「知ると感ずるとが同じであるような」

『本居宣長』十四章で、小林秀雄は、宣長が「物のあはれ」という言葉をどのように読み、どのように使っていたか、その具体的な現場に読者を誘う。

「阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれ共、其意は、みな同じ事にて、見る物、きく事、なすわざにふれて、ココロの深く感ずることをいふ也。俗には、ただ悲哀をのみ、あはれと心得たれ共、さにあらず、すべてうれし共、おかし共、たのし共、かなしとも、こひし共、情に感ずる事は、みな阿波礼也。されば、おもしろき事、おかしき事などをも、あはれといへることおほし」(「石上私淑言」巻一)

「哀」の字を当てられ、特に悲哀の意に使われるようになったのは、「うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」二の巻)だという。人の「情」は、生活がなに不自由なく順調に流れているときには行為のうちに解消されていくもので、「感ずること深から」ざるものだが、たとえば恋愛をして、肝腎な所で思い通りにならない他者に出逢ったり、離別の苦しみにぶつかると、「心は心を見るように促される。心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう」。「逢みての後のこころにくらぶればむかしはものをおもはざりけり」、という古い歌は、決して古びない人の情のありさまを見事に言い表している。

 

「宣長は、『あはれ、あはれ』で暮した歌人ではなく、『あはれといふ物』を考え詰めた学者である。(…)理を怖れ、情に逃げた人ではない。彼は、もうこの先きは考えられぬという処まで、徹底的に考える事の出来た強い知性の持主であった」(「考えるという事」小林秀雄全作品24所収)。宣長は、「あはれ」という言葉の用例を吟味しながら、あはれの情趣ではなく、そこに浮び上がる人の情のウゴきや発生をありのままに捉えようとした。「彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった」。宣長ははっきり書いている。「此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)読む人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし」(「紫文要領」巻下)。

 

それでは、「もののあはれを」という言葉を宣長はどのように記しているのか。

「目に見るにつけ、耳にきくにつけ、身にふるるにつけて、其よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまへしる、是事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしる也、其中にも、猶くはしくわけていはば、わきまへしる所は、物の心、事の心をしるといふもの也、わきまへしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあはれ也」(「紫文要領」巻上)。

この引用に続けて、小林秀雄はこう書いている。「説明は明瞭を欠いているようだが、彼の言おうとするところを感得するのは、難かしくはあるまい。明らかに、彼は、知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識が説きたいのである。知る事と感ずる事とが、ここで混同されているわけではない」。

宣長の文を一見すれば、たしかに「あじは」う、「わきまへしる」といった言葉を挟みつつ、「しる」と「感ずる」が錯綜し、混同されて用いられているように見える。例えば「紫文要領」には、他にも「知る」と「感じる」がそれぞれの文脈に応じて同じ意味合いで使われているような箇所が散見される。しかし宣長の文章の含みを、五官を働かせ、迎えに行くように読む小林秀雄は、それを混同とは読まず、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」に結ぶ。概念の上での混同などよりも、二つのコトが具体的に働いている場で何が起きているのかを捉えることが肝要なのだ。宣長の文から「全的な認識」を摑み出す過程には読みの飛躍があるが、小林秀雄は決して外部から何かを持ち込もうとしているのではない。むしろ宣長の、あるいは自分自身の内側に潜り込んで、人の情のありよう、つくられかた(『本居宣長』では「人性の基本的構造」とも呼ばれている)の原初に遡って考えようとする態度がある。―――しかし、「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」とは、いったいどのような認識を現しているのだろうか。

 

小林秀雄はすぐにそれを、「知る」と「感じる」が分かれる以前の「子供の認識」と言い換え、知ると感じるとが一体となって働く子供らしい認識を忘れた「大人びた認識」と較べている(「子供の認識」については池田塾頭の本誌連載第七回で精しく吟味されている)。さらに「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」とも呼んでいる。

「よろずの事にふれて、おのずから心がウゴくという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれてウゴく、事に直接に、親密にウゴく、その充実した、生きたココロの働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損なわず保持して行くことが難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある。それが、宣長が考えていた、『物のあはれを知る』という『道』なのである」(*)

