明晰なファンタジー、ロトの指揮

今年2月、フランソワ=グザヴィエ・ロトがラヴェルのバレエ音楽《ダフニスとクロエ》全曲をメインに都響(東京都交響楽団)を指揮したコンサートは、時空を超えて音楽と演奏者と聴衆が繋がり合う素晴らしい一夜、それは「星が微笑みかけるような美しい夜」と形容したくなるほどのものでした。

しかし、こういう言い方をすると、その舞台でコンサートマスターという立場にあった者の言葉としては、無邪気に過ぎるのでは? という誹りを免れないでしょう。その通りです。

僕らに反省のない日はないし、その課題を次にどう改善出来るのか……と心を砕くばかりで、これまで無条件に自分を許せるコンサートなど一度もありませんでした。実際、あの夜のコンサートにも理想との間には距離があって、たくさんの課題を背負うことになりました。なのになぜ、自ら率直に「素晴らしかった……」と言えるのか?

それは、コンサートの間、僕がロトの指揮を「見ていなかった」からかもしれません。いや、見ていなかった、というのとは少し違う。「見ていなかった」のではなく、むしろ「感じていた」「繋がっていた」と言うのが正しいようです。

ふだんから僕は、演奏中ずっと指揮者の指揮を見ているというわけにはいかず、「見る」よりも「感じる」が優先されます。たとえば小澤征爾さんの指揮の場合でも、演奏中に小澤さんがどのように振っているのかを注視することはなく、後日それをテレビで観て初めて「あっ、こんなに細やかに、かつ精力的に振っていたのか!」と気づくことさえあります。ロトの場合も、彼がどのように指揮をしていたのか、その絵はまるで浮かびません。しかし、コンサートの間、常に指揮台にいるロトの気配を感じていたのは確かですし、不思議なことに、終演後にはヴァイオリンを「弾いた」というより、音楽を「聴いた」という感覚が勝っていました。

 

「太上、下不知有之。其次、親而譽之。其次、畏之、其次、侮之。信不足焉、有不信焉。猶兮其貴言。功成事遂、百姓皆謂我自然」

 

これは老子の言葉で「最も上の指導者はその存在を感じさせない。その下の指導者は親しまれ誉められる。さらに下の指導者は畏れられる。そして、その下になると侮られる。誠実であること。言葉を大事にすること。そうすれば物事はうまく行き、民衆は自分たちの力でうまく行ったと思う」というような意味です。

この言葉を我々に当てはめてみた時、最も上の指導者がロトで、民衆が我々都響の演奏者だと言えます。ロトが都響を適切に導き、我々には「都響が最善を尽くしたから素晴らしいコンサートになった」と思わせていました。

まさに老子の言葉の通りです。でもその時、聴衆はそこに普段とは違う都響があるのに気づいていたと思います。聴衆の目はロトの魅惑的な指揮ぶりに釘付けだったことでしょう。そのロトの動きが都響の響きを完全に変え、最終的には≪ダフニスとクロエ≫の作曲者ラヴェルの魔術的な技法に導かれて、古代ギリシャにタイムスリップした、と感じたかも知れません。

聴衆は、その時、指揮者ロトを「見ていた」のと同時に、舞台上の演奏者たちと一緒にその音楽を「聴いて」いました。聴衆と舞台上の奏者たちが幸せを共感する稀有な時間……。

そのようなコンサートを「星が微笑みかけるような美しい夜」と言うのは言い過ぎでしょうか? 僕のささやかな経験と皮膚感覚で以って、あの日のコンサートは人生にそう何度も訪れることのない出来事に違いないと感じました。それが指揮者ロトによってもたらされたと認めるのに、些かの躊躇もありません。それを「実際に音を出したのは私たちだ!」と誇示してしまったら、「じゃあ、どんな指揮者の時でも素晴らしい演奏をしろ」と言われるでしょう。勿論、いつでも最善の演奏を心掛けますし、手を抜くということは絶対にしません。でもあの時、星が微笑んだのは、間違いなくロトの功績です。不思議な人です、フランソワ=グザヴィエ・ロト……。

 

彼のリハーサルは常にユーモアと活気に溢れ、かつ、すべてが実務的で一切の無駄がありません。「昨日、渋谷に素晴らしいレストランを見つけました! 美味しかった! 後で皆さんにその場所を教えます。さあ、ラヴェルから始めましょう」。指揮者とオーケストラのコミュニケーションとして最上の部類に属します。

