大盛会、加満田に泊まる会

人は、ある作家を好きになると、その人の生きた足跡を追って、文学館や住んだ家や作品の舞台になった土地などを訪れるだけでなく、行きつけの店やよく泊まった宿などにも行ってみたいと思うものである。

高見澤潤子さんは、「兄 小林秀雄」(新潮社)の中で、「(小林先生の逝去後間もなく)奥湯河原の『加満田』では、小林のとまった部屋はどこかとか、その部屋にとまりたいという客が多くくるようになったとか」と書いている。

小林秀雄先生の、新潮社での編集担当であった池田雅延塾頭から、我々塾生は、毎月一回、「本居宣長」を中心に学んでいるが、その学びの場は、まさしく小林秀雄その人が高齢になるまで最も長く暮らした鎌倉の「山の上の家」である。これほど有難い僥倖はないのであるが、今回、小林先生の常宿だった旅館にも泊まってみようという企画が立った。

湯河原駅から奥湯河原行きのバスにしばらく揺られ、終点で降りると、その宿はある。小林先生が愛され、お亡くなりになる前年まで宿泊された「加満田」である。先生が宿泊された当時を彷彿とさせる和風の建物に、循環濾過しないカルシウム―硫酸塩の自家源泉と、朝夕部屋出しの食事が自慢の宿だ。温泉街の喧騒からは外れた奥湯河原の山に囲まれた川沿いにあり、野趣豊かな広大な庭園のある閑静な宿である。

昭和十四年の創業で、小林先生は昭和二十三年に初めてこの旅館に逗留されたという。作家の宇野千代さんが、自ら出していた雑誌に「ゴッホの手紙」を執筆してもらうため、小林先生を「加満田」に出版界初の「缶詰」にした話はあまりにも有名だ。後に、作家、水上勉さんも執筆のため常宿とするようになった。また、清酒「黄桜」の河童絵を描いた漫画家の清水崑さんもたびたび宿泊したことから、河童が現在の旅館のイメージキャラクターになっている。

 

我々、小林秀雄に学ぶ塾の十二人が「加満田」に集ったのは、令和元年十一月二十四日のこと。チェックイン後、夕食が始まる十八時までは自由行動で、各々、館内探索や談笑や入浴などを楽しんだ。季節柄、大風呂や露天風呂から見える奥湯河原の紅葉は特に素晴らしく、我々の目を心ゆくまで楽しませてくれた。

そして、お楽しみの夕食である。人数の関係上、部屋食ではなく、広間でいただくことになったが、食事に先立って、先ずは池田塾頭に御挨拶を頂いた。後の宴会の時も含めて、塾頭からは、小林先生の「加満田」にまつわる大変興味深い逸話をたくさん聞かせていただいた。既に故人ではあるが、「加満田」の名番頭と言われた師星照男さんなど、陰で小林先生を支えた方々にも感謝を申し上げたい気持ちになった。

その後、事務局の坂口慶樹さんの乾杯の発声で夕食会が始まった。先付から順々に運ばれてくる料理は、現代旅館にありがちな豪華絢爛という趣のものではなく、料理長の心が込もった、素材を生かした質実なものであった。小林先生は、たしか生前、現代人は食べすぎです、というような内容のお話をされていたと何かで読んだことがある。下戸の私が言うのも何だが、ここの料理は特にお酒を飲む方には最高のものではないだろうか。

夕食会が始まって間もなく、女将の鎌田るりこさんからも丁寧な挨拶を頂戴した。小林先生の常宿だった旅館にて、素晴らしい食事を前に、池田塾頭や女将さんから、小林先生のお話を伺える幸せもまた、味わうことができたのであった。

小林先生の、毎年恒例の「加満田」での越年では、今日出海、水上勉、中村光夫などの各氏が御一緒され、昼間のゴルフの後は、毎晩”酒宴”になったとお聞きしている。私達の今回の宴会も、やがて酒宴となり、美味しいお酒を飲みながらホンモノの料理に舌鼓をうち、時が経つのも忘れて、大いに盛り上がった。最後は、宴もたけなわではあったが、吉田宏さんに、含蓄ある挨拶で締めてもらった。

