり……」

しかし、その後に観た多くの作品群を総括するには、この一言で十分であった、「駄作はなかった」。特に古い時代の作品が多い中、良好な保存状態にあることが印象的だった。

 

結果的に、作者の出身国別に分けられた展示室で、最も長居することになったのは、スペインの部屋である。中でも私は、フランシスコ・デ・スルバランの「聖母マリアの少女時代」(1660年頃)の前から離れることができなかった。

ほの暗い中、赤い服を着た少女が、針仕事の手を休めると、天を見つめながら、一心に祈り始めた瞬間。胸の下で丁寧に合された左右の手は、その思いの深さを感じさせる。私はそこに、画家の、その少女に対する汲み尽くし難い深い愛情を感じた。スペイン人のようにも見えるマリアのモデルは、画家の愛娘であったのだろうか。

気づけば、20時の閉館時間が迫っていた。残念ながら、階下へ降りざるを得なかった。私は、正直、もの足りなさを覚えた。もっとエルミタージュを体感したい。駅に向かう道すがら、ドキュメンタリー映画「エルミタージュ美術館 美を守る美術館」(マージー・キンモンス監督、2014年)が上映中であることを思い出した。上映開始は21時。ちょうどいい。そのまま有楽町へ向かうことにした。

 

私は、地下鉄に揺られながら、数年前、ボリショイ劇場芸術総監督を務めたアレクサンドル・ラザレフ指揮、日本フィルハーモニー交響楽団による、ショスタコーヴィチの交響曲第七番「レニングラード」の演奏を聴いて、その生々しく不気味な迫力に、終演後しばらく立ち上がれなかったことを思い出していた。この曲は、作曲家自身が、1941年のナチス・ドイツによる突如の侵攻で始まった「九百日封鎖」に直面し、「ファシズムに対する我々の闘争と、来るべき勝利と、そして私の故郷レニングラードに捧げます」という強い思いを込めて書いたものである。加えて、現地初演が、雨あられの砲撃、餓死、凍死、という極限状況の中、文字通り満身創痍の状態にある当地ラジオ・シンフォニーの演奏家らによって行われていたことも、当時の凄惨な映像や写真とともに、詳しく触れる機会があり、大きく心を動かされたことがあった。

 

映画館に到着し、本編の上映が始まった。私は、先ほど観てきたばかりの作品の多くが、そのように壮絶な戦火を避けるべく、学芸員の手により丁寧に木箱に梱包された上で、ウラル山脈へと送られていたことを、ここで初めて知った。さらには、第一次世界大戦時(1917年)にも、同様にモスクワへの疎開措置が取られており、その直後に、レーニンを指導者とするボルシェビキが、現在は同館の本館となっている「冬宮」を急襲し、あの革命が成し遂げられていたのであった。

この映画は、現館長であるミハイル・ピオトロスキー氏を追うドキュメンタリーでもある。氏は310万点にも及ぶ収蔵品の修復はもちろん、現代美術の展示や共存にも精力的である。私が最も驚いたのは、超現代的なビルにある最新の保管庫で、中央の通路を歩くと、透明の全面ガラスを通じて保管の状況がはっきりと見えるようになっている。館長も、学芸員も声高に語っていたのは、「美術品は、秘蔵するものではなく、公開し続けていかなければならない」ということであった。そこに、政府の管理下で公開が厳しく制限されてきた同館ならではの、強い意思を感じた。「私の使命は、エルミタージュ美術館を世界に開くことです」、そう語る館長によれば、今回の日本巡回展もその流れの一つだという。

私は、同館で大切に取り扱われてきた作品群を直に観て、また、そういう実践を、世代を超えて継続して来たロシアの人達の言葉を聴いて、戦争や革命、そしてイデオロギーというような、表を騒がせてきた事象からはなかなか見えてこない、長い時間をかけて黙々と築き上げられてきた、伝統や歴史に対する敬意や信愛の情のようなもの、そういう精神が、力強く底流してきている様を、強く感じた。

 

再び1963年のレニングラードの朝に戻ろう。ホテルで行方知れずとなった小林先生は、一体どこに行ってしまったのだろうか。

安岡氏によれば、「われわれが狼狽気味に部屋を探していると、『やあ失敬』と先生があらわれた。『朝起きぬけに一人でネヴァ河を見てきた』とおっしゃる。『ネヴァ河ですか』私たちは唖然とした。小林先生の地理勘は甚だ弱くて簡単な道にも直ぐ迷われるからだ」。

