自分の中に入れるということ

広島での池田塾が2015年10月から始まりました。その後、年に2回開催されています。開催がない期間に、広島の塾生で勉強会を開けたらとの声があがり、2017年5月から素読塾がスタートしました。2ヶ月に1回のペースで、小林秀雄の「美を求める心」をみんなで2回ほど素読するという時間。1回に約40分かかるので、休憩をはさんで約2時間の勉強会です。「素読」というものは生まれて初めての経験でした。

 

今までの私の人生で、何か新しいことを始める時は、その動機として、まずは何らかの情報を得るなどして「これは面白そうだ」「このことは人生で何かの役に立ったりためになるに違いない」とある程度確信を持って、意欲的に踏み込むことが常でしたが、この素読に関しては全く違っていました。むしろ「これをやってどうなるのだろう」「ただ声に出して文章を読むだけで、自分にどのような変化が起こるだろう」と、全く見当がつきませんでした。ただただ、小林秀雄の教えにより、鎌倉の池田塾の塾生たちもされているということ、そして池田塾頭の勧めなら間違いないだろうという、そのことを信じて、とにかくまずはやってみて何かを感じてみようといった気持ちでした。

 

実際やってみて、まず気づいたのは、自分の集中力のなさです。リーダーの人が一定の文章を読んで、それに続いてみんなも同じところを読むわけですが、最初は頭に入ってくるのに、途中から別のことを考えてしまっていたり、また自分がリーダーになった時は、どこで文章を区切ろうか、間違えずに読めるだろうかなどと、これまた内容とはまったく関係のないことを考えている時間があるのです。ぐっと内容に入っていけている部分もあるにはあるのですが、気持ちが離れている時間も確実にあり、また、その箇所が毎回変わるのも不思議です。

 

素読塾は現在(2017年12月)4回目を数え、「美を求める心」を8回素読しました。集中が途切れる自分を、毎回こんな調子で本当にいいのか ? と、情けなくも感じていたころ、久しぶりにこれを黙読してみました。

まず、読書のスタイルとして普通に「黙読」に慣れている私としては、黙読のほうが断然早く読めてその分集中できるし、内容もきちんと自分の中に入ってきます。

 

しかし、その、自分の中への入り方が、今まで素読してきたことによって、より深くしっかりと入ってくるような実感が確かにありました。また、素読会のときのメンバーの声や自分の声が耳に聞こえてくるような気がして、それらのことにとても驚いたのです。

 

そこで、ふと思い出したのは、私が子供の頃に始めたバレーボールです。最初は全く面白味のない単純な基本練習の繰り返しでした。しかし、学年が上がって徐々に試合に出られるようになると、急にプレーが形になったり応用もできるようになっていて、我ながら驚きつつも、バレーが楽しくなった。この経験と、素読に数回とはいえ取り組んでからの黙読で、突然頭にぐいぐい入ってきた感じは、何か似ている気がしました。

そうしてみると、今までその意味をよく見出せずにいた素読は、スポーツに置き換えると、大切な基礎・基本の練習と同じようなものなのかなと思いました。野球のバッティングで言えば素振りです。しっかりした技術を身につけるには、正しい基本の型を、何も考えずにとにかく反復することで自分の中に叩き込む。これが素読の意味するところなのかと思いました。頁数にしてわずか10頁半の「美を求める心」は、黙読で一気に集中して読むことはできますが、「とても良い文章だった ! 感動した !」とそのときは思っても、数ヶ月、数年経ったら、自分の中にその感動はほとんど残っていないかもしれない。けれども、根気よく一心不乱に素読をしていけば、確かな形となって残っていくのではと思いました。

 

また、これも私のバレーボールの話になりますが、高校時代のバレー部の顧問の先生(恩師)が、合宿中のミーティングで「忘却曲線」という言葉についての話をして下さったことがあります。「繰り返し練習して身につけた技術は、君らがいつかバレーをやめた時、ピーク時と比べると落ちてはしまうが、ある一定の技術は、やめてブランクが開いたとしてもしっかり残る。それが忘却曲線だよ」と、黒板に座標軸を書き、そこに、高数値のところからやや急な角度で落ちたあと、ゼロにはならずに一定の値を保ったまま水平に伸びる曲線を描いてみせて下さいました。素読も、それと同じようなことなのかもしれないと、恩師の言葉を思い出しました。

 

小林秀雄の「美を求める心」の文章の中に、「『美を求める心』という大きな課題に対して、私は、小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験が根本だ、と考えているからです。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集p.251)「絵や音楽や詩の姿とは、そういう意味の姿です。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語っているのです」(同第21集p.252)と書かれています。まさに、「美を求める心」という作品そのものが、この文章にとてもよくあてはまっていると感じました。この姿を「創り出した」小林秀雄が、この姿によって「人生いかに生きるべきか」を私たち読者に語りかけてくれている。そのことに向き合うには、文中にもあるように、知識や学問により頭だけで考えるのではなく、作品そのものの姿を感ずる能力を養い育てなくてはならない。そのために、素読を続けていくことには大きな意味があると思いました。

素読に取り組み、自分の中にこの作品がより深く入っていき、その上で、池田塾in広島での塾頭の講義を聴くならば、学びの質も全く違う良いものになってくるのではと、期待しているところです。

(了)