「加満田」宿泊にあたって、我々の大きな願いは、実際に小林先生が泊られた客室を見学することであった。先生は、「どうだん」(満天星)の間を気に入られて、いつもこの部屋に宿泊されていたという。「どうだん」は小林先生御自身の命名である。夕食後すぐに「どうだん」に移動し、部屋の中をじっくり見学させてもらい、記念撮影を行ったりした。皆、感激しながら、ここでくつろがれていた小林先生のお姿に思いを馳せたことであろう。

「どうだん」見学の後、今度は男性たちの広めの部屋に移動し、そこで二次会が夜遅くまで続いたようだった。皆、高揚しながら、楽しい会話が延々と続いたことは想像に難くないのだが、どうしたことか、アルコールはまったく飲んでいなかった私なのに、真っ先にダウンしてしまったのである。二次会の宴に参加できず、後で本当に残念に思った。

翌日は、八時から朝食をいただいたが、これがまた美味で、一人でご飯を三杯、四杯とお代わりする、まるで普段の私みたいな方もいた(私は今回、幹事のため自粛)。その後は、また完全に自由行動となり、名残惜しくはあったが、各自、好きな時間にチェックアウトし、会は無事に終了した。

 

恥ずかしながら、私個人はほとんど何も大したことはできず、副幹事の本田正男さんをはじめとして、参加された方の一人一人に、会の運営を助けられた思いです。女将さんや旅館のスタッフの方たちにも大変お世話になりました。この場を借りて、皆様全員に御礼申し上げます。ありがとうございました。

最後に、今回のこの「加満田に泊まる会」に参加することによって、参加者の小林秀雄先生に対する理解や愛着がますます深まり、これからも先生に学んでいきたい気持ちが新たになったことを信じつつ、筆を擱きます。

(了)

 

医者としての宣長

宣長の偉業はもちろんその学問にあるわけだが、彼の本職である医業の実態については「済世録」という記録が部分的にだが残っている。簡潔に患者の症状が付記してある場合もあるのだが、それはむしろ稀で、「済世録」を読む人は、日付、その日の天候、患者名、処方、調剤数、謝礼(今で言う医療費)が箇条書きに記載されているのを見るであろう。これは、現代の感覚で言うと、いわゆるカルテというより帳簿(医療用語でいうとレセプト)に近いものである。帳簿に近いということは、「宣長の文体」は感じられず、書体も学問上の著作のような楷書では書かれていない。小林先生は、「彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい」と書いているが、済世という言葉を辞書で調べてみると、社会の弊害を取り除き人民の苦難を救うこと、世の中を救うこと、世人を救い助けること、などと書かれている。なるほど、学者としての宣長を知っていると彼にはそぐわない言葉のように聞こえて、確かに「医は生活の手段に過ぎなかった」とも思える。

それに対して、薬の広告文である六味地黄丸の記載はまさしく学者宣長の文体である。帳簿と広告文との違いのせいだろうが、済世録の一見無味乾燥な文章とは根本的に異なっている。ここはやはり原文(小林秀雄全作品27集 49頁)を読んで、その文体も味わうのが良いだろう。

「六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々ココニ挙ルニ及バズ、然ル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、是亦世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而巳サノミ其吟味ニも及バズ、煉薬レンヤク類ハ、殊更、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、何れも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユヱニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品を撰ミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しも麁略ソリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、且又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也」(大意:薬は、たとえ成分は同じであっても、薬種や製法が変われば、その効果は変わるものなのに、世人はあまり気に留めない傾向がある。本居製の六味丸は、極上品の薬種を用い、製法も念には念を入れて厳密におこなっている。よって効能が大いに期待できる。しかも薬代も世間の相場より安くしている。)

