「カタチ」に宿る

約五年に渡るフランス駐在生活を終え、帰国した私は思わぬ壁にぶち当たった。日本語で自分の話ができなかったのだ。それでも用を足すための言葉は、最低限だが話すことができた。ただ、人から自分の話をふられると、ネットワークがフリーズしてグルグル回転するように、静止してしまうのだった。フランスでは、私以外は現地スタッフのみで、上司からは、フランス人として生きなさいと指導されていた。声のトーン、身振り、仕草、目線、話し方の全てを変えて、フランス人として生きる私を築き上げた。その経験と引き換えに、帰国後の私は、いつしか日本語との親密な関係を失っていた。フランス語で話す自分は確かにいるのに、日本語から突き放された私は、ここで、どう生きていけばいいのか分からず途方に暮れていた。そんな戸惑いを心のうちに秘めて、日本語との関係を取り戻す長い旅が始まった。その旅の道筋を切り開いてくれたのが、まさに小林秀雄先生が書いた「本居宣長」だったのだ。

 

基本的な日本語さえも怪しくなっていた私にとって、「本居宣長」を読み続ける道は険しかった。そこで同時に日本語が生まれた風土を身体で経験するため、奈良をはじめ様々な土地を旅し、難解な言葉を、五感全てを動員して咀嚼しようと努めた。その往還を幾度も重ねた私は、「本居宣長」の第二十三章で、開眼する言葉と出会った。ずっと影を落とし暗くて見えなかった道に、初めて光がさしたのだ。それは宣長、小林先生、そして私たちの生きている世界は、日本語という言語の力によってかたどられてきた歴史という繋がった道があるということだ。私はその日本語との親密な関係を閉ざしてしまったために、道に迷ってしまったのだ。小林先生は、第二十三章で、宣長の「物を見る」比類なき眼差しが、「歌」を通して、言葉の道を明らかにしていくさまを描くことで、私に道を照らしてくれているように思えた。

宣長の「歌」への眼差しの出発点は、「歌学者」として名を成すためでも、「歌」を巧みに詠む技巧を追求するためでもなく、「歌」によっておのずから心が突き動かされる不思議にあるからではないだろうか。だからこそ、宣長は、当時すでに確立されていた、「ただの詞」を「あや」によって装飾する歌の技芸が発達したという「歌の道」の通念にも、契沖も賀茂真淵も大事にしていた、語義を分析して、本義正義を定める方法にも引き込まれなかった。

 

「『和歌ハ言辞ノ道也。心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツゞクル道也』という彼の言葉は、歌は言辞の道であって、性情の道ではないというはっきりした言葉と受取らねばならない。歌は『人情風俗ニツレテ、変易スル』が、歌の変易は、人情風俗の変易の写しではあるまい。前者を後者に還元してしまう事は出来ない。私達の現実の性情は、変易して消滅する他はないが、この消滅の代償として現れた歌は、言わば別種の生をけ、死ぬ事はないだろう」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集p.252)

 

宣長は、「歌」が生まれる瞬間にまで奥深く歩みを進め、「歌」は性情を化することが目的ではなく、「歌」は言辞の道であるとことを見出す。現実の性情は歌の誕生と引き換えに消滅し、別種の生として誕生した歌は、死ぬことなく、自足した言語表現の世界を作り出す「カタチ」となる。この宣長独自の「歌」への眼差しは、どのように獲得され得たのだろうか。

 

「歴史も言語も、上手に解かねばならぬ問題の形で、宣長に現れた事はなかった。それは『古言を得る』という具体的な仕事のうちで、経験されている手答えのある『物』なのであった。正直な心で正視すれば、本質的に難解な表情が見えて来る相手であった」(同第27集所収、「本居宣長」p.265)

 

この言葉から、小林先生が小説、詩、絵画など一つの作品を批評の対象とする際、その作家がどう物を見ているか、詰まるところ、いかに生きようとしているかを見つめ続けてきたことを想像すると、宣長も同じく、「歌」ひいては「言辞」がいかに生まれ、今までどのように生きてきたのかを見つめ続けていた姿が浮かび上がってくる。そして和歌が言辞の道であることを見出した宣長が、言葉の生まれる瞬間まで歩みを進めて見えてきたものは何だろうか。