「全的な認識力」の内実は、『宣長』本文でこれ以上詳述されることはない。感受と判断が一体となっているような認識は、そもそも本性上、言葉による分析に適さない。敢えて書こうとすれば、たとえば「門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた」(「感想」全作品別巻1所収)と「童話」を書くことになるだろうし、説明しようとすれば曖昧なものにならざるを得ない。しかし、言語化の困難は人間の経験の根柢にこのような認識が働いているということを決して否定しない。「無私で自足した基本的な経験」を保持していくのが難しいのは、生活の必要から、また事物の反省的判断によって、僕らは普段みずからの経験を「合理的経験」にすり替えてしまうからだ。万人と同じように知って整理できるような経験ばかりを僕らはしてはいないが、習い覚えた知識や習慣によって、経験をある鋳型に当て嵌めて整えてしまう。そういう分別を超えたところで、宣長は人の情のありようを考えている。「よろづの事にふれて、ウゴく人のココロ」を、宣長はやすらかに眺めたのだが、現代に生きる我々にはなかなかそれが見えない。物語を夢中になって愛読する玉鬘の心を忘れず、あやしさを恐れず神話に向かう宣長の心底に、常にこのような「ココロ」が躍動している様を、小林秀雄はありありと観ていたのではないだろうか。

 

宣長は、俊成の和歌や「源氏物語」に結晶された、表現としての「あはれ」の吟味を通じて、「情」について考えた。いつも曖昧で、不安定に動いている情のありようを、しかし表現の「めでたさ」によってまざまざと直知できる仕方で彼に示したのは、歌や物語だった。

「宣長が、『情』と書き『こころ』と読ませる時、『心性』のうちの一領域としての『情』が考えられていたわけではない。彼の『情』についての思索は、歌や物語のうちから『あはれ』という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の『ココロ』と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった。これは、何度でも考え直していい事なのである」(十五章)。情は生活の中に解消されない感慨として欲から離れ、自主的な意識の世界を形成する。事にふれ、情が深く感いたとき、認識はさらに深まり、深まった認識はさらに深い感動をもたらす。そうした喜びはおのずから表現へと向かう。表現としてかたちを与えられてはじめて、情は眼前に明瞭な「姿」として現れてくる。「情」は「とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがた」きものだが、表現として結晶した「情」は、決して曖昧なものではない。「源氏」という虚構の物語の表現の「めでたさ」が、日常生活では不安定なものとして常に揺れ動いている「情」のありようを、読むものに一挙に、まざまざと示すということがある。「彼(宣長)は、啓示されたがままに、これに逆らわず、極めて自然に考えたのである。即ち、『物語』を『そらごと』と断ずる、不毛な考え方を、遅疑なく捨てて、『人の情のあるやう』が、直かに心眼に映じて来る道が、所謂『そらごと』によって、現に開かれているとは何故か、という、豊かな考え方を取り上げた」(十五章)。

宣長の「もののあはれを知る」についての説を、具体的な表現を離れて、抽象的な理屈として解けると考えるのは間違いである。実際、小林秀雄も「欲」と「情」、「まめなる」と「あだなる」といった表現を対照させつつ、宣長の言葉から注意深く離れないように、なだらかに筆を進めている。これは、「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」(二章)という言葉が語っている通り、『本居宣長』全体を貫く記述のスタイルであり、読者はこの思索の流れに添って読み進めることではじめて、平易なだけに含みが多い宣長の文章にじっくり向き合い、単なる学説やその解釈の集積としてではなく、一つの有機的な、また融通無碍な精神の像として宣長と交わることができる。また、それはひたすら原文に即してその意を明らめようとする宣長自身の学問の在りようにも叶う態度である。

しかし、今回は「知ると感ずるとが同じであるような、全的な認識」という、『本居宣長』本文では決して論としては書かれていない片言にこだわって自問自答を行なった。それは、宣長の言葉遣いから「全的な認識」を摑みだす小林秀雄の手つきには、『本居宣長』を読み進める上で、また『本居宣長』の紙背で働いている小林秀雄の後年の考えを窺う上で、重要な態度が現れていると思われるからだ。この考えを十分に論ずる紙幅も準備もいまはないが、宣長が「経験は理にさきんずる事を確信した思想家であって、この事は、彼の思想を理解する上で、極めて大切な事だ」(「本居宣長-『物のあはれ』の説について」全作品23所収)と小林秀雄が書くとき、「経験」という言葉の射程は一般に考えるよりも遙かに深く広い、という事は言える。

「科学的経験」に置き換えられる以前の、「日常尋常な経験」を切り捨てずに考えること。神話であれ歴史であれ、人間が物語ってきたあらゆることどもの根柢に、そのような経験から育った「素朴な認識力としての想像力」が働いているのを忘れないこと。柳田国男の布川での「異常心理」を語る言葉を取り上げて、「ここには、自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度が現れている。自分の経験した異常な直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です」(「信ずることと知ること」全作品26所収)と語るとき、「科学以前」を生きる山人や古代人の経験や語りを重んずる二人の先人の姿は、小林秀雄の裡で確かに共鳴していたように見える。

 

 