宣長という人は、難しい内容でも簡潔に分かりやすく書くことに非常に長けた人であったが、この広告文は、現代の薬の宣伝と比べても、何とも説得力のある文章、文体だと思う。まさに、「家のなり なおこたりそね(家業はまめやかに努めるべし)」ではないだろうか。ちなみに蛇足だが、薬種や製法が変われば薬の効果も変わる、というくだりは、今の時代によく話題になることで、薬の主要成分は同じでも製薬会社によって製造方法や添加物は若干異なるということ、つまり、先発医薬品と各社後発品(ジェネリック)の違いを想起させる。医師によって、先発品と後発品はほぼ同じもので効能に違いなど無いとする者と、効果や副反応の出易さに違いはあるのだと主張する者とに分かれている。つまり、宣長のこの広告文は江戸時代の文章だが、現代日本の医療情勢にも通じるものがある。

こうやって「済世録」と六味地黄丸の広告文とを並べて眺めていると、宣長にとって、その思想と実生活とは付かず離れずの関係を保ち、小林先生の言葉を借りれば、両者の間の通路として中二階の書斎への階段に例えられて、「両者の摩擦や衝突を避けるために、取り外しも自在にして置いた」という意味が、よく味わえるように思われる。

 

宣長が、家の没落のため、母親からも勧められて医者になろうと思ったいきさつや、宣長と同様の境遇に直面し周りから医業を勧められたのにそれを潔しとせず拒否して儒学に専念した伊藤仁斎との比較の記述は、将来の進路に悩む若者に通じるものがあり、これも現代的で面白い。ここのところを小林先生は、「言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった」と評している。

学問の講義中、外診の為に、屡々しばしば中座した、という話は、まさに「家のなり なおこたりそね みやびをの 書はよむとも 歌はよむ共」の実践であるし、宣長が最晩年まで現役の医師を続けたのも、単に経済面だけではなく、彼にとって医者という仕事が、学問と同様、一生を通じてやりがいのある興味深いものであったからではあるまいか。宣長のような鋭敏な人が、人間を相手にする医業を面白いと思わなかったわけがない。おそらくは、生涯、医師であり続けようとしたのであり、遺言書でも彼は、自分の屍体に、当時の医者の正装である十徳じつとくと脇差をするよう指示しているのである。「医は生活の手段に過ぎなかった」だけではなく、医業もある意味、「好信楽」の一つであったのかも知れない。

このような想像をしながら、一見無味乾燥な「済世録」を眺め直してみると、宣長にとっては、症状など一々メモしなくても、その患者の生活や病歴、診察時の体調、現在いかなる治療をするのが最善か、などといった重要なことが、鋭い直観として彼の脳裏に浮かんだことは容易に考えられるのではないか。宣長の学問を知り、かつ、宣長が医業もとても大切にしていたことを知っている者であれば、そう考えざるを得ないのである。ここに至って我々は、済世録は単なる帳簿ではない、やはり宣長の生きた証の一つである、ということを理解するのである。このような宣長の臨床は、決して私の空想ではないことを信じたい。

 

小林先生も、人間ドックのような検査漬けの医療や臓器別の分業的な医療には否定的で、名医の直観が大切だと仰っていたとお聞きしている。また、人間は本来、人間としての作られ方があり、手術や西洋薬などの人工操作ではなく自然を良しとする思想を持ってみえたと伺っている。この小林先生を感心させ信頼を得ていた医師が、私の知る限り、お二人いた。一人が、毎日午後三時になるたびに先生を襲った胃の痛みを治すため、絶妙の言葉(本気で禁煙するなら煙草は持ち歩きなさい)で禁煙させた赤坂の大堀泰一郎医師であり、もう一人が、西洋医学の欠陥を見抜き、自然を基本に置いた診療をしていた、漢方の専門家である蒲田の岡山誠一医師である。

人間を分割せずトータルで見る、そもそも人間とはエレメントに分割できるような代物ではない。これは医師にとっては、患者を臓器で分割せずトータルで診るということを意味する。木だけを見ていたら森は見えないのである。私は実を言うと、医師生活がちょうど三十年になったところであるが、この三十年の間には、医師としての仕事や研究が忙しく、本居宣長や小林秀雄から少し遠ざかっていた時期もある。しかし、患者をできるだけトータルで診ようとする診療態度はなぜか崩さなかった。内科の中でも腎臓病を特に専門にするようになってからも、その専門だけに固執したり専門外を蔑ろにしたりはしなかった。意識してそうしていたというより、結果的にそうなっていたという方が実感に近い。高校時代から小林秀雄を愛読していた結果、細かい臓器別診療に徹した医療には知らず識らずのうちに嫌悪感を抱いていたせいかも知れない。