そういう安岡氏らの心配をよそに、小林先生はこう言ったという。

「しかしネヴァは、じつに好い河だ、悠然としていて、あれこそロシアそのものだ」

それから一行は、予定通り美術館へ出発した。前夜「大したものじゃなかろうよ」と言っていた小林先生は、実際に館内でどう過ごしたのか。

もう一度安岡氏の筆を借りると、先生は、館内「あちこちの膨大な絵画・彫刻のコレクションの山を駆け回って観た後など、芯から疲れきって、顔色がカチカチの鰹節のように、そそけだって見えたりもしていた」(「危うい記憶」、講談社刊『カーライルの家』)という。

 

それにしても、旅行中、朝は大抵一番遅くまで寝ていたという小林先生であったのに、あの日は敢えて早起きをし、「空は青く晴れ、おおきな濁流であった」ネヴァ河を独り眺めながら、いったい何を思っておられたのだろうか。

その水面に浮かんできたのは、先生が文学者となるにあたって、十九世紀のロシア文学に「大変世話になった」という意味での「ロシヤという恩人の顔」だったのだろうか。なかでも、その作品を読んで「文学に関して、開眼した」という、ドストエフスキーのことだろうか。

それとも、「永い間批評の仕事をして来た者として、本質的な意味合で教えを得た」(「正宗白鳥の作について」、『小林秀雄全作品』別巻2所収)という、敬愛してやまない大先輩、正宗白鳥氏のことだろうか。ちなみに、正宗氏がソビエト連邦を訪れてレニングラードの地に立ったのは1936年の後半であったが、小林先生と正宗氏は、その年の前半、1月から、トルストイの家出問題に端を発したいわゆる「思想と実生活論争」を戦わせていた。

 

いずれにしても、小林先生は、ただ感傷に浸っておられたのではないと思う。そこで、先生の心眼が捉えていたものは、十九世紀のロシアの大文学者達が、ロシアという独特な社会に生まれ落ち、人生如何に生くべきか、という中心動機を背負って黙々と歩いている姿だったのではあるまいか。さらに、その歩みに続くのは、正宗白鳥氏であり、また自分自身でもあると、そう直覚されていたのかもしれない。

 

 *参考文献
  小林秀雄「ソヴェトの旅」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)
  「戦火のシンフォニー」(ひのまどか著、新潮社刊、2014)
  安岡章太郎「邂逅」(『新潮』小林秀雄追悼号、新潮社、1983)
 *参考情報
  大エルミタージュ美術館展 今後の巡回展
   名古屋展:2017年7月1日(土)~9月18日(月・祝)、愛知県美術館
   神戸展:2017年10月3日(火)~2018年1月14日(日)、兵庫県立美術館

(了)

 

「キリストの姿はここにはない」とは?
―「マティスとルオー展」を観て

先のゴールデンウイークに、「マティスとルオー展」を大阪・天王寺のあべのハルカス美術館で観た。実は今年の2月、東京のパナソニック汐留ミュージアムでも観ていたのだが、今回、再びじっくりと相見えるべき作品があった。ジョルジュ・ルオーが、1937年に仕上げた「古びた町外れにて、又は台所」(Au vieux faubourg/La cuisine、以下、「本作」)である。

小林秀雄先生がルオーの画を愛しておられたことは周知の通りである。にも拘わらず、先生がルオーについて書かれた文章は極めて少ない。そんな先生が、「私はそれを忘れる事が出来なかった」として、具体的なエピソードとともに、比較的詳しく書かれているのが本作である(「ルオーのこと」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)。そこで、画中の椅子に腰かけた男を「キリストに違いない」と記されながらも、最後は「画面に向いた私の眼は、キリストの姿はここにはない事を確かめるようであった」と書き終えられていることを踏まえ、池田塾頭から「その言葉を貴方はどう感じるか」という問いを、4月初旬、ともに訪れた松阪の地で頂いた、というのが今回の天王寺訪問の機縁となっていた。

 

