ト短調と和歌

1756年1月27日は、モオツァルトの誕生日である。その184年後の1940年1月27日に、私の父は生まれた。

 

「モオツァルトとお父さんは、同じ誕生日なんだよ」。嬉しそうに語り、暇さえあると、チェロを奏でている父の姿はあたりまえの日常だった。幼い私にとって、チェロという名前の茶色い大きな怪物はお腹のあたりから滑らかな低い声を鳴らすかと思えば、ギコギコとぎこちない掠れた音を出す不思議な物体だった。その怪物を抱えて体を揺らす父の顔はいつもは見せない独特の顔つきになる。人を寄せつけない空間がそこに生まれる。私は父と遊びたい気持ちを胸にしまっておくしかなかった。

 

20代の頃からサラリーマンで構成される虎ノ門交響楽団に所属していた父は、田舎に住まいを移してからも隔週の練習通いは欠かさなかった。さらに、田舎にも本物の音楽があった方がいいと仲間を見つけて、アルプ弦楽四重奏楽団を立ち上げた。祭りの太鼓と笛の音頭はあっても、クラシック音楽などあまり馴染みのない小さな町である。怪訝な目を向けられながら、しかし、聴衆がたった一人でも構わない、とにかく弾くのが喜びで、「僕は音楽が好き」だった。

 

小学生になると、私は楽譜の譜めくり役になった。「お父さんがウンとうなずいたら譜面をめくるんだよ」と教えられ、五線譜に並んだ音符や拍子を目で追いながら、父だけの神聖な空間に入れてもらえたような気がして嬉しかった。初めての舞台には真っ白いワンピースを着て脇に立ち、演奏が始まると、自分が失敗すれば前へ進もうとする和音が崩れるかも(実際はそんなことはないのだが)と緊張感いっぱいに譜面をめくった。

 

その思い出の曲が、モオツァルトの「ピアノ四重奏曲第1番ト短調」である。ピアノの繊細な音と3つの弦が対等にからみあい、この曲を聴くと、あらゆる感情があふれて涙がこぼれる。そういえば、小林秀雄の「モオツァルト」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)を貫いているのも、ト短調の調べである。「大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニーの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」という文の冒頭には「交響曲第40番ト短調」の楽譜の一節まで書かれている。「文学者がこんな音楽の本を書いているぞ」と教えてくれたのも父である。モオツァルトはト短調の曲を4つ書いていて、小ト短調とも呼ばれる「交響曲第25番」そして「弦楽五重奏曲第4番」と続く。小林秀雄は生前「わたしはヴァイオリンがとても好きだ」と語っていたそうだが、とりわけ、「弦楽五重奏曲第4番ト短調」には心底魂を揺さぶられていた。この名文はあまりにも有名である。

「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、『万葉』の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない」(同上)

 

なぜ、ト短調を聴くと、こんなにも心がはかなく、ほろほろと、うごくのだろうと立ち止まる。短調の音階が人に情趣をもたらし、その情趣に人がこれほどまでに魅かれるというのは、なぜなのか。

 

私がト短調を聴いて涙がこぼれるのは、まさに、若き父の夢が現実との狭間で思い出されて胸がつまるからである。じつは、田舎に居を移したのは、当時恋人だった母の父が急逝して、四姉妹の長女であった母は婿養子を迎えて家業を継がねばならなくなった。父の「僕は音楽が好きだ」の根柢には、「かなし」が鳴っていたのである。

 

ト短調の交響曲について、小林秀雄は書いている。

「僕は、その頃、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。それは、巧みな絵ではないが、美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。モオツァルトは、大きな眼を一杯に見開いて、少しうつ向きになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。彼は、画家が眼の前にいる事など、全く忘れてしまっているに違いない。二重瞼の大きな眼は何にも見てはいない。世界はとうに消えている。ある巨きな悩みがあり、彼の心は、それで一杯になっている。眼も口も何んの用もなさぬ。彼は一切を耳に賭けて待っている。耳は動物の耳の様に動いているかも知れぬ。が、頭髪に隠れて見えぬ。ト短調シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生れたものに間違いはない、僕はそう信じた。何んという沢山な悩みが、何んという単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致という様な尋常な言葉では、言い現し難いものがある。全く相異る二つの精神状態の殆ど奇蹟の様な合一が行われている様に見える。名付け難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現す事が出来るのだろうか。それが即ちモオツァルトという天才が追い求めた対象の深さとか純粋さとかいうものなのだろうか。ほんとうに悲しい音楽とは、こういうものであろうと僕は思った」