(*)「事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働き」や、「分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力」といった言葉遣いから、自ずから思い出されたベルクソンの文章を、『本居宣長』を共に読む読者の参考に供しておきたい。小林秀雄は、『本居宣長』本文の中では一言もベルクソンに言及していないが、「哲学者の全集を読んだのはベルグソンだけ」(「人間の建設」全作品25所収)と語られ、また「感想」(『本居宣長』連載の二年前まで五年に亘って書き継がれ、中絶した)の連載を通じて、改めて肉体化されたベルクソンの思想は、彼が「人性の基本構造」を考えるとき常にその骨法を成しているように見える。次に引用するのは、ベルクソンが自ら「私が哲学者に推奨すべきものと信ずる方法」について述べた論文と講演を集めた、と語る『思想と動くもの』に収載された、「Introduction à la métaphysique(形而上学入門)」の冒頭部分である(岩波文庫の河野與一訳を参照した)。

 

「哲学の定義と絶対の意味をそれぞれ比較すると、哲学者のあいだに、一見相違があるにもかかわらず、物を知るのに非常に違った二つの見方を区別する点ではぴったり合っていることに気がつく。第一の知り方はその物のまわりを回ることであり、第二の知り方はその物のなかに入ることである。第一の知り方は人の立つ視点と表現の際に使う記号に依存する。第二の知り方は視点には関わりなく記号にも依らない。第一の認識は相対にとどまり、第二の認識はそれが可能な場合は絶対に到達すると言える。

たとえば空間のなかに一つの物質が運動しているとする。私はその運動を眺める視点が動いているか動いていないかによって別々の知覚をもつ。私がその運動を関係づける座標や基準点の系に従って、すなわち私がその運動を飜訳するのに使う記号に従って、違う言い方をする。この二つの理由から、私はこの運動を相対的と名づける。前の場合も後の場合も私はその物の外に身を置いている。ところが絶対運動という時には、私はその運動体に内面的なところ、いわば気分を認め、私はその気分に同感し想像の力でその気分のなかに入りこむのである。その場合、その物体が動いているか動いていないか、動く場合はどのように動くかによって、私の感じは違ってくる。私の感ずることは、私がその物体のなかにいるのであるからそれに対してとる視点には依存しないし、元のものを把握するためにあらゆる飜訳を断念しているのであるから飜訳に使う記号にも依存しない。つまりその運動は外から、いわば私の方からではなく、内から、運動のなかで、そのまま捉えるのである。そうすれば私は絶対を捉えたことになる。

また、小説の登場人物がいて、人が私に彼のおこなう情事について語るとしよう。小説家は好きなだけその特徴の数をふやし、その主人公にものを言わせたり行動させたりすることができる。しかし、そうしてみても、私が一瞬間その人物と一致する際に感ずる単純で不可分な意識には匹敵しない。その際、泉から流れるように行動も身ぶりも言葉も自然に流れてくるように思われよう。それはもはやその人物について私がもっている観念に付けくわわって、どこまでもその観念を豊富にしながら、しかも結局それを充たすところまでいかないような属性というものではなくなる。人物はいっぺんに全体として与えられ、それを明らかにしていく無数の事件は、その観念に付けくわわってそれを豊富にしていくのではなく、逆にその観念から汲み上げられながら、しかもその本質を汲みつくしたり貧しくしたりすることがないように思われる。その人物について人が私に語るすべての事は、人物に対する視点を供給する。その人物の描写に使われるすべての特徴は、私がすでに知っている人や物との比較によってしか私にそれを知らせることはできないから、多かれ少なかれ記号的に表すための符号シーニュにすぎない。してみると、記号や視点は私を人物の外に置き、その人物について、ほかの人物との共通な点、その人物に固有に属していない点を与えるのである。ところがその人物の固有な点、その本質を成している点は、定義上内的なものであるから外から認めることはできないし、ほかのすべてのものと共通な尺度がないから、記号によって言い表すことができない。描写、記述、分析によるかぎり、私はここで相対のうちにとどまる。ただ人物そのものとの一致が私に絶対を与える。

(中略)

その結果、絶対はのうちにしか与えられず、ほかのすべてはの領分に入ることになる。私がここで直観と呼ぶのは、対象の内部に身を移すためののことで、それによってわれわれはその物の独特な、したがって表現のできないところと一致するのである。ところが、分析というはたらきは、対象を既知の、すなわちその対象とほかの物とに共通な要素に帰するものである。つまり分析とは一つの物をその物でないものと照らし合わせて表現することになる。してみると、分析は飜訳、記号による説明、次々にとった視点からする表現であって、それらの視点から今研究している新しい対象とすでに知っているつもりのほかの対象との接触を記述するのである。分析は、そのまわりを回っているほか仕方がない対象を抱きしめようとして永遠に満たされない欲求をもちながら、いつまでも不十分な表現を十分にするために限りなく視点の数をふやし、いつまでも不完全な飜訳を完全な飜訳にするためにさまざまな記号を使っていく。そこで分析は無限に続く。しかし直観は、もしも可能だとすれば、単純な行為である」。