 

「又ひたぶるに、かなしかなしと、たゞの詞に、いひ出ても、猶かなしさの忍びがたく、たへがたきときは、おぼえずしらず、声をささげて、あらかなしや、なふなふと、長くよばはりて、むねにせまるかなしさをはらす、其時の詞は、をのづから、ほどよくあやありて、其声長くうたふに似たる事ある物也。これすなはち歌のかたち也。たゞの詞とは、必異なる物にして、その自然の詞のあや、声の長きところに、そこゐなきあはれの深さは、あらはるる也。かくのごとく、物のあはれに、たへぬところより、ほころび出て、をのづから文ある辞が、歌の根本にして、真の歌也」(「石上私淑言」巻一、同第27集p.259)

 

今私たちが親しむ「歌」は、時間をかけて発達し、その形式が出来上がった姿だ。その姿に慣れた人たちにとって、まず日常生活において、目的を果たすための手段としての「ただの詞」があり、それから「ただの詞」を「文」によって装飾する歌という技芸が、発達したという通念で「歌」を捉えてしまう。だが宣長の言語に対する非常な鋭敏性と柔軟性により、彼は「ただの詞」よりも、歌という「かたち」が先に発生する、さらには「歌」よりも声の調子や抑揚が整うことが先だという言語観にたどり着く。小林先生は宣長の言語観を深く見つめることによって、言葉そのものがいかに発生したのかについて言及している。

 

「私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず『長息』をするのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。其処から歌という最初の言葉が『ほころび出』ると宣長は言うのだが、或は私達がわれ知らず取る動作が既に言葉なき歌だとも、彼は言えたであろう。 いずれにせよ、このような問題につき、正確な言葉など誰も持ってはいまい。ただ確かなのは、宣長が、言葉の生まれ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない」(同第27集p.261)

 

人は耐え難き悲しみが内部に留まり、その混乱を整えようとして、その対象を徹底的に見ることによって、歌が自ずと「かたち」として姿を現す。声長く文をなす「かたち」から始まり一つ二つと足跡が連なった道が、今私たちが親しむ歌として表れている。そして宣長は、この歌という「物」を生み出す力は、人間が生きるために生まれつき備わっている構造だと認識していたと、小林先生は考えている。

この、先生の考えを、今の私に置き換えて想像してみる。フランスでの約五年間、経験したことのない数多の感情が私を掴んで放さなかった。自ずと裡からほとばしる感動、苦しみ、悲しみ、孤独を、私はフランス語によって、私という人間に象ってきた。フランス語で象られたこころの「カタチ」と、日本語によって象られた情の「カタチ」は、恐らく、ある同じ一つの経験を介しても、同じ「カタチ」にならないのではないかという認識に私は至った。日本の各地を旅する中で私は、新たに喜び、侘しさ、切なさ、無常など沢山の内部に湧き上がる混乱を日本語によって象る行為を重ねていくことで、日本語によって「私が生きる」ということを取り戻していく経路が体の中につくられていく実感を覚えたのだ。

 

今を生きる私たちの中で、情の「カタチ」を見定めようとする「シカタ」を身をもって経験している人間が、どれだけいるのだろうか。私も、このような葛藤を抱える経験がなかったとしたら、言葉は、用を足すコミュニケーションツールとしての認識に留まっていたかもしれない。いにしえの人たちは、情が言葉によって「カタチ」になるまで向き合う眼差しを養ってきた。そして「カタチ」になるまでの時間に耐える力を身につけてきた。そこには、古の人が時間をかけて、情の「カタチ」を生み出し、独立した「カタチ」が積み重なった言語世界の土壌の上で、「生きる」ことができているという認識があったのではないか。それに対して私たちは、生きるために生まれつき備わった、この知恵をいつしか忘れてしまったのかもしれない。そして、生きていると自ずと湧き上がってくる私たちの情は、「カタチ」にすることができず、ネットワークの大海に散り散りにばら撒かれ、あるいは私たちの心の裡の中で閉ざされたまま漂っている。その情は、新しい生を生きることなく、消し去ることもできないまま、ただ腐って悪臭を放ち続けるのだろうか。