この考えは、短調の音階が人に情趣をもたらし、その情趣に人がこれほどまでに魅かれるのはなぜなのか、という音楽の最大の不思議のひとつに答えるものではないだろうか。

 

そんなことを考えるようになったのも、山の上の家で、自分が和歌を詠むようになったからである。ある塾生の「もののあはれを知るには、どうしたらいいですか?」という単刀直入な質問に対して、「それは、歌を詠むことです」と即答された池田雅延塾頭は「一日一首詠んで、千本ノックならぬ千首をめざしなさい」と言われた。半信半疑のまま、和歌と短歌の違いもわからず、詠みはじめて八〇〇首近くにはなっただろうか。教科書代わりの「古今和歌集」はボロボロである。

 

自分が心に思うことを古語の世界に浸り歌に詠む、あるいは、本歌取りを通じて「万葉」や平安の古人の感性や思考にふれていく。その行為はもしかしたら、父がモオツァルトの曲を弾いていたことと似ているのではないかと思う。

 

本居宣長は「あしわけ小舟」で「只心の欲するとほりによむ、これ歌の本然なり」と歌は心のありのままに詠むべし、と諭すとともに、「ただ古き歌をよくよくみならふべし」という。その心に本づき、「物のあはれにたへぬ時のわざ」とは歌であり楽器であると言えるなら、古人や作曲家のふりに倣うことはどちらも「もののあはれを知る」行為といえるだろう。

 

ト短調と和歌。モオツァルトと父。

私にとってすべてが互いに響きあう。そのいちばん濃い重なりに存在するのが小林秀雄である。いずれも、私という人間はいかに生きるのか、という問いを私に突きつけ続けているように感じている。

 

(了)

 

「古事記」と物のあはれ

なぜ、「古事記」は誕生したのだろうか。池田塾の門を叩き、ずっしりと重みのある『小林秀雄全作品』第27・28集の「本居宣長」のページを恐る恐るめくりながら古人の言葉に耳をすませてみようと心を決めたときに、最初に私の関心事となったのはそのことであった。「世の初め」とはなんだろう。漠然と、とてつもない妄想に包まれながら、初めてみる本居宣長の言葉を追えば追うほどその思いは深まっていった。村々の由来にどんな神がいたのか、和訓の発明はいかなるものなのか、文化の曙とはどういうことか。「どこに行きつくのか、楽しみですよ」と池田雅延塾頭がにやりと目を細めて仰った姿を今でもはっきり覚えている。それから、6年が経つ。

 

「本居宣長」の第30章には「古事記」の誕生した背景が詳しく書かれている。私はおよそ1300年も前の時代に何度も吸い込まれていくのだが、さて、その時代にその立場であれば、誰でもが「古事記」の撰録を志しただろうかと当時を想像してみる。稗田阿礼に古語の暗誦を命じるという形で「古えの言語を失わぬ事を主とした」、その天武天皇の内なる意識の表れに、私はもっと近づいてみたいと。

その入口の扉ではないだろうかと思われる一文の前で私は立ち止まった。「歴史家としての天皇の『哀しみ』は、本質的に歌人の感受性から発していた」(同章)。これはどういうことだろう。天武天皇が詠歌の達人として自然に対する感情表現が豊かであったとは単純に読めない。わざわざ、歴史家としての天皇と、歌人としての天皇の感受性という二つのことが同時に言及されている。ここに、歴史と歌のあいだには何か共通する連なりのようなものが潜んでいるのではないかと私は予感した。

 

