宣長の年譜を編む

本居宣長の年譜を作ろうと試みては、幾たびも中断し、いっこうに完成しないのだが、その過程で考えたことなどを少しお話ししてみたい。

 

なぜ年譜かということだが、伝記研究の基本は、存在する史料を時系列に並べることに始まることは、まず異論はないだろう。宣長は、史料が豊富で、記載は正確、しかも断片的な史料をつなぐ回想文や、手沢本、系図などが備わっている。少し手を加えたら、すぐに詳細な年譜が出来そうな気になる。

18世紀後半、日本の学術の中心的な存在であった宣長の知の営み、交流、また日常がつぶさに分かったらどんなに愉快なことか。一人の偉大な知性が育っていく過程をたどることが出来るはずである。

 

年譜編纂に取りかかると、不思議な気がしてくる。宣長自身が、後世きっと自分のことを調べるだろうと、大きな流れを間違えぬように、時には思わせぶりな曖昧な記述や削除という楽しみも用意し、しかし決して心の深淵は覗かれないように、「ここまでだよ」と史料を整理していったのではないか、そう思えてならないのである。

もう一度言うが、記載は正確で、しかも正直だ。

 

「秋成の宣長敵視というのは、阿呆な絶対主義者に対する人間的な軽蔑から成っていた」と書くような宣長への激しい憎悪に満ちた高田衛氏も、宣長の正直さを渋々認める。氏の『完本上田秋成年譜考説』は、二転三転し、時に矛盾し、また退隠といいながら学事に奔走するなど迷走する秋成の言動に翻弄されている。だから宣長年譜作成の役には立ちそうもない。秋成から、何かを聞き出そうとするのが無理なのだ。学生の頃に『春雨物語』を卒論にも選んだ私には、そこが秋成の魅力でもあるのだが、それにしても、秋成年譜の定まりなさにはあきれてしまう。対照的なのが宣長の年譜である。揺るぎがない。

 

既に宣長にはすぐれた二つの年譜がある。

まず伴信友の『鈴屋翁略年譜』(文政9年(1826)8月作成、同12年9月刊行・後年、本居清造加筆訂正)である。以後の宣長研究や年表の基礎となった。もう一つは岩田隆氏の「本居宣長年譜」(筑摩書房『本居宣長全集』別巻3・補筆改訂版『宣長学論究』収載)である。前者に比べると格段に詳しい。

二つの年譜の違いは、読む年譜と調べる年譜ということになろう。信友の年譜を通読すれば生涯の概要は分かる。岩田先生の年譜には調査研究に必要な情報は過不足なく挙げられている。

 

実は岩田先生の年譜に私は少し関わった。全集版の時には校正を任され、「論究」に再録するときには加筆も許していただいたのだが、その時に痛感したのは、年譜は決して項目を時系列で並べるという単純なものではないということである。国語辞典を作る時にバランスの取れた日本語観が必要なように、年譜の場合は、最後はその人の人間観である。何を採るか何を捨てるかが、年譜作成の鍵、つまり難しさであろう。これはページ数の問題ではないと思う。

悪女の深情けではないが、エキセントリックな人や思いが深すぎる人は年譜作成には向かないのである。

 

取捨選択が難しいのなら全部載せればよい。私はこの網羅するという方法を選んで、一応、賀茂真淵と対面した宝暦13年(1763)34歳までは仕上げ、本居宣長記念館のホームページに掲げたのだが、後が続かない。

 

34歳は宣長72年の人生では折り返し点に近いから、あと半分だ、ため息より入力だと一所懸命に打ち込む、そんな段階はうに過ぎた。まず記載すべき情報量の多さに《日にち》を最小単位とする年譜形式が対応できなくなったのである。

 

真淵と対面するまでは、古典研究に熱心な町医者という一つの人格だが、「松坂の一夜」以降、ざっと数えただけでも七つの顔を自在に使い分けていく。その一つだけでも、優に一人の仕事量に勝るのである。念のためにその七つを見ておこう。

1, 真淵との師弟関係(これは谷川士清、蓬莱尚賢等との交流と人を変え生涯続く)。

2, 『古事記伝』執筆。

3, 歌会(門人組織に発展)。

4, 『源氏物語』講釈。

5, 言葉の研究など『古事記』研究の基礎学、あるいはそこからの発展、派生する研究。

6, 医業と家政。

7, その他。

1から6は、ほぼ生涯を貫徹するものだが、この外に、たとえば旅や論争、晩年なら紀州藩への仕官と時期や期間が限られるものがある。これを7とする。

つまり、魚町の本居家を訪ねて、宣長さんにお目に掛かりたいと案内を請うと、どの宣長さんに御用ですかと聞かれるようなものだ。子どもが熱を出した人は、歌や『古事記』の話どころではないし、『古事記伝』の著者に会いたくて遙々九州からやって来た人が、念仏を唱える宣長を見て仰天する。だが、念仏を唱えることは家政の中の大事な仕事である。その人は、会う宣長を間違えただけなのである。

訪問者だけではない、研究者も同じだ。机の傍らの書架には『本居宣長の万葉学』とか『本居宣長の国文学』、『本居宣長と仏教』などという研究書が並んでいるが、みな自分が会いたい宣長を選択しているのである。