少なくとも私はこれからも「本居宣長」を読み続けることによって、古人のように「カタチ」にできる力を身につけていきたい。宣長そして小林先生が照らす道が消えてしまわないように、小さな足跡にしかならないかもしれないが、一歩ずつ歩みを進めていきたい。

(了)

 

宣長が見た紫式部という思想家

小林秀雄先生は、本居宣長が紫式部に見たのは「『物のあはれを知る道』を語った思想家」と書かれている。まずここで、小林先生が思想という言葉を用いる際に、混同してはいけないことがある。「思想」と「イデオロギー」は、同義語ではないということだ。思想というものは、人間一人ひとりが「いかに生きるべきか」という問いに、自ら答えることにある。一方イデオロギーは、ある目的において集団として一致団結するために、共有しようとする考え方を指す。思想とは、「いかに生きるべきか」について、自己の内面の葛藤を繰り返し、ある確信に到達するところまで、辿り着いたものを表す。だが、イデオロギーは自分の裡から自然と沸き起こるものではなく、目的達成のため、意図的に作り上げることを主眼としたもので、外部に起因する。

小林先生の言葉から、思想の本質をより鮮明に捉えておきたい。先生は、三木清との対談「実験的精神」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)で、大要、こう言われている。

―思想というものは、人に解らせる事の出来ない独立した形ある美なのだ、思想というものも、実地に経験しなければいけないのだ……。

 

では、宣長は、紫式部をなぜそういう意味での思想家と見たのか、である。小林先生によれば、宣長は「あはれ」という言葉について、以下のように考えていた。

「何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は『すべて心にかなはぬ筋』に現れるとさえ言えよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される。

心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が『あはれ』を論ずる『モト』と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。(中略)彼の課題は、『物のあはれとは何か』ではなく、『物のあはれを知るとは何か』であった。『此物語は、紫式部がしる所の物のあはれよりいできて、(中略)よむ人に物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあはれをしるより外の意なかるべし』(「紫文要領」巻下)」(「本居宣長」第十四章)

紫式部は宮中における女房という立場もあり、さまざまな色恋沙汰を目にしてきたのではないか。式部は、相手の心を自分の思うようにできない恋愛をする人の情が、どのようにうごくのかを見つづけ、一人として同じ情を持ち合わせない、人間の情の不思議さを目の当たりにしたのだろう。相手に向けた自分の行いが我が心の願うように進まず、心は自分の裡にある心に目を向ける。その時、もどかしさや恥ずかしさ、さらには憂いで内側が一杯になり、目を背けることができなくなることを、誰しも経験したことがあるだろう。式部には、この溢れてしまう情と、いかに生きていけばいいのか、その問いに対する自答を人に伝えたいという気持ちが、自ずと湧き上がっていったのではないか。この情について、宣長はさらに深く思索を重ねる。

「よろずの事にふれて、おのずから心が感くという、習い覚えた知識や分別には歯が立たぬ、基本的な人間経験があるという事が、先ず宣長には固く信じられている。心というものの有りようは、人々が『わが心』と気楽に考えている心より深いのであり、それが、事にふれて感く、事に直接に、親密に感く、その充実した、生きた情の働きに、不具も欠陥もある筈がない。それはそのまま分裂を知らず、観点を設けぬ、全的な認識力である筈だ。問題は、ただこの無私で自足した基本的な経験を、損わず保持して行く事が難かしいというところにある。難かしいが、出来る事だ。これを高次な経験に豊かに育成する道はある」(第十四章)