さて、会場に入ると、まず私は一つひとつのルオーの画と相向かい、「そこに、キリストはいるか?」と自問しながら、時間をかけて巡って行った。そこで、否、と自答したのが、本作以外では以下の3作品であった。

まずは、「一家の母」(1912年)。乳飲み子を抱いた母親の周りに3人の子どもが寄り添う、寒々しい青色を主調とする小品である。それぞれの表情は判然としない。事情はわからぬが、5人きりで生きていくしかない、という悲壮な覚悟さえ感じる。

次に「曲馬団の娘たち」(1924-25年)。サーカス団の一員である若い女が二人。一人は正面を向き、一人は横を向いている。楽屋裏の出番待ちなのだろうか。表題の言葉の響きとは裏腹に、目は黒く太く塗りつぶされ、娘たちの表情も暗いだけに、感じるのは、乾いた寂しさのみである。左の娘の赤い髪飾りは、むしろ見るに痛々しい。もはや娘たちは静物画の中の死物と化しているようだ。

最後に「眠れ、よい子よ 『流れる星のサーカス』より」(1935年)。これもサーカスの楽屋裏であろう。化粧をし、派手な色彩の衣装を身に付けた母親とおぼしき女性が、籠の中で穏やかに眠る赤ん坊を見つめている。その手はあやしているようにも見えるが、母は笑ってはいない。死んだ魚のような冷たい目をしているだけである。鮮やかな色彩もある。籠の中には、すやすやと寝入る赤ん坊もいる。がしかし、そこにキリストはいない。

もちろん、これらの3作品には、そもそもキリストの姿は描かれてはいない。小林先生の言葉を借りれば、「風景画と言っても、ルオーの場合、必ず人々の日常の暮し、それも貧しい辛い営みが、景色のうちに、しっくり組み込まれたものだが、画家の信仰の火が燃え上るにつれて、キリストも時には画面に登場して来るようになる。普通、ルオーの『聖書風景』と呼ばれている構図が、次第にはっきりして来る」(同)

パリ国立美術学校時代の恩師であるギュスターヴ・モローは、ルオーを実の息子の様に可愛がったようで、ルオーに「君は厳粛で簡素、そして本質的に宗教的な芸術が好きで、君のすること全てにその刻印が押されるだろう」と語ったという。その予言はまさに的中し、時間の経過とともにその刻印の跡は、濃くなって行ったのである。

 

そんな「聖書風景」の傑作の一つが、本作である。

表題にある、faubourg、すなわちfau(外の、偽りの)bourg(町)は、ルオーが生まれ育ったパリ近郊のベルヴィル地区が念頭にあったのだろうか。そこは、第二帝政下、人口の急増した都心の家賃高騰により締め出された労働者の町で、当時は「パリのシベリア」とも「黒い郊外」とも呼ばれ、人々から恐れられていたという。

この画は、小林先生の描写によれば、「太い煙突の立った竈に赤い火が静かに燃えて、何か粗末な食べ物が鍋で煮え、薬缶の湯が沸いている。壁には、フライパンが三本、まるで台所の魂が眼を見開いたような様子で懸っている。傍の椅子に、男が一人腰をかけ、横を向いて、考え事をしている」(同)

白い服を着たその男は、キリストのように見えるが、身も心も疲弊しきった徒刑囚のようでもある。もはや逃れられぬ定業、と観念してしまったのであろうか。ひっそりと静まりかえった台所にあるものは、ただ憔悴と絶望のみ。

ルオーの連作銅版画集に、小林先生もお持ちでよく眺めておられた「ミセレーレ」(Miserere(ラテン語で「憐れみたまえ」の意)/坂口注)がある。そこには、近代社会に生きる人々の苦悩、戦争への憤り等を主題とした、深いかなしみや怒りの感情が白と黒のコントラストだけで描かれており、58番目の最後の作品「われらが癒されるのは彼が受けた傷によりてなり」は、磔刑により傷ついたキリストの姿で終わっている。これに比して本作では、キリストの如き人物は確かにあるものの、画中で祈りを捧げる者もいなければ、その前に立つ私にも、彼のために「憐れみたまえ」と祈ることすらさせてはくれない。それ程にまで、ルオーがここに描いたかなしさは、観る者の身体の奥底に、末梢細胞の一つひとつにまで、ゆっくりとゆっくりと沁み入っていくのである。