徂徠から宣長へ受け継がれていく「物」の学問について書かれた『本居宣長』33章(小林秀雄全作品28集)の次の文章を併せて見ておきたい。「物を以てする学問の方法は、物に習熟して、物と合体する事である。物の内部に入込んで、その物に固有な性質と一致する事を目指す道だ。理を以てする教えとなると、その理解は、物と共感し一致する確実性には、到底達し得ない。物の周りを取りかこむ観察の観点を、どんなに増やしても、従ってこれに因る分析的な記述的な言語が、どんなに精しくなっても、習熟の末、おのずから自得する者の安心は得られない」。「情」や「物」をめぐる小林秀雄の思索の要には、単なる学説の引き写しなどではなく、真に肉体化され、応用されているベルクソンの態度がある。『本居宣長』を書き終えたあと、江藤淳との対談(「『本居宣長』をめぐって」全作品28集所収)でやや唐突に語られた宣長とベルクソンの「本質的なアナロジー」を解く鍵が、恐らくここに秘められている。

 

(了)

 

言葉がその身に宿すもの

『本居宣長』十章の終わりに、こういう一文がある。

“私達は、しようと思えば、「海」を埋めて「山」とする事は出来ようが、「海」という一片の言葉すら、思い出して「山」と言う事は出来ないのだ”。

この、一見奇妙なたとえ話に目が留まったのは、「歴史」という言葉の感触を新たにしようと、『宣長』を読み返していたときだった。鎌倉の塾では、『本居宣長』は「言葉」と「歴史」と「道」の“三位一体”によって織り成される作品である、という塾頭のお考えに基づき、それぞれの言葉を一年ごとのキーワードとして取り上げることになっている。昨年の「言葉」に続き、今年主題となったのが「歴史」だった。そこで僕は、「歴史」を道案内のコンパスにしつつ、ふたたび『宣長』山への登頂を試みていた。そうしたら、今まで見過ごしていた小径が、思ったより広い奥行きを持っていることを発見した、というわけだ。

冒頭の一文には、この大著で扱われている「歴史」という言葉を考えるためのヒントがある。そしてそれは、僕らが通念として持っている「歴史」についての考えを、塗り替えてしまうようなものを孕んでいる。

 

小林秀雄は一つの言葉を、いわゆる辞書的意味を超えて使っていることがしばしばある。誰しも日々の暮らしのなかで、蓄積されてひとところに収斂した公共的な言葉の“意味”に、色を付けたり、体重を載せたりして、自分なりに使い熟しているものだが、小林秀雄の場合は、大事な言葉であればあるほど、一語の中に濃密な思索が込められており、うっかりおざなりな“意味”を充てて読み飛ばしていると、とんでもない隘路に迷いこむ恐れがある(ちなみに、池田塾頭はこうして熟成された言葉を取り上げる「小林秀雄の辞書」という講座を開講している。本誌「入塾案内」のページを参照されたい)。

宣長が歌語の中から拾い上げ、『源氏物語』体験を溢れんばかりに盛り付けて使った「もののあはれを知る」という言葉が、『源氏』の読みや身近なものの感じ方に全く新しい回路を拓いたように、小林秀雄の言葉には、何かを認識するときの解像度を上げ、また“当たり前”をとことん掘り下げることによって、自分と対象の輪郭を二つながらにはっきりさせてくれるような効用がある。けれども、そういう言葉の恩恵に浴するには、置かれた文の流れに耳を澄まし、言葉が読む者を自らの内に招き入れてくれるのをじっと待たなくてはならない。

 

冒頭の文章を、少し前の箇所から改めて引いてみよう。

“徂徠に言わせれば、「辞ハ事トナラフ」(「答屈景山書」)、言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている「事実」も「事」も「物」も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。各人によって、思い出す上手下手はあるだろう。しかし、気儘勝手に思い出す事は、誰にも出来はしない。私達は、しようと思えば、「海」を埋めて「山」とする事は出来ようが、「海」という一片の言葉すら、思い出して「山」という事は出来ないのだ”。(以下、引用は特に断りのない限り『本居宣長』十章より)

ご覧いただいた通り、この文章は直接には江戸の儒学者・荻生徂徠の学問に触れた箇所で書かれている。徂徠は、『本居宣長』という思想劇においてかなり重要な役回りを務める人物のひとりである。宣長という、『源氏物語』や『古事記』など、日本の古典を学問の主な対象とし、日本人の裡なる“からごころ”を警戒した人物を描くドラマで、『論語』をはじめとする中国の儒書を読み抜いた徂徠が大役を務めるとはいかなることかと、我々素人は考えるが、さにあらず。小林秀雄の言葉を借りれば、宣長は、“徂徠の見解の、言わば最後の一つ手前のものまでは、悉く採ってこれをわが物とした”。二人は、学問の態度において深く通じるものを持っていたのである。それを、宣長に私淑した吉川幸次郎は“言語をもって事実を伝達する手段としてのみ見ず、言語そのものを、人間の事実とする思考”と表現した(「文弱の価値」)。