その情が高次な経験に豊かに育つとどうなるかを、小林先生は次のように述べている。「『情』は、己れを顧み、『感慨』を生み出す。生み出された『感慨』は、自主的な意識の世界を形成する傾向があり、感動が認識を誘い、認識が感動を呼ぶ動きを重ねているうちに、豊かにもなり、深くもなり、遂に、『欲』の世界から抜け出て自立する喜びに育つのだが、喜びが、喜びに堪えず、その出口を物語という表現に求めるのも亦、全く自然な事だ」(第十四章)

「情」は、高次に熟成が進むと、自主的な意識の世界を形成し、「自然」な流れによって「物語」を生み出す。小林先生は、式部が「源氏物語」の中で、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせる名優なのだと言い、「物語とは『神代よりよにある事を、しるしをきけるななり』という言葉は、其処から発言されている、言わば、この名優の科白なのであって、(中略)式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる」(第十六章)と言われている。式部は「物語る」という言葉を見つめつづけた先に、人々が色々なものに触れて感受するさまを見出しただろう。そして、胸に刻印されるほど忘れられない経験をしたとき、人は内側に留めることができず、誰かに聞いてほしいと願うさまも目の当たりにしただろう。小林先生は、その情の作用を「語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂」(第十六章)であると巧みに表している。式部は、語る人と聞く人が連綿と生み出してきた「物語」の誕生という源泉に辿り着く。そこで、式部は、その物語の原動力は、「情」であることを知る。「人の情のあるやう」というものが、自ずから「物語」を生み出す瞬間を、式部自身が目に焼きつけたのだろう。宣長は、式部が「物のあはれを知る道」を語るに至る、思考の足跡を辿っていくことにより、「情」の感きの発見をする。小林先生は、宣長の発見の喜びを、行間から溢れんばかりの言葉で綴っている。

「『源氏』は、作者の見聞した事実の、単なる記録ではない。作者が源氏君に言わせているように、『世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる』味いの表現なのだ。そして、この『みるにもあかず、聞にもあまる』という言い方を、宣長はいかにも名言と考えるのである。事物の知覚の働きは、何を知覚したかで停止せず、『みるにもあかず、聞にもあまる』という風に進展する。事物の知覚が、対象との縁を切らず、そのまま想像のうちに育って行くのを、事物の事実判断には阻む力はない。宣長が、『よろづの事にふれて、感く人の情』と言う時に、考えられていたのは、『情』の感きの、そういう自然な過程であった。敢て言ってみれば、素朴な認識力としての想像の力であった」(第十五章)

式部は描写でもなく、記録でもない、「これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」と「物語」に「人の情のあるやう」を見出した。この言葉の奥深くには、式部の物語を書くことへの、並々ならぬ意志と思想が感じられる。能に「源氏供養」という曲がある。当時、架空の物語を作ることは、仏教における五戒の一つである「不猛語戒」に反するものと考えられていた。紫式部は「源氏物語」という人々を惑わす絵空事を描いたため、死後、地獄に落ちたとする伝承が語り継がれ、そこから起こった紫式部を供養しようとする気運や行動が「源氏供養」の由来とされている。おそらく式部は、「物語」を書くことによってわが身に振りかかるであろう誹謗も中傷も知った上で、それでもなお、人が神代より「情」と共に生きるなかで生み出してきた「物語」の源泉を飲み、孤の中で、「情」と「いかに生きるか」という問いに、ひたすらに向き合い、「物語」にこそ、人が生きるうえでの「みちみちしさ」があるという確信に辿り着き、「源氏物語」を生み出したにちがいない。

 

最後にもう一度、小林先生の「思想というものは、やはり解らせる事の出来ない独立した形ある美なんだね。思想というものも実地に経験しなければいけないのだ」という言葉を思い出してみよう。思想というものは、説明を拒む。思想というものは、理屈や論理によって誰にでも組み立てられるような言葉の構造物ではない。その人自身にしか生み出せない独立した心の形なのだ。宣長は式部のそういう思想に身を重ね、小林先生は宣長のそういう思想に身を重ねて経験している。小林先生は「本居宣長」という物語を書くことによって、式部の思想のドラマと、宣長の思想のドラマを、奥深くからの重層的な響きで奏でている。

 

(了)