そもそも、天皇の『哀しみ』とは何であったろうか。当時、知識人たちのあいだに「口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕らえられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了うという、苦しい意識が目覚める。どうしたらよいか」。漢字に熟練すればするほど、漢字は日本語を書くために作られた文字ではないという意識が磨がれ、日本語に関する、日本人の最初の反省が「古事記」を書かせたという。そのような苦しい意識を受けて、天武天皇の『哀しみ』について、小林秀雄は次のように伝えている。「書伝えの失は、上代のわが国の国民が強いられた、宿命的な言語経験に基づいていた。宣長に言わせれば、『そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、漢文章に牽れて、本の語は漸クに違ひもてゆく故に、如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり』という事であった」。

 

当時の背景として、壬申の乱を収束させ、新国家の構想を打ち出さねばならなかった天武天皇の統治者としての意識の他に、「古語」が滅びかねず、それが失われれば「古の実のありさま」も一緒に失われるという哀しみのこころをうちに深められていたことに「古事記」誕生の本質があることを知る。そして、自国の言葉の伝統的な姿の目覚めを感じていた人々の心を共有され、その国語意識が、天武天皇の修史の着想の中核をなしていたことには何度でも注目しておきたいと思う。

 

宣長は、そのような歴史家として歌人としての天皇の『哀しみ』をどのように心のうちに迎え入れていったのだろうか。

 

「源氏物語」を読み、「もののあはれを知る」という道を得た宣長は、それまで誰も読めなかった「古事記」を解読して「自然の神道」を明らめ、「歌の事」を「道の事」へ発展させたことを小林秀雄は教えてくれている。『全作品』第23集「考えるヒント(上)」に収められている「本居宣長——『物のあはれ』の説について」に詳しいが、そこには『あしわけ小舟』を引用して、「吾邦の大道と云ときは、自然の神道あり、これ也、自然の神道は、天地開闢神代よりある所の道なり、今の世に神道者など云ものゝ所謂神道は、これにこと也、さて和歌は、鬱情をはらし、思をのべ、四時のありさまを形容するの大道と云ときはよし、吾国の大道とはいはれじ」と記され、宣長ははっきりと、歌の大道は吾邦の大道ではないと区別していることがわかる。

 

宣長は、若年の頃から、「神書といふすぢの物」に関心を持っていた、そのことは、「本居宣長」第5章にすでに書かれている。「人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。『夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ』、そう考えている。従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼義自ら備るという状態があったのも当然な事である」。

 

「古事記伝」のめざすところは、もともと、「自然の神道」という吾邦の大道であったのだ。歌の大道ではなかった。その神道は、いわゆる現在の宗教者がいう神道とは異なるということも明らかにしている。ただ、二つの別の道であっても、歌は「もとより我邦自然の歌詠なれば、自然の神道の中をはなるゝにはあらず」とも言っているのである。ここに、歴史と歌のあいだに共通して連なるものが何か潜んでいるのではないかという私の予感に対して、宣長は「もののあはれを知る心」の働きは続いていると応えてくれているのではないかと感じられる。

 

「宣長が抱いたのは、復古主義、上代主義への憧れではない、それは一種の自然哲学への想いであった」と小林秀雄は強調している。それは既に在るのだとして、「無数の人々が、長い間、事に当たり、物を尋ねて、素朴に問い、素朴に答えられたと信じた跡があるのだ。これを『吾邦の大道と云ときは、自然の神道あり』と宣長は考えたのである。而も、誰もこの跡を明らめた者はないではないか。誰も、この原本に、先入主を捨て、『物のあはれを知る心』だけで近付こうとした人はないではないか」という強い口調は、「源氏物語」で「もののあはれを知る」という歌の道で得た心の営みが、のちに、歴史の行く道は即ち言辞の行く道であるという徹底した思想へ宣長を導いていったことをも示唆しているように私には思える。

 

宣長は、「古事記伝」を完成させた寛政十年九月の夜、次の一首を詠んでいる。

「古事のふみをらよめば いにしへの てぶり ことゝひ 聞見るごとし」

 

「古事記」という「古事のふみ」に記されている「古事」とは何か。それは、過去に起った単なる出来事ではなく、古人によって生きられ、演じられた出来事であると言う。古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみるという事であり、それが自分の現在の関心のうちに蘇って自ずから新しい意味を帯びるとき、それが「古へを明らめる」という事であるという。言い換えれば、「それは、人間経験の多様性を、どこまで己の内部に再生して、これを味う事が出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう」と続けられている。