 

「辞ハ事ト嫺フ」。コトバコトと親しみ連なっている。古語は、古人の生きた体験をその身に刻んでいるのだ。言葉は意味を超えた含みを持っていて、含みから切り離して清潔な記号を得ることは誰にもできない。そういう風に考えるとき、歴史というものは客観的な「事実」の集積である、という根深い思いこみが揺らぐことになる。徂徠の「歴史」は、今日の僕らが歴史という言葉でイメージするものとはずいぶん異なっている。

僕らは、やっぱりどこかで「歴史」というものを他人事として考えているのではないだろうか。つまり、“私”などというものとはまったく関係のない遺跡や遺物、古い歴史書といった「事実」があって、それらを一定の方法で整理し、上手に並べれば、どこかにある「完全な歴史」が再現できる、というように。そういう考えからいくと、いわゆる歴史資料というものは、どこかにある「完全な歴史」へ至るための通路ということになる。文章そのものは「事実」を確定するための道具にすぎず、それが済めばもう用はない、ということに。

しかし、本当にそうだろうか。そもそも歴史を記すものたちは、膨大な歴史資料のなかから、限られた「歴史的事実」を選びだして編纂し、また多くの語彙の中から特定の言葉を選んで書き記す。歴史という映像は、記録者の心を通して屈折した光線によって結ばれている。ほんとうは、外的な法則に従って機械的に「事実」を操作するのではなく、生きた心の働きがなければ歴史というものはないのだ。歴史とは決して単なる事実の集積ではない。歴史を知ろうとするものは、書き残された言葉などの遺物をできるだけ集め、そこから彼らがいかに生きたかを再構成しようとする。そうすると、彼らが生きた経験や、そこから紡がれた思想を、現在の自分の心のうちで甦らせなければならない。『本居宣長』連載中の講演「文学の雑感」(新潮CD「小林秀雄講演」第巻)で、小林秀雄は次のように言っている。

“歴史は決して自然ではない…現代ではこの点の混同が非常に多いのです。僕らは生物として、肉体的には随分自然を背負っています。しかし、眠くなった時に寝たり、食いたい時に食ったりすることは、歴史の主題にはならない。それは自然のことだからです、だから、本当の歴史家は、研究そのものが常に人間の思想、人間の精神に向けられます”。

またこうも言う。

“歴史は決して出来事の連続ではありません。出来事を調べるのは科学です。けれども、歴史家は人間が出来事をどういう風に経験したか、その出来事にどのような意味あいを認めてきたかという、人間の精神なり、思想なりを扱うのです。歴史過程はいつでも精神の過程です。だから、言葉とつながっているのです。言葉のないところに歴史はないのです”。

徂徠の「歴史」とは、まさに「古人の道」、古人がいかに生きたか、生きるべきと考えたかということであり、それは古書に記された言葉に、言葉というものにこそ現われている、と彼は考えた。

“徂徠が学問の上で、実際に当面したものが、「文章」という実体、彼に言わせれば、「文辞」という「事実」、或は「物」であった。彼は言う。「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少も雑え不申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下)”。

すべて学問というものは文章に尽きている。「古人の道」は書籍にあり、書籍は文章だ。よく文章を体得して、(しかしあくまで)書籍のままにして、我意を差し挟まなければ、古人の心というものは明らかだ。言葉を重視する徂徠の態度がよく表れた一文である。しかし宣長は、さらに一歩進んでこう言う。

“抑意(ココロ)と事(コト)と言(コトバ)とは、みな相カナへる物にして…すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、フミはその記せる言辞(コトバ)ぞ主には有ける”。(『古事記伝』一之巻、古記典等総論より)

「意」と「事」と「言」とは、みな相称うものだとは、ずいぶん思い切った言い方だ。文章という主観を交えた曖昧なものから、客観的な歴史事実を確定する、というような考えとは、やはり随分違っている。彼らにとって歴史と言葉は決して離すことのできないものだった。「文章という実体」を、実証科学的な方法で物品並みに扱うことはできない。

 