加えてこの画は、構図としても、人物よりも台所の空間の方が、風景画のように、大きく広く、そして静かに描かれている。そのことによって、観る者が直覚するかなしさは、前述の3作品のように人物を大きく描くよりもむしろ、増幅されるようにも感じた。

今度は画面に、できうる限り近接してみる。ルオーの作品には、絵具が分厚く塗り重ねられ、削られた、あたかも浮彫彫刻のような独特のマティエール(画肌/坂口注)を持つものが多く、本作も概ねそのように描かれている。ただ、よく観ると、その男の顔の部分だけは厚塗りされておらず、ルオーが、細い筆を使って、本作の命となる、男のかなしい表情を濃やかに描き込んだことが見て取れる。その肌理は、前述の3作品に描かれた顔の表情と比べてみても、格段に異なっている。

どうも私は、本作の持つかなしさの上塗りを重ねてきたようだが、とはいえ、一縷の希みはあるように感じた。それは竈に小さく灯っている炎である。その台所には、目立つ食材はあまり見当たらないものの、火は燃え続けている。1871年5月、パリ・コミューン砲撃戦の真っ只中、砲火に包まれる地下倉庫で生まれたルオーにとって、火は業火であると同時に、心の灯明でもあったようだ。

 

ここで、小林先生の文章に戻ろう。先生は、忘れる事が出来ない、という本作との再会を求め、当時の持ち主となっていた小さな料亭を営む女将を尋ね当て、その二階にある座敷に上がり込むと、チャブ台に頬杖をつきながら、この画と再び対峙された。そこで女将が語った「一目見たら、もう駄目だった。どんな無理をしても、手に入れようと心が決まった。大事にしていた日本画もみんな処分して了った」という、小林先生の描写に注目したい。

その女将は、美しい日本画を所持していたのだろう。それらすべてを放下してでも、この画を手に入れたかったのは、一体なぜなのか。一見かなしさに満ちた本作の、どこにそんな究極的な魅力を覚えたのか。私は、会場で画面に向かいながら、そんなことを自分に問うてみた。きっと女将は座敷に上がる客筋に見せたくて他の日本画を手放したのではあるまい。彼女は、毎日この画と、静かに無心に向い合う、そんな時間を大切にしながら暮らしていたのではなかろうか。

ところでルオーは、敬愛する評論家、アンドレ・シュアレスと、37年という長きに渡り多数の文通を続け、それを滋養とし、また命綱として生きてきたと言っても過言ではないと思うが、その中の手紙から一文を引いてみたい。

「この十五年間、友人の多くは社会的地位を占め、よい職に腰を落ち着けましたが、私は一見迷いながらこの年月を過ごしたようです。議論や分析や饒舌によって自己を知るのではなく、苦悩により、苦悩のただ中で自己を知ること、技巧や気取りから遠く離れ、生活により、生活の中で、また自己の全存在をあげての努力と真実の中で自己を知ることです」(ルオーからシュアレスへ、1913年3月3日)

 

あの小料亭の女将は、キリストの姿のない、この台所が描かれた画を、そんな心持ちで毎日眺めていたのではあるまいか。この画こそ、彼女にとって、なくてはならない闇の中の灯台の灯りのようなものだったのではあるまいか。ゴールデンウイーク後半の東京に戻った私は、観光客で混み合う山手線に揺られながら、そんなふうに考えていた。

 

追記

前述の小料亭の女将を小林先生に紹介したのは、先生との親交が深い画廊主、吉井長三氏であった。その二階の座敷に立ち会った氏が、氏の眼を通して見た、その模様が詳しく記されている文章があるので、この機会にぜひお目通し頂きたい(「小林先生と絵」、「小林秀雄全作品」別巻3所収)。

 

その他参考文献

「ルオー=シュアレス往復書簡 ルオーの手紙」
富永惣一・安藤玲子共訳、河出書房新社、1971

「ルオーと風景 パリ、自然、詩情のヴィジョン」
求龍堂、2011
(パナソニック電工汐留ミュージアム主催、同展公式図録兼書籍)

「マティスとルオー 友情の手紙」
ジャクリーヌ・マンク編 後藤新治他訳、みすず書房、2017

(了)