医学の自然科学的側面が進歩していることには私も異論が無い。小林先生が苦しんだ胃潰瘍を例にとると、昭和四十年代頃までは非常に治療が難しい病気で、外科的手術が必要なことも多かったというが、今は薬だけで比較的簡単に治る時代になった。しかし、だからと言って、現代の医師達が皆、大堀泰一郎氏になったわけではないし、無論、大堀医師を超えたわけではあるまい。岡山医師のように、大きな自然の中で人間を見る、患者を診る大切さがわかっているであろうか。更に遡って、江戸時代の本居宣長医師に並ぶような臨床を現代の医師達が本当にやっているのか、現代医療は本当に本居医師の医療よりも優れていると言えるのか、真剣に自問自答しないといけないように私には思われる。

(了)

 

「本居宣長」と現代医学

昭和52年に出版された「本居宣長」は、当時四千円の本で、貧乏中高生だった私は安価な第四次全集版で読んだ。読んだと言いつつ、私にとっては非常に難解な著作で、読み進むのに大変苦労した。第五章までは宣長の伝記的記述が多いが、その後、契沖あたりから、無学な私には途端に読みにくくなった。後に出た『小林秀雄全作品』(第六次全集)と異なり、第四次全集は注釈など一切無い。よって何度も挫折した。正直、告白すると、私が「本居宣長」をまともに読んだのは、『全作品』が出てからである。

裏を返せば、第五章辺りまでは当時から繰返し読んだ。特に第三章は、医師としての宣長の記述があり、親近感を持った。私は医学部を目指していたのである。小林先生がその後、昭和57年から大病をされたことは全く知らなかったが、私は医学生になっていた。たしか、亡くなる前日に危篤である旨の新聞記事が出て、その後、死亡が伝えられた。当時購読していた新聞にも大きく報道された。私はその時の記事の切り抜きを今でも大切に持っている。また、当時のマスコミがこぞって追悼特集を出したのは周知の通りである。

今、実際に医師になってみて「本居宣長」を通読してみると、現代医学との関連を想起させる箇所があちこちに見られる。平成28年10月の池田塾で口頭質問させていただいたが、もう一度振り返ってみたい。この時に私が注目したのは、第二十五章の「ざえ」と「大和魂」「大和心」についてである。これは小林先生の講演にも出てくる有名な言葉であるが、『全作品』第27集から見ていく。まずは「源氏物語」である(278頁)。

「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も、強う侍らめ」―「才」は学才、学問の意味だ。学問という土台があってこそ、大和魂を世間で強く働かすことも出来ると、光源氏は言う。すなわち「大和魂」は、「才」に対する言葉で、意味合が「才」とは異なるものとして使われている。「才」が、学んで得た智識に関係するに対し、「大和魂」の方は、これを働かす智慧に関係する。

これを現代医学に当てはめると、「才」とは、科学的医学理論であり、統計学的有意を証明した医学論文であり、論文に基づく診療ガイドラインであり、人間を臓器に分割した専門分化であり、「個」を無視した最大公約数的な一般論であろう。今の時代、科学的理論や統計学やガイドラインや一般論だけを武器にして、機械的に臨床に従事する医師の何と多いことか。

しかし、個々の患者というのは、言うまでもなく、生身の人間である。生き物である。昔は「臨床医は患者から学べ」と盛んに言われたものだが、最近はそういう謙虚さを忘れ、「臨床医は各種データ(証拠)から学び、それを目の前の患者に当てはめる」ことが主流の時代になってしまった(Evidence-based medicine;EBM)。私が思うに、そんな時代だからこそ、臨床医は「才」を本としながらも、患者一人一人の個別性を感じ取り、親身になって全人的に診ようとする「大和魂」の心持ちが必要なのではないだろうか。