だが、宣長という人は、一人であるから、この七つが密接に関係を持ちながら、調和し、あるいはきっちりと区別され、その人生は展開していく。それぞれの顔(テーマ)で個別の年譜を作れば楽なのだが、それでは一人の人間は描けない。

 

評伝も同じだ。仮にも「本居宣長」という書名を付けた本なら、どこに力点を置くかはともかく、万遍なく触れる必要があるのだが、折り合いをうまく付けないと内部分裂して、挙句の果てには、「ああこれが宣長問題か」と匙を投げることになる。

小林秀雄氏は、以上述べたような全部の宣長と対峙しようとした。だから私は氏の『本居宣長』を尊重する。

 

年譜の話に戻るが、この多羅尾伴内みたいにいくつもの顔を使い分けた人生を裏付ける史料がまた膨大である。片端から入れると、忽ち混雑してしまう。生涯を通覧するというのが年譜が担うべき使命なら、それに背く畏れもある。34歳までで一旦中断したのはそのためである。すべての資料を集成した年譜は基礎資料として記念館ではどうしても必要なものだが、分類や表示の面で工夫が必要だ。

 

1200通が残る宣長書簡は、宣長研究者以外にもなかなか評判がよい。読みやすいし、値段も手頃。しかも時候の挨拶以外は、学問の話題が多くて知的好奇心をくすぐる。

安永8年(1779)6月19日付荒木田久老宛書簡には、『類聚三代格』という古代の法律書を貸して貰った礼と書写の進捗状況が告げられる。少し前の2月4日付の荒木田経雅宛書簡では、よい写本が見つかったと喜びを伝える。ここに『古事記伝』の執筆や交友を重ねると、どんな思いで宣長がこの本を手にしたかが見えてくる。年譜の安永8年9月1日条に書かれるはずの「『類聚三代格』写本終業」は、決して孤立しているわけではない。

 

ただ、自分には出来ないが、明るい希望は抱いている。このような詳細な年譜は、もはや紙媒体ではなくパソコン画面での閲覧となるはずだ。すると検索や抽出は自在であろうし、カテゴリーを分けるなど、色々の工夫が出来そうだ。《日にち》は年譜の一番基本となる枠であるが、逆にこれが縛りともなる。それも電子媒体なら、その制約から逃れることが可能となるだろう。

 

そのように記述内容を詳しくするという問題は解決できるとしても、実はもっと厄介な、しかしそれにはまると抜け出せなくなる難問が控えている。

私は、宣長を読む、あるいは考える上で一番大切なことは、小林秀雄氏の、

「彼の思想の育ち方を見る」

という言葉に尽きると考えている。

「育ち方」を見るという点では、従来の年譜では限界があった。年譜の記載は行為が完結したときが原則となる。そこでホームページ版の年譜では、典拠を示した。

たとえば享保15年(1730)5月7日誕生の条には、「日記」や『本居氏系図』、『菅笠日記』、『寛政十一年若山行日記』と、少年期から晩年までの宣長自身の記述が時系列で並べてある。

それを見ると、事実は一つでも、記述の仕方は微妙に変化していることが分かる。

「松坂の一夜」でも同じである。改ざんや創作が加わるわけではない。位置づけが変化していくのである。《思い出》が育っていくのである。

「育つ」ということは、心の中で芽生えた関心事が成長していくことである。

宣長は反応が鈍い人だ。というか、軽々しく動かない。そのため、大事なことほど出発点が分からない。宝暦6年7月、京都の本屋で手に入れた『古事記』を『日本書紀』や『先代旧事本紀』などと読み比べ、『冠辞考』に影響を受けながら、宣長の中でその存在感が育っていくのを見る。「物のあはれ」説のきっかけとなった藤原俊成の歌など、三度目の出会いでようやく宣長の中で反応が起こるのだが、年譜の記載は、『安波礼弁』執筆という一行に収まってしまう。

 

時系列の年譜形式は、「育ち方」を見るのに適しているように見えるが、問題も多いのである。なにより、その一行の持つ重みに果たして耐えられるのだろうか。

 

紙数も大幅に超過したので、そろそろ止めるが、今、宣長顕彰年譜を作成している。その中には、宣長についての刊行された本や、鈴屋学会と本居宣長記念館共催の公開講座、今年既に28回目、つまり280回開催している「宣長十講」も当然ながら記載される。「十講」では予算の関係で私も十回以上話しているので、それだけの項目数を占めるのだが、おかしくはないか。思いつきのような本や準備不足の話に一行が割かれる。しかし、出羽国や肥後国から宣長先生に会いたいと長い旅をしてきた人たちは、著作でも残さない限り、彼らの名は年譜には残らない。網羅主義の年譜なら来訪者として名前が記載されるかもしれないが、「先生に会って私は生まれ変わることが出来た」という痛切な体験は伝わらない。宣長にとって大事なのはどちらか。顕彰史で求められるのはどちらか。

 

もはや年譜の限界を超えているのかもしれない。しかし、何とかその記憶を伝えたいと私は今日も画面に向かうのである。

(了)