 

「源氏物語」の注釈書である「紫文要領」には「目に見るにつけ、耳に聞くにつけ、身に触るるにつけて、その万の事を心に味へて、その万の事の心をわが心にわきまへ知る、これ、事の心を知るなり、物の心を知るなり、物の哀れを知るなり」と書かれていることを、ここで、私は想起する。やはり、歌の大道と自然の神道という二つの道には「もののあはれを知る心」の働きが続いていて、「歌の事」から「道の事」へ発展したことを教えられる。

 

「古事記」が誕生したときには、「もののあはれを知る」という言葉も「道」という言葉もなかったが、天武天皇は、人間経験の多様性を己れの内部に再生してこれを味う事に照らし合わせてみるならば、まさに、情をわきまえた歴史家として、その心を備えた人だったのではないだろうか。

(了)

 

やまとだましひを知る

からごころ、さかしら心を捨てる。山の上の家にて、大きな難題に挑んだ帰り道、正月で賑わう鶴岡八幡宮を訪れ、「美心守」を頂いた。そこには、御神紋の鶴丸を施した小さな鏡がついている。美心が映るそうだ。ご祈願物とはいえ、質問に挑んだばかりの私は、どんなふうに我が心は映るのだろう、からごころやさかしら心を捨てられたか、そんなことを思いながら、恐る恐る鏡を覗き、自問自答の時間を思い出していた。

 

小林秀雄『本居宣長』第43章で、「もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず素膚にして戦ひて、たちまち敵のために手を負ふがごとく、かならずからごころに落ち入るべし」という、『うひ山ぶみ』から引用された一文を読んだとき、私は、まるで血しぶきが飛び散るかのような表現に一瞬たじろいだ。しかし、目を凝らして、二度三度と文字を追うと、ある想像と大きな問いが浮かんできた。

 

ここには、宣長の、生身の人間としての経験が吐露されている。神の御典をよむ、すなわち、「古事記」を解くには、素直で安らかと観ずる態度を基本にせよとしてきたにもかかわらず、なぜか、戦場に赴くときの物々しい身構えに例えている。この落差はいったい何だろうと驚いた。甲冑を着る、とは、たいへん激しいものの言い方だ。難物を攻略するための、甲冑にあたるものとはいったい何なのか。それが「此身の固め」の奥に隠れているのではないかと、つよい好奇心をそそられた。

 

つぎに、なぜ、小林秀雄は『うひ山ぶみ』からこの一節を引用したのだろうと疑問が湧いてきた。宣長の経験そのものを伝えようとしているのか、あるいは、からごころの手強き存在に注意せよと促しているのか。私には、からごころに向きあわんとする宣長の内なる努力にしっかり学べ、と諭しているように思われた。私は、宣長のひどい痛手を負った姿を想像して、なんとしても「此身の固め」の正体を突きとめたいと気持ちを高ぶらせていった。

 

「此身の固め」とは、いったい、何ものなのか。

 

―「此身の固め」とは、古伝えの趣や姿を心眼に描きだす想像の力であり、物語の謎めいた性質の魅力を保つ意識を持つことではないか。

 

―「此身の固め」とは、神代の物語の「あやしさ」から目を逸らさず、つねに、古人の心ばえに依って立ち、自らの「神しき」経験とできるかを問い続けることではないか。

 

―「此身の固め」とは、直覚と想像の力を礎にした甲冑の喩えであり、その戦わんとした大敵はからごころという名の、宣長の我執をさすのではないか。

 

私は、拙い自答を繰り返した。しかし、どれも、しっくりこない。違和感があるのも当然で、想像や問いを固めるという日本語の表現はない。固めるならば、それは意志や考えであるはずだ。そもそも、私自身の「さかしら心」によって眼が曇っているのではないだろうか。気がつけば、自分の「我執」にずるずると引き摺られていた。

 