「思い出すという心法のないところに歴史はない」。他人事として、単なる事実の集積としてではいけない、常に現在の自分の心を介して思い出そうとしないところに歴史はない。そのとき甦る像は、しかし「文章という実体」を前にしている以上、決してたんに恣意的なものではない。たとえば「海」という(言葉が指し示す)自然的事実は、人為や経年によって全く別のものになってしまうけれども、「海という言葉」から記されたものを想像しようとする僕らの心の動きは、言葉が持つその実体としての手応えを無視して空想に耽ることはできない。古い言葉、今はもう使われなくなってしまったり、まったく意味が変わってしまったりした、解読の難しい碑文のような言葉を前にして、しかし徂徠や宣長はそれを、決して自分と無縁な対象としては扱わなかった。あくまで、聴き取られるべき古人の声として、こちらから安易な理解を押しつけてはならない、確かな姿を備えた遺言として、受け取ろうとした。その手応えを、合理的観察の対象として歴史を捉えようとしたときにはいとも容易く抜け落ちてしまうそれを、彼らはけっして軽視しなかった。

言葉によって伝達された事実を知ることだけではなく、事実をどのように伝えるかという言葉の姿を、古人の息吹を伝えるものとして重視すること。言葉を、単なる意味伝達の記号としてではなく、「一種の器物の様に」(「ガリア戦記」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)扱うこと。ここには、歴史と事実と言葉とに亘る、いまも色褪せることのない一つの態度がある。

(了)

 

編集後記

“わきまへ知るところは物の心・事の心を知るといふものなり、わきまへ知りて、その品にしたがひて、感ずるところが、物の哀れなり。たとへばいみじくめでたき桜の盛りに咲きたるを見て、めでたき花と見るは、物の心を知るなり。めでたき花といふことをわきまへ知りて、さてさてめでたき花かなと思ふが、感ずるなり。これすなはち物の哀れなり”(「紫文要領」、新潮日本古典集成『本居宣長集』125頁)。

物事の「心」を弁え、その「品」に従って感じる、ということが「もののあはれを知る」ということであるならば、それは「もののあはれ」という言葉がふつう解されているような、単に感傷的な心の動きとはかなり違った人間の認識のありかたを表していることになる。「めでたき花」のような出来事に出会ったとき、その「花」を丁寧に、あるがままに眺め、備えている性質に逆らわず認識し、その在りように応じて感じるという態度。この道は、一方では主観や客観という言葉をめぐる哲学上の大問題に通じているが、一方では僕らが日々をいかに過ごすかという平生の心がけに開かれてもいる。今回集まった原稿を一望したとき、どれも陰に陽に「もののあはれを知る」を主題としているように見えたため、まずは感興をしたためた。

 

今号にも多彩な原稿が寄せられた。岡野弘彦氏の講演会の模様を、氏の「姿」との出会いのドラマとして描きだした後藤康子さん。「あだなる」という言葉との比較を通じて「もののあはれを知る」を考察する植田敦子さん。大人と子供、太陽と月という巧みな対照、比喩を用いつつ、『源氏物語』の浮舟をめぐる意欲的な読みを示した謝羽さん。蓮の花を通じて古人の心を想う歌詠みの心の動きを活写した櫛渕万里さん。「フィガロの結婚」をあえて器楽曲のように、「全身を耳と化して」聴くことでモーツァルトに接近しようとする坂口慶樹さん。それぞれの音調トーンをお愉しみいただきたい。

 

異なる流れを持つ二つの大河を無理に繋げるようなことは控えなければならないが、池田塾頭が連載稿で、「もののあはれ」という言葉が孕むものを通り一遍の定義で済ませることなく、深く広く追い求めた宣長が、遂には「うしろみのかたのもののあはれ」という『源氏』の飛躍的な“読み”に至った過程を注視しているその同じ号で、杉本圭司さんが「批評トハ無私ヲ得ントスル道デアル」という小林秀雄の言葉を取り上げていることに巡り合わせの妙を感じた。一見したところ正反対にも感じられかねないこの二つの態度が、『本居宣長』という作品のうちで、また小林秀雄という生きた個性のうちで、如何に結び合うのか。さらに熟読玩味を重ねたい。

 

編集後記

校了作業も終盤に差しかかり、さて集まった原稿を眺め渡してみると、それぞれの相貌がたいへん個性的なことに毎号驚く。これだけ様々な味わいの言葉が並ぶのは、もちろん同人たちの多士済々ゆえなので、みなが奇を衒っているからというわけではないだろう。むやみに誇示される個性は得てして退屈なものだ。この多彩は恐らく、小林秀雄の遺した言葉と向き合うということが、最後には「君は君自身でい給え」と忠告されることになる、そういう事情によるのだろう。こんなに辛く、こんなに愉しいことはまたとない。今号も、著者たちの幸福な苦闘の結果をお楽しみいただければと思う。

 