 

拝啓 ルノワール先生
—梅原龍三郎に息づく師の教え—展を観て

昨秋、梅原龍三郎とルノワールの二人展、「拝啓 ルノワール先生」を、丸の内の三菱一号館美術館で観た。とくに今回は、梅原の数少ない著書の一つである『ルノワルの追憶』(三笠文庫、1952年)を予め読んだ上で臨んだので、とても面白く、その時を過ごした。

ちなみにその書は、梅原の個人日記かと見紛うばかりの率直さで、彼の熱情が冷静に綴られており、日常生活の中でルノワールが漏らした肉声も記されていて、梅原とルノワール、それぞれの人柄と信念を知る上でも貴重な資料だと思われるが、小林秀雄先生は、同書について、「いかに画家とは言え、こんな文学臭のない文章を書く人は稀だ。今日の文学青年が読んだら、ただ呆れるばかりの無邪気さ、と言うかも知れぬ、そんなものである」と記されている(「梅原龍三郎」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)。

このエッセイでは、絵画の専門家ではないが小林先生の作品には永年親しんできた者として、小林先生の作品に幾度となく登場する梅原龍三郎、ルノワールの二人展を私がいかに感じたかということを、『ルノワルの追憶』に残されたルノワールの肉声も引用しつつ、綴ってみることにする。

もともと私は、梅原とルノワールの間に交流があったことは知っていたが、それが、当時二十歳の梅原による、今日いわゆる「アポなし突撃訪問」(1909年)から始まったことは、同書で初めて知る事実であった。その邂逅のシーンはとても印象的であり、当時のルノワールの様子を的確に描写していると思われるので、引用しておきたい。

「私は先生がリウマチザンであることを本で読んで知っていた。然し私はルノワルは二本の松葉杖に引懸ったぼろ服であることを知らなかった。然しぼろ服は荘厳なる首をのせて居た、就中美しく強き眼を持っている。この痛ましい有様はどういう訳か私に一層尊いものに思われた」(原文は旧字体旧仮名づかい、以下同様)

そして、二人は初めての握手を交す。当時68歳になろうとしていたルノワールの手は、リウマチにより「一寸形容するものを知らない奇怪な様に変形され」ていた。私は、別の展覧会で観た、当時のルノワールの映像を思い出した。指を使って絵筆をきちんと保持できないルノワールは、筆を手に結び付け、それを何とも思わぬ様子で、寡黙な職人のようにせっせと画を描き続けていた。

そして、この日、南フランス、カーニュにあるルノワールの家で、梅原の訪問を奥に伝えたのが、ルノワール作品のモデルとしても有名なガブリエルである。会場では、彼女がモデルと思われる小品「バラ色のブラウスを着た女」(1914年頃)も展示されており、その人となりが、匂うように私の身中に伝わってくる、印象深い作品であった。

それから、たまに共にする日常の中で、師ルノワールの教えは続く。

「画を成すものは手ではない眼だ、自然をよく御覧なさい・・・・・・」

「君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補うことの出来るものだが色彩はタンペラマン(気質、性質/坂口注)によるものだ、それがあるのが甚だいい。何んでも手あたり次第に写生せよ、向うをよく見て、五分間を失わずかけ、それが一番早い進歩を与える」

「君は先ず眺めていることは甚だいい。先ず見ることによって解さねばならん」

このように、まずは対象をよく観ることが肝要であることを何度も諭され、そして長所を褒められることが、梅原の大きな自信に繋がっていったことは間違いないものと思われる。

師の教えはさらに続く。ある日の夕食の時、ルノワールは梅原にこう言った。

「皇帝(ナポレオン一世のこと/坂口注)は或る機械の発明者を銃殺した。機械は人から仕事を奪うからである。手を働かせるより、精巧な機械はない、今日の産出のすべての品物が美を欠くのは皆手の働かせ方が足りない故である」

ルノワールは、陶磁器の生産で知られるフランス中南部のリモージュで生まれ、陶器の絵付師として仕事を始めており、父も仕立職人であった。小林先生は、「近代絵画」(同第21集所収)の中で、ルノワールについて、「恐らく彼にとって、陶器の絵つけ師から画家になったという事は、飛躍でもなかったのであり、職人の道は、坦々として芸術家の路に通じていたのである」と記されており、「画道に必要なものは、天才ではなく寧ろ職人である」というルノワールの確信を紹介されている。