でも、ロトを一言で表そうとする時、「孤独」という言葉が浮かびます。孤独? 休憩になるとタバコを吸いながら携帯電話に目を落とし、いつも寂しそうに見えました。話しかけると破顔一笑して一言だけ会話をし、その目はすぐに携帯電話に戻ります。「後で教える」と約束したレストランの名刺は、無言で僕の譜面台に置かれました。その振る舞いが一体何を意味するのか、それをリハーサルからコンサートに向かう間に少しずつ理解し、そして悟りました。

彼が都響を通じて紡ぐ精妙極まりない響きの綾、シャガールの絵画に勝るとも劣らない鮮やかな色彩感は、作曲家ラヴェルの心魂に直接触れることでしか獲得し得ないものだったのです。恐らく、彼は、邪魔をされたくなかった。この人は孤独であるが故に「精神の自由」を持ち続けている。表現者にとって精神が自由であることは何よりも大事。ロトが内なる心に導かれるようにラヴェルに直に触れ、声を聞きたいと願う時、束縛された心がそれを邪魔せず、精神の自由こそがその願いを叶えると信じている。

その昔、少年ロトが誰かに憧れ、その人のようになりたいと思ったのが始まりだったとしても、後に秀でた指揮者として評価を得る頃には、他の誰でもない個性を身に付けていたことでしょう。先達の巨匠たちの影響を払拭し、個々の団員との交流を避けることで初めてラヴェルの心魂に触れたのです。

そして、それこそが、音楽を解釈する上での究極の極意だと言えます。指揮者の数だけ解釈が存在しますが、時には、恣意的としか思えない解釈を哲学的だと信じ切っている指揮者に対して溜め息が出てしまうこともあります。スコアに書いてあることを忠実に守る指揮者には敬意を表しますし、精緻なアンサンブルを追求する指揮者には、その要求に応えるための努力を惜しみません。今回のロトがラヴェルと奏者たちを繋ぐ仲介者として作り上げた磁場には、一人一人の奏者をそこに引き付けるような強い力があり、都響の奏者たちが彼の理想に相応しい響きを創る上で多くの想像力をかき立てられました。「明晰なファンタジー」……ロトがオーケストラに実務的な言葉を投げかけることで引き出される夢幻の響きを、この言葉で表すより他ありません。相反する言葉を並べることに戸惑いがないと言えば嘘になりますが、ロトに関してはそうとしか表現出来ないのです。

ある時、僕は尊敬する指揮者からアドバイスを受けました。「私は発電をする。あなたはコンサートマスターとして変電所になって欲しい。私が作る電力を皆に繋げて欲しい」と。そのことはいつも念頭に置いて取り組んでいますが、今回はロトが作った磁場によって全員がダイレクトに指揮者と繋がっていました、だから僕が変電所の役割を果たす必要はありませんでした。そのことで僕は、いつものコンサートマスターの役割から解放され、音楽を「奏でた」と言うより「聴いた」と言えるのです。そしてコンサートの間、彼と繋がることで空を自由に翔けるような心地よさを味わいましたし、楽員たちも皆、自由に羽ばたいているのを感じました。

 

コンサートの後、僕はロトに感謝の気持ちを伝えたいと思い、メールを送りました。

返信にはこう書かれていました。

「あなたからのメールを読んだ今、ホテルの部屋が急に暖かくなり、幸せが舞い降りました。何と優しい人でしょう。あなたは」

「そうだ。彼はフランス人だったんだ」と虚を衝かれたような気持ちになりました。彼はフランス音楽を継承し、それを生かし続ける守護天使かも知れない……と。

フランス芸術の歴史や奥行きに詳しくはありませんが、ロトの身体の中に流れる血や感性の中にはそれらが結実して存在していると確信出来る何かがありました。

一つの動きだけで「あぁ、フランスだ……」と感じさせる能力があり、その動作は音楽の持つ根源的なエネルギーに溢れていました。

そして彼が精妙極まりない色彩とともに、肌に触れるか触れないかの繊細な響きを引き出そうと秘術の限りを尽くすとき、そのひたむきな姿勢に触れて感じました、邪心を排除して音楽に身を捧げている者だけの特権、何か魔法のようなものを授かったのに違いない……。

 

文学や絵画の作品は完成された芸術としてずっと消えることはないでしょう。音楽は楽譜そのものに価値はなく、音楽家に演奏されることで初めて作品になります。しかし、その時、作曲家の心に触れ、直に声を聞いた音楽家によって命が吹き込まれてようやく芸術としての普遍性を獲得し、それが聴衆によって生かされていくのだと確信しました。僕は確かにロトの指揮で≪ダフニスとクロエ≫を弾きました。同時に、ロトを通じてラヴェルと繋がる聴衆のひとりとして、その音楽を聴きました。

星が微笑みかけるような美しい夜に……。

(了)