『本居宣長』第37章に次のようなくだりがある。「この、我執に根差す意欲の目指すところは、感慨を捨て去った実行にある。意欲を引っ提げた自我の目指すところは、現実を対象化し、合理化して、これを支配するにある。その眼には、当然、己れの意図や関心に基づいて、計算出来る世界しか映じてはいない。当人は、それと気付かぬものだが。宣長が考えるのは、そういう自我が、事物と人情との間に介入して来て、両者の本来の関係を妨げるという事である。これは、宣長の思想の決定的な性質であって、学者の『つとめ』は道を『行ふ』にはなく、道を『考へ明らめる』にあるという、『うひ山ぶみ』で強調されている思想にしても、本はと言えば、其処に発している」

 

自分は学者ではなく実行者でありたいなどと子供染みた言い訳をしても始まらない。実行者であるほど、計算出来る世界しか見えなくなる、事物との本来の関係を失ってしまいかねない状況はいかに危険であるかを認識しなければならない。私は、はっとした。

 

「あと一日だけ、待ってほしい」。既に約束の期日となっていたが、そう塾頭に願い出て、ひたすら、事物にまっすぐに向かうことを試みた。

 

―「此身の固め」とは、「凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知るべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきには非ず」(『本居宣長』・第40章)という宣長の確固たる主張のことではないだろうか。つまり、「すべての物語は、みな実のことであり、現代を生きる我々の知識ばかりでその謎を解くことはできない。そのようなさかしら心で考えるべきではない」という宣長の確たる持論を頭におくことではないか。私は、宣長の学問の中心部に含まれる「難点」に行き着いた。

 

しかし、その真意は、原文『うひ山ぶみ』にしっかり記されていたのである。「初学の輩、まづ此漢意を清く除き去りて、やまとたましひを堅固くすべきことは、たとへばもののふの戦場におもむくに、まづ具足をよくし、身をかためて立ち出づるがごとし」という一文が、小林秀雄の引用した「もし此身の固めをよくせずして、神の御典をよむときは、甲冑をも着ず素膚にして戦ひて、たちまち敵のために手を負ふがごとく、かならずからごころに落ち入るべし」という宣長の経験の裏からすっと顔を出した。

 

なんと、「此身の固め」の正体とは、「やまとたましひを堅固くする」ことであったのだ。

 

「さかしらだちて物を説く」ことを自らの戒めとして、宣長の味わった容易ならぬ経験という事物に直に行ってみると、「やまとたましひ」の言葉に出会い、宣長の心構えを知った。

 

そして、私は、もうひとつ、学んだことがある。それは、宣長の困難はどこにあったのかということだ。宣長は上田秋成らの論難をさかしら心やからごころと突き放して一切拒否したが、問題は相手ではない。物語の謎を解くという幻のうちに自ら陥らず、どこまでも古人の心ばえを我が心とする一筋道をひたすら行く、自問自答を繰り返す、その態度から内なる努力の緊張が想像される。

 

小林秀雄は、宣長の努力の様子をこのように伝えている。「ここで、又、附言して置きたくなったが、『古事記』の表現を寓言と解するのは、『古事記』から逃げる事だ、『古事記』を全然読まぬに等しいという考えを、宣長は持ち、これを、『古事記伝』で、実行に移したわけだが、むしろ、この彼の考えは、『古意もて釈』くという事を実行してみて味った困難、それをどう切り抜けるかという苦労の故に、徹底した、確固たる考えに育ったと言った方がよかろう」(同上・第38章)

 

その確固たる考えこそ、「此身の固め」、すなわち、「やまとたましひを堅固くする」ことではないだろうか。この考えは、はじめから目的とされたのではなく、「古意をもて釈」くことを実行して味わった困難や苦労の経験のうえに育っていった、その過程を知ることはさらに重要と思われる。

 

小林秀雄に学び始めて6年が経つ。今回の学びを、私は身体で覚えておきたいと思う。一切の「さかしら」を捨てるとはどういう事かという宣長の味わった経験を追うことで得られた体験であるからだ。まるで宣長の心の一端がすっと入り込んだかのような感覚、これが「生きた心が生きた心に触れる」ということなのであろうか。宣長の学問の中心部で起こっていた、もう一つの出来事を知ることができたと思う。

 