梅原自身、訪問時に筆を手にしていない師の姿を見ることが殆どなかったこと、臀部の腫物のため手術を受けたルノワールを見舞った時にも、病室に活けられたそれよりも美しい薔薇の画が、2作品出来ていて驚いた経験を記しているが、彼が、それらの実体験を通じて得たものは、ルノワールの職人性、というような簡単な言葉では片づけることのできない、梅原の身中に、深く底流し続けて行くものであったに違いあるまい。

そして、1913年6月初旬が、梅原の最後の訪問となった。そこで、ルノワールが「名刺代わりとして持って行きなさい」と準備していたものが、「薔薇」(1913以前)という作品である。しかしこの作品は、1919年、ルノワールの訃報を梅原が日本で知った後、フランス渡航費用捻出のため、彼の手を離れることになる。

会場では、ルノワールによる、2点の薔薇の作品、「バラ」と「バラの花束」(共に製作年不詳)が展示されていた。ともに梅原の寄託品であり、生き生きとした美しい薔薇であるが、自ずと目が向かうのは、これまた梅原が用意した、美しい額縁である。それぞれの画と額縁は、まるで一つの作品であるかのように見事に溶け合っている。ここに、梅原の師への深い愛情と、泣く泣く手放さざるを得なかった、前述の作品「薔薇」に対する切ない気持ちを汲み取るのは、過ぎたことであろうか。

さて、気づけば、これまで梅原の作品について一切触れてこなかったので、ここらで触れてみたい。実は私にとって、今回が初めて、一定の規模の梅原作品とじっくり向き合う機会になった。会場では、渡仏前後の、師を意識したとおぼしき作品から、没年に近いころの作品まで展示されていたが、私が、いいなぁ、と感じ入り、その絵の前で長い時間向き合うことになったのは、後年、北京を題材にして描かれた「紫禁城」(1940年)と「天壇遠望」(1942もしくは43年)であった。ともに、手前の風景の奥に緑が広がり、碧い上空には、少し図案化されたようなユーモラスな雲が、ゆったりと泳いでいる。

この作品には、一見したところ、ルノワール的なるものは見当たらない。しかしながら、ゆっくり時間をかけて眺めていると、この作品を描いている時の梅原の心持ちのようなものが、じんわりと伝わってくるのである。北京にいることを愉しんでいる、画を描くことを愉しんでいる、画家という職業を愉しんでいる。

この感覚は、今回展示されたルノワール作品で私が最も心を動かされた「パリスの審判」(1913-14年)を観た時に感じたものと同じものであると直覚した。この作品は、5、6年前となる1908年に描かれた同名作品と並べて展示してあった。旧作と比べてみると、あきらかに鋭さと明瞭さが増している。既にあのように痛ましい指の状態であったにもかかわらず、職人としての手は、そしてその職人の魂は、病に動じることなく、むしろ作品をはっきりと進化させていた。私は、この画をせっせと製作しているルノワールの姿を想像してみた。すると、ルノワールの、声には出さない満ち溢れる喜びを、身体の奥ではっきりと感じることができた。

師の教えというものは、あえて意識せずとも、教えを乞うた者の身体の奥底にしっかりと宿っている。師の教えというものは、見た目にわかりやすい方法論にあるよりも、むしろ師自身の人生との向き合い方、言い換えれば、師が自らの人生をいかに生きるべきかと格闘しているその姿を、目の当たりにしてこそ得られるものではあるまいか。気づけば私は、そう自問していた。

最後は、小林先生の晩年の文章の引用で結びたい。

「梅原さんは、最近、目を傷められ、手術でいろいろ苦労されている様子だが、七十余年間、休む事なく練磨されて来たこの画家の眼が、肉眼であったか心眼であったか、誰が知ろう。モネは肉眼が普通には働かなくなってからあの『睡蓮』を描いたのだが、これに似かよった事が、梅原さんにも起こっているかもしれない。私はひそかにそんな事を考えている」(「梅原龍三郎展」、『小林秀雄全作品』第28集所収)。

 (了)