多士済々と書いたが、年齢も性別も、まことに多様な人々が「小林秀雄に学ぶ塾」には集っている。それは今号の原稿を読んでいただければ瞭然である。かつて小林秀雄の講演を生で聴いた体験を書きとめ、氏の訊き上手を想う冨部久さん。ご自身の家庭を通じて「もののあはれ」を考える安達直樹さん。大学での仏文学研究を省みつつ、読むということへの気付きを記す飯塚陽子さん。歌を「詠む」歓びと、数学や物理を楽しむ歓びは「同種」だという村上哲さん。青春の読書体験を「驚天動地」の一場面とともに思い返す松本潔さん。自らの美の体験から「まごころ」を希求する森郁子さん。それぞれに全く異なった、暮らしという土壌から、さまざまな収穫が持ち寄られる。そして、池田塾頭と杉本圭司さんの研ぎ澄まされた連載が続いている。Webとは言え、雑誌という媒体の魅力を存分に味わっていただけるはずだ。

 

安達直樹さんが引用されている、『古事記伝』の宣長の言葉が深く印象に残った。

「すべても、言を以て伝ふるものなれば、はその言辞には有ける」。言っていることは平明だが、安達さんも書かれている通り、このことを徹底して考え、読み書きの上で実践していこうとすれば、随分奥行きのある一文であり、いかにも宣長らしい言葉でもある。すでにどうしようもなく与えられてしまっている、当たり前のものごとを、徹底的に翫味する。考えるということの変わらないイロハを、この文章に改めて教えられたような気がする。

 

先日たまたま野球中継を点けると、画面左下に“SPV”という文字があり、投手が球を投げ込むたびに、文字の横に常に何かの数値が表示されていた。何だろうと思っていると、回転数を表すのだと解説がすぐに教えてくれた。曰く「これまで“球にノビがある”などと言っていたものを、数値によって可視化することが可能になったわけです」。なるほど、かつて野村克也や古田敦也が目指したデータ野球は、科学技術の進展によって更にその精度を上げつつあるらしい。しかし、数値化などされる前から、確かに“ノビがある”とか“キレがある”という言葉はあったのだ、と思っていると、先ほどのアナウンサーがこう首を傾げた。「今のは良い球に見えましたが、SPVの数値は余り揮いませんね」。いかにも不思議そうな調子であった。数値に見ることを任せるというのは、避けがたい現代の傾向であるらしい。

(了)

 

読むことの手応え

同じ本を時間をかけて繰り返し読む、ということを、この塾に入るまであまりしてこなかった。

「小林秀雄に学ぶ塾」が始まった六年前、僕は大学生になったばかりで、一読しておかねばならない本は古今東西に溢れているように思えた。巷には次から次へ最新の知識が供給されていた。身近なデジタル機器の発達は情報の飛び交う速度をさらに上げ、言葉は最短経路で情報を伝達できるような、できるだけ平易で誤解を生まない記号としての役割だけを求められているようだった。

知らず識らず、そのような速さに馴らされていたのかもしれない。僕は追われるようにして、新たな知識を得ることに汲々としていた。眼は不安げに活字の上を滑り、読むことの手応えはますます喪われていくようだった。

 

小林秀雄『本居宣長』の第五章に、言葉に向き合う宣長の態度を“文学者の味読”と表現しているくだりがある。

さりげなく遣われている言葉なので、とにかく内容を把握しようと一読したときはなんとなく読み過ごしていた。しかし、この塾で、本文の熟視を求められ、繰り返し文章の起伏を辿っているうち、言葉の方から語りかけてくるように、“文学者の味読”という活字が目に焼き付いた。この表現が孕んでいるもののうちに、小林秀雄が描こうとした宣長の肖像の大事な輪郭線がある。のみならず、小林秀雄は、この宣長への評言によって、己を語っている。そんな直観に捉えられた。―しかし、焦ってはならない。ここから、自分の中にある出来合いの概念などを引っぱり出して、この言葉を解釈しようとすれば、それは途端に空想の戯れになってしまい、結局いまの自分が持っている観念を文章に押し付けて一丁上がり、と済ませてしまうことになる。言葉に教わる、ということがない。まずは、解釈に逸る心をぐっと堪え、この短い一語がどのようなニュアンスで用いられているか、それを丹念に追いかけなければならない。

“文学者の味読”とは、一体どんな態度を指した言葉なのだろうか。この表現は、直接的には、『論語』「先進篇」への宣長の読み筋を指して用いられている。「先進篇第十一」にある孔子と弟子たちの逸話を、若き日の宣長はどう読んだのか。これを精確にとらえるため、“儒学者の解釈”と対置するようにして、宣長の“文学者の味読”を言うのである。逸話とは、こういう話である(以下、引用参照は特に断りのないかぎり第五章から)。