次は、「今昔物語」である(279頁)。

明法博士、善澄の家に強盗が押入った。善澄は、彼等が立去ると、後を追って門前に飛び出し、おのれ達の顔は皆見覚えた、検非違使の別当に訴え片っ端から召し捕らせる、とわめき立てた、これを聞いた強盗達は、引返して来て、善澄を殺した。物語作者は附言している、―「善澄、才ハメデタカリケレドモ、露、和魂ヤマトダマシヒ無カリケル者ニテ、カカル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也」、善澄は、学問は立派だったが、大和魂を少しも持ちあわせていなかった、そのためこういう幼稚なことを言って殺されたのである……、と。「大和魂」という言葉は、ここでも学問を意味する「才」に対して使われている。机上の学問に比べられた生活の智慧、死んだ理窟に対する、生きた常識という意味合である。両者が折合うのはむつかしい事だと、「今昔物語」の作者は言いたいのである。

この「才」と「大和魂」とが折合うのが難しいという現実は、現代の臨床医たちにも当てはまっていると思われる。最先端の医学知識に精通した医師と、生きた智慧を持った医師とを兼ねることは、実際には難しいことなのである。なぜ難しいのか。医学部での医学教育や医師国家試験は自然科学の上に立脚しており、「才」のみ重視する医師が量産されている現実がある。宣長は「うひ山ぶみ」で、「やまと魂を堅固カタくすべきこと」を繰返し強調しているが、実際には漢意儒意(才)に惑わされて「やまと魂」がかたまりにくいことを指摘している(284頁)。今の臨床医たちも、押し寄せる医療情報の大群に妨げられて大和魂が固まらない。才さえあれば、とりあえず医者はできる。新たな才を発見すれば医学学会で評価もされる。しかし、臨床医として真に理想とすべき姿は、やはり才を本として大和魂を用いることであろう。

続いて、小林先生は赤染衛門の歌を読ませる(281頁)。

文章もんじょう博士、大江匡衡まさひらの家で乳母を雇ったが、その乳母の乳が乏しい。そこで匡衡は、こういう歌を詠んで妻赤染衛門に贈った、―「はかなくも 思ひけるかな もなくて 博士の家の 乳母めのとせむとは」、満足に乳が出ないというのに、知の家である我が家の乳母になろうなどとよくも思ったものだ……。これに対して赤染衛門はこう返した、―「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳ほそぢに附けて あらすばかりぞ」、大和心が賢い女なら、無学でも、子供に附けて置いて、一向差支えないではありませんか……。人間は、学問などすると、どうして、こうも馬鹿になるのか、この女流歌人も、学者学問に対して反撥する気持を少しも隠そうとはしていないと小林先生は言っている。

上古の日本人の生き方を理想とした小林先生は、現代医学の科学的側面を全否定し、名医の直観や自然治癒を大切にされたという。自然治癒は、特にウイルス性疾患にはとても大切なことで、風邪をひくと寝室にひきこもり、西洋薬には頼らなかったという先生の療養態度は、逆説的だが、実は合理的なのである。先生が身体を張って体感したこの常識は、現代医学も後追いの形で保証をしたのである。「本居宣長補記Ⅰ」(『全作品』28所収)で言われている、宣長の「真暦考」に現代天文学が決定的な表現を与えたのと同じであった。

人間は、大きな力に生かさせてもらっている以上、それに協力することが大切であり、人為的医療が万能と考えるのは人間の傲りであろう。医学的俗言の中には迷信も混じってはいるが、小林先生が終始心がけられたという「頭寒足熱」のように、いわゆるホンモノも数多くあるのである。患者側も、データしか見ないような医師に頼り切るのではなく、自分の命を守るためには、自分自身の身体の仕組みや体調の変化を、小林先生のように、もっと真剣に「感じ取る」べきである。

小林先生の存命時と比べて、今の医療はさらにデータが重視される時代になった。医療だけではない。あらゆる分野で「才」や「証拠」が重用されている、と言ってもよい。そんな大和心を捨てた現代人に対し、先生はどんな眼差しを向けられ、どんな言葉を発せられるであろうか。こういう想像にこそ、現代を生きるヒントがあるように、私には思われる。

 (了)