鶴岡八幡宮で頂いた「美心守」の小さな鏡に、どんな我が心を映すことができるか、私も宣長の努力にまねぼうと思う。

(了)

 

いにしへびとに会ひにゆく

おほらかに蓮の葉ゆれて紅の 咲くうれしさは古代もかくやと

(二〇一七年八月一日 薬師池公園にて)

 

二千年以上前といわれる古代の蓮の実が千葉で発掘されたのは五十一年前。翌年に発芽・開花したものを分けてもらい、沼地に移植したのがいまの町田薬師池公園の大賀ハスである。今年も悠久の時を越えて大勢の人の目を喜ばせてくれる。私の背丈以上に高い茎を伸ばし、私の顔の四倍くらいはある大きな立葉。池に青々と浮いている蓮葉から可憐な花がほころび、その足元は泥池。沼とは知らず、もっと愛でようと近くに寄ったはいいが泥にまみれ濡れた人がどれだけいるだろうと心のなかでクスッと笑う。

大きな池の見わたすかぎり広がる蓮葉と、ふっくらと咲く花の美しさにみとれながら、その昔に生きた古人はどのようにこの蓮を愛でたのだろうと想像をめぐらす。

 

    蓮の露をみて詠める

はちす葉のにごりに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく

(僧正遍照 古今和歌集 夏 一六五)

 

はちす咲くあたりの風のかほりあひて 心のみづを澄ます池かな

(藤原定家 拾遺愚草員外 三四)

 

学校の歴史の時間にのみ耳にしたことのある僧正遍照や藤原定家であるが、詠まれた歌を口ずさむと、情感にあふれたひとりの人間がそこにいて対話をしているような嬉しさに包まれる。まるで、語り手と聞き手のように。むろん私という聞き手はいたって未熟なのであるが、いつか語り手が詠う古語とも談話する奇跡まで起こりうるのかもしれないと胸が高鳴る。私は、ふと思う。もし、池田塾で和歌を詠んでいなかったら、二千年以上前という数字を単にカウントして古代の蓮を蘇らせた技術に感嘆するだけだったかもしれない。いや、それもすごいことだが、よもや、二千年前、千年前に生きた古人がどんなふうに蓮の美しさをとらえていたのか、話しかけ、その心を共有する感動に出会うことなど想像さえしなかっただろう。

小林秀雄のいう、「現在が過去を支え、過去が現在に生きるという伝統の基本性質」(『本居宣長』第二十一章)の風景とはこういうことなのだろうか。蓮の姿となって、それが目の前にあらわれたように思われた。「古語を得んとする」一と筋の道をいった本居宣長は、それを「あたかも『物の味を、みづからなめて、しれるがごと』き親しい関係を古語との間に取り結ぶことである」(同上第二十四章)と言った。それらを味わうにはまだまだ鍛錬が必要であるが、詠歌をはじめてから、少なくとも、古語は、私にとって、化石でも死物でもなくなった。なにも分からず仲間とともに始めてから四年が経つが、夜空を仰いで月影のあかりに照らされたとき、露をおく花弁が震えるとき、会えぬ人を恋い焦がれるとき、胸がはちきれそうなほど悲しいとき、古人はどんなふうに表現するだろう、心の揺れるさまをどんな言葉でとらえるのだろうと想像をめぐらし、古語を探す、選ぶ。そして、声にだしてみる、話しかける。詠んでみる、歌う。それは、私にとって、古人の日常を訪ねて会いに行く、という行為に近い。

 

頓阿の『草庵集』に一首だけ、蓮の葉を詠んだ歌をみつけた。

 

白露のたまればがてに打なびき 村雨凉し池の蓮葉はちすば

(草庵集 夏 三八七)

 

先の二首の歌と比べて、どうだろう。素朴な描写で涼しさを醸しだす夏の歌である。詠歌を始めるにはこの歌集からと薦められ、なるほど、宣長の註解書序文にはこうある。「此ふみかけるさま、言葉をかざらず、今の世のいやしげなるをも、あまたまじへつ。こは、ものよみしらぬわらはべまで、聞とりやすかれとて也」(『草庵集玉箒』)。つまり、子どもまで対象にしてわかりやすく歌の道を開こうというのである。さらに、宣長は、その後、「遠き代の言の葉の、くれなゐ深き心ばへを、やすくちかく、手染の色に、うつして見するも、もはら、このめがねのたとひに、かなへらぬ物をや」とし、「古今集」を江戸期の口語に訳した『古今集遠鏡』を出した。和歌を、雅の世界から世俗のものへと広げたのである。すごいことである。一部の人だけに独占されていた和歌の姿をどんな人にも親しみやすいものに変えたのだ。子どもにもどんな人にも、歌の道を開こうとする思想がみえる。宣長は、古語の「語」を「語り」としてとらえていたのではないだろうか。だからこそ、言いざまや勢いまで訳し、すべての人の声をよみがえらせた、私にはそう思われる。

 

そもそも、なぜ私は、歌を詠んでみようと思ったのかを書き留めておく。「もののあはれを知る」ためというもっともな理由はさておき、それだけではない。次の言葉に、ガツンと頭を殴られるような衝撃とショックを受けたのである。「詠歌ノ第一義ハ、心ヲシズメテ、妄念ヲヤムルニアリ」(『本居宣長』第二十二章)。えっ、感動を詠むのではないのか。しかも、それまで心を震わせていたものは妄念であるというのか。それは、心の逆上状態であるとまで池田塾頭は解説された。今度は、小林秀雄が続ける。「『情ハ自然也』と言っただけでは足りない。『自然と求めずして在る』心は、そのままでは、『心錯乱シテ、妄念キソヒオコ』る状態を抜けられるものではない。言葉という『手がかり』がなければ、心は心で、どう始末のつけようもないものだ。思う心を『ほどよく言ふ』では言い足りない。一歩すすめて、乱れる心を『しづむ』『すます』『定むる』と言うべきだ。『石上私淑言』では、『むねにせまるかなしさを、はらす』と、同じ意味合で『はらす』という言葉が使われている。悲しみを詠むとは、悲しみを晴らす事だ。悲しみが反省され、見定められなければ、悲しみは晴れまい。言葉の『手がかり』がなくて、どうしてそれが人間に出来よう」

 

政治の世界に入る前、アジアはじめ世界各地で国際協力の仕事をしていた時代から心揺さぶられる多くの事実や出会いの経験を得てきた私にとって、「『歌の実』という表現性を得ない『実の心』の単なる事実性などは、敢えて『妄念』とか『錯乱した心』とか呼ぶのがよろしい」と突き放す宣長の言葉がどれほど大きな衝撃であったか想像いただけるだろうか。その直後に、私は、三十一文字の世界の固い門をドンドンドンと叩いていた。花鳥風月とは程遠いのである。そして、四年後の今日、もしかしたら、こういうことなのかもしれないと思えた事実とそのときの詠歌を紹介して、終わりにしたい。

 

あふことの心かなはぬものとなり そぼつ涙は波のまにまに

暁にさすや光のひとすぢを 師のまなざしと受けていだかむ

(二〇一七年七月十五日 海にて)

 

つい最近のことであるが、七月、ノーベル平和賞受賞者である中国文学者の劉暁波氏が「せめて自由の国で死にたい」という言葉を残して亡くなった。天安門事件のとき、若き学生であった私の夫の師でもある劉氏の死は、我が家にも大きな悲しみとやりばのない憤りをもたらした。火葬さえも許されず、海に散骨されたニュースを知った晩、いちばん近い海まで車を走らせ、浜辺でろうそくを灯し数本の花で写真を囲みお通夜をひっそりと執り行った。叫び、泣き、弔う自由がこの国にはあることにほっとしながら、月影もなく静かにうねる大海原を前にして詠んだ歌である。言葉や作法の未熟さはお許しいただきたい。ただ、ただ、胸が張り裂けそうな悲しみと憤り、表現する自由の許されない祖国への夫の渇望、国を越えて一つの命さえも救うことのできない隣人としての悔しさ、そうしたあふれでる思いをせめて歌にして心を鎮めた。詠歌という経験に、このとき、私は心から感謝した。

モオツァルトの「レクイエム」の音が、波のなかへ消えていった。

(了)