晩年、不遇の時代を過ごす孔子は、弟子たちに問いかける。君たちはいつも世に顧みられないことを嘆いているが、もし世間に認められるような事になったら、何を行なうか。弟子たちはさまざまな政治的理想を語るが、曾晳そうせきという弟子だけが、応えなかった。孔子に促され、自分は他の三人とは全く異なった考えを持っている、と言い、こう答えた。「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、(川の名前)ニ浴シ、舞雩ブウニ風シ(雨乞の祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。季節に相応しく新調した衣服を身にまとい、伴を連れ、川遊びをして風を愉しみ、詩を吟詠することが私の望みだ、と。孔子は、溜息をついて、私は彼と同感だ、と言った。

『論語』のテクストから矛盾のない理論を抽き出し、世の中を理解していこうと考える当時の儒家たちは、曾晳の「浴沂詠帰」という返答を、どのように解釈し、どのように自分たちの学問体系のなかに位置付けていけばよいかに、頭を悩ませていた。しかし、宣長はそんな儒者たちの思考の枠組みに頓着しない。「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ニ在リ。孔子ノ意、スナハチ亦、此レニ在リテ、而シテ彼ニアラズ」。孔子の語った政治的思想は措き、彼が独りの人間として楽しむところは、儒者たちが頭を悩ませている政治的理想のような抽象的なものではなく、「浴沂詠帰」の側にある。孔子という人は、学者たちが堅苦しく定義しようとする「聖人」とは似ても似つかぬ、心の柔軟な「よき人」なのだ。若き日の宣長は『論語』を、そこに顕れている孔子を、そのように読んだし、考えは終生変わらなかった。

 

この“読み”を取り上げる小林の文章に、“文学者の味読”という言葉が用いられている。

「彼(宣長)は、この『先進篇』の文章から、直接に、曾点(曾晳)の言葉に喟然として嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負いこんだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。もし、ここに、儒学者の解釈を知らぬ間に脱している文学者の味読を感ずるなら、有名な『物のあはれ』の説の萌芽も、もう此処にある、と言って良いかも知れない」。(丸カッコ内は筆者注)

「もののあはれ」が、宣長の生涯の重要なモチーフであることを考え合わせるなら、小林がここで、“文学者の味読”を、宣長が言葉に向き合う際の基本的な態度を言い表す言葉として遣っている、と受け取ってもよいだろう。“文学者の味読”とは、ことばの表面上の意味を分析的に読み解くことで、矛盾のない抽象的な観念を得るの、その文体や語勢を、ほとんど対象の内側に入り込むように丁寧に追いかけることで、文の姿を味わい、言葉を遺した人の心ばえを甦らせようとする、“読む”というとてつもない行為の一端を明かした言葉である。宣長は、『論語』を愛読することで「孔子といふよき人」の像を得た。この「文章から直接に人間に行く」読み筋が、『古事記』を蘇生してみせたような、のちの宣長の仕事の根っこに確かに生きている。この言葉に、小林はそういう含みを持たせている。

小林自身、『宣長』を書くにあたって、この読みを実践している。第二章の終盤で、彼ははっきりとこう書いている。「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」。この言葉通り、『本居宣長』という、著者晩年の十二年をかけて書き上げられた畢生の大作は、宣長の文章から彼の「肉声」を聴き取ろうとする、また読者に聴き取ってもらおうとする、小林の努力に充ちた本だ。思想の構造を抽き出そうとした宣長研究者たちが、どのような袋小路に迷い込んだかを、小林はよく知っていた。自分が宣長を愛読して掴み出した像を描出するには、宣長自身が辿った紆余曲折を誠実に歩きなおさなければならない。小林のそうした覚悟を、理や方法に恃まず、「文章から直接に人間に行く」という道を一筋に歩む“文学者の味読”という言葉は、図らずも語っているようだ。

 

手軽な解説、自分の感覚に近しい現代語訳、情報の最短経路での伝達に馴れきった、かつての僕のような読者は、『宣長』にある膨大な引用文を怪しみ、それが時に十分に解釈されないまま投げ出されているように見えて困惑する。しかし、実は僕ら読者もまた、時間をかけて味読することを求められているのだ。『古事記』を読んだ宣長のように、宣長を読んだ小林のように。

読むことを、頭で理解することのうちだけに留めておかず、文章が持つ微妙な起伏に耳を澄まし、言葉が持つ手触りを直かに感じること。生きるために摂取され、将来自分の一部を形成することになる食べ物に対するかのような、原始的な真剣さで、身を以て言葉を味わうこと。この塾で語り伝えられ、また文章を扱う池田塾頭の姿勢そのものから無言で示され続けてきたのは、まさにこのような“読むことの態度”であったように思う。

かつての自分にとって、読むことは、砂漠に種を蒔きつづけるような、索漠たる行為だった。二十五歳の僕は少しずつだが、知識や情報というものの外面に惑わされることなく、自分を養うための言葉を蓄えられているように思う。

読むことの手応えを、いまは確かに感